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『中務大輔家久公御上京日記』(著/島津家久)、薩摩から京へ、5ヶ月間の旅程

島津家久、都へいく

天正3年(1575年)、島津家久(しまづいえひさ)は薩摩国から京へのぼる。その道中をつづった日記が残っている。これがかなり面白い内容なのだ!

 

島津家久の旅程を知ることができるほか、戦国時代の実情や当時の諸国の様子といったこともわかる。京では織田信長を見かけたり、明智光秀に招かれたりもしている。また、島津家久の性格だったり、考え方や物の見方だったり、人間関係だったりも読み取れる。史料的価値もすこぶる高いのである。

 

 

 

島津家久とは

島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。天文16年(1547年)の生まれなので、上京した天正3年当時は28歳くらいだ。

兄の島津義弘が「強い武将」としてよく知られているが、九州戦線においては島津家久が島津家のエース格であった。

天正6年(1578年)の「高城川の戦い(耳川の戦い)」では大軍に囲まれながら城を死守して大勝へとつなげた。天正12年(1584年)の「島原合戦(沖田畷の戦い)」では数倍もの敵軍を撃破。龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を討ち取っている。九州北部に大きな勢力を持っていた大友氏と龍造寺氏に大打撃を与えた。島地家久の軍略は、島津家が九州全土に勢力を広げる原動力となった。

上京前においてもすでに戦場をいくつも経験。永禄12年(1569年)の薩摩国大口(鹿児島県伊佐市大口)における鳥神尾の戦いで「釣り野伏」を決め、元亀2年(1571年)からの肝付氏との戦いでも活躍した。

元亀元年(1570年)より薩摩国の隈之城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市)・串木野(くしきの、鹿児島県いちき串木野市)の地頭に任じられる。島津家久は串木野城を居城とした。

 

島津家久については、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

上京日記について

『中務大輔家久公御上京日記』というのが、東京大学史料編纂所の収蔵『島津家文書(しまづけもんじょ)』の中にある。紙や書風が近世初頭に見られるものであることなどから、これが原本と判断され、国宝にも指定されている。

写本としては島津家本の『家久君上京日記』。また、『旧記雑録』にも『家久君上京日記』の刊名で収録。これらも東京大学史料編纂所の収蔵。それから島津久光が蒐集した玉里文庫(現在は鹿児島大学附属図書館が所蔵)にも『家久君上京日記』がある。

 

東京大学史料編纂所では『中務大輔家久公御上京日記』を翻刻し、公式ホームページにて公開している。2006年発行の『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録されている。以下のリンクから閲覧可能だ。

『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)

 

また、鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』にも収録。こちらは、鹿児島県のホームページで読める。

www.pref.kagoshima.jp

 

 

東京大学史料編纂所の翻刻『中務大輔家久公御上京日記』には、原本比定の根拠についても記されている。その中では、こんなことも。

函蓋の裏書には「本書は明治廿三年一月舊永吉領主島津又七郎支族本城中之助ヨリ願ニヨリ御買入相成タルモノナリ」とある、とのこと。

この裏書から、明治23年(1890年)に本城中之助が島津本家に売却したことがわかる。島津家も「購入する価値がある」と判断したものでもある。

 

本城中之助は裏書にあるとおり、島津又七郎(島津家久)の末裔である。本城氏は島津家久の次男の島津忠仍(島津忠直、ただなお)から続く。

島津忠仍は東郷氏の家督をついで東郷重虎と名乗っていたが、のちに島津姓に復した。ただ、島津忠仍の子は「島津」に名乗りを遠慮して、再び東郷氏を名乗る。

島津家久の家督は嫡男の島津豊久(とよひさ)がついでいた。しかし、慶長5年(1600年)に島津豊久は戦死。島津忠仍は家督継承を打診されるも辞退し、養子をとってこちらの家は続くことになる。こちらは永吉島津家と呼ばれる。

島津家久の孫たちはその家督を継がず。直系の血は東郷氏に引き継がれた。そして、島津家久の曾孫にあたる本城忠辰は、貞享3年(1686年)に家号を「東郷」から「本城」に改めている。

『中務大輔家久公御上京日記』は、その本城家にあったものなのだ。

 

 

上京の目的は?

南九州は南北朝争乱期よりずっと戦乱が続いていた。島津氏の一族内での抗争あり、国人衆の反抗あり……と領内はおさまらない。島津氏は薩摩・大隅・日向の守護職にあったが、15世紀末頃にはまったく機能しなくなっていた。そんな中で、分家から成りあがった島津貴久が15代当主の座につく。反抗勢力を従え、ようやく強い政権を築くことに成功する。

父の跡をついだ島津義久は、天文2年(1574年)に肝付兼亮(きもつきかねすけ)を従属させる。肝付氏は大隅国に大きな勢力を持ち、島津貴久・島津義久と長年にわたって争っていた。ついに薩摩・大隅の全土を支配下に入れたのだ。

天正3年(1575年)の南九州はまあまあ安定した状況にあったようだ。日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)も元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで大敗し、しばらくは攻めてくる気配がない。そこで、島津義久は家中の者を京に派遣し、伊勢神宮をはじめとする神社・寺院を参拝させることにした。その役目が末弟の島津家久に命じられたのである。

なお、ちょっとあとに島津歳久も上京する。こちらについては記録が残っていないので、状況はわからない。

島津家久・島津歳久の上京には、情報取集や外交的な目的もあったと考えられる。また、同じ年に前関白の近衛前久(このえさきひさ)が薩摩にやってきている。織田信長が派遣したもので、こちらとも関係がありそうだ。

おそらく、織田信長との外交のために島津歳久が派遣され、その先遣として島津家久が上京したのではないのか? と想像させられる。ちなみに日記には、近江国の坂本城(滋賀県大津市下阪本)の明智光秀と面会したことも記されている。

 

 

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島津家久の旅程

『中務大輔家久公御上京日記』から旅程がわかる。立ち寄った場所は、おおまかに次のとおりだ(だいぶ端折ってある)。帰国まではおよそ5ヶ月にも及ぶ。

 

2月20日/薩摩国串木野(鹿児島県いちき串木野市)を出発

2月21日/薩摩国阿久根(鹿児島県阿久根市)

2月23日/肥後国田ノ浦(熊本県葦北郡芦北町)

2月27日/肥後国山鹿(熊本県山鹿市)

2月29日/筑後国の高良山(福岡県久留米市)

3月4日/筑前国の英彦山(福岡県田川郡添田町)

3月9日/豊前国門司(福岡県北九州市門司区)

3月10日/長門国関(山口県下関市)

3月16日/長門国山野井(山口県山陽小野田市山野井)

3月19日/周防国富海(山口県防府市富海)

3月24日/安芸国の厳島神社(広島県廿日市市宮島町)を参詣

3月25日/安芸国祇園原(広島市安佐南区)

3月29日/備後国三原(広島県三原市)

4月5日/讃岐国直島(香川県香川郡直島町)

4月6日/備前国牛窓(岡山県瀬戸内市)

4月13日/播磨国高砂(兵庫県高砂市)

4月14日/播磨国明石(兵庫県明石市)から摂津国兵庫(兵庫県神戸市兵庫区)

4月16日/摂津国茨木(大阪府茨木市)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)

4月17日/山城国勝竜寺(京都府長岡京市)から嵯峨(京都市右京区)へ。愛宕山参詣。この日からしばらく在京し、あちこちを見物。4月21日と4月28日には織田信長の武者行列も見る。また、連歌の会が催されたりも。

5月14日/明智光秀に招かれて近江国坂本(滋賀県大津市)へ

5月15日/坂本城で明智光秀と面会、城内を見学

5月27日/京を出立、伊勢参詣に向かう

5月28日/近江国甲賀(滋賀県甲賀市)から伊賀国(三重県伊賀市)へ

6月1日/伊勢の大神宮(三重県伊勢市)を参詣

6月2日/伊勢を出立

6月3日/伊賀国

6月4日/大和国の奈良(奈良市)に入る、翌日まで奈良見物

6月6日/山城国宇治(京都府宇治市)、平等院などえを見学

6月7日/再び入京、織田氏と武田氏の合戦(長篠の戦い)の話を聞いたりもする

6月9日/京を出立、帰国へ

6月10日/摂津国で住吉社(大阪府住吉区)を参詣、堺(大阪府堺市)を見学

6月11日/摂津国尼崎(兵庫県尼崎市)

6月12日/摂津国池田(大阪府池田市)

6月13日/丹波国大野原(京都府亀岡市)

6月15日/但馬国朝来(兵庫県朝来市)

6月17日/因幡国若桜(鳥取県若桜町)

6月18日/伯耆国大塚(鳥取県東伯町)

6月21日/伯耆国米子(鳥取県米子市)

6月22日/出雲国平田(島根県出雲市)

6月23日/出雲の大社を参詣

6月24日/石見国大田(島根県太田市)

6月25日/石見国小濱(島根県益田市)

6月27日/石見国濱田(島根県浜田市)、しばらく船待ち

7月10日/濱田を出航

7月11日/航海中、海が大荒れ

7月12日/肥前国平戸(長崎県平戸市)に入港、しばらく滞在

7月13日/唐舟(南蛮船か)を見学

7月18日/平戸を出航

7月19日/薩摩国京泊(鹿児島県薩摩川内市)に着船、高江で一泊

7月20日/串木野に戻る


行きは九州から瀬戸内海を抜けて京を目指す。しばらく在京したあと、伊勢をまわって帰国の途につく。帰路は日本海側。石見国濱田まで行き、ここで迎えの船に乗り込んで帰国した。

 

在京時は連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)の世話になっている。宿泊場所を用意してもらったほか、京の見物ではあちこち案内もしてもらったり。里村紹巴は連歌を通して顔が広く、島津氏とも交流があった。


4月21日、織田信長の武者行列を見物する。石山本願寺攻めから帰還したところだった。その様子を見た島津家久は、軍備の状況を細部まで記してる。観察力や分析力が垣間見える。

5月14日に明智光秀と面会するが、面会した坂本城は戦支度で慌しい様子である。この日は、長篠の戦いの6日前のことだった。

 

 

『センゴク権兵衛』には、島津家久の上京日記を典拠としたエピソードもある。

 


島津家久の上京日記には、面白いエピソードが多い。今後、旅程を追った解説記事を作っていく。

島津家久の上京日記【1】 出立は酒宴まみれ/天正3年2月20日~2月23日

島津家久の上京日記【2】 肥後は関所だらけ/天正3年2月24日~2月29日

 

 

 

 

 

 


<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

ほか