天正3年(1575年)、島津家久(しまづいえひさ)が京へ上る。『中務大輔家久公御上京日記』からその旅程を追う。一行は周防国から安芸国へと入る。そして厳島神社(いつくしまじんじゃ、広島県廿日市市)に到着。参詣の様子を島津家久はやたらと詳しく伝えている、興奮気味に。
なお、日記の日付は旧暦となっている。
前回の記事はこちら。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。
史料は東京大学史料編纂所に収蔵。記事での引用は、こちらに収録されている翻刻から。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は、島津氏15代当主の島津貴久(たかひさ)の四男。兄に島津義久(よしひさ、16代当主)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。
島津家久についてはこちらの記事にて。
天正3年3月22日、地名でちょっとボケてみる
廿二日、巳剋ニ打立、やかてあの岡といへる町を過行て、窪といへる町を通り、かふすかたをといへる町を過行、海老坂といへる町をかゝミ通り行は、右の方に満尾の城とてたかけれと悪き城有、又行て久賀の内高もりの町といへと、わつかなるかれ飯をめんつうより取出し、名にしおはゝなと口すさミけるもおかしくて、亦行/\てあやまの町とて有、つゝきて中の町、亦末の町有、儅、行て柱のといへる町助左衛門所へ一宿、
巳の刻(午前10時頃)に出発。周防国の花岡(はなおか、山口県下松市の花岡地区)の町を過ぎ、窪(くぼ、下松市の久保地区)の町を通り、「かふすかたを(甲峠)」という町を過ぎ、海老坂(呼坂、よびさか、山口県周南市呼坂)を通りかかる。そこで右手のほうに「満尾の城」が見えた。こちらは三丘嶽城(みつおだけじょう、周南市清尾)のことである。「高いけど、悪しき城」というのが島津家久の感想。どのあたりが「悪しき」なのだろうか?
しばらく東へ進み、一行は「久賀(久珂、くが)」の「高もり(高森)」という町にさしかかる。現在のJR周防高森駅のあるあたりだろう(山口県岩国市周東町下久原)。そこで干し飯をちょっと出して、「名にし負わば」と冗談を言うのが可笑しかった、と。「名にし負わば」というのは、「タカモリ」っていう地名に「飯を高く盛る」という意味をひっかけてボケてみた、というところだ。一行を笑わせたのだろうか。
ちなみに「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という在原業平の歌がある。島津家久が口ずさんだのは、これのパロディーだろうか?
高森を抜けて、阿山(あやま、岩国市玖珂町阿山)を通り、さらに中の町・末の町を通って、柱野(岩国市柱野)に至る。ここで宿をとる。
天正3年3月23日、いざ宮島へ
廿三日、辰剋に打立、かふちといへる村を通り、やかてミしやう川のわたしにて渡ちん、亦お瀬川といへる所ニて渡賃、其川を渡れは安藝の内といへり、亦おかたといへる町に着、船をたのミ宮嶋へ渡、海上の躰、浦/\遠く近く打霞、折しも小雨打そゝきたる躰、類なき景也、
辰の刻(午前8時頃)に出立。河内(こうち、山口県岩国市土生のあたりか)の村を通り、ちょっと行くと御荘川(みしょうがわ)で渡し賃を取られる。御荘川は錦川のことだろうか。さらに行くと小瀬川(おぜかわ)でまた渡し賃を取られる。この川を渡り、安芸国に入った。そして小方(おがた、広島県大竹市小方)の町で船に乗り、いよいよ宮島へ渡る。この日は小雨が降っていて、島なみに霞がかかっていた。「類なき景也」と島津家久は讃えている。
儅、舟ちの左方ニくわたとて町有、是ハ舟を作所也、未作おろさゝる舟五拾二艘、かハらはかりをすゑ置きたるハ数をしらす、亦行て、やせ松・こゑ松とてひやうしくし有、猶行てもととり山とて明神の御地有、其嶋の岩の上に松有、から崎の松もかくこそあらめなと申あへり、
海上から左のほうを見ると口羽田(くわた、大竹市玖波町のあたりか)の町があって、そこでは船を造っていた。完成間近の舟が52艘あり、ほかに建造中の舟が数えきれないほどあった、という。
さらに行くと「やせ松」「こゑ松」というのがあって、「ひやうしくし」があった、と。「くし(くじ)」は「公事」か。通過のための手続きとか検問とか、そんな感じのものだろうか。で、ここから宮島に上陸した、と。
なお行くと「もととり山」「明神の御池」というのがあった。そういう景勝地があったのだろう(調べたがよくわらず)。池の島には立派な松があり、「唐崎の松もこんな感じなんだろうね」と話したりもした。「唐崎」は近江国の唐崎(滋賀県大津市唐崎)のこと。琵琶湖畔にある景勝地で、和歌の題材にもされている。なお、島津家久は5月14日に唐崎の一本松を訪れる。唐崎の近くには明智光秀の居城である坂本城があり、こちらを訪問した際に見物している。
其次ニたかねとも塩屋とて村有、亦次ニ明神の御作とて橋柱といへる島二ツ有、又右の方に明神の錦の袋を御おとし有しか、今に石と成てあり、其色をたかへす、さて其次にさかり松とて有、亦次ニ大もと明神とてまします、是宮嶋の本主柱神也、今の明神へ所を御かし候て、大本権現ハすこしの宮にましますと也、庇もやのなといへるためしにや、儅、宿柳下太郎左衛門、
さらに行くと「たかね」「塩屋」という村があり、明神が作ったという「橋柱」と呼ばれる島が二つあった。また、右手のほうには奇麗な色の石があって、これには「明神が落としたとされる錦の袋」という伝承があるんだとか。
続いて「さかり松」というのがあって、「大もと明神」がまします、と。これは現在の大元神社。厳島神社のやや西のほうに鎮座し、同社の摂社となっている。この大元神社のある場所は厳島神社の元宮とも、日記ではそう説明している。
大元神社の近くで宿をとる。
天正3年3月24日、すごいぞ!厳島神社は
廿四日、厳嶋へ参、宮一見候ヘハ、鳥居の高さ十三ひろ、廣九ひろ、柱六本也、さて本社弁在天にてまします、森殿四五ヶ年以前に御宮作なされ候、宮九間也、悉くさひしき候て、金物皆ほりあけ、透かしかうし緑青にてたみあけ候、會廊百八間也、本宮ハ戌亥向也、本宮より北の方に宮あり、是も厳嶋明神にてまします、本地毘沙門、亦輪蔵有、それより上に法納所とて有、
厳島神社を参詣する。この日の日記はすごく文量が多く、やたらと詳しく記してある。
大鳥居の高さは13尋(約24m)、幅は9尋(約16.5m)。柱は6本で、両部鳥居だった。本社は弁財天(イチキシマヒメと弁財天が習合している)を祭る。
森殿(毛利殿)が4、5年ほど前に再建したばかり、とも。社殿などはまだ新しい。宮が9間(16mくらい)というのは、建物の幅だろうか。どこもかしこも彩色が施されていて、金物は透かし格子で緑青色。豪華絢爛な様子である。回廊が108間(約196m)というのは、長さだろうか。本宮は戌亥(北西)向き。本宮から北のほうにも社殿がある。本地は毘沙門で、輪蔵(納経のためのもので、回転する構造になっている)もあった。その上には法納所(奉納所か)もあった。
「森」の表記から、「毛利」を「もり」と呼んでいたこともうかがえる。毛利元就(もうりもとなり)は小領主から大大名に成りあがった。天文24年(1555年)の「厳島の戦い」の勝利も、毛利氏の勢力拡大の契機の一つとなった。
其より海邊をミれは、此嶋には死たる者をおかさる事、明神の御いましめなれハ、無からを海向のことく舟十三艘にて送、念佛のこゑ/\哀に聞ゆ、扨法納所の下を宮崎といへり、其を蓬来山とかふす、さて北の方町の方に五重の塔あり、亦本社より南西の間に亦輪蔵有、又南の方に十一面堂有、西に二重塔有、其邊の堂宮敷をしらす、亦本宮より右の脇に大なる鐘あり、亦左の方に大黒堂有、海の方にかりとの屋有、亦大願寺あたりの寺一見し、
海邊のほうにはこんな様子が見えた。宮島には「死者を置かない」という決め事があり、亡骸を舟13艘に乗せて送り出している。念仏の声が悲しげだった、と。
法納所の下は宮崎といい、それを蓬莱山という。そして北の町のほうには五重塔があり、本社の南西にはまた輪蔵があり、南のほうに十一面堂、西に二重塔があり、と堂宇がたくさんある。本宮の右手のほうには鐘、左手のほうには大黒堂、海のほうには「かりとの屋(仮殿?)」。また、大願寺のあたりも見物する。厳島神社と関わりのある寺院群もかなり大規模であったようだ。
たきしやうし・柳しやうしなとゝいへる小路有、さて宿を打立候ヘは、路次にて中村兵庫といへる者、此順礼ハよしある者とて、頻に留られ候あひた、其日ハ逗留、夜入て源介・小三郎なといへるもの来り、酒宴にてふかし候、さて此嶋の西の方に、みせんとて不思儀の霊地有、求門持堂なと有といへり、
滝小路・柳小路というところにやってきて、宿をとる。この日の道すがらで中村兵庫という人と縁があり、この人が「うちに泊まっていけ」としきりに言うので、そうすることにする。夜になって、源介や小三郎という人たち(中村兵庫の知り合いかな?)が訪ねてきて、酒宴で夜更かし。「弥山という不思議な霊場があって、求門持堂なんかもあるよ」という話をしたりもした。
中村兵庫は何者かな? たまたま出会った土地の有力者かな? 毛利氏の家臣に中村氏があるが、この一族だろうか? また、厳島神社についてやたら詳しく書かれているのは、この人物の案内があったから、あるいは案内人をつけてくれたから、なのかもしれない。
天正3年3月25日、「厳島の戦い」に思う?
廿五日、打立候へは兵庫助・源介・かはんといへる禅門、同舟にてすゝをたつさへられ、舟中にてこうたなと様/\遊らん、さて左の方ニ地のこせとて、明神の母にてましますとて宮つくり有、それより廿日市といへる町におしつけ、各々打つれ一見、町の上に桜尾とて森殿の捨弟の城有、儅、其ふもとにて送の衆にいとまこひし行は、草津といへる城有、其麓に町有、亦次にこひといへる町有、猶行て右方に遠くにほ嶋とて城みえ侍り、又左の方ニ左藤の金山とて城有、儅、祇薗原の町古野藤左衛門といへるものゝ所に一宿、
出立。中村兵庫助と源介、「かはん」という名の僧も、見送りにといっしょに船に乗り込んだ。船中では小唄などで盛り上り、前夜から酒宴が続いているような感じである。
海上から左手のほうに「地の御前」というのがあり、厳島の明神の母がましますいう宮があった。こちらは地御前神社(じごんぜんじんじゃ、広島県廿日市市地御前)のことだ。
さらに東へと進み廿日市に船をつけ、街の見物にくり出す。この街にある桜尾城(さくらおじょう、廿日市市桜尾本町)は「森殿の舎弟」の居城。この城主は穂井田元清(ほいだもときよ、毛利元就の四男)のことである。で、桜尾城のふもとで見送りの者たちと別れた。
しばらく行くと草津城(くさつじょう、広島市西区田方)があり、その麓には街があった。ちなみに城主は児玉就方(こだまなりかた)。
さらに行くと己斐(こい、広島市西区の己斐)の町があり、右手側の遠方には仁保島城(にほじまじょう、広島市南区黄金山町)も見えた。仁保島城は黄金山の上にある。この頃の城主は香川光景(かがわみつかげ)か。
また、左手のほうに行くと「左藤の金山とて城」。こちらは佐東銀山城(さとうかなやまじょう、広島市安佐南区祇園)のこと。この日は銀山城下の祇園原で宿をとる。
桜尾城・草津城・仁保島城・佐東銀山城は、天文24年(1555年)の「厳島の戦い」と関わりのある城である。島津家久はこちらの合戦のことを思い描きつつ、城を見ていたことが想像される。
つづく……。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
ほか