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島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す!

島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。

島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。

この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。

 

ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。


島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降したのちに薩摩国を制圧。そのあと、大隅国と日向国も制した。この快進撃の一翼を、島津家久は担った。

戦国時代末期の九州は島津氏・大友(おおとも)氏・龍造寺(りゅうぞうじ)氏が三分する。やがて島津一強の様相となっていくのだが、その立役者が島津家久だった。龍造寺家の勢いを潰し、大友家をガタガタにした。

なお、日付は旧暦にて記す。

 

また、戦国時代の島津氏の動きについては、こちらの記事もどうぞ。

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戦の天才

島津家久は、兄の島津義弘とは違ったタイプの戦上手だ。

島津義弘の有名な戦いというと、朝鮮での泗川の戦い、関ヶ原の戦いの「島津の退き口」などがよく知られている。いずれも晩年のものである。じつは負け戦もけっこう経験している。ただ、島津義弘は踏んできた場数がものすごく多い。戦場を潜り抜けてしぶとく生き残ってきた。そんな経験から醸成された勝負勘や洞察力による「戦場での凄み」という感じなんじゃないかと思う。どちらかというと大器晩成かな、と。

 

島津義弘の戦績はこちらの記事にて。

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一方、島津家久の戦いぶりを見ると、こちらは天才肌の人物であったように思える。目の前の状況に対して最善の方法を瞬間的に判断できた、という感じだろうか。そして、独断でどんどんコトを進めていく。そんな感じで戦果をあげていった。勝率も高い。

戦場においては、すごく頼りになる大将である。ついていけば勝利につながるのだから。兵たちは自信を持って戦える。士気も高くなる。実績を重ねるうちに、カリスマ性もどんどん強くなったことだろう。

難しそうな戦いも「こいつに任せれば、なんとかなる」というような雰囲気になったことが想像される。

 

 

 

側室の子

島津家久は天文16年(1547年)に薩摩国の伊作城(いざくじょう、鹿児島県日置市吹上町)で生まれたとされる。誕生日については記録なし。伊作城跡には島津家久の誕生石と伝わるものもある。

 

石が4つ

伊作城跡の誕生石、左端が島津家久のもの

 

父は島津貴久(たかひさ)。3人の兄は正室(継室、入来院重聡の娘)の子であるが、島津家久のみが母が違う。こちらは側室の子である。義久とは14歳差、義弘とは12歳差、歳久とは10歳差とけっこう年も離れている。

母は「橋姫」「少納言」と呼ばれていたという。肱岡(肥知岡、ひじおか)氏の出身とされる。『本藩人物誌』には肱岡頼明の姪で、本田親康の娘とある。

肱岡頼明も本田親康も、人物の詳細はわからず。肱岡氏というのは相良氏の一族で、肥後から薩摩のほうへ移って島津氏に仕えていたようだ。本田氏については鎌倉時代以来の島津家の被官の一族である。

母の身分が高くないこともあり、当初、島津家久はあまり重く扱われていなかったようだ。だが、戦場での活躍を重ねていくうちに、家中での存在感がどんどん大きくなっていった。

 

 

樺山善久の娘をめとる

島津家久は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘を妻とした。婚姻の時期はわからないが、永禄9年(1566年)に長女が誕生しているので、そのちょっと前のことだろう。

樺山善久は島津氏の支族で、この頃は大隅国長浜(ながはま、生別府、おいのびゅう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)を領していた。樺山善久は島津貴久の姉を妻とする。島津家久は従兄妹どうしで結婚したことになる。

島津貴久は分家の出身で、一族の抗争を制して本家の実権を掌握する。その過程において、樺山善久は一貫して協力者であった。島津貴久の信頼は厚く、家中でも重きをなす存在となる。

樺山氏は島津家久の大きな後ろ盾となった。また、樺山氏が島津家久と行動をともにすることも多くなる。

 

樺山氏の詳細は、こちらの記事にて。

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初陣、廻城の戦い

永禄4年(1561年)に大隅国の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山町)で島津貴久と肝付兼続(きもつきかねつぐ)がぶつかった。この「廻城の戦い」で島津家久は初陣を飾る。同年7月12日(旧暦)のことで、島津家久は15歳(数え年)だった。

この戦いで、敵将の工藤隠岐守を討ち取った。

 

城址碑と海

廻城跡

 

そのあとしばらくは、島津家久の戦いの記録は出てこない。島津義弘や島津歳久の部隊に属して戦場に出ていたのだろうか? あるいは、島津貴久や島津義久の本隊に同行していたのかも?

 

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菱刈攻め、大口の戦い

永禄10年(1567年)より島津貴久は大隅国菱刈・薩摩国大口(ともに鹿児島県伊佐市)を攻める。菱刈(ひしかり)氏・相良(さがら)氏の連合軍と戦った。この戦いで島津家久の活躍が確認できる。

島津方では菱刈氏から奪った城に将を配置。その中で、平和泉城(ひらいずみじょう、伊佐市大口平出水)に島津家久・樺山善久・樺山忠助(ただすけ、善久の子)を入れた。その後、島津家久は市山城(いちやまじょう、伊佐市菱刈市山)に移る。


戦いは長引く。島津方は攻めきれず。和睦を画策したりもするがうまくいかない。そんな中で菱刈氏・相良氏の戦意をへし折った戦いがあった。永禄12年(1569年)5月の戸神尾(鳥神尾、とがみお、伊佐市大口鳥巣)での戦いである。ここで島津家久が活躍している。

島津方は戸神尾に肝付兼盛(きもつきかねもり)・新納忠元(にいろただもと)らが兵を伏せる。そして、島津家久は荷駄隊に扮して大口城下へ向かった。大口城からは荷駄隊を攻撃しようと撃って出る。城兵を釣り出したのである。島津家久は敗走をよそおって敵兵に追撃させる。そして戸神尾まで誘き出したところで、伏兵が敵軍を取り囲んで殲滅した。「釣り野伏せ(つりのぶせ)」と呼ばれる戦法である。

戸神尾の戦いで大きな損失を出した菱刈氏・相良氏連合軍は劣勢に。同年8月、島津貴久・島津義久は大口城に総攻撃を仕掛ける。そして、9月2日に大口城は開城した。

 

白い標柱に「大口城址」

大口城跡、小学校の裏手の山が城跡

 

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隈之城と串木野を領する

菱刈氏とともに抵抗していた入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)・東郷重尚(とうごうしげひさ)も永禄13年(1570年)1月に島津氏に帰順する。入来院氏・東郷氏はともに渋谷氏の一族で、薩摩国薩摩郡のあたりを支配していた。これにより、島津貴久は薩摩国を制圧した。

入来院氏・東郷氏は所領の一部を島津氏に割譲した。そのうちの隈之城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城町)の地頭に島津家久が任じされた。また、串木野(くしきの、鹿児島県いちき串木野市の串木野地区)もあわせて領する。島津家久はようやく領地持ちになった。

島津家久は串木野城(くしきのじょう、いちき串木野市上名)を居城とした。また、元亀元年(1570年)6月11日には嫡男の島津忠豊(ただとよ、島津豊久、とよひさ)が生まれている。

 

白い標柱がある

串木野城跡

 

 

 

 

鹿児島湾の戦い

元亀2年(1571年)6月23日、島津貴久が逝去。享年58。永禄9年(1566年)に家督は島津義久に譲られていたが、島津貴久は隠居後も実権を握っていた。

島津貴久の死を好機と見たのか、元亀2年11月、大隅の敵対勢力が動き出す。肝付兼亮(きもつきかねすけ)・禰寝重長(ねじめしげたけ)・伊地知重興(いじちしげおき)が水軍を繰り出して鹿児島湾に侵攻してきた。

大隅勢の水軍は向島(むこうじま、桜島)の長門城(横山城、鹿児島市桜島横山町)に襲来。向島(桜島)には島津家久が救援に入っていて、赤水(鹿児島市桜島赤水町)で戦いとなった。大隅勢を撃退する。

 

桜島

台地状のところが長門城跡、写真右のほうが赤水

 

伊東義祐(いとうよしすけ)も肝付氏ら大隅勢と連携。手薄になっていた日向国真幸院(まさきいん)に軍勢を送り込む。元亀3年(1572年)5月4日に真幸院の木崎原(きざきばる、宮崎県えびの市池島町)で合戦となる。島津忠平(島津義弘)は寡兵ながら勝利する。

木崎原の戦いで伊東氏が大敗したことで、島津氏は肝付氏ら大隅勢との戦いを本格化させる。


元亀3年(1572年)9月、島津方は大隅国下大隅小濱(鹿児島県垂水市海潟)を攻めた。ここは伊地知氏が守る。

島津勢は向島(桜島)から島津歳久・島津家久が進軍し、小濱の北にある早崎(はやさき)に布陣する。また、島津義久も海から小濱を目指す。島津方の総攻撃により小濱砦は陥落した。

その後、島津氏は禰寝重長の調略に成功。肝付氏が寝返った禰寝氏を攻めるも、島津氏が援軍を出して撃退する。島津方は大隅半島南部を制圧する。

元亀4年(1573年)7月24日、肝付方が早崎を攻めた。早崎を守る島津家久がこれを返り討ちにした。

早崎のすぐ北にある入船城(いりふねじょう、牛根城、うしねじょう、垂水市牛根麓)は肝付方の安楽兼寛(あんらくかねひろ)が守り、籠城戦を展開していた。これに島津歳久・島津家久の軍勢が対峙していた。

天正元年12月14日(1574年1月)、島津義久も牛根へ出陣。島津歳久・島津家久らとともに、入船城に総攻撃を仕掛けようとする。肝付方も救援の兵を出すも、島津方に潰される。天正2年(1574年)1月20日、入船城は開城した。。

天正2年(1574年)2月に伊地知重興は降伏。肝付兼亮も島津氏に降る。島津氏は大隅国を制圧した。

 

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島津家久の暗躍?

天正2年(1574年)8月、入来院重豊(いりきいんしげとよ)の謀叛の噂が流れる。入来院重豊はあわてて弁明し、自信の所領のうち山田・天辰・田崎・寄田(やまだ・あまたつ・たさき・よりた、すべて薩摩川内市)を島津氏に差し出し、忠誠を誓った。

入来院氏の旧領を島津家久が所望するが、島津義久はこれを却下する。

また、同じ頃に出水(鹿児島県出水市)の領主である島津義虎(薩州家)の謀反の噂も流れる。こちらも必死に潔白を訴え、なんとか疑いは晴れた。

噂を流したのは、島津家久だったとも考えられている。こういった行動はのちのちにも出てくる。

後年、島津家久の次男が東郷重尚の養子に入る。東郷重虎(とうごうしげとら)と名乗り、家督を継承した。東郷氏は島津家に乗っ取られたような形となったのだが、ここでも島津家久が暗躍したのだろうか?

 

 

織田信長を見る、明智光秀と会う

天正3年(1575年)2月20日、島津家久は京に向けて串木野城を出発した。

島津家では島津家久と島津歳久を上京させることとした。まずは島津家久が先遣として、島津歳久が続く。

上京の目的は、伊勢神宮や愛宕山などの諸仏諸神を参詣すること、とされている。だが、実際のところは上方の視察、朝廷工作、織田家との関係構築などが目的だったと考えられる。

島津家久の上京については日記が残っている。『中務大輔家久公御上京日記』という史料である。

日記によると、4月18日に入京して愛宕山に参詣。その後、6月1日に伊勢神宮を参詣。7月20日に薩摩に帰還している。京滞在時は、連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)が世話をした。里村紹巴の弟子の心前(しんぜん)の屋敷を宿とし、ここから京のあちこちへ見物に出かけている。

心前といっしょに織田信長の軍勢も見物する。

さて織田の上総殿、おさかの陣をひかせられ候を心前同心ニて見物、下京より上京のことく、馬まハりの衆打烈、正国寺の宿へつかせられ候、さてのほり九本有、黄札藥といへる銭の形をのほりの紋ニつけられ候、儅、上総殿の前にほろの衆廿人、母衣の色ハさたまらす候、是ハ弓箭ニおほえの有衆にゆるさるゝといへり、さて馬まハりの衆百騎許成、引陣ニて候へ共、各々鎧を被着候、亦馬面・馬鎧したるも有、亦虎の皮なとを馬ニきせたるも有、亦馬衣・尾袋なとをしたる馬三疋、上総殿乗替とてさゝせられ候、上総殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかたきよし申候 (『中務大輔家久公御上京日記』より)

 

織田信長は石山本願寺との戦いから京に戻ったところだった。その行列を見たのである。島津家久は軍備の様子、兵士たちの様子などを詳細に書き残している。観察眼の鋭さも垣間見える。また、織田信長が馬上で居眠りをしていた、とも。

 

5月14日には、里村紹巴とともに近江国坂本(滋賀県大津市下阪本)の明智光秀に会いに行く。織田家との関係づくりのためであろうか。明智光秀は舟で出迎え、湖上で酒宴。琵琶湖から坂本城(さかもとじょう)も見る。翌日には坂本城に招かれ、城内も見学する。

茶室にも招かれる。

座ハ四帖半、茶をと候へ共、茶湯の事不知案内にて候まゝ、唯湯をと所望申候 (『中務大輔家久公御上京日記』より)

茶をすすめられるも「作法がわからないから、白湯をくれ」と島津家久は言ったのだという。

 

明智光秀は、「東国の陣立」の準備をしているとこだったという。島津家久が城に招かれた日は、長篠の戦いの6日前のことだった。

 

 

 

日向へ進撃

天正4年(1576年)8月、島津氏は日向国の伊東義祐の領内への侵攻を開始する。

8月21日には高原城(たかはるじょう、宮崎県西諸県郡高原町西麓)を攻める。島津忠平(島津義弘)を先鋒とし、島津歳久・島津家久らを後軍とし、さらに島津義久の本隊も進軍。四方から高原城を包囲。8月23日に高原城は降伏する。

高原城が陥落すると、他の城も次々と降る。島津方の日向攻略は着々とすすみ、伊東氏の拠点である佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)・都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市鹿野田)に迫る。天正5年12月9日(1578年1月)、伊東義祐は城を棄てて逃亡。豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)のもとに落ちのびた。

島津氏は日向国を制圧する。

 

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島津家久は佐土原城に入った。日向には帰順した伊東氏旧臣が多く、その統制が課題だった。豊後国の大友氏に対しての守りも固める必要があった。

島津家久は、日向方面の司令官的な役割を担うことになった。

 

山城跡

佐土原城跡

 

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大友軍が攻め寄せる

豊後の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、おおともそうりん)は日向への出兵を決める。

日向国縣(あがた、宮崎県延岡市)の領主の土持親成(つちもちちかしげ)は大友氏の傘下であったが、島津氏に帰順した。天正6年(1578年)1月、大友氏は裏切った土持氏を大軍で攻めた。

島津家久は佐土原城から救援に向かうが、伊東氏の旧臣の裏切りもあって縣には近づけず。孤立した縣は大友軍により落とされた。日向国の耳川(みみかわ)より北は大友氏が制圧。さらに南をうかがう。

天正6年10月、大友方は大軍を南下させる。兵力は4万とも6万とも8万とも(諸説あり)。大将は田原親賢(たわらちかかた、田原紹忍、じょうにん)、副将には佐伯惟教(さえきこれのり、佐伯宗天、そうてん)・田北鎮周(たきたしげかね)・角隈石宗(つのくませきそう)らが名を連ねる。大友義鎮(大友宗麟)は縣の務志賀に本陣を置く。

 

大友方は新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)に迫る。新納院高城は山田有信(やまだありのぶ)が守る。城兵は500ほど。島津家久は高城に入る。吉利忠澄(よしとしただずみ)・鎌田政近(かまたまさちか)・比志島国貞(ひしじまくにさだ)らも救援として入り、城兵は3000ほどになった。

10月20日、大友方の大軍が新納院高城を囲んだ。山田有信・島津家久らは巧みに籠城戦を展開。大軍を相手に、城を落とさせない。水汲み場への道を断たれるも城内に湧き水が見つかる、という幸運もあった。

 

山城跡

写真奥が新納院高城跡

 

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高城川の戦い(耳川の戦い)

鹿児島の島津義久は素早く軍を編成。10月25日には新納院高城救援に向けて出陣する。11月1日には島津義久は佐土原城に入り、ここを本陣とした。島津方の軍勢は4万ほどになった。

高城からは救援を急ぐよう求められ、島津義久は11月5日に大友軍への攻撃を決める。しかし、6日は大雨。高城の麓を流れる高城川(小丸川)も氾濫した。

島津家久は単独で和平交渉をはかるが、大友方は偽りの投降と警戒して、交渉はまとまらず。結果的に時間を稼ぐことはできた。

11月11日、島津方が仕掛ける。島津忠平(島津義弘)は佐伯惟教(佐伯宗天)が布陣する松山陣(児湯郡川南町)に奇襲をかけた。伏兵を配し、囮部隊300で誘き出す。釣り野伏せが決まり、敵に大きな損害を与えた。島津方は高城川原を制圧し、高城の囲みも解ける。

島津方はその日の夜のうちに、高城川(小丸川)の南側の台地の上に布陣する。島津義久の本隊は根白坂に本陣を置き、台地に沿って島津忠平(島津義弘)・島津征久(島津以久)らも陣を構えた。

11月12日早朝、今度は大友方が総攻撃をかける。田北鎮周の部隊が暴走気味に出撃すると、ほかの部隊もあとに続いた。大友方は高城川原の島津方を蹴散らし、高城川(小丸川)を渡って進軍する。丁度、島津方が待ち構える中に大友軍が入ってきた。島津方は台地を駆け下りて、大友の軍勢を包囲殲滅にかった。大友方は混乱。敗走する。さらに、川は大雨で増水していて、敗走する兵の足を止める。溺れた者も多かったという。島津方は追撃を続ける。高城からも兵が出てきて、攻撃に加わった。

大友勢は全軍退却。島津方は追撃の手をゆるめず、はるか北の耳川まで追ったという。耳川も増水していて、ここでも多くの兵を失う。大友方は壊滅。田北鎮周・佐伯惟教(佐伯宗天)・角隈石宗ら・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)らも戦死した。

 

宮崎県木城町の風景

高城川原、新納院高城より見下ろす

 

島津氏は大友氏の勢力を日向から追い出した。島津家久にはあらためて佐土原城が与えられた。

 

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三強鼎立

九州では最大勢力を誇っていた大友氏が大敗し、情勢が一気に変わる。大友氏に従属していた筑前・筑後・肥前・肥後の領主たちの中には、離反する者も相次いだ。

肥前国佐嘉(さが、佐賀市)を拠点とする龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は大友領内の切り取りをはかる。一気に勢力を広げた。

九州では大友・島津・龍造寺の三大勢力とその狭間で揺れる小領主たち、という構図に。そんな中で、小領主がひしめく肥後国で龍造寺氏と島津氏が勢力争いを繰り広げることになる。

 

 

水俣の戦い

天正7年(1579年)から島津氏は相良義陽(さがらよしひ)の領内へ侵攻する。相良氏は肥後国南部の人吉・水俣・葦北などを領する。島津氏とは長いこと対立関係にあった。

天正9年(1581年)8月、島津義久は水俣への総攻撃を決める。島津方は大軍で水俣城を囲む。軍勢は3つに分けて展開。その中で先陣の大将を島津家久が務めた。なお、二番陣の大将は島津忠平(島津義弘)、本陣は島津義虎(よしとら、薩州家)と島津歳久が率いる。のちに島津義久が本陣に合流する。

水俣城は犬童頼安(いんどうよりやす)・犬童頼兄(よりもり)が守っていたが、大軍に囲まれてどうすることもできない。

佐敷にいた相良義陽は降伏を申し出る。相良氏は島津氏に従属した。

 

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島津家久、島原に出陣したがる

肥後国八代(やつしろ、熊本県八代市)は相良氏が領していたが、島津氏はここを直轄領に。そして、八代を肥後攻略の拠点とする。

天正10年(1582年)、島津忠平(島津義弘)が指揮をとり、肥後攻略に乗り出す。島津歳久・島津家久も八代に詰めた。島津方は阿蘇(あそ)氏をはじめ肥後国の反抗勢力と対峙した。

その頃、肥前国島原の有馬鎮貴(ありましげたか、有馬晴信、はるのぶ)が龍造寺氏から離反し、島津氏に従属を申し出てきた。また、島原への出兵を島津氏に要請してきた。その取次を務めたのが島津家久であった。

島津家久は独断で阿蘇氏との和睦交渉を始める。部下に命じて、阿蘇氏を取り仕切る甲斐親直(かいちかなお、甲斐宗運、そううん)との間で勝手に話をすすめていった。島津義久も島津忠平(島津義弘)もこの動きを知らない。甲斐親直(甲斐宗運)は島津氏とに和睦に動く。ただ、条件をめぐって混乱をきたし、のちに破談する。

島津家久の目は島原に向いていた。そのために阿蘇氏との和睦をさっさとまとめてしまおうと動いたようだ。

天正11年(1583年)6月に、有馬氏による島原の深江城(ふかえじょう、長崎県島原市深江町)攻めに島津氏は援軍を出す。ただし島津家久は出陣せず。新納忠堯(にいろただあつ)・川上忠堅(かわかみただかた)らが渡海した。

 

天正12年(1584年)、島津氏は再び島原への出兵を決める。今度は、島津家久を大将として軍を派遣することに。島津義久も肥後国佐敷(さしき、熊本県葦北町)まで出陣することした。

一方で、阿蘇氏との和睦交渉はまとまらず、龍造寺氏も肥後をうかがい、大友氏も侵攻の気配を見せていた。肥後は予断をゆるさぬ状況で、島原渡海にはそれほど兵を割けない。

3月16日に島津義久が肥後国佐敷に入った。やや遅れて、島津忠平(島津義弘)・島津歳久も着陣した。島津家中の群臣たちも集結する。


だがそれよりも前に、島津家久は兄の着陣を待つことなく、勝手に島原へ向けて出陣してしまう。

 

 

 

島原合戦(沖田畷の戦い)

天正12年(1584年)3月24日、島原で大合戦となる。「沖田畷の戦い」と一般的には呼ばれているが、資料・史料を見ると「島原合戦」と書かれていることが多い。

龍造寺隆信は大軍勢で押し寄せた。兵力は2万5000とも、4万とも、5万7000とも、6万とも。数字は諸説あるが、とにかく大軍であった。対する島津家久・有馬鎮貴(有馬晴信)の兵力はあわせて6000余。

圧倒的な数の差がありながら、島津家久ら勝利する。龍造寺隆信が討たれ、龍造寺軍は大敗した。

 

定説は疑わしい?

沖田畷の戦いについては、島津家久の「釣り野伏せ」がきまった、とよく言われたりする。沖田畷は湿地(あるいは沼地、または深田)であり、そこに大軍勢を誘い込み、伏兵で包囲殲滅した、というような展開だったとされている。ただ、実際にはそうじゃなかった可能性が高いと思われる。

この戦況については、『北肥戦誌』(享保5年/1720年に成立)や『豊薩軍記』(寛延2年/1745年成立)に書かれている。いずれも江戸時代の軍記物である。その典拠はわからず。また、19世紀初め頃に薩摩で編纂された『西藩烈士干城録』『本藩人物誌』にも、深田や伏兵について書かれている。間違っているとも言い切れないが、信憑性についてはちょっとあやしい感じもする。

島津氏側の史料としては『勝部兵右衛門聞書』『長谷場越前自記』などに島原合戦のことが書かれている(いずれも『旧記雑録 後編一』に収録)。この二つの史料によると、おおむね次のとおり。

大軍が相手だったけど、ひるまずに攻め立て、敵勢を押し返し、乱戦の中で川上忠堅が龍造寺隆信を討ち取った。

……という感じだ。策らしい策があったことは書かれていない。ルイス・フロイスの『日本史』にも、大筋としてはだいたい同じようなことが書かれている。同時代の人物が記したこれらの史料のほうが、信用できそうな気がする。

 

 

わけのわからない勝利

島原合戦(沖田畷の戦い)については、ルイス・フロイスの『日本史』に詳しい。こちらを参考に戦況を追ってみる。

 

島津家久を大将として渡海。先遣隊は800ほど、後続を合わせると兵力は4000ほどになったという。

なお、島津氏側の史料によると、従軍したのは島津彰久(あきひさ)・島津忠長(ただたけ)・平田光宗(ひらたむつむめ)・新納忠元(にいろただもと)・川上久隅(ひさすみ)・川上忠堅(かわかみやだかた)・山田有信(やまだありのぶ)・鎌田政近(かまだまさちか)・猿渡信光(さるわたりのぶみつ)・樺山規久(かばやまのりひさ)など。

また、島津家久は嫡男を連れてきていた。島津忠豊(ただとよ、島津豊久、とよひさ)である。このとき15歳(数え年)。これが初陣となる。

 

島津の軍勢は有馬勢と合流し、3月15日に浜の城(はまのじょう、長崎県島原市新町)を囲んだ。龍造寺方につく島原純豊(しまばらすみとよ)を攻めた。

島津氏・有馬氏の目的は、あくまでも浜の城の攻略だった。のちのち大合戦になるとは、想定していない。

 

龍造寺隆信は須古城(すこじょう、佐賀県杵島郡白石町)にあった。なお、家督を嫡男の龍造寺政家に譲り、隠居の身である。ただ、実権は握り続けている。

龍造寺隆信は島津方の兵が少ないという報告を受け、それならば大軍で攻め潰そうと決める。そのあとの行動も早い。3月18日に大軍勢を編成。19日には龍王崎(須古城の南)を出航した。島原半島に渡って、南下して三会城(寺中城)に向かう。

 

島津勢は龍造寺軍の迅速な動きに気付いていなかった。

 

落人があり、「伊佐早(いさはや、諫早)に龍造寺の大軍勢が来ている、明日にもこちららに進軍するだろう」という情報が島津方にもたらされる。実際には、もっと近くまで大軍勢は迫っていた。

島津家久はあわてて書状を出す。大軍が襲来するから兵を送ってほしい、と。この書状は3月25日に佐敷に届く(『上井覚兼日記』より)。だが、そのときにはすでに戦は終わっていた。


龍造寺の大軍勢が襲来したのは、天正12年3月24日(1584年5月4日)のことだった。

有馬・島津連合軍は森岳城(もりたけじょう、島原城、長崎県島原市城内)の北側に布陣。陣の前に柵を設けて、守りを固めた。兵力は6300ほどだったという(数字はルイス・フロイス『日本史』より)。

龍造寺軍は三会城(寺中城)を出て南下する。軍を3つに分けて、中央を龍造寺隆信が率いる本隊が、東側の海沿いを江上家種・後藤家信(えがみいえたね・ごとういえのぶ、ともに龍造寺隆信の子)が率いる部隊が、西側の山の方から鍋島信生(なべしまのぶなり、鍋島直茂、なおしげ)が進軍する。龍造寺隆信の本隊は、島津家久のいる森岳城に迫る。

 

龍造寺軍が押し寄せる。数にものを言わせて、一気に踏みつぶそうと攻めかかった。ルイス・フロイス『日本史』によれば、戦場は龍造寺の兵で埋め尽くされていたという。

島津方は大軍を相手に退かないが、敵方からは次から次に新手が繰り出される。キリがないのである。防戦ではもはや島津方に勝機はなさそうだった。

 

島津家久は全軍突撃を決める。味方全員に見えるように馬上にまたがり、近くにいた武将に命じて訓示を述べさせた。

「勇猛果敢に、何恐れることなく突進せよ。我ら全員の討死が避けられぬ今となっては、臆病と卑劣により薩摩の名声を消すことなかれ」と。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

 

訓示が終わらないうちに、島津勢は我れ先にと駆け出した。将兵たちは斬って斬って斬りまくる。矢も射て射て射まくる。その勢いに龍造寺の大軍も押される。

乱戦の中で、島津方の川上忠堅の部隊が、輿に乗った龍造寺隆信と遭遇。そして、龍造寺隆信は討たれた。

大将を失った龍造寺軍は敗走する。

 

がむしゃらに戦ったら、敵の大将を討ち取ってしまった。わけのわからない勝利である。うまく戦運びをしたはずの龍造寺隆信は自身も討たれて大敗し、一方の島津方はグダグダなのに奇跡的に勝利した。

ルイス・フロイス『日本史』では「幸運な勝利」と記されている。


3月25日に援軍要請の書状を受け取った佐敷では、援軍派遣の準備がすすめられていた。だが、その日のうちに大勝利の報がもたらされた。26日には龍造寺隆信の首が佐敷に届けられた。

 

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島津家久は「武に尖った人物」

大友氏配下の戸次道雪(べっきどうせつ、立花道雪、戸次鑑連)と高橋紹運(たかはじょううん、高橋鎮種)が、島津家久をどう見ていたのかわかる史料がある。

島原合戦(沖田畷の戦い)の直後に天正12年(1584年)4月16日に、二人が五条鎮定に出した書状である。この中で島津忠平(島津義弘)と島津家久はともに武篇者(戦巧者で武勇にすぐれる)だと記す。とくに、島津家久については……

 

大酒其外徒之遊覧ヲ礑停止候而、武方計ニ被入精、殊外尖人躰ニて御座候

「大酒などむだな遊びを一切せず、軍事のみに注力する、とても尖った人物だ」と。

 

こちらの情報は『戦国武将列伝11 九州編』(編/新名一仁)より。

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戦いたくない義久、攻めたがる家久

龍造寺政家は島津氏に降る。また、龍造寺氏に従属していた国衆の多くも島津氏の傘下に入った。島津氏に抵抗していた阿蘇氏も天正13年(1585年)閏8月に降る。九州のパワーバランスは「三強」から「島津一強」へ変わる。そして、島津氏と大友氏との対立もあらわになってくる。

 

島津家中では「大友をさっさと攻めよう」という声が大きくなっていた。島津家久は好戦派の中心人物であった。一方で、島津義久は慎重な態度を見せる。島津忠平(島津義弘)も乗り気ではない。

この頃、大友義鎮(大友宗麟)は中央政権を確立しつつあった豊臣秀吉に支援を求めていた。豊臣秀吉は停戦を命じるなど介入してくる。そして、派兵もほのめかす。

好戦派の主張としては「さっさと九州を制圧して豊臣秀吉との交渉を有利にしたい」というところであった。

談合(重臣たちが話し合って方針を決める)では豊後侵攻が決まる。

 

島津家久は勝手に、豊後侵攻に向けて調略に動いていた。日向国高知尾の三田井政利(みたいまさとし)、豊後国南部の入田義実(にゅうたよしざね、入田宗和)らの寝返りを取り付ける。また、味方にも豊後情勢に関する嘘の情報を流してまで、豊後侵攻を急がせようとした。しかし、島津家久の策動を知った島津義久は激怒。豊後侵攻は延期となった。

その後、島津氏は筑前・筑後への出兵に方針を変える。こちらは実行されるも目的を達成できず。再び、豊後出陣が決まる。

 

 

 

豊薩合戦

天正14年(1586年) 10月、豊後に向けて出陣する。軍を二つに分け、肥後口からと日向口から攻めることに。肥後口は島津義珍(よしまさ、忠平から改名、島津義弘)を大将として3万の軍勢、日向口は島津家久を大将とする1万余。10月14日には島津義久も鹿児島を出陣。日向国の塩見城(しおみじょう、宮崎県日向市塩見)に本陣を置く。

 

 

島津家久の快進撃

島津家久の軍勢は豊後国南部の梓山(あずさやま、大分県佐伯市)から進入した。朝日嶽城(あさひだけじょう、大分県佐伯市宇目)を守る柴田紹安(しばたしょうあん)が寝返り、この手引きもあった。

そして、三重(大分県豊後大野市三重町)の松尾城に入っり、小牧城(こまきじょう、豊後大野市緒方町)や野津城(のつじょう、大分県臼杵市野津町)などを落としていく。

大友領内をずんずん進み、天正14年(1586年)10月末には大友義鎮(大友宗麟)のいる丹生島城(にうじまじょう、臼杵城、大分県臼杵市臼杵丹生島)に迫った。


そのときの豊後の様子を、ルイス・フロイスの『日本史』はこう伝える。

豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、[とりわけそれがデウスの鞭であってみれば]彼らは薩摩軍の名が口にのぼるの聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に錬磨された者までが、立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)

ものすごく恐れられていたようだ。


一方、肥後口の軍勢は豊後南部の攻略に手こずっていた。抵抗の激しい岡城が落とせないなど、なかなか制圧できない。

 

戸次川の戦い

天正14年(1586年)11月15日、島津家久は鶴賀城(つるがじょう、大分市上戸次利光)を囲んだ。

大友方には豊臣軍の先遣隊が合流していた。仙谷秀久(せんごくひでひさ)・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・十河存保(そごうまさやす)ら四国の領主たちである。

豊臣秀吉の本軍が到着するまで守りに徹するよう命じていたが、軍監の仙谷秀久は鶴賀城の救援を決めた。

天正14年12月12日(1587年1月)、大友・豊臣連合軍は鶴賀城の救援のために渡河する。島津家久の部隊は伏兵を配して待ち構えた。川を渡り終えたところで伏兵が取り囲む。島津方が大勝した。この戦いは「戸次川の戦い」と呼ばれている。

ルイス・フロイスの『日本史』ではこう伝える。

豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。豊後勢が渡河し終えると、それまで巧みに隠れていた薩摩の兵士たちは一挙に躍り出て、驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。というのは、太刀を振りかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走していった。(『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)

 

仙谷秀久と長宗我部元親はなんとか戦場を離脱する。十河存保は戦死。また、長宗我部元親の嫡男の長宗我部信親(のぶちか)も討たれた。

鶴賀城も開城する。

戸次川の大勝に勢いづいた島津軍は、府内城へと進撃。12月13日に陥落させる。

 

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敗走

島津方は大友氏領内を蹂躙するも、制圧しきれない状況が続いていた。そうしているうちに黒田孝高(くらだよしたか、黒田官兵衛)らが率いる先遣隊が九州北部を攻略。島津傘下の国衆も次々と降る。

天正15年(1587年)3月1日に豊臣秀長が率いる大軍勢が下関(山口県下関市)に着陣。兵力は10万とも。また、豊臣秀吉の本軍も九州へと向かっていた。

島津義珍(島津義弘)は、島津家久のいる府内に合流。二人のもとには降伏勧告ももたらされる。

島津軍は府内を放棄して日向へ退却する。豊後南部の軍勢も肥後口から撤退する。島津家久らは3月20日に都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)に入った。ここで島津義久と面会する。島津家久は居城の佐土原城に入った。


豊臣秀長の10万余の軍勢が日向国を南下する。そして、天正15年(1587年)4月6日、新納院高城を包囲した。新納院高城は山田有信(やまだありのぶ)が守る。大軍に囲まれながらも、なんとか死守する。

4月17日、島津方2万余の軍勢が根白坂(ねじろさか、木城町椎木)に陣を置く豊臣軍に夜襲をかけた。この戦いで、島津方は大敗した。

4月22日、伊集院忠棟を使者として豊臣秀長の陣に遣わし、降伏と島津義久の赦免を願い出た。

豊臣秀吉の軍勢は肥後から薩摩へ進軍していた。4月25日には川内の泰平寺(たいへいじ、鹿児島県薩摩川内市大小路町)にあった。

島津氏は豊臣秀吉に降伏を申し出る。島津義久は日向から鹿児島に戻る。剃髪して法号を「龍伯(りゅうはく)」とした。5月8日に泰平寺に出向いて豊臣秀吉と面会。降伏を認められた。

 

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豊臣家の直臣になる

豊臣秀長は島津家久のたてこもる佐土原城を攻める。島津家久は独自に和睦交渉をする。佐土原城を明け渡したうえで、豊臣秀長に「上方のどこかに領地が欲しい」と願い出たという。豊臣家の直臣に取り立ててほしい、と。

豊臣秀吉は召し上げた佐土原を返還し、さらには都於郡も与えた。実質的には加増となった。5月27日に豊臣秀吉から朱印状も授けられ、大名として取り立てられた。

 

 

突然の死

天正15年(1587年)6月5日、島津家久が急死する。

島津家久は、豊臣秀長に従って日向国野尻(宮崎県小林市野尻)へ。豊臣秀長と食事をしたあとに急病は発し、そして佐土原に戻って数日後に没したのだという。

『島津国史』をはじめ編纂物の多くで「毒殺」とされている。

ルイス・フロイスの『日本史』においても毒殺と説明されている。

美濃殿は、薩摩国主の弟で勇敢な戦士であり老練な主将でもある中務(家久)と称する薩摩の総指揮官が、今後、上の軍勢に対して何らかの策略を仕掛けることを恐れ、そうした不安を一掃しようとして彼のために宴席を設け、その饗宴の終わりにあたって、日本の習慣に従って盃をとらせた。そしてその酒の中に毒を混入するように家臣に命じた。中務はそれを飲み、三日後に、飲まされた新鮮な毒の結果であることが明らかな徴候を見せながら死亡した。 (『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』より)

 

当時から、そんな噂があったのだろう。真相は謎である。

 

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永吉島津家と東郷氏

島津家久のあとは嫡男の島津忠豊(島津豊久)がついだ。所領も安堵される。島津忠豊(島津豊久)も戦場で活躍。朝鮮の戦いでも大きな戦果をあげている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは島津義弘の部隊に合流。撤退戦(島津の退き口)にて戦死する。

島津豊久には子がなく、後継者は不在。そこで、弟の島津忠仍(ただなお、東郷重虎から改名、島津家久の次男)に家督をつぐよう命がくだった。しかし、島津忠仍は病気を理由に辞退し、喜入氏より娘婿を迎えた。こちらを島津豊久の養子とした。島津忠栄(ただなが)と名乗る。

また、佐土原は没収されており、遺臣は薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)に移されていた。この地を所領とする。島津家久→島津豊久→島津忠栄と続く家系は「永吉島津家」と呼ばれている。

島津家久・島津豊久の墓は佐土原の天昌寺(てんしょうじ)にあった。天昌寺は永吉に移され、島津豊久の墓も新たに建てられている。

また、永吉の妙法寺を島津家久の菩提寺と定めて、寺号を「梅天寺(ばいてんじ)」と改めた。梅天寺跡には島津家久の墓がある。墓塔の文字「梅天長策大禅伯」は島津家久の法号である。

 

立派な墓塔が立っている

梅天寺跡の島津家久の墓塔

 

なお、島津忠栄も寛永元年(1624年)に早世してしまう。永吉島津家4代目当主は島津久雄(ひさたか)に。藩主の島津家久(島津忠恒が改名、島津義弘の子)の九男が迎えられた。

 

じつは、家督相続を辞退した島津忠仍には4人の男子があった。嫡男の島津忠昌は「東郷」に復姓して東郷昌重と名乗った。その弟には東郷重経・東郷重頼・東郷利重がいる。島津家久の孫が4人もいるのに、なぜかここから後継者が立てられなかった。

東郷昌重は正保3年12月(1646年)に後嗣のなかった樺山家に入る。樺山久広(かばやまひさひろ)とな名乗り、こちらの家督をついだ。東郷家のほうは、弟の東郷重経が継承した。

 

以下は、永吉島津家および東郷氏関連の系図。

永吉島津家関連の系図



 

 

 

<参考資料>

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(一)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2010年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『現代語訳 上井覚兼日記 天正十年(一五八二)十一月~天正十一年(一五八三)十一月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版/2020年

『現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2021年

『現代語訳 上井覚兼日記3 天正十三年(一五八五)正月~天正十三年(一五八五)十二月』
編/新名一仁 発行/ヒムカ出版/2023年

『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『完訳フロイス日本史10大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗―大村純忠・有馬晴信篇2』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社/2000年

『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論社 2000年

『島津家久・豊久父子と日向国』
著/新名一仁 発行/宮崎県立図書館 2017年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

ほか