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『破天の剣』(著/天野純希)、主役は島津家久! その軍才は強烈な光を放つ

戦国時代後期の九州は島津氏が席巻する。その過程で戦功を挙げまっくたのが島津家久(しまづいえひさ)である。島津四兄弟の末っ子だ。

四兄弟の中でもっとも知名度が高いのは、次男の島津義弘(よしひろ)だ。猛将としてよく知られている。かたや島津家久のほうは「戦国時代が好きな人は知っている」くらいの知名度だろうか。だが、戦場での強さは兄にも引けをとらない。むしろ上回っているかも!?

 

『破天の剣』は島津家久の生涯を描いた小説だ。2012年に刊行され、2015年には文庫版も発売されている。評判も良いようなので、読んでみることにした。

 

 

作者の天野純希(あまのすみき)氏はけっこうな数の歴史小説を手がけている。題材にした戦国武将は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・最上義光(もがみよしあき)・三好元長(みよしもとなが、三好長慶の父)・織田有楽斎(おだうらくさい)・斎藤龍興(さいとうたつおき、斎藤道山の孫)・別所長治(べっしょながはる)など。なかなかにマニアックな人選である。ちなみに、島津義弘が主役の作品もある。

 


島津家久って、こんな人物

天文16年(1547年)に島津家久は生まれた。通称は「又七郎」。受領名は「中務大輔(なかつかさのたいふ)」「中書(ちゅうしょ)」と称した。

父は島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主)。母は「橋媛」「少納言」と呼ばれ、本田親康の娘で、肱岡頼明の養女ともされている。

島津貴久には4人の息子がいた。嫡男の島津義久(よしひさ)は16代当主となり家中をまとめる。次男の島津義弘は軍事面を担い、本拠地から遠く離れた最前線を任されていた。三男の島津歳久(としひさ)も戦いの主力で、こちらは義久の近くで活躍することが多かった。

四男の島津家久は、3人の兄たちとはやや年が離れている。三男の島津歳久の10歳年少である。また、ひとりだけ側室の子であった。

妻には樺山善久(かばやまよしひさ)の娘を娶る。樺山氏は島津氏の一族で、樺山善久は島津貴久の姉を妻としていた。島津家の重臣として活躍し、島津家久にとっても大きな後ろ盾となった。

ややこしいことに、近い時代に「島津家久」がもうひとりいる。島津義弘の子で薩摩藩の初代藩主となる人物だ。島津忠恒(ただつね)と名乗っていたが、慶長11年(1606年)に「島津家久」に改名した。これは徳川家康から偏諱を賜ってのものである。

 

 

島津家久の戦譜

初陣は永禄4年(1561年)の廻坂合戦(廻城の戦い)。大隅国の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山)を奪った肝付兼続(きもつきかねつぐ)との戦いである。島津家久はこのとき15歳(数え年)。敵将の工藤隠岐守を討つ活躍を見せた。

その後は、永禄10年~12年(1567年~1569年)の大隅国菱刈・薩摩国大口(ひしかり・おおくち、ともに鹿児島県伊佐市)の戦い、元亀2年~天正2年(1571年~1574年)の下大隅(しもおおすみ、現在の鹿児島県垂水市)などで活躍。大口城攻めでは荷駄隊に扮して城兵を釣り出す作戦を実行し、見事に成功させている。

 

天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)では、日向国の新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)を守り切る。豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)が送り込んだ大軍を相手に寡兵で持ちこたえた。そして、島津義久が率いる本隊が到着すると、高城川近辺で大合戦となる。島津家久も城から撃って出た。結果は島津方の大勝となった。

 

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、島津家久の采配が冴えわたる。

肥前国(佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が島原(長崎県島原市・南島原市)の有馬氏を攻める。島津義久は、島津家久を大将として有馬氏に援軍を派遣した。

島津方の兵力は約3000、有馬軍とあわせても6000ほどだった。一方の龍造寺軍は大兵力であった。その数は25000とも60000とも(諸説あり)。島津家久は沖田畷(おきたなわて、長崎県島原市北門町)を決戦の地と定めた。そして、島津軍は龍造寺隆信を討ち取り、その重臣も多くが戦死する。統制を失った龍造寺勢は混乱し、そこを激しく攻められて壊滅した。

沖田畷の戦いでは、島津家久の嫡男も初陣を飾った。それが島津豊久(しまづとよひさ)である。

 

九州は島津氏の一強となる。龍造寺氏を傘下に入れ、弱体化した大友氏領内にも侵攻する。しかし、豊臣秀吉が九州の情勢に介入してくる。島津氏は停戦命令を拒否。豊臣秀吉は九州に征討軍を送り込む。

天正14年(1586年)、豊臣方の先遣部隊が大友氏の救援として九州に入る。仙石秀久(せんごくひでひさ)を軍監とする四国勢だ。これには長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・長宗我部信親(のぶちか)・十河存保(そごうまさやすも)らも参加している。島地家久は四国勢を迎え撃つ(戸次川の戦い)。四国勢は島津家久の戦術にはまって大敗。長宗我部信親と十河存保も討ち取られた。

だが、豊臣秀吉や豊臣秀長が率いる20万超える軍勢が襲来するとさすがにかなわず。天正15年(1587年)、島津氏は降伏した。

なお、降伏直後に島津家久は急死。『島津国史』には毒殺とも記されているが、真相はわからない。

 

島津家久の戦いぶりは、地形を調べ上げて緻密に戦略を練り上げている感じだ。そして、いざ戦端がひらかれると、兵を巧みに動かすのである。

島津氏は「釣り野伏せ(つりのぶせ)」という戦法をよく使う。囮部隊で敵軍を釣り出して、わざと追撃させて誘導し、伏兵で囲んで殲滅する、というものである。島津家久の「釣り野伏せ」はよく決まった。

 

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『破天の剣』の島津家久

礼儀知らずで、空気の読めない変わり者。だが、戦場に出ると軍神と化す。『破天の剣』の島津家久は軍才に特化した人物として描かれる。実際の人物像に近いかどうかはわからないところだが、これはこれでなかなかに魅力的だ。

フィクションを織り込みながらも、大筋は史実に沿ったものだと思われる。物語として楽しみつつ、島津家久の生涯を追うことができる。

 

文は淡々としている。余計な言葉を入れずに、状況をシンプルに綴る。読んでいて、入ってきやすい書き方だと思う。戦場のシーンも静かな筆致なのだが、戦いの緊迫感や躍動感がみしみしと迫ってくる。例えばこんな感じで……。

敵は、徐々に距離を詰めてきている。火縄の焦げる匂いが鼻を衝いた。柴垣内の味方は、すでに玉籠めを終えている。 (『破天の剣』より)

こちらは沖田畷の戦いでの描写である。

島津家久の思いのほか、義久・義弘・歳久がそれぞれに抱く末弟への思いもしっかりと描かれる。3人の兄の視点も、作品に深みを与えているようにも思う。

 

テンポよく読めて、展開もわかりやすく書かれている。『破天の剣』は気軽に楽しめるいい作品だと思う。

 

破天の剣 (時代小説文庫)

 


<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集49『西藩烈士干城録(一)』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 2010年

ほか