ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

肥後国の戦火、島津と龍造寺のはざまで/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(5) 

天正6年(1578年)11月、島津と大友が激突した。合戦の地は日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町高城)。「高城川の戦い」または「耳川の戦い」と呼ばれるものである。

島津義久(しまづよしひさ)はこの戦いに勝利する。一方の大友軍は壊滅的な被害を出し、戦線にあった重臣たちも多くが討ち死にした。この結果は、大きな波紋となって九州を揺るがしていくのだ。

 

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なお、日付は旧暦で記す。

 

 

 

 

 

高城川の戦い、その後

大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、おおともそうりん)は日向国縣(あがた)の務志賀(むしか、宮崎県延岡市無鹿町)に本陣を置いていた。大敗の報を受けて豊後国へと引き上げた。

なお、大友義鎮(大友宗麟)はすでに家督を嫡男の大友義統(よしむね)に譲っている。ただ、実権はまだ握っていた。

大友軍が敗走したあと、島津義久は日向国全土を支配下に置いた。島津家久(いえひさ、義久の弟)に佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)をあらためて与え、日向方面の統治を任せる。

 

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また、縣はもともと土持氏のものだった。土持親成(つちもちちかしげ)は島津氏側につき、大友氏の侵攻を受けて命を落とした。島津氏は縣を奪還すると、土持氏の遺児を地頭とする。縣領主として土持氏を再興せさた。


島津氏と大友氏はひとまず戦いをやめる。大友側は被害が大きく、もはや余裕がない。勝った島津のほうも消耗が激しい。さらに、日向全域に一気に支配領域が広がったこともあり、こちらの統治体制を固める必要もある。

島津氏と大友氏は、和睦へと動く。

 


龍造寺隆信が勢力拡大

大友氏の領内に、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が侵攻する。

龍造寺隆信は肥前国佐嘉(さが、現在の佐賀市)を拠点とする。肥前国(佐賀県と長崎県)をほぼ制圧し、大友氏とも抗争を繰り返した。ただ、天正6年(1578年)の頃は、大友氏に従属していた。だが、大友氏の大敗を見てすぐに離反する。

筑前国・筑後国(現在の福岡県)でも大友氏に服属していた領主たちが次々と叛く。秋月種実(あきつきたねざね)・筑紫広門(ちくしひろかど)・田尻鑑種(たじりあきたね)らも独立をはかった。龍造寺隆信とも呼応して大友領内を攻めた。

龍造寺隆信は九州北部の国人たちを服属させ、筑前国・筑後国もほぼ掌握。一気に大大名へと成り上がる。

 


島津と大友と、そして龍造寺と

天正7年(1579年)の時点で、島津義久は薩摩国・大隅国・日向国を掌握。支配領域は、現在の鹿児島県と宮崎県にあたる。大友氏を倒したことで勢いもある。

大友氏は豊後国・豊前国(現在の大分県)を拠点に、北部九州を支配していた。高城川の戦い(耳川の戦い)で大敗したものの、まだまだ力はある。

そして、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)も、前述のとおりに急激に勢力拡大。イケイケである。

この頃の3氏の勢いは、つぎのような感じだろうか。

大友 ↓↓↓
島津 
龍造寺↑↑


九州は大友一強から、3つの勢力が鼎立する状況へと変わった。そして、3強のはざまにある肥後国の情勢が大きく動くことになるのだ。

 

 

 

 

肥後の国人たち

肥後国守護は菊池(きくち)氏であった。しかし、その支配は肥後国全土には及ばず。阿蘇(あそ)氏・相良(さがら)氏・名和(なわ)氏などが割拠する。さらには、16世紀半ばに守護家菊池氏が滅ぶ。肥後北部は大友氏の支配下となった。肥後国内の国人衆のほとんどが大友氏に服属、あるいは友好関係にあった。

しかし、大友氏が島津氏に大敗すると、肥後国への大友氏の影響力が減退する。さらには、北から龍造寺氏が手を伸ばしてくる。そして。南からは島津氏の脅威も。肥後の国人たちは生き残りをかけて立ち回ることになる。

この頃の、肥後のおもな国人の顔ぶれはつぎのとおり。

 

城親賢(じょうちかまさ)
名は「親政」とも。隈本城(くまもとじょう、現在の熊本市中央区)を居城とする。菊地一族で、もともとは菊池氏三家老の家柄。


赤星統家(あかほしむねいえ)
隈府城(わいふじょう、熊本県菊池市)の城主。菊地一族で、もともとは菊池氏三家老の家柄。


隈部親永(くまべちかなが)
山鹿郡(熊本県山鹿市のあたり)の領主。菊地一族で、もともとは菊池氏三家老の家柄。


小代親忠(しょうだいちかただ)
野原荘(熊本県荒尾市のあたり)の領主。児玉氏の一族で、武蔵国比企郡の小代郷(埼玉県東松山市正代のあたり)から13世紀に肥後に下向してきた。


合志親為(こうしちかため)
合志郡の竹迫城(たかばじょう、合志城ともいう、熊本県合志市)の城主。大友氏に従属。


阿蘇惟将(あそこれまさ)
阿蘇氏は古代から阿蘇神社大宮司を務める。阿蘇郡(熊本県阿蘇市・阿蘇郡)や益城郡(熊本県上益城郡・下益城郡、熊本市の一部、宇城市の一部)などを領有。


名和顕孝(なわあきたか)
宇土城(うとじょう、熊本県宇土市)の城主。名和長年(なわながとし)の後裔。もともとは伯耆国(現在の鳥取県)にあった一族で、「伯耆顕孝」とも名乗った。


天草五人衆
天草諸島には小領主が割拠。天草鎮尚(あまくさしげひさ)・志岐鎮経(しきしげつね)・栖本鎮通(すもとしげみち)・上津浦鎮貞(こうつうらしげさだ)・大矢野氏(おおやの)の5氏があり、「天草五人衆」と呼ばれていた。天草衆の名前には「鎮」の字が入っているところを見ると、大友義鎮(大友宗麟)との関わりの深さもうかがえる。

 

相良義陽(さがらよしひ)
球磨郡(熊本県人吉市や球磨郡)・葦北郡(熊本県水俣市や葦北郡)・八代郡(熊本県八代市のあたり)を領有。肥後国南部を制圧している。相良氏のルーツ遠江国の相良荘(静岡県牧之原市)にあり、13世紀初めに肥後国の地頭職となり下向してきたという。島津義久に対しては、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と手を組んで対抗していた。

石垣の残る城跡

人吉城跡

 


天草氏が島津につく

天正7年(1579年)春、本渡城(ほんどじょう、熊本県天草氏本渡町)の天草鎮尚が島津氏への服属を申し入れてきた。また、島津義久に叙勲も求めた。

『忠元勲功記』よると、天草氏は薩摩国大口(おおくち、鹿児島県伊佐市大口)の新納忠元(にいろただもと)に仲介を頼んだようだ。天草鎮尚は薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市)の島津義虎と抗争を繰り広げていた。新納忠元が島津義虎を説得して天草氏との和平が成ったという。

3月2日、島津義久は天草鎮尚に「尾張守」の受領名を与える。6月14日には馬と太刀も与えた。

 


城親賢・名和顕孝が島津につく

天正7年(1579年)11月、肥後国隈元の城親賢が島津氏に援軍を要請。また、島津氏への従属を申し入れてきた。城親賢は大友氏に叛き、大友領の飽田・詫麻・川尻(あくた・たくま・かわじり、熊本市の一帯)を奪った。大友氏は城氏の討伐に動いた。そこで、城親賢は島津方に転じる道を選んだのである。

城氏・赤星氏・隈部氏はもともとは菊池氏の旧臣であるが、独立後の三家はたびたび争っていた。この頃、赤星氏は大友の傘下、隈部氏は龍造寺の傘下にある。

島津領から隈元は遠く、敵対する相良氏の支配地域(葦北郡)によって隔絶されている。そのため、島津義久は、この申し出を受け入れることを渋ったという。しかし、鎌田政年(かまだまさとし)が派兵を主張して島津義久を説得した。

 

救援には鎌田政年・佐多久政・川上忠智らを派遣。まずは300余人の足軽を率いて隈元に入り、のちに加勢の兵を送ることになった。天草の海路を通行できるようにするため、出水領主の島津義虎(薩州家)に調略させて天草五人衆も味方につけた。さらに宇土の名和顕孝も島津氏に従属してきた。

 


島津が相良領内に侵攻

肥後・薩摩・日向の国境付近では島津氏と相良氏は勢力争いを展開していた。島津氏と大友氏が日向で戦っていた頃にも、相良義陽は島津方の薩摩国大口へ出兵する。大口地頭の新納忠元が相良軍に備えていたために、相良軍はすぐに手を出さず。そして、大友軍大敗を知ると撤退した。

天正7年(1579年)から翌年にかけて、島津方は相良領内に侵攻したという。こちらについては『求麻外史』から情報を拾ってみる。

 

天正7年4月に龍造寺隆信は隈府城攻めの協力を相良氏に要請。これを受けて相良義陽は肥後国八代に入った。9月になり、相良義陽は水俣の宝河内城(朴川内城、ほうがわちじょう、ほうのがわちじょう、熊本県水俣市宝川内)が島津方の攻撃を受けた聞く。佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町佐敷)に移って、水俣方面の守りに備えた。

9月13日に新納忠元・比志島国貞が3000の兵を率いて、宝河内城を一気に落とした。城将の東頼兼(ひがしよりかね)・東頼一(よりいつ)父子は城を棄てて湯浦(ゆのうらに、芦北町湯浦)へ落ちのびた。相良義陽は佐敷より兵を出し、宝河内の島津方に反撃。城を奪還し、東氏を再び城に入れる。

 

天正8年(1580年)3月3日、出水の島津義虎(薩州家)が水俣に侵攻。水俣城(みなまたじょう、熊本県水俣市古城)を守る犬童頼安(いんどうよりやす)はこれを撃退する。島津義虎は調略もしかけるが、従う者はなかったという。その後、犬童頼安はたびたび島津氏領内に兵を出す。

鬱葱とした山城跡

水俣城跡

 

天正8年5月12日、新納忠元がふたたび宝河内城を攻める。嵐の中の夜陰にまぎれて精兵90名を城に潜入させ、火を放って城内を焼く。東頼兼らは抗戦するもかなわずに脱出。宝河内城は陥落した。

なお、『島津国史』『島津世家』といった島津側の歴史書では、天正8年5月の宝河内城の戦いのみ記されている。城攻めをしたのは新納忠堯(ただたか、忠元の子)とも書かれている。

新納忠元は宝河内の一帯を制圧。さらに、久木野岩群(くきのいわむれ、水俣市久木野)に城を築いて入った。


5月12日には、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市あたり)にあった島津忠平(しまづただひら、島津義弘、よしひろ、島津義久の弟)も動く。球磨の皆越(みなごえ、熊本県人吉市皆越)に侵攻するも、白髪岳で雷雨にあって引き返した。

また、島津方は球磨の大畑(おこば、人吉市大野町)を攻め落としている。

 

 

島津が佐敷を攻める

天正8年(1580年)9月、島津方は肥後国佐敷(芦北町佐敷)に出兵する。こちらの情報も『求麻外史』より。

 

島津忠平(島津義弘)・島津家久が30艘の軍船で海から迫る。また、新納忠元は300騎を率いて南側から進軍してきた。宝河内の周辺を制圧したこで、山間の陸路も使えるようになったのだろう。

相良方は八代や人吉の兵を集めて、島津方の襲来に備えていた。9月17日、島津方の水軍は斗石(はかりいし、芦北町計石)から上陸。新納隊は湯浦(芦北町湯浦)にいたる。

水軍の兵が上陸し、柵をめぐらして待ち構えていた相良勢と交戦する。島津方は破れ、水軍は撤退する。この敗戦を聞いた湯浦の新納隊も兵を退いた。

 

下の写真は、佐敷城から海側を見たところ。橋の右側が島津方の水軍が上陸した斗石(計石)。

海岸と島々を見下ろす

佐敷の海岸

 

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矢崎・綱田の戦い

城氏・名和氏は阿蘇氏攻めを画策する。天正8年(1580年)4月、名和顕孝は島津義久に応援を要請する。

天正8年10月、島津義久は肥後国隈元・宇土に大軍を派遣。名和顕孝・城親賢とともに矢崎城(やざきじょう、熊本県宇城市)・綱田城(おうだじょう、田平城、熊本県宇土市)を攻める。

矢崎城は中村一太夫(中村惟冬)が、綱田城は中村二太夫が守る。いずれも阿蘇氏に属している。

島津方の新納忠元・鎌田政年・伊集院久治(いじゅういんひさはる)らは矢崎城を囲む。また、佐多久政・川上忠智・上原尚近(うえはらなおちか)・宮原景種(みやはらかげたね)らは綱田城を囲んだ。

10月15日に矢崎城が落ち、城主の中村一太夫は自害する。16日には綱田城も落城。中村二太夫は城を明け渡して、阿蘇氏のもとに立ち退く。

 

 

合志の戦い

島津方は天正8年(1580年)11月に合志(熊本県合志市)を攻める。軍勢を率いるのは佐多久政・新納忠元・川上忠智・上原尚近・比志島国貞(ひしじまくにさだ)・肝付兼寛(きもつきかねひろ)・伊集院久治など。城氏・名和氏もともに戦う。

竹迫城(合志城)は合志親重(合志親為の弟か)が守る。野原荘(熊本県荒尾市のあたり)の小代親忠、大津山(おおつやま、熊本県玉名郡南関町)の大津山源左衛門も加勢する。島津方を大津山隊が4000の兵で迎え撃つが、ここに伊集院隊が突入する。大津山軍は総崩れとなり、合志勢は敗走する。合志氏は降り、島津方は合志を制圧する。

その後、島津方の軍勢は隈元に引き上げ、薩摩のほうへ帰還した。

 


豊薩和平が成る

島津氏と大友氏は、織田信長を仲立ちとして和平交渉を進めていた。織田信長の意を受けた近衛前久(このえさきひさ)が、伊勢貞知(いせさだとも)を九州に遣わして交渉させた。天正9年(1581年)6月に島津義久は和睦を受け入れ、豊薩和平が成る。

一方で、高城川の戦い(耳川の戦い)のあと、龍造寺隆信は島津義久に同盟を持ちかけていた。「ともに大友を倒そう」という内容の書を、天正8年8月に伊集院忠棟(いじゅういんただむね、島津家の家老)宛てに送っている。

 

 

水俣総攻撃、相良氏が降る

天正9年(1581年)8月、島津義久は水俣への総攻撃を決める。このときの陣容と思われる史料が『薩藩旧記雑録』に収録されている。「肥後合戦御陣立日記」というもので、日付は天正8年8月19日となっている(天正9年の誤りか)。これによると、島津勢は陣を3つにわけて展開したという。

 

先陣は島津家久・島津征久(ゆきひさ、島津以久)を大将とし、かる石の尾(場所はよくわからず)に布陣する。脇将には樺山規久(かばやまのりひさ)・吉利忠澄(よしとしただずみ)・種子島時堯(たねがしまときたか)・東郷重虎(とうごうしげとら)・入来院重豊(いりきいんしげとよ)・伊集院久宣(いじゅういんひさのぶ)・伊集院久治・新納忠元・猿渡信光(さるわたりのぶみつ)・梅北国兼(うめきたくにかね)など。

ちなみに東郷重虎は島津家久の次男で、東郷家の家督をついでいた。このときはまだ7歳くらい。家臣が代理で来ていたのか、あるいは父とともに陣中にあったのか。


二番陣は熊牟礼(場所の詳細わからず)に布陣。八ケイカ尾、銭カ目カ尾とも。こちらの大将は島津忠平(島津義弘)。脇将に北郷忠虎(ほんごうただとら)・頴娃久虎(えいひさとら)・肝付兼寛・島津朝久(ともひさ、豊州家)・上井覚兼(うわいかくけん、さとかね)・山田有信(やまだありのぶ)・鎌田政近(かまだまさちか)・鎌田政年・宮原景種など。


本陣は勝永岡に置いた。出水陣ともいう。御陣大将は島津義虎(薩州家、出水領主)と島津歳久(としひさ、義久の弟)。ちなみに、島津歳久は天文8年に薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)に所領替えとなっている。祁答院は出水の南側に位置している。相良攻めを意識したものだったかもしれない。

本陣の脇将は島津忠長(ただたけ)・佐多久政・禰寝重張(ねじめしげひら)・川田義朗(かわだよしあき)・川上久辰(かわかみひさたつ)・喜入季久(きいれすえひさ、あるいは喜入久通か)・伊集院忠棟(ただむね)・村田経貞(むらたつねさだ)・平田光宗(ひらたみつむね)・町田久倍(まちだひさます)・本田親貞(ほんだちかさだ)・比志島国貞・新納康久(やすひさ)など。こちらには島津義久の老中も多い。

総勢は11万5000としているが、だいぶ誇張されていそうだ。


「義久公御譜」によると、天正9年8月17日に島津義久は動く。本陣の島津義虎を大将として水俣城に向かわせ、井川比良というところに本陣を設けた。翌18日、島津義久は薩摩国小河内(こがわうち、鹿児島県伊佐市大口小川内)まで出陣。ここから戦を差配し、島津忠平(島津義弘)・島津歳久・島津家久を主力として、昼夜を断たずに水俣城を攻撃させた。さらに8月20日に島津義久は井川比良の本陣に入る。

また、『求麻外史』によると、島津義弘が焼井原(やきいはら)に、島津征久が南福寺井川手(なんぷくじいかわで)に、島津義虎が藁皿(わらざら)に、新納忠元が銭亀尾(ぜにがめお)に陣したという。


水俣城は相良氏重臣の犬童頼安・犬童頼兄(よりもり)が守る。兵力は1000に満たなかったという。奮戦するも、大軍に囲まれて窮する。

運動公園内の山城跡

水俣城跡、石垣もわずかに残る

 

相良義陽は降伏を申し出る。水俣・津奈木・佐敷など葦北郡の割譲と、息子2人を人質として出すことを条件に和睦。相良氏は島津の傘下に入った。

 

 


島津義久は肥後国の中南部を押さえた。一方で、龍造寺隆信も九州北部で着実に勢力を広げる。島津と龍造寺はぶつかることに……。つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録後編1』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年

『求麻外史』
編/田代政鬴 発行/求麻外史発行所 1889年

『新訳 求麻外史』
著/田代政鬴 訳註/堂屋敷竹次郎 発行/求麻外史発行所 1917年

『熊本県の中世城跡』
編・発行/熊本県教育委員会 1978年

『北肥戦誌』
編/長森伝次郎 編・発行/国史研究会 1918年

『九州戦国城郭史: 大名・国衆たちの築城記』
著/岡寺良 発行/吉川弘文館 2022年

ほか