ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

種子島氏、中世から続く南島の領主

種子島(たねがしま)は鹿児島県にある島だ。大隅半島の南のほうに浮かぶ。鹿児島港から高速船で1時間半くらい、フェリーで3時間半くらいで行き来できる。大きな島で、南北の長さは57㎞ほど。ちなみに島の北部の西之表港から南端までは車で1時間以上かかる。

 

この種子島の領主だったのが、種子島氏である。「鉄砲伝来」という教科書にも載っている歴史的なイベントにも遭遇。けっこう知名度の高い一族なんじゃないかと思う。

種子島氏について、ちょっとまとめてみた。

なお、日付については旧暦にて記す。

 

 

 

まず、種子島について

種子島は古くは「多褹」「多禰」と書かれた。文献上の初出は『日本書紀』の天武天皇6年(677年)2月の条。多禰の島人が朝貢した、とある。このときはまだ大和朝廷の統治下にはなく、多禰隼人が住む場所だった。

 

また『日本書紀』の天武天皇10年(681年)8月の条には、多禰の様子についてこう記されている。

其の國は、京を去る五千餘里、筑紫の南の海中に居り。髪を切りて草も裳きたり。粳稲常に豊にして、一殖ゑて兩收む。土毛は、支子、莞子、及び種種の海物等多なり。(『日本書紀』より)

 

都から五千余里はなれていて、筑紫(九州)の南の海にある。人々は髪を切って草で作った服を着ている。米がすごくとれる。1年に2回収穫できる。土毛(くにつもの、特産品)には支子(くちなし)や莞子(がま)など、あと海産物も豊富。

……ということが書かれている。

豊かな土地であったようだ。ちなみに、現在も種子島は米どころである。3月に植えて7月に出荷する超早場米もある。さらには二期作も行われている。

 

種子島

種子島の風景、遠くにロケット発射場

 

また、古代から多禰(種子島)は航路の中継点でもあった。多禰隼人は交易を盛んに行っていたと推測される。

その後、大宝2年(702年)に国が設置された。そのちょっと前に多禰隼人の反乱があったようで、その平定のあとに大和朝廷の令制国になった。その後、天長元年(824年)に多禰国は大隅国に編入されている。

 

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12世紀には、種子島の土地が島津荘に属していたことが確認できる。薩摩平氏の多禰氏が郡司であった。

 

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もともとは肥後氏、大隅国の守護代

鎌倉時代の初めの頃は、種子島の島津荘の地頭職は島津忠久(しまづただひさ)に与えられていた。建仁3年(1203年)に島津氏は比企の乱に連座して所領を召し上げられ(のちに薩摩国のみ回復)、その後は北条氏が大隅国の守護職と惣地頭職を得た。

種子島の地頭には大浦口氏が任じられ、地頭代として上妻氏が島に入った。ちなみに両氏はともに藤原姓である。

そして、貞応3年(1224年)に北条朝時(名越朝時)が大隅国の守護・惣地頭となったあと、その配下の肥後時信(ひごときのぶ、肥後信基、のぶもと)が守護代・地頭代として南九州へ下向した。この肥後時信(肥後信基)が種子島氏の祖とされる。

 

『種子嶋家譜』によると、肥後時信(肥後信基)は平清盛の曾孫としている。伝わっている系譜はつぎのとおり。

平清盛→平基盛→平行盛→平信基(肥後信基)

 

平行盛は元暦2年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いで戦死。平信基はその遺児であるという。肥後守を称したことから肥後氏を名乗る。肥後信基は北条時政に匿われ、その養子とされたという。そして、種子島を含む南島の領地が与えられたと伝わる。

その後、種子島に入った肥後信基は、地頭だった大浦口氏から藤原姓を受け継いで改姓したという。また地頭代の上妻氏もそのまま種子島に残る。上妻氏はその後も種子島の家老を代々務めている。

 

肥後氏は大隅国の財部院(たからべいん、鹿児島県曽於市財部)や横川院(よこがわいん、鹿児島県霧島市横川)も領した。肥後氏からは財部氏・横川氏も出ている。

 

 

伝わっている出自はあやしすぎる

『種子嶋家譜』は江戸時代に作成されたものだ。あとから作り上げられた部分もけっこうあると思われる。

初代が平家の遺児で、北条時政の養子というのは、そのまま鵜呑みにはできない。……というか、仮冒の可能性が大いにあると思わる。家系に箔をつけるために、そうしてあるのだろう。

 

じつのところ、似たような話はほかにもある。

薩摩国牛屎院(うしくそいん、鹿児島県伊佐市大口)院司の牛屎氏は、平信基が保元の乱(1156年)の恩賞として牛屎院を賜ったことに始まるとしている。この平信基は平基盛の子とされる。ちなみに、牛屎氏は太秦(うずまさ)姓も称し、平家に出自があるのは仮冒である可能性が大だ。

また、大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町)の禰寝氏も、平家の遺児を初代とするとしている。こちらは平重盛の後裔を称する。平維盛(重盛)の子は平高清という。壇ノ浦の戦いのあと、幼かった平高清は出家を条件に助命された。しかし、のちに誅殺された。その遺児は北条時政が世話をし、平清重と名乗る。そして平清重に大隅国禰寝院の地頭職を与えて下向させた、と。そして、平清重は郡司の禰寝氏の妻を迎え、禰寝氏を名乗るようになったとされる。ちなみに、禰寝氏はもともとは建部姓。古くから大隅国に土着した一族である。平家の遺児の話は、こちらもだいぶあやしい。もう一つちなみに、禰寝氏は18世紀に「小松」と名乗りを変える。これは平重盛が「小松殿」「小松内大臣」と呼ばれたことに由来してのものである。

牛屎氏と禰寝氏が伝える出自と、種子島氏のものは共通性がかなりある。

 

それから、種子島氏と禰寝氏の間にはいろいろとある。勢力争いをバチバチとやり合い、ときには姻戚関係を結んで友好関係を築いていたりもする。ともに「平氏の遺児」「北条時政」という要素がかぶっているのは偶然だろうか? 系譜の箔付けで張り合ったんじゃないのかな? という想像もさせられる。

 

いろいろ調べていると、肥後氏は「北条氏の庶流か?」と分析しているものもあった。その線もあるかもしれない。ちなみに種子島氏の家紋は「三つ鱗」。北条氏と同じである。

 

牛屎氏についてはこちらの記事にて。

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禰寝氏についてはこちらの記事にて。

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種子島氏の名乗りは14世紀から

13世紀の肥後氏の種子島支配については、記録が乏しい。『種子嶋家譜』においては、2代目・3代目・4代目の当主は「伝記不詳」とある。どのような過程で、種子島支配が確立していったのかはわからない。

ただ、14世紀の南北朝争乱期の頃には種子島領主としての地位を確立していたと見られる。『種子嶋家譜』にて、5代目の肥後時基(ときもと)のところに「嘗家以遠島」とある。肥後時基は足利尊氏に従って南朝方と戦ったとも。

そして、6代目の肥後時充は島津氏に従って転戦している。また、7代目の肥後頼時は、島津氏久(島津氏6代)に従う。肥後国へ出征した際に戦死している。

 

年不詳だが今川了俊(いまがわりょうしゅん、今川貞世、さだよ)の書状に「多祢嶋殿」の文字か確認できる。今川了俊(今川貞世)が九州探題だった時期(1371年~1395年)には「種子島」を名乗りとしていたことがうかがえる。

 

 

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禰寝氏との抗争

種子島氏と禰寝氏との間には、古くから所領をめぐる争いがあったようだ。建武3年(1336年)に出された訴状なども残っている。

天文12年(1543年)、種子島に禰寝氏が攻め込んだ。種子島氏に内紛があり、島主の種子島恵時(さととき)と弟の種子島時述が対立。種子島時述は禰寝氏に支援を求め、禰寝氏は兵を送り込んできた。種子島恵時は屋久島に逃れ、島津貴久(島津氏15代)に援助を求めた。そこで島津貴久は家老の新納康久(にいろやすひさ)を大将として出兵。この争いを調停して和解させた。種子島恵時は子に家督を譲り、嫡男の種子島時堯(ときたか)が当主となった。

この種子島の紛争のあと、禰寝氏に屋久島が割譲された(のちに種子島氏が取り返す)。その後も南島で両氏は勢力争いを繰り広げた。

 

 

 

 

鉄砲

天文12年(1543年)8月25日、種子島南端の門倉岬(かどくらみさき、鹿児島県熊毛郡南種子町西之)にポルトガル船が漂着した。船は島主のいる赤尾木(あかおぎ、鹿児島県西之表市西之表)に移る。そして、種子島恵時・種子島時堯は鉄砲と出会う。

 

岬の風景

門倉岬

 

このとき、当主の種子島時堯は15歳くらい。鉄砲の試射を見てその威力に驚き、魅了された。鉄砲を2挺購入。そして、刀鍛冶の金兵衛清定(八板金兵衛)に鉄砲の製造を命じる。また、家臣の篠川小四郎に火薬の製造法を研究させた。

種子島は砂鉄がとれる。島の刀鍛冶は高い技術を持っていた。八板金兵衛は美濃国関(岐阜県関市)から島に来ていた刀鍛冶である。また、種子島氏は火山のある硫黄島や口永良部島も領有する。ここでは火薬の材料となる硫黄がとれる。鉄砲製造のための好条件が揃っていた。

数年後には鉄砲製造に成功。鉄砲は日本全国へと広まり、戦場で猛威をふるう。戦争のあり方を大きく変えることになった。

 

なお、この種子島の出来事が「鉄砲伝来」とされるの一般的だ。ただし、もっと前から鉄砲が日本に入ったとも。諸説あり。

 

 

島津貴久・島津義久に従う

薩摩国では、本家筋でもある奥州家の島津勝久(かつひさ、島津氏14代)、薩州家の島津実久(さねひさ)、相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)が覇権を争っていた。種子島恵時は相州家に協力していた。

ちなみに種子島恵時の正室(種子島時堯の母)は、薩州家の島津忠興(ただおき)の娘。もともとは薩州家との関係が深かったことが推測される。また、島津忠良の正室(島津貴久の母)は薩州家の島津成久(忠興)の娘なので、島津貴久と種子島時堯は母方での親戚関係になる。

天文4年(1535年)、島津勝久(奥州家)が島津実久(薩州家)と対立。敗れた島津勝久(奥州家)は鹿児島から逃亡する。島津勝久(奥州家)は島津貴久(相州家)と手を組み、島津実久(薩州家)を攻めさせた。相州家は薩州家が支配していた伊集院(いじゅういん、鹿児島県日置市伊集院)を攻め取り、さらに鹿児島も制圧。薩州家の拠点があった谷山(たにやま、鹿児島市の谷山地区)・加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)・河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)も陥落させた。

天文8年(1539年)6月、相州家の島津忠良・島津貴久は薩摩国の市来城(いちきじょう、鹿児島県日置市東市来)・串木野城(くしきのじょう、鹿児島県いちき串木野市麓)を攻めた。この戦いに種子島恵時は参陣している。

 

種子島時堯は島津忠良の娘(「御西」という名が伝わっている)を正室に迎えた。のちに離縁するが、娘を二人もうけている。このうちの次女は島津義久(よしひさ、貴久の嫡男)の継室となる。従兄妹どうしの結婚であった。

なお、種子島時堯の次女は娘を二人産んでいる(「新城」と「亀寿」)。

天文23年(1554年)からの大隅合戦には、種子島氏も参加している。また島津貴久の軍勢が鉄砲を使用した記録もある。その後も島津氏に協力。永禄4年(1561年)の廻城の戦いにも、種子島氏は兵を出している。

永禄3年(1560年)の種子島時堯は長男に家督を譲るが、その子が早世したために当主に復帰する。天正7年(1579年)に種子島時堯は没し、次男の種子島久時(ひさとき)が家督をついだ。

 

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種子島久時の活躍

種子島久時は天正7年(1579年)に島津義久の加冠で元服。当初は「克時」と名乗る。この年に家督をつぐ。天正8年(1580年)の肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)攻めに、種子島氏からも軍勢を出した。そして同年10月に島津義久から「久」の字を賜り、「久時」と名乗りを変えた。

 

天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)、天正14年(1586年)の筑前国岩屋城攻めや豊薩合戦に、種子島久時は従軍した。

天正18年(1590年)の小田原征伐では島津久保(ひさやす)のお供として出陣。島津久保は島津義弘(よしひろ、島津貴久の次男)の子で、島津氏の後継者に指名されていた。大坂では豊臣秀吉に鉄砲20挺を献上した。

 

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵には島津義弘に従って渡海。各地を転戦した。慶長3年(1598年)の泗川の戦いや露梁海戦でも種子島久時は大いに活躍する。露梁海戦では島津義弘の乗る船が潮に流されて敵に拿捕されそうになった。種子島久時らの軍船が救援に向かい、島津義弘を救出した。このときに種子島久時は鉄砲を手に、多くの敵兵を撃ち倒す。この海戦での勲功第一と賞されたという。

 

なお、文禄4年(1595年)に種子島氏は所領を移される。種子島を離れて、薩摩国知覧院(ちらんいん、鹿児島県南九州市知覧)に入った。その後、慶長4年(1599年)に種子島に戻る。

慶長4年(1599年)には島津義久から家老に任じられる。島津忠恒(ただつね、島津義弘の子)が島津家の家督をついだあとも、引き続きこちらの家老も務めた。

慶長4年(1599年)の庄内の乱にも出陣。大隅国福山(鹿児島県霧島市福山町)の守りを任されたあと、種子島隊は恒吉(つねよし、鹿児島県曽於市大隅町恒吉)・財部・安永(やすなが、宮崎県都城市庄内町)・山田(都城市山田町)などを転戦した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、島津義弘は国許に兵の参加を求めた。種子島久時は、家中から兵を送りだしている。

 

 

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その後の種子島氏

徳川幕府の時代になると、種子島氏は私領主として引き続き種子島を治めた。家格は一所持で、薩摩藩の家老も出す。

慶長16年12月(1612年1月)に種子島久時は没する。後継の子はなかったが、側室が久時の死後に男子を産む。この子に種子島家の相続が認められた。元和6年(1620年)に藩主の島津家久(島津忠恒)の加冠で元服し、種子島忠時と名乗る。寛永3年(1626年)には島津家久(島津忠恒)の四女を正室に迎えている。

 

一方で、種子島久時の長女は伊勢貞豊に嫁ぎ、そして生まれた娘は2代藩主の島津光久(みつひさ、島津家久の子)の側室となった。この伊勢貞豊の娘(種子島久時の孫娘)はのちに島津綱久(つなひさ)を産む。そして、島津綱久の子の島津綱貴が3代藩主となった。種子島氏の血は島津本家に入り込んでいる。

 

時代は下って、文政元年(1818年)には島津斉興(なりおき、10代藩主、27代当主)の五男の普之進(かねのしん)が種子島氏へ養子入り。しかし、養子縁組はのちに解消。普之進は本家に戻った。この普之進がのちの島津久光である。

なお、普之進が去ったあとは、島津斉宣(なりのぶ、9代藩主、26代当主)の十二男が種子島家を継いだ。種子島久珍と名乗った。

 

種子島家は、明治時代に男爵家に列せられている。

 

 

<参考資料>

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ四』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1994年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

中種子町郷土誌
編/中種子町郷土誌編集委員会 発行/中種子町 1971年

『南種子町郷土誌』
編/南種子町郷土誌編纂委員会 発行/南種子町 1987年

『上屋久町郷土誌』
編/上屋久町郷土誌編集委員会 発行/上屋久町教育委員会 1984年

『国文六国史 第2』 ※『日本書記』収録
編/武田祐吉・今泉忠義 発行/大岡山書店 1937年

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