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戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃【まとめ】/元亀2年から天正15年まで(1571年~1587年)

島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。

この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州全土を制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

 

 

 

島津の四兄弟

島津貴久は傑物であった。南九州では14世紀から戦乱が続いている。そんな中で、分家から本家に取ってかわって覇権を確立。薩摩国を平定し、大隅国や日向国にも勢力を広げた。4人の息子たちは父の覇業の過程において、いずれも活躍を見せている。

 

島津貴久については、こちらの記事にて。

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島津義久

天文2年(1533年)生まれ。母は入来院重聡(いりきいんしげさと)の娘。

初名は「島津忠良(ただよし)」で、祖父と同名だった。その後、「島津義辰(よしとき)」「島津義久」と改名する。通称は「又三郎」「三郎左衛門尉」など。家督をついだあとは「太守」とも。なお、「義」の字は将軍の足利義輝の偏諱。

天文23年(1554年)の大隅国の岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)攻めで初陣。その後、大隅合戦、廻城の戦い、真幸院の戦い、菱刈・大口の戦いなどで転戦。父とともに総大将として本陣にあることが多かった。

永禄7年(1564年)に「修理大夫」に任官。永禄9年(1566年)に家督を継ぎ、守護職も譲られる。薩摩国鹿児島の内城(うちじょう、鹿児島市大竜町)を居城とする。

島津義久の居城跡

鹿児島の内城跡、現在は小学校がある

 

 

島津忠平(島津義弘)

天文4年(1535年)生まれ。母は兄と同じ。

「島津義弘」の名でよく知られているが、この名乗りは天正15年(1587年)以降のこと。初名は「島津忠平」といい、こちらの名乗りが長い。また「義弘」の直前に、1年ほど「義珍(義珎、よしまさ)」とも名乗っている。通称は「又四郎」「兵庫頭」など。

初陣は兄と同じく岩剣城の戦い。この城が落城したあと岩剣城の城番も任されている。また、弘治3年(1557年)まで続く大隅合戦においては活躍の記録が多い。

永禄3年(1560年)には日向国飫肥・櫛間(おび・くしま、宮崎県の日南市と串間市)を領していた豊州家の島津忠親(しまづただちか)の養子となる。豊州家は伊東義祐(いとうよしすけ)と勢力争いを展開していた。島津忠平(島津義弘)は飫肥に入って、こちらの守りを任された。しかし、永禄5年(1562年)に養子縁組を解消。飫肥を離れて戻ってくる。

島津貴久は北原(きたはら)氏の家督相続問題に介入。こちらは伊東義祐による乗っ取り工作も受けていた。北原氏領の日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市のあたり)や大隅国筒羽野・栗野(つつはの・くりの、鹿児島県姶良郡湧水町)に出兵する。こちらの戦いで、島津忠平(島津義弘)は活躍した。

その後、北原氏は島津氏の傘下となる。北原氏が転封となり、永禄7年(1564年)に島津忠平(島津義弘)は真幸院の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)に入った。伊東氏や相良氏に対する最前線の守りを任された。永禄10年(1567年)からの菱刈・大口の戦いにも出征する。

 

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島津歳久

天文6年(1537年)生まれ。母は兄たち同じ。通称は「又六郎」「左衛門督」など。

初陣は岩剣城の戦い。兄たちと同様に島津氏の主要な戦いに出陣している。

永禄6年(1563年)に大隅国吉田の松尾城(まつおじょう、鹿児島市東佐多町)の城主になる。薩摩国北部の入来院(いりきいん)氏・祁答院(けどういん)氏・菱刈(ひしかり)氏などに対して、にらみをきかせた。

 

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島津家久

天文16年(1547年)の生まれ。3人の兄とは歳が離れていて、母も違う。島津家久だけが側室の子である。通称は「又七郎」「中務大輔」など。

初陣は永禄4年(1561年)の廻城の戦い。ここで敵将を討ち取る活躍を見せる。永禄10年(1567年)から永禄12年(1569年)にかけての菱刈・大口の戦いでも活躍し、元亀元年(1570年)から薩摩国の隈城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城町)や串木野(くしきの、いちき串木野市)などを任された。

 

 

 

 

島津包囲網

元亀2年(1571年)時点での南九州の勢力図。島津氏の周囲を敵対勢力が取り囲む。

 

戦国時代の南九州の勢力図

 

島津義久

勢力範囲は薩摩国のほぼ全域、大隅国の北西部、日向国真幸院の西側。現在の鹿児島県鹿児島市・日置市・指宿市・南九州市・南さつま市・枕崎市・薩摩川内市(一部)・いちき串木野市・伊佐市・姶良市・姶良郡湧水町・霧島市(一部)、宮崎県えびの市にあたる。

 

以下は、島津義久と同盟関係にある。

 

島津義虎(よしとら)

島津氏分家の薩州家の当主で、正室は島津義久の長女。薩摩国出水郡(現在の鹿児島県出水市・阿久根市)、薩摩郡の一部(薩摩川内市の一部)などを領する。肥後の相良氏と対立。

 

北郷時久(ほんごうときひさ)

島津氏の支族。日向国庄内(宮崎県都城市や北諸県郡三股町)のほか、囎唹郡の北部(曽於市の一部)にも勢力を持つ。伊東氏や肝付氏とは、長年にわたって勢力を争う。

 

 

敵対勢力つぎのとおり。

 

肝付良兼(きもつきよしかね)・肝付兼亮(かねすけ)

大隅国の肝属郡とその周辺、日向国志布志などを領する。現在の鹿児島県肝属郡肝付町・大崎町・東串良町・鹿屋市・志布志市などにあたる。日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)も領する。正室は伊東義祐の娘。北郷氏とは対立関係。なお、肝付良兼は元亀2年7月に没し(没年は諸説あり)、弟の肝付兼亮が家督を継いだとされる。

 

伊地知重興(いじちしげおき)

大隅国下大隅(現在の鹿児島県垂水市)を領する。正室は禰寝氏。

 

禰寝重長(ねじめしげたけ)

大隅国禰寝(ねじめ)を領する。現在の鹿児島県肝属郡南大隅町・錦江町にあたる。正室は肝付氏。

 

伊東義祐(いとうよしすけ)

日向国の広範囲を領する。現在の宮崎県のほぼ全域(えびの市・都城市・三股町を除く)を支配下に置く。北郷氏とは対立関係。伊東義祐はすでに高齢で、嫡男の伊東義益(よします)に家督を譲っていた(隠居後も実権を握る)。だが、永禄12年(1569年)に伊東義益が亡くなり、嫡孫を後見している。

 

相良義陽(さがらよしひ)

肥後国球磨(くま)や葦北(あしきた)などを領する。現在の熊本県人吉市・水俣市・葦北郡のあたり。島津氏薩州家と対立。

 

 

肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い

元亀2年6月23日(1571年7月15日)に島津貴久が亡くなる。これを好機ととらえたのか、敵対勢力が動き出す。

元亀2年11月、肝付氏・禰寝氏・伊地知氏が鹿児島を攻める。100艘以上の軍船を鹿児島湾に繰り出した。

向島(むこうじま、桜島)の赤水(あかみず、鹿児島市桜島赤水町)では島津家久らが応戦し、敵を退ける。また、大隅国竜ヶ水(りゅうがみず、鹿児島市竜ヶ水)でも戦いがあり、こちらも島津方が勝利する。

元亀3年1月には肝付氏は北郷氏領内にも出兵。北郷時久が迎え撃ち、勝利する。また、大隅国の小村(こむら、鹿児島県霧島市国分広瀬のあたり)・廻(めぐり、霧島市福山)・市成(いちなり、鹿児島県鹿屋市輝北町市成)で交戦。こちらも島津方が勝利する。

禰寝重長の軍勢が薩摩国揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)を攻撃したとも。こちらは島津義久が撃退したという。

肝付氏ら大隅勢はかなり大規模に軍事活動を展開するも、戦果を挙げられず。

 

 

伊東も動く

肝付氏ら大隅勢への対応のために、島津氏は戦力のほとんどを投入していたと思われる。そんな中で伊東氏も動く。

島津義久・島津歳久・島津家久らが鹿児島湾岸で奮戦していた頃、島津忠平(島津義弘)は日向国真幸院の飯野城を守っていた。だが、大隅勢との戦いで手一杯だったこともあり、兵力をまわせなかったようだ。わずかに300ほどであったという。

伊東義祐はその隙を衝く。

 

加久藤城の戦い

伊東氏の城である真幸院の三山城(みつやまじょう、小林城、宮崎県小林市)より島津領内へ向けて3000の兵を繰り出した。伊東方の大将は伊東祐安(すけやす)・伊東祐信(すけのぶ)・伊東祐青(すけはる)など。いずれも伊東氏の一族で、伊東義祐の娘婿でもある。重臣たちが顔を揃える。

元亀3年(1572年)5月3日夜、伊東方は島津忠平(島津義弘)領内へ侵攻。5月4日未明に加久藤城(かくとうじょう、宮崎県えびの市小田)を囲んだ。城兵はわずかに50ほど。城は川上忠智(かわかみただとも、島津忠平の家老)が守る。飯野からの救援部隊(兵数は50ほど)と連携をとって、城を落とさせなかった。

 

木崎原の戦い

城攻めに失敗した伊東方は、いったん兵を退く。白鳥山から高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)方面へ撤退しようとした。

島津方はあちこちに幟旗を立て領民に声をあげさせ、兵を伏せているかのように偽装していた。

伊東方は伏兵をおそれて、思うように行軍できず。あちこち彷徨ったのちに、結局は加久藤城の南の木崎原(きざきばる、えびの市池島)に駐屯する。

 

大きな石碑

木崎原古戦場跡の記念碑

 

伊東方の援軍として相良氏の軍勢も出てきていたが、こちらも伏兵をおそれて撤退している。

島津忠平(島津義弘)は兵を分けて伏兵を配置。島津忠平(島津義弘)本隊130余人は二八坂(にはちさか、えびの市大明司)より木崎原をうかがう。

5月4日昼、島津忠平(島津義弘)本隊が木崎原に突入する。伏兵が背後を突き、伊東方を混乱させる。伊東方は総崩れとなり敗走した。多くの戦死者を出し、大将の伊東祐安や伊東祐信らも討ち取られた。

 

木崎原古戦場跡

三角田、木崎原の激戦地

 

 

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大隅の制圧

肝付勢は侵攻に失敗。満を持して出てきた伊東氏も木崎原で手痛い返り討ちにあった。島津氏が、今度は攻勢に出る。

 

小濱の戦い

元亀3年(1572年)9月、島津方は島津歳久を大将として下大隅を攻める。島津方は向島(桜島)に進軍し、大隅勢の伊地知美作守が小濱(おばま、鹿児島県垂水市海潟)で迎え撃った。

9月27日、小濱のすぐ北側の早崎(はやさき)に島津歳久・島津家久らが布陣。島津義久も海路より小濱をうかがう。総攻撃により小濱砦は陥落し、伊地知美作守も討ち取られた。

 

住吉原の戦い

島津氏に呼応して、北郷時久は肝付氏を攻める。元亀3年(1572年)9月29日、北郷方は日向国月野(つきの、鹿児島県曽於市大隅町月野)・泰野(たいの、鹿児島県志布志市松山町泰野)に攻め込んで、肝付氏よりこの地を奪った。また、同じ日に日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)を攻めてこちらでも肝付氏を破る。

元亀4年(1573年)1月、肝付兼亮は北郷氏領の大隅国末吉(鹿児島県曽於市末吉)に侵攻。北郷時久は住吉原(すみよしばる、国合原、くにあいばる、曽於市末吉町二之方・南之郷)で迎え撃った。ここで、肝付方は大敗する。

 

 

禰寝氏の寝返り

島津義久は禰寝重長を調略する。元亀4年(1573年)2月に禰寝重長は帰順。島津方に寝返った。

3月、肝付氏・伊地知氏は、禰寝氏の本拠地の禰寝(小根占、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)に攻めかかる。島津義久は新納忠元(にいろただもと)・伊集院久治(いじゅういんひさはる)・上原尚常(うえはらなおつね)を援軍として派遣し、肝付氏・伊地知氏の連合軍を破る。島津氏・禰寝氏の軍勢は押し返し、大隅国高須(たかす、鹿児島県鹿屋市高須)を制圧した。また、西俣(にしまた、鹿屋市の南部)も攻めて勝利する。

 

牛根陥落、肝付が降伏

島津方は大隅半島を南から制圧していった。そして、島津歳久・島津家久らの軍勢が、牛根(うしね)の入船城(いりふねじょう、牛根城、垂水市牛根麓)を囲んだ。肝付氏配下の安楽兼寛(あんらくかねひろ)がよく守り、籠城戦は長引く。天正元年12月(1574年1月)に島津方は、島津義久も出陣する。

 

桜島と海と街並みと

牛根の風景、入船城跡近くの山の上から

 

天正2年(1574年)1月3日、肝付方は入船城の救援のために出兵。茶園ヶ尾(入船城の南に位置する)に陣取った。島津方は茶園ヶ尾を攻めて勝利する。

伊東氏も援軍を送るも、到着したときには牛根の肝付方は撤退していた。そこで、軍を南下させて禰寝を攻めるが敗れた。

1月20日、安楽兼寛は開城。入船城は陥落した。

天正2年(1574年)2月、伊地知重興は所領をすべて差し出して降伏。続けて肝付兼亮も降伏する。

 

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日向制圧

天正4年(1576年)8月、島津義久は日向攻略を開始する。8月16日、日向国真幸院の高原(たかはる)に向けて出兵した。島津方は飯野に集結。ここから、島津忠平(島津義弘)・島津歳久・島津家久・島津忠長・島津征久(島津以久)らが伊東領内へ侵攻する。

8月21日、島津方は高原城を総攻撃。開城させる。8月23日には島津義久が入城した。高原城が落ちると、伊東方では降伏する者が相次いだ。島津方からも調略を仕掛けていて、伊東家の重臣たちを寝返らせていった。

天正5年12月(1578年1月)、島津方は伊東氏の本拠地の都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)・佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)に迫る。12月9日、伊東義祐は一族を引き連れて城から脱出。豊後国の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)を頼って落ちのびた。この出来事は「伊東崩れ」とも呼ばれている。

12月19日、島津義久は都於郡城に入城。残いいてた伊東方の諸城もつぎつぎと降伏した。伊東氏と対立していた縣(あがた、宮崎県都城市)の土持親成(つちもちちかしげ)も、島津氏の傘下に入る。

日向国を制圧した。

 

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大友の日向侵攻、島津が迎え撃つ

九州でもっとも大きな力を持っていたのは、豊後国を本拠地とする大友氏であった。大友義鎮(大友宗麟)は九州北部を制圧し、国人衆の多くを従属させている。幕府からは九州探題にも任命されている。支配領域は豊後国・豊前国・筑前国・筑後国・肥前国・肥後国の全域。現在の大分県・福岡県・長崎県・熊本県にあたる。

なお、大友義鎮(大友宗麟)は天正4年(1576年)に家督を嫡男の大友義統(よしむね)に譲っている。ただ、隠居後も実権を握り続けている。

日向の伊東氏も大友氏の影響下にあった。そして、島津に敗れた伊東義祐は、大友氏のもとに逃げ込んできたのである。旧領の奪還の支援も求めた。

一方で、島津氏と大友氏もずっと友好的な関係にあった。島津と伊東の争いにおいても、大友氏が調停をすることもあったりした。

しかし、島津氏が日向国を制圧し、伊東氏を追い出したことで、事情が変わった感じである。大友傘下だった土持親成が島津方についたことも、大友氏としては問題視された。

大友と島津の抗争がはじまる。

 

大友が日向北部を制圧

天正6年(1578年)1月、大友氏は日向国縣に出兵する。島津方についた土持親成を攻めた。

大友氏の侵攻が始まると、日向国北部では島津方に降っていた伊東家旧臣がつぎつぎと大友方に寝返った。縣の松尾城(宮崎県延岡市松山町)は孤立。城は落ち、土持親成も命を落とす。

島津方では佐土原城に在番する島津家久らが対応しようとするが、救援はうまくいかなかった。

大友方は日向国の耳川(みみかわ)以北を制圧した。

 

新納院高城が包囲される

日向の攻防が続く。伊東家旧臣らの蜂起もあり、大友方の優勢で戦況は動いていった。

天正6年(1578年)10月、大友方は大軍を南下させる。田原親賢(たわらちかかた、田原紹忍)を大将とする軍勢は、10月20日に日向国の新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町高城)に攻めかかった。兵力は3万とも4万とも。

新納院高城は山田有信(やまだありのぶ)が守っていた。島津家久・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らも救援として入り、3000ほどの兵で籠城する。

城は大軍に囲まれながらも持ちこたえる。

 

 

高城川の戦い(耳川の戦い)

鹿児島にあった島津義久は急いで軍を編成し、天正6年(1578年)10月25日に出陣する。島津忠平(島津義弘)や島津歳久をはじめ家臣団も合流する。11月1日、島津義久は佐土原城に入った。

11月5日、島津義久は翌日の攻撃を決める。しかし、11月6日は大雨であった。城下を流れる高城川(小丸川)も氾濫した。

11月7日に雨あがる。島津方は11月10日夜より行動を開始する。島津忠平(島津義弘)・伊集院忠棟・上井覚兼・島津征久(島津以久)らは、佐伯惟教(さえきこれのり、佐伯宗天、そうてん)が布陣する松山陣を攻める。

伏兵を配置し、少数の兵による囮部隊で敵軍を釣り出す。うまく誘導して伏兵で包囲する。「釣り野伏」と呼ばれる戦法である。作戦はうまくいき、佐伯隊は多くの戦死者を出した。

その日の夜のうちに島津方は高城川(小丸川)の南側の台地の上に布陣する。島津義久は根白坂に本陣を置いた。最前線の高城川原には本田親治・北郷久盛らに守らせ、二番隊として根白坂下に伊集院忠棟を配置した。

大友方では田北鎮周(たきたしげかね)が強攻を主張。一方で、大将の田原親賢(田原紹忍)らは慎重論を唱える。結局、田北鎮周が聞かず。軍議はまとまらなかった。


11月12日朝、大友方が動き出す。田北鎮周は独断で出撃し、高城川原に攻めかかった。田北隊を追いかけるように、佐伯惟教(佐伯宗天)・角隈石宗(つのくませきそう)・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)らも続いた。

島津方の前線部隊は敗走する。本田親治・北郷久盛も討ち死にする。前線部隊は敗走する。大友方は勢いに乗って高城川(小丸川)を渡り、さらに攻め込んだ。

大友方の兵が川を渡ったところで、台地上に布陣していた島津勢が一気に攻勢に出る。新納院高城の兵も攻撃に加わる。大友方は包囲され、総崩れとなった。

大友方は敗走。高城川(小丸川)は大雨のあとで増水していて、溺れる者も多かったという。田原親賢(田原紹忍)は全軍を撤退させる。大友軍は北へと退却するが、はるか北の耳川まで島津方は追撃。耳川も増水していて、こでも多くの兵が溺死したという。

大友方は大敗。田北鎮周・佐伯惟教(佐伯宗天)・角隈石宗・斎藤鎮実・吉弘鎮信らが戦死する。

 

高城川の戦いの古戦場

高城川(小丸川)、写真奥の台地の上に島津方は布陣

 

大友氏は日向国から撤退し、島津氏は日向国のほぼ全域を支配下に置いた。

なお、佐土原城の城番を任されていた島津家久は、そのままこちらの領主になる。佐土原城を拠点に、日向国方面の守りを任された。

 

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三強鼎立

天正6年(1578年)の大友氏の大敗は、九州の情勢を大きく変える。大友氏傘下の国衆たちがつぎつぎと独立をはかった。その中で肥前国佐嘉(さが、佐賀市)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が台頭する。肥前・筑前・筑後を制圧し、小領主たちを従わせた。短期間のうちに大勢力を築き上げる。

九州には三大勢力があり、その狭間で小勢力が揺れる。天正8年(1589年)頃の勢力図はこんな感じに。

 

九州の戦国時代の勢力図

 

大友氏は失速したとはいえ、豊後国・豊前国に勢力を保つ。島津氏に対しては和睦に動く。

龍造寺氏は勢力を急拡大。肥前・筑前・筑後をほぼ押さえ、さらには肥後国にも勢力を広げようとする。

島津氏は薩摩・大隅・日向を制圧。大友との決戦を制して、引き続き勢いに乗っている。ただ、当主の島津義久はさらなる勢力拡大にあまり乗り気ではなかった。戦続きでもあり、支配領域の急拡大もあり、領内の地固めを優先させたいと考えていたようだ。

 

 

 

肥後国の戦乱

大友氏の影響力が低下した肥後国では、領主たちは生き残りをかけて立ちまわる。

龍造寺氏は肥後国への勢力拡大に動く。肥後国の小領主たちは単独で対抗できる力はない。そして、大友氏への従属を続けるのか、龍造寺氏に従属するのか、島津氏を頼って龍造寺氏に対抗するのか、選択を迫られた。

 

隈本へ出兵

天正7年(1579年)11月、肥後国隈本(くまもと、熊本市)の城親賢(じょうちかまさ)は、島津氏に従属を申し入れる。あわせて救援を要請してきた。城氏は、龍造寺傘下の隈部親永(くまべちかなが)や合志親為(こうしちかため)、大友傘下の赤星統家(あかほしむねいえ)らと争っていた。


島津氏は城氏の要請に応じて、援軍を派遣した。また、同じ頃に天草(あまくさ、現在の熊本県天草市・上天草市)の天草五人衆(天草氏・志岐氏・栖本氏・上津浦氏・大矢野氏)、宇土(うと、熊本県宇土市)の名和顕孝(なわあきたか)も島津氏に従属する。

龍造寺氏と交戦する城氏を支援しながら、島津氏は肥後国の南のほうで相良氏と交戦する。

相良氏は南九州の島津包囲網の最後の一角であった。天正8年(1576年)に島津氏と大友氏が日向で戦っているときには、相良義陽は大友氏と連携。肥後国から兵を出し、薩摩国北部の国境付近をうかがっていた。大友氏大敗後も島津氏との敵対が続く。

相良氏と対立関係にあった名和氏や天草五入衆は島津についた。相良氏は敵に包囲されているような状況であった。

肥後で戦いが続くなか、天正9年(1581年)6月に島津氏と大友氏は織田信長の仲介で和睦する。

 

相良が降伏

天正9年(1581年)8月、島津義久は肥後国水俣(熊本県水俣市)への総攻撃を決める。大軍勢で水俣城を囲んだ。。

先陣の大将は島津家久・島津征久(島津以久)、二番陣の大将は島津忠平(島津義弘)が務めた。そして本陣の大将は島津義虎(薩州家)・島津歳久に任された。

ない、島津歳久は天文8年に薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)に所領替え。これは肥後方面の攻略を意識したものであったかも。


天正9年8月18日に島津義久は薩摩国小河内(こがわうち、鹿児島県伊佐市大口小川内)まで出陣。ここから戦を差配し、島津忠平(島津義弘)・島津歳久・島津家久を主力として、昼夜を断たずに水俣城を攻撃させた。さらに8月20日に島津義久は水俣まで進軍し、本陣に入った。

 

山城の曲輪跡

水俣城跡

 

水俣城は相良氏重臣の犬童頼安(いんどうよりやす)・犬童頼兄(よりもり)が守る。寡兵でよく守るが、もはや持ちこたえることはできなかった。

相良義陽は佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)にあった。水俣の陥落が決定的となるとし、島津氏に降伏を申し出た。水俣・津奈木・佐敷など葦北郡の割譲を条件に和睦し、島島津氏の傘下に入った。

 

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響野原の戦い

肥後国の有力者に阿蘇氏がある。阿蘇神社(あそじんじゃ、熊本県阿蘇市一の宮町)の大宮司家で、古代から続く一族である。この頃は、阿蘇郡・益城郡(熊本県阿蘇市・阿蘇郡・上益城郡・下益城郡・宇城市のあたり)を領していた。

阿蘇惟将は大友氏の傘下にあり、相良義陽とも連携を取りながら勢力を保っていた。大友氏が勢いを失ったあと、天正9年(1581年)に龍造寺氏の傘下に入る。相良氏とも連携をとっていたが、相良氏は島津氏に降伏。島津氏の阿蘇攻めが始まる。

天正9年(1581年)12月2日、島津義久は相良義陽に阿蘇氏攻めを命じる。相良軍は肥後国の甲佐(こうさ、熊本県上益城郡甲佐町)・堅志田(かたしだ、下益城郡美里町)・御船(みふね、上益城郡御船町)に向けて出陣した。

御船城主は甲斐親直(かいちかなお、甲斐宗運、そううん)といった。阿蘇氏の重臣で、戦上手として知られた人物であった。

相良義陽は甲佐城と堅志田城を落とし、響野原(ひびきのはら、響ヶ原、熊本県宇城市豊野町)に本陣を置いた。その日の夜、甲斐親直(甲斐宗運)が急襲する。相良義陽が討たれ、相良軍は総崩れとなった。

相良義陽の死後は、その嫡男が家督を継いだ。元服して相良忠房(ただふさ)と名乗った。相良氏には本拠地である人吉のみが安堵され、八代(やつしろ、熊本県八代市)は島津氏の直轄地とされる。その後、八代は島津氏の肥後攻略の拠点となる。

甲斐親直(甲斐宗運)は島津との和睦を画策する。一方で、龍造寺との手切れをするわけでもなかった。天正10年(1582年)に島津氏との和睦を承諾するも、要求された人質を差し出さず。甲斐親直(甲斐宗運)は態度をはっきりさせない。

 

 

島原合戦(沖田畷の戦い)

天正10年(1582年)、筑後国の田尻鑑種(たじりあきたね)が島津氏に支援を求める。田尻鑑種は龍造寺氏に従属していたが離反し、攻め込まれていた。島津氏は救うことができず、田尻氏は降伏する。

また、肥前国島原日野江(ひのえ、長崎県南島原市)の有馬鎮貴(ありましげたか、有馬晴信、はるのぶ)が龍造寺氏から離反。島津氏に従属してきた。有馬鎮貴(有馬晴信)の援軍要請に応じて、島津氏は天正11年(1583年)6月に島原の深江城(ふかえじょう、長崎県島原市深江町)攻めに協力するが、攻めきれずに撤退する。


天正11年9月、筑後国の秋月種実(あきつきたねざね)が仲介役を買ってでて、島津氏と龍造寺氏に和睦を提案する。島津氏は島原への再出兵をいったん白紙とするが、話はまとまらなかった。

同じ頃、島津氏は阿蘇氏との和睦交渉をすすめていたが、こちらもうまくいかない。甲斐親直(甲斐宗運)は島津氏への抗戦の構えを見せる。

 

天正12年(1584年)、島津氏は島原への再出兵を決める。2月2日に島津義久は出陣命令を領内に出した。

この出征は浜の城(はまのじょう、長崎県島原市新町)攻めが目的だった。城主の島原純豊(しまばらすみとよ)は龍造寺氏についていた。当初、島津氏は大きな戦いになるとは考えていなかったようだ。肥後国も緊迫した状況にあり、島原に割ける兵力も少なかった。

島津家久を大将とし、佐敷より4000ほどの兵が渡海する。3月15日には有馬勢とともに浜の城を囲んだ。また、3月16日には島津義久が佐敷まで出陣し、本陣を置く。島津忠平(島津義弘)・島津歳久も佐敷に着陣した。

ここで、龍造寺隆信は大軍勢で出陣する。その兵力は2万5000とも5万7000とも6万とも伝わっている。島津方では、この動きを想定していなかった。

龍造寺方の進軍は迅速であった。そして、島津方はこの動きに気付かない。天正12年3月24日(1584年5月4日)未明、龍造寺の大軍勢が襲来する。迎え撃つ有馬・島津連合軍の兵力は6300ほどだったという。


3月25日に佐敷には、島津家久より援軍要請の書状が届いている。前日に大慌てで出したものであろう。島津義久は援軍を出すことを決めるが、その日のうちに佐敷へ次の知らせが入る。まさかの「大勝利」の報告であった。


龍造寺方は大軍で押し寄せた。決戦の地は沖田畷(おきたなわて)であった。島津家久は森岳城(もりたけじょう、島原城、長崎県島原市城内)に布陣して応戦した。

ルイス・フロイスの『日本史』によると、島津家久は敵本陣めがけての突撃を敢行したという。一か八かの賭けであったのだろう。乱戦のなかで、なんと龍造寺隆信を討ち取る。大将の死を知った龍造寺軍は敗走し、追撃を受けて多くの戦死者を出した。

3月26日には、佐敷に龍造寺隆信の首が届けられた。

 

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龍造寺が降伏

龍造寺氏が島原で敗れると、その傘下にあった者たちも島津氏に帰順する。隈部親泰(くまべちかやす)・小代親泰(しょうだいちかやす)らが傘下に入る。

天正12年(1584年)9月に島津忠平(島津義弘)は高瀬(たかせ、熊本県玉名市)に出兵。ここは龍造寺氏が肥後の拠点としているところだった。龍造寺政家(まさいえ、隆信の嫡男)は降伏を申し出る。9月25日に島津側はこれを受け入れる。龍造寺氏は島津に従属する。

一方で、大友が動き出す。筑後へ戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪、たちばなどうせつ)や高橋鎮種(たかはししげたね、高橋紹運、じょううん)らを出兵させた。龍造寺氏や秋月氏の領内をうかがう。島津忠平(島津義弘)は撤兵をもとめるが、大友方は応じず。

これをきっかけに、島津と大友との対立が再び表面化する。

 

 

島津忠平が「名代」に

天正13年(1585年)5月、島津忠平(島津義弘)は「名代」に指名される。これは「当主の代行」であり、実質的な後継者でもあった。

この頃、島津義久は体調を崩している。また、支配領域が広がったこともあり、分担して統治・攻略を担うこととした。

名代の島津忠平(島津義弘)は八代城(やつしろじょう、古麓城、ふるふもとじょう、熊本県八代市古麓町)を拠点に九州中北部の攻略を任された。そして、太守の島津義久は鹿児島にあって三州(薩摩・大隅・日向)を見る、

二人は「両殿(りょうとの)」と呼ばれ、島津家は両殿体制で運営されていくことになる。

 

 

 

 

阿蘇合戦

阿蘇氏は、重臣の甲斐親直(甲斐宗運)が中心となり、島津氏への対抗の構えを見せていた。また、再び大友氏と結んでいる。

じつは、阿蘇家では当主の死が相次いでいる。天正11年(1583年)11月にに阿蘇惟将が没する。弟の阿蘇惟種(これたね)が家督を継ぐも、こちらも天正12年(1584年)8月に亡くなる。そして、嫡男の阿蘇惟光(これみつ)は2歳で当主に立てられている。

それでも甲斐親直(甲斐宗運)が踏ん張り、阿蘇氏は命脈を保っていた。しかし、甲斐親直(甲斐宗運)はすでに高齢であった。天正13年(1585年)7月に亡くなってしまう。そのあとは甲斐親英(かいちかひで、親直の子)が阿蘇家の舵取りをすることになった。

天正13年(1585年)8月10日、甲斐親英は島津方の花之山城(はなのやまじょう、宇城市豊野町)を攻める。これをきっかけに島津と阿蘇の全面戦争に突入した。

閏8月10日、島津忠平(島津義弘)は八代より撃って出る。阿蘇方の城は次々と陥落した。閏8月15日に甲斐氏の居城である御船城も開城させた。閏8月19日に阿蘇惟光も降伏させる。

肥後国の平定がなった。

 

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島津と大友の対決、豊臣秀吉の介入

島津家中では大友攻めを急ごうという声が大きくなっていた。

その頃、近畿では豊臣秀吉が覇権を確立していた。天正13年(1585年)には朝廷より「豊臣」姓を賜り、関白にも任官している。

大友氏は豊臣秀吉に支援を求める。天正13年(1585年)10月13日に豊臣秀吉は惣無事令を出し、停戦を命じた。大友は受諾するも、島津は黙殺する。

天正14年には大友義鎮(大友宗麟)が大坂城(大阪市中央区)へ。豊臣秀吉に謁見し、出征を懇願した。

そんな中にあって、島津家中では豊後侵攻が決定した。一方、大坂へ遣わされていた島津家の使者は、天正14年5月に豊臣秀吉が提案する「国分案」を持ち帰る。「受諾しなければ、7月に豊臣秀吉が大軍を率いて九州入りする」といったことも伝えられた。

「国分案」は薩摩・大隅・日向と肥後半国を島津氏領とする、という内容だった。島津家はこれを受け入れず、豊後出陣の予定を変えなかった。

 

 

筑前の戦い

島津義久は、豊臣秀吉の派兵が決定的となったことを知る。強引に豊後出兵の予定を変えて、筑前出兵に方針を変える。筑前国では秋月種実が島津氏への救援を要請していた。また、寝返った肥前国の筑紫広門の討伐も目的としていた。

天正14(1586年)年6月、島津義久は肥後国八代まで出陣し、島津忠長・伊集院忠棟を大将として前線に軍勢を送り出す。兵力は2万余と伝わる。

7月6日、島津方は肥前国の勝尾城(かつのおじょう、佐賀県鳥栖市牛原町)を攻める。筑紫広門の居城である。7月11日に城は落ち、筑紫広門は捕らえられた。

7月14日、島津方は筑前国の岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市浦城)を包囲。秋月氏・城井氏・長野氏・龍造寺氏などの軍勢も加わる。

城主は高橋鎮種(たかはししげたね、高橋紹運、じょううん)。岩屋城には700余名の兵があり、籠城戦を展開する。よく守って半月ほど持ちこたえた。7月27日に島津方は総攻撃をかける。城方の兵は全員が戦死。抵抗は激しく、島津方も多くの死傷者を出した。

また、岩屋城の東にある宝満山城(ほうまんやまじょう、福岡県筑紫野市大石)も、8月6日に開城。こちらは高橋統増(むねます、立花直次、たちばななおつぐ、高橋鎮種の次男)が守っていた。

島津方はさらに進軍し、立花山城(たちばなやまじょう、福岡県糟屋郡新宮町)を囲む。城を守るのは立花統虎(たちばなむねとら、立花宗成、むねしげ)。こちらは高橋鎮種(高橋紹運)の長男。戸次鑑連(べっきあきつら、戸次道雪、立花道雪、どうせつ)の養子となり、立花氏の名跡をついでいた。

島津方は立花山城を落とせず。8月24日に撤退する。その後、大友方は奪われた城を奪還する。

島津氏の筑前攻略は失敗した。

 

 

豊薩合戦

島津家では豊後侵攻へ、再び方針を変える。

天正14(1586年)10月、豊後に向けて出陣。島津義珍(よしまさ、忠平から改名、島津義弘)が率いる3万余の軍勢は肥後国から攻め入る。また、島津家久が率いる1万余が日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)から進軍する。10月14日には島津義久も鹿児島を出陣。日向国の塩見城(しおみじょう、宮崎県日向市塩見)に本陣を置いた。

島津義珍(島津義弘)の軍勢は豊後国南郡(大野郡と直入郡、現在の大分県竹田市・豊後大野市)へ入る。寝返らせた入田義実(にゅうだよしざね、入田宗和)や志賀親度(しがちかのり、志賀道易、どうえき)らの協力もあり、諸城を落としていった。

しかし、志賀親善(志賀親次、ちかよし、志賀親度の弟・養子)は一族が裏切る中で、岡城(おかじょう、大分県竹田市竹田)にこもって抵抗を続けた。島津方は岡城を落とすことができず、この一帯の攻略がなかなか進まなかった。

一方、日向から攻める島津家久は破竹の勢いで制圧していく。10月末には大友義鎮(大友宗麟)のいる丹生島城(にうじまじょう、臼杵城、大分県臼杵市臼杵丹生島)に迫った。そして11月15日、島津家久は鶴賀城(つるがじょう、大分市上戸次利光)を囲んだ。

 

大友氏の本拠地の府内(ふない、大分市荷揚町)には豊臣軍の先遣隊が合流していた。仙谷秀久(せんごくひでひさ)・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・十河存保(そごうまさやす)ら四国の領主たちである。軍監の仙谷秀久は鶴賀城の救援を決めた。

天正14年12月12日(1587年1月)、大友・豊臣連合軍は鶴賀城の救援のために渡河する。島津家久の部隊は伏兵を配して待ち構えた。少数の兵で編成された囮部隊が敵を引き付ける。そして、伏兵が取り囲む。大友・豊臣連合軍は混乱して敗走。川で溺れる者も多かったという。四国勢の十河存保と長宗我部信親(のぶちか、元親の嫡男)も戦死する。

島津方が大勝。鶴賀城も開城した。この合戦は「戸次川の戦い」と呼ばれている。

島津家久はそのまま府内へ進軍。翌日に制圧する。

だが、島津の勢いもここまでであった。豊後国の半分を制圧するも、その後は攻めあぐねた。

九州へは、豊臣の本軍が迫る。

 

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豊臣軍襲来

天正15年(1587年)3月、豊臣秀長が率いる大軍勢が九州入り。兵力は10万以上とも。さらに、豊臣秀吉も大坂から出陣して九州へ。こちらも10万以上。

府内にあった島津義珍(島津義弘)と島津家久は撤退。3月20日には日向の都於郡城へ入った。島津義久もここまで退いている。

3月25日、豊臣秀吉の本軍が着陣。こちらは九州の西側を進み、肥後から薩摩をうかがう。龍造寺氏をはじめ、島津氏に従属していた者たちも次々と寝返る。

 

根白坂の戦い

豊臣秀長の軍勢は日向国を南下。4月6日に新納院高城を包囲した。城主の山田有信は大軍に囲まれながらも、なんとか死守する。

4月17日、島津義珍(島津義弘)らが率いる2万余の軍勢が根白坂(ねじろさか、木城町椎木)び敵陣に夜襲をかける。豊臣方の大軍の反撃にあう。

根城坂の戦いで島津方は大敗する。4月22日、伊集院忠棟が使者にたち、豊臣秀長に降伏と島津義久の赦免を願い出た。

 

バス停は「陣の内」

根白坂、「陣の内」という地名も残る

 

 

島津義久が降る

豊臣秀吉の本軍は薩摩に入る。4月25日には川内の泰平寺(たいへいじ、鹿児島県薩摩川内市大小路町)に陣を置いた。島津義久は鹿児島に戻り、剃髪して豊臣秀吉のもとへ向かう。5月8日に泰平寺で拝謁し、降伏を認められた。薩摩国を安堵される。

 

公園の銅像

泰平寺公園、島津義久と豊臣秀吉の謁見を再現した像がある

 

島津義珍(島津義弘)は日向国の飯野城に籠城するが、説得を受け入れて5月19日に豊臣秀長に降伏を申し入れた。5月22日には、薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)に陣を置いていた豊臣秀吉のもとにも出頭。降伏を許される。


島津歳久は祁答院に戻る。豊臣秀吉の軍は領内を通過し、鶴田にも陣を置いた。しかし、島津歳久は病気を理由に出頭しなかった。


島津家久は佐土原城を明け渡し、独自に和睦交渉を行った。その結果、佐土原城を返還され、都於郡城も新たに与えられた。朱印状を得て、豊臣家直属の大名という扱いになる。しかし、天正15年(1587年)6月5日、島津家久は急死する。毒殺とも伝わるが、真相は謎。

 

 

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当初は島津義久に薩摩国が安堵されるのみであったが、その後はなんとか大隅国と日向国の一部の領有も認められる。

島津家は豊臣傘下の大名として生き残る。

 

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『現代語訳 上井覚兼日記 天正十年(一五八二)十一月~天正十一年(一五八三)十一月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版/2020年

『現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2021年

『現代語訳 上井覚兼日記3 天正十三年(一五八五)正月~天正十三年(一五八五)十二月』
編/新名一仁 発行/ヒムカ出版/2023年

『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『完訳フロイス日本史10大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗―大村純忠・有馬晴信篇2』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社/2000年

『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論社 2000年

『大分県史 中世篇3』
編/大分県総務部総務課 発行/大分県 1987年

『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年

ほか

 

※国土地理院の白地図を利用