ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

大友宗麟がキリスト教にのめり込む、そして高城川の戦い(耳川の戦い)で大敗、ルイス・フロイスの『日本史』より

天正6年(1578年)、日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町)で大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)と島津義久(しまづよしひさ)が激突した。結果は、島津勢が大勝する。大友勢は敗走し、追撃を受けて耳川(みみかわ、宮崎県日向市を流れる)付近で多数の戦死者を出した。

戦国時代の九州の趨勢を決めた大合戦である。「高城川の戦い」「高城川合戦」または「耳川の戦い」と呼ばれている。なお、高城川というのは現在の小丸川(おまるがわ)のこと。かつては「高城」の近くを流れることにちなんで「高城川」と呼ばれていた。

 

rekishikomugae.net

 

『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』(著/ルイス・フロイス、訳/松田毅一・川崎桃太)では、高城川の戦い(耳川の戦い)における大友氏側の状況を詳しく知ることができる。

 

ルイス・フロイスはイエズス会の宣教師である。キリスト教の布教のためにポルトガルからやってきた。この人物が書いた『日本史(Historia de Iapam)』は戦国時代を知るうえで貴重な史料となっている。

ルイス・フロイスは天正6年当時、大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)で活動していた。つまり、高城川の戦い(耳川の戦い)をめぐる出来事は身のまわりで起きたことなのだ。

自身が実際に目撃したこと、当事者から聞いたことをもとに、大友氏側の状況が綴られる。生の情報がもとになっているだけあって、戦闘の場面での臨場感がすごい! そして、ルイス・フロイスの文章はくどいくらいに説明が多かったりもする。

なお、和暦のあとの日付は旧暦で記す。

 

天正6年の九州

大友宗麟(大友義鎮)は九州北部をほぼ制圧。幕府から九州探題に任じられ、豊後国・豊前国・肥前国・肥後国・筑前国・筑後国の守護も任された。その範囲は現在の大分県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県にあたる。天正6年時点では九州北部・中部の国人衆の多くを従属させている。九州の最大勢力であった。

 

肥前国(現在の佐賀県・長崎県)では龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が勢力を広げていた。龍造寺氏はもともと少弐(しょうに)氏に仕えていた家柄で、下剋上により戦国大名となった。大友宗麟と抗争を繰り返すも、この時点では和睦を結んでいる。

 

島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護である。だが、領内の統治がままならない状況が14世紀からずっと続いていた。島津氏は一族内の抗争が絶えず、一門衆・国人衆が勝手に争っていた。日向では伊東(いとう)氏が力をつけ、島津氏の支配を脱して大きな勢力となる。大隅国でも肝付(きもつき)氏が強勢で、一時は島津氏を圧倒した。

島津氏本宗家は弱体化し、これに取って代わって分家出身の島津貴久(しまづたかひさ)が実権を掌握。本宗家家督と守護職を手にした。島津貴久は一族の抗争を勝ち抜き、反抗勢力を制していった。薩摩国を平定し、さらに大隅国や日向国にも勢力を伸ばす。そのあとを引き継いだ嫡男の島津義久は、天正2年(1574年)に大隅の肝付兼亮(きもつきかねあき、かねすけ)を従属させ、天正5年(1577年)には日向国を伊東義祐(いとうよしすけ)から奪った。

島津氏は薩摩・大隅・日向の三州を平定。こちらも勢いがある。


大友氏と島津氏は友好関係にあった。九州の北と南に支配領域が離れていたこともあって、関係が崩れることはなかった。だが、大友氏領のすぐ近くまで島津氏が勢力を広げてきたのである。

 

 

フロイスによる大友宗麟の人物評

イエズス会は1551年(天文20年)から豊後で活動している。それ以来、大友宗麟は彼らを手厚くし支援している。

彼は司祭たちの求めに応じ、旅行に必要なすべての糧食を快く与え、その領内で我らの便宜をはかるのみならず、まだ異教徒の身でありながら、司祭や修道士たちがデウスの教えを弘めに行きたいと思っていた都、その他の国の国主、ならびに異教徒の領主や友人たちに書状を送って、キリシタンの布教事業に好意を示されたいと依頼し、さらにその願いを有効ならしめようと、書状とともに若干の贈物を添えて送り出したほどであった。 (『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)

宣教師たちは、すごくよくしてもらっていた。また、この文面からは大友宗麟の根回しの緻密さもうかがえ、外交手腕に長けていたことが容易に想像できる。敵対する者との駆け引き、国人衆の取り込みにその手腕を発揮したことだろう。

 

ルイス・フロイスはつぎようにも評している。

物事に対し非常に慎重で、優れた才能を有し、目先の利く人物としてつねに日本では有名であった。彼は当初は豊後のみ領有していたが、その手腕によって、さらに五ヶ国を獲得し、円満な人柄のゆえに、ほとんど争うこともなく平和に領地を統治した。 (『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)

ベタ褒めである。

 

また、大友宗麟は宣教師たちの話にかなり興味を示していたという。細かいところまで質問をしたりもしている。だが、改宗しようとはしなかった。大友宗麟は仏教にも熱心だった。禅宗に帰依し、永禄5年(1562年)に出家して「休庵宗麟(きゅうあんそうりん)」と号している。

イエズス会を支援したのは、当初はポルトガルの貿易に利をもとめたからだろう。彼らと接した領主の多くがそうであり、大友宗麟も例外ではなかったと思われる。ただ、大友宗麟は好奇心旺盛で、キリスト教をよく知ろうとした。それは信仰心からというよりは、知識として吸収したいという感じだったのだろう。

だが、宣教師たちと長く接するうちに感化されていくのである。

 

 

悪女イザベルとその兄

大友宗麟の正室の奈多夫人(なだふじん)は、宣教師たちから「イザベル」と呼ばれていたという。

イザベルというのは『旧約聖書』に登場するイスラエル王アハブの妃である。異教神を崇拝し、夫に悪影響を与えた悪女とされている。大友宗麟の妻もそういう女性である、と宣教師たちは毛嫌いしていた。

イザベル(奈多夫人)は嫡男の大友義統(おおともよしむね)をはじめとする三男五女の母であった。八幡奈多宮(はちまんなだぐう、大分県杵築市奈多)の大宮司の娘で、神仏への崇敬は厚い。そして、キリスト教を激しく嫌っていた。

また、イザベル(奈多夫人)の兄は田原親賢(たわらちあかかた、田原紹忍、じょうにん)という。田原親賢(田原紹忍)は大友宗麟の妻の兄であることから、大友家重臣の筆頭格として権勢をふるった。この人物もキリスト教に対しては否定的だった。

こんな事件もあった。田原親賢は京の公家から養子をとって後継者としていた。名を田原親虎(ちかとら)という。天正5年(1577年)、田原親虎はキリシタンとなる。洗礼名はシモン。そのことを怒った田原親賢は親虎(シモン)を廃嫡した。

 

 

大友宗麟、キリシタンになる

大友宗麟はキリスト教の庇護者であり続けた。ちなみに、シモン(田原親虎)の事件についても彼を守る行動をとっている。また、宗麟の次男の大友親家(ちかいえ)も天正3年(1575年)に洗礼を受け、ドン・セバスチャンと名乗っていた。

このような事態が続く中で、奈多夫人のキリスト教への嫌悪はさらに激しさを増した。意見がまったくあわず、夫婦仲もすっかり冷え込んだ。

大友宗麟は一方的に離縁する。そして、奈多夫人の侍女頭を務めていた女性を、新しい妻として迎えた。ちなみにこの新しい妻は配下の吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)の側室であった。その娘はドン・セバスチャン(大友親家)に嫁いでいた。配下の妻であり、息子の嫁の母親を側室としたのだった。大友宗麟は新しい妻とその娘(親家の妻)に洗礼を受けさせた。妻にはジュリア、娘にはコインタの洗礼名が与えられた。

 

天正6年(1578年)7月、大友宗麟は洗礼を受ける。「ドン・フランシスコ」と名乗るようになる。初めて出会った宣教師がフランシスコ・ザビエルであったことから、この洗礼名を希望したことによるという。

この頃、大友宗麟はすでに隠居していて、当主の座は嫡男の大友義統に譲っていた。この当主に対して、母の奈多夫人はキリシタンにならぬよう釘を刺した。しかし、大友義統は母の言うことを聞かず。息子のほうもキリスト教に傾倒していく。

 

 

キリシタンの国の建設を目指す

大友宗麟が洗礼を受けるちょっと前にことである。天正5年12月(1578年1月)に伊東義祐(いとうよしすけ)が大友氏のもとに逃げ込んできた。島津氏の侵攻を受けて、日向を棄てて奔ったのだ。伊東義祐は日向国を大友氏に委ね、自分と孫が暮らせるだけの土地を求めた。大友宗麟・大友義統はこの願いを受け入れた。日向の奪還に動く。

 

rekishikomugae.net

 

 

この頃、日向国北部の縣(あがた、宮崎県延岡市)の領主である土持親成(つちもちちかしげ)は大友氏から離反。島津氏側についた。

天正6年(1578年)3月、大友義統は4万もの兵を動員して縣に侵攻する(兵数はルイス・フロイス『日本史』による)。土持親成は討たれ、耳川から北の17の城は大友氏によって制圧された。

 

大友宗麟は、縣の土持(つちもち、無鹿、むしか、延岡市無鹿町)に隠居することを決める。そしてこう言ったのだという。

「予は日向に赴くことに決した。ついては同居するため豊後から三百名だけ家臣を伴うが、彼らはすべてキリシタンでなくてはならない。そして、そこに築かれる都市は、従来の日本のものとは異なった新しい法律と制度によって統治されねばならず、日向の土地の者が予と予の家臣たちと馴染むためには、彼らは皆キリシタンになり、兄弟的な愛と一致のうちに生きねばならない。(後略)」と。 (『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)

 

大友宗麟は洗礼を受けたのち、8月に土持(無鹿)に移った。妻のジュリアをともない、かなりの軍勢を率い、大砲も携えて出発した。乗船には旗が掲げられた。それは、金の縁飾りのある白い緞子(どんす)に赤い十字架が描かれたものであったという。

土持(無鹿)では寺院を破壊し、キリシタンのための聖堂を立てるなど、都市づくりが進められた。

 

 

大友義統も改宗を切望する

ドン・フランシスコ(大友宗麟)と同調するように、息子の大友義統もキリスト教にはまっていく。豊後国内で寺院を破壊し、宣教師たちの話を聞き、領内のキリシタン化を進めたのである。まずは妻の洗礼を求めた。そして、自身もはやく洗礼を受けたいとい欲した。

家臣の中には、なんとか改宗をとどまらせようと説得する者も多かった。その中のひとりに角隈石宗(つのくませきそう)がいた。その人となりをルイス・フロイスは詳しく記している。

悪魔は修道士の説教に対し、故意に、かつよりいっそう有効な道理をもって楯つくもう一人の敵を担ぎ出した。それは石宗と称する老占い師で、かつて国主と嫡子が神や仏の儀式や迷信に耽っていた頃、日本の宗派に通暁した毒舌家として、また天候や時間を見るのを役目とする軍勢の軍配でもあり、さらにあらゆることを占うことから両名(国主と嫡子)や豊後のすべての武将たちから尊崇されていた人物だった。 (『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)

あちこちに悪意が込められているが、優秀な人物であることがうかがえる。ただ、そんな角隈石宗を修道士たちが論破したことも、そのあとに得意げに綴られている。

 

 

落ちない城、島津の強襲

日向攻めも順調に進展していた。天文6年(1578年)10月、大友勢は耳川を越えて侵攻。高城川近くの新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)を攻めた。守将は山田有信(やまだありのぶ)、そして援軍として島津家久(いえひさ、義久の弟、四兄弟の末弟)も入っていた。大友勢は力任せに攻めるが激しく抵抗される。城は落ちない。そこで包囲して兵糧攻めを仕掛ける。

島津義久は高城の救援にすぐ動く。5万もの兵を招集して、軍勢を日向に送り込んだ(兵数はルイス・フロイス『日本史』による)。両軍がぶつかる。

 

決戦の様子は、つぎのように記されている。

薩摩勢は、豊後勢を誘き出せるかどうかを見ようとして、若干の囮の兵をもって出動し始めた。二回にわたってこうした行動が繰り返されたところ、豊後勢の無秩序はこの上ない有様であったから、彼らはもはや我慢しきれなくなり、味方の優位を信じきって出陣することを欲した。彼らはそれが敵の策略であることに気づくことなく、計略的に逃げるふりをしている敵を追跡し、ついには自分たちに対して仕掛けられていた罠に陥るに至った。すなわちすでに豊後勢がその陣地から出てしまうと、薩摩勢の全主力は、恐るべき勢いと果敢な気力とをもって彼らの上に襲いかかった。 (『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)

島津氏が得意とする「釣り野伏せ(つりのぶせ)」が決まったことを、鮮明に伝えている。

 

大友軍はまったく統制が取れていなかった。総大将は田原親賢(田原紹忍)だった。ルイス・フロイスはその無能ぶりを書き立てる。宣教師たちがキリシタンの敵と嫌う人物なので、ことさら悪く書かれている感じもする。田原親賢(田原紹忍)は軍勢をまとめることもなく、前線の味方を置いて我先にと逃げ出したのだという。

彼は巨体の持ち主で、すでに四十歳を越えているのに、あたかも足に羽が生えたように驚くほどの軽快さと敏捷さをもって、空を切って逃走し、その年若い家来たちがやっと付いて行けるほどだった。 (『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻 ー大友宗麟篇2』より)

 

大友軍は敗走。そして壊滅。水量が増していた耳川を渡ろうとして溺れ死んだ者も多かったという。

ドン・フランシスコ(大友宗麟)は土持(無鹿)から逃げなければならなかった。キリスト教関連の宝物をはじめ持ち込んだものを置き去りにして、大急ぎで豊後に向かった。

 

完訳フロイス日本史〈7〉宗麟の改宗と島津侵攻―大友宗麟篇(2) (中公文庫)

 

 

九州の情勢が一変

大敗した大友氏は勢いを失った。大友氏に押さえつけられていた者たちが蜂起する。龍造寺隆信は大友領内に侵攻し、従属していた国人衆もつぎつぎと叛旗をひるがえした。

また、肥後国の国人衆は大友氏を頼れなくなり、こちら方面にも島津氏が勢力を伸ばしてくることになる。

 

九州では島津氏と龍造寺氏が強勢をとなる。そして両軍はぶつかることになるのだ。天正12年(1584年)の「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」についても、ルイス・フロイスの『日本史』で詳しく触れられている。

rekishikomugae.net

 

九州の二大合戦はともにキリスト教が深く関わっていたりする。一方はキリスト教にのめり込んだ大友氏が大敗、もう一方はキリスト教を大弾圧した龍造寺氏が大敗した。

どちらの戦いでも勝者となったのは島津氏だった。ちなみに、島津氏はイエズス会を最初に迎え入れた戦国大名だったりもする。

rekishikomugae.net

 

 

<参考資料>
『完訳フロイス日本史6 ザビエル来日と初期の布教活動 -大友宗麟篇1』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

ほか