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『戦国武将列伝11 九州編』(編/新名一仁)、九州の戦国時代の実像が見えてくる

九州の戦国時代というのは、一般的にはあまり知られていないと思う。九州に限らず、地域史のすべてに言えることでもあるけれど。

 

こんな本がある。九州の戦国時代を知るには、イイ本だと思う。

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁
発行/戎光祥出版/2023年

 

 

九州の戦国時代の人物60人の「列伝」が読める。執筆者の8人は、九州各地の研究者だ。編者の新名一仁(にいなかずひと)氏は、中世の島津氏の研究者。本書では薩摩国・大隅国(鹿児島県)の13人分の執筆も担当している。

 

 

九州の戦国武将60人

紹介されている人物はつぎのとおり。

 

大友義鑑(おおともよしあき)

大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮/よししげ)
大友義統(おおともよしむね)

志賀道輝(しがどうき、志賀親度/ちかのり)
志賀道易(しがどうえき、志賀親孝/ちかたか)
志賀親喜(しがちかよし、志賀親次)

田原紹忍(たわらじょうにん、田原親賢/ちかかた)

田原宗亀(たわらそうき、田原親宏/ちかひろ)
田原親貫(たわらちかつら)

戸次道雪(べっきどうせつ、戸次鑑連/あきつら)
高橋紹運(たかはしじょううん、高橋鎮種/しげたね)
立花統虎(たちばなむねとら、立花宗茂/むねしげ)

吉弘鑑理(よしひろあきただ)
吉弘宗仞(よしひろそうじん、吉弘鎮信/しげのぶ)
吉弘統幸(よしひろむねゆき)

秋月種実(あきつきたねざね)

高橋鑑種(たかはしあきたね)
高橋元種(たかはしもとたね)

原田了栄(はらだりょうえい、原田隆種/たかたね)

宗像氏貞(むなかたうじさだ)

蒲池鑑盛(かまちあきもり)
蒲池鎮並(かまちしげなみ)

田尻鑑種(たじりあきたね)

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)
龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)

鍋島直茂(なべしまなおしげ)

筑紫広門(ちくしひろかど)

大村純忠(おおむらすみただ)

有馬晴純(ありまはるずみ)
有馬義貞(ありまよしさだ)
有馬義純(ありまよしずみ)

有馬晴信(ありまはるのぶ)

菊池義武(きくちよしたけ)

隈部親永(くまべちかなが)
隈部親安(くまべちかやす、隈部親泰)

城親賢(じょうちかかた)
城親基(じょうちかもと、城一要/いちよう)

阿蘇惟豊(あそこれとよ)
阿蘇惟将(あそこれまさ)

甲斐宗運(かいそううん、甲斐親直/ちかなお)

名和顕孝(なわあきたか)

相良晴広(さがらはるひろ)
相良義陽(さがらよしひ)

伊東義祐(いとうよしすけ)
伊東義益(いとうよします)

島津忠朝(しまづただとも)

北郷時久(ほんごうときひさ)

島津忠良(しまづただよし)
島津貴久(しまづたかひさ)

島津義久(しまづよしひさ)

島津義弘(しまづよしひろ)

島津家久(しまづいえひさ)

島津実久(しまづさねひさ)
島津義虎(しまづよしとら)

肝付兼続(きもつきかねつぐ)
肝付良兼(きもつきよしかね)
肝付兼亮(きもつきかねすけ、肝付兼輔)

種子島忠時(たねがしまただとき)
種子島恵時(たねがしましげとき)
種子島時堯(たねがしまときたか)

 

いずれの列伝も読みごたえがある。人物ごとの足跡、一族の出自やなりたち、それぞれに関わる歴史的背景が丁寧に説明されている。

最近では、一次史料に基づく研究もすすみつつある。そのあたりのことも反映され、最新の研究を踏まえた内容に。いわゆる通説と呼ばれているものとは、違った印象を受ける部分もあったりする。

 

 

急展開する九州戦線

本書の「列伝」を読んで、さらに情報を組み合わせると、九州の戦国時代の実像が見えてくる。ざっくりと整理すると、だいたいつぎのような感じである。なかなかに目まぐるしい。

 

戦国時代の九州というと、「大友・龍造寺・島津の三強」というイメージを持っている人が多いと思う。それは間違いではない。ただ、三強鼎立の時代は天正6年(1578年)の「高城川の戦い(耳川の戦い)」以降のことである。


鎌倉幕府から守護に任じられた大友氏・島津氏・少弐(しょうに)氏が、九州の代表的な守護大名であった。

このうち、少弐氏は没落する。一方で、大友氏は九州北部での地盤を固めていく。守護大名から、いわゆる「戦国大名」へと転身した。幕府から九州探題にも任じられる。島津氏については後述する。


龍造寺氏は、もともと少弐氏の家臣の家柄である。弱体化した少弐氏を滅ぼして、龍造寺隆信が肥前の実権を握っていく。下剋上である。そして、一代で大勢力を築き上げた。

龍造寺隆信は幼少時に出家していて、曽祖父に擁立されて水ヶ江龍造寺家(龍造寺氏の庶流)を再興し、さらには本家筋にあたる村中龍造寺家の家督を継いだ。……と、そんな話も伝わっている。

ただし、これは後世の編纂物に書かれていることで、史料では見い出せないのだという。龍造寺隆信の活動が確認できるのは天文19年(1550年)以降であり、前半生はよくわかっていないそうだ。

 

島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護であった。しかし、15世紀初頭からたびたび一族内での争いがあり、領内を統制できていなかった。そんな中で相州家(分家のひとつ)の島津忠良・島津貴久が一族の争いを制して覇権を握った。こちらも下剋上である。

その後、島津貴久は反抗勢力との戦いに生涯を費やした。肝付氏・相良氏・伊東氏とも長年にわたってしのぎを削る。あとを引き継いだ島津義久が天正5年(1577年)に三州(薩摩・大隅・日向)を制圧した。

 

島津氏が日向国北部まで勢力を広げてきたことで、大友氏と境界を接することになった。そして大友氏と島津氏は全面戦争に突入する。

この頃の九州は大友氏の「一強」だ。大友氏は豊後国・豊前国・筑前国・筑後国・肥前国・肥後国の守護であった。小領主を服属させ、この広範囲を支配下に置く。この時点では龍造寺氏も大友氏の傘下にあった。

天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)で、「九州の覇者」という感じだった大友氏が大敗する。

 

古戦場跡の風景

島津と大友がぶつかった高城川原(宮崎県木城町)、写真奥が新納院高城跡

 

大友氏の影響力が落ちたことで、九州北部では服属していた勢力の多くが離反して独立。その中で龍造寺隆信は急速に勢力を拡大した。

そして、大友氏・龍造寺氏・島津氏の「三強」の時代へ。

 

しかし、三強鼎立も長くは続かない。天正14年(1582年)に沖田畷の戦い(島原合戦)で島津・有馬連合軍が龍造寺氏を降す。ここで龍造寺隆信が戦死し、龍造寺家の勢いは一気にしぼむ。九州の情勢は島津氏の「一強」となる。

その後、島津氏が大友氏を攻めるが、そこに豊臣秀吉が介入。島津氏を降伏させた。

 

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いろいろな視点から歴史を見る

『戦国武将列伝11 九州編』は、いろいろな視点から歴史を見ることができる。そして情報を組み合わせることで、人物どうし、勢力どうしが、どういうふうに絡んでいたのかもわかる。

 

同じ出来事を伝えるにしても、発信者の立ち位置によって内容は大きく変わる。例えば「沖田畷の戦い」の場合だと、島津氏の視点と、龍造寺氏の視点とでは伝え方も違うのだ。

また、「高城川の戦い(耳川の戦い)」は九州全体に影響を及ぼした。勝利した島津氏、大敗した大友氏、揺れ動く小領主たち……それぞれの立場から同一の出来事について知ることができる。複合的な要素をもとに、歴史を理解していける。

三強以外の筑後国・肥前国・肥後国の領主たちの動きも九州の情勢にけっこう影響をもたらす。島津につくべきか、龍造寺につくべきか、と。城氏・隈部氏・阿蘇氏・有馬氏・秋月氏などの動向も『戦国武将列伝11 九州編』で知ることができる。

 

個人的には、とても重宝する一冊となりそうだ。たぶん、ブログで記事をつくる際にも読み返すことが多くなると思う。

戦国武将列伝11 九州編