ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

日秀神社(三光院跡)、ミカンが香る高台に日秀上人がいる

「朝日(あさひ)」という場所が、鹿児島県霧島市隼人町にある。鹿児島神宮(かごしまじんぐう)から西のほうに山をのぼっていったところだ、ここはミカンの産地。高台に果樹園が広がっている。

この地に日秀神社(にっしゅうじんじゃ)は鎮座する。御祭神は日秀上人(にっしゅうしょうにん)。

もともとは「金峯山神照寺三光院」という寺院だった。真言宗の高僧である日秀上人が開山したものである。明治時代初めに廃寺となり、神社にかわった。

 

こちらへ参詣した。

なお、日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

 

大隅正八幡宮を再建、そして入定

日秀は大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、現在の鹿児島神宮)を再建した人物である。永禄3年(1560年)に島津貴久に命じられてのことだった。大隅正八幡宮は戦乱の中で焼失していた。

神社および別当寺を造るための材木を求めて、日秀は屋久島に渡る。山中で良材を伐り出し、「隅州正八幡宮材木」と記して川へ投げ込むと、雷雨があって材木は海へと流れた。日秀上人が鹿児島に戻ると材木も流れてきた。さらに、大隅国浜之市(はまのいち、隼人港のあるところ)まで流れてきたという。人々は日秀上人の神威に驚いた。

……と、そんな話も伝わっている。

大隅正八幡宮を再建したのちに、日秀は近くの山に金峯山神照寺三光院を開山。ここに住むようになった。

天正3年12月8日(1576年1月)、日秀は「入定(にゅうじょう)」の行へ。入定とは、小さな石室にこもって読経しながら静かに仏になる、というものである。天正5年(1577年)9月24日に日秀は入寂した(没した)。

 

大隅正八幡宮(鹿児島神宮)についてはこちら。

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石仏や石塔が残る

鹿児島県道から細い道に入り、果樹園のある集落を抜けた先に神社がある。そこが日秀神社である。

果樹園と桜島

ミカン畑が広がる

 

「三光院墓碑群(日秀神社)」の看板のあるところが入口。駐車スペースはあるのもの狭い。ここに至るまでの道も細い。大きな車では厳しいので注意。

「三光院墓碑群」の看板あり

ここが入口、奥に鳥居が見える


奥へ行くと鳥居がある。こちらをくぐって参道へ。標柱には「日秀神社」と書いてるようだが、文字はよく見えない。

鳥居と参道

日秀神社へ


参道の両脇にもミカンの木がある。青い実をつけ、いい香りがしていた。

石段が続く

参道をのぼる

 

参道からは眺望も開ける。霧島市隼人の街並みと鹿児島湾が見える。

高台から鹿児島湾を見下ろす

参道を振り返る

 

石段や石垣などは寺院のものを使っているのだろう。そこに鳥居を建ててある。

朱の鳥居と石段とソテツ

二の鳥居

 

石灯籠は、萬治三年(万治3年、1660年)に「島津兵庫頭源忠朗」が奉納したものだ。島津忠朗(しまづただあき)は、藩主の島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)の三男。島津義弘(よしひろ、忠朗の祖父にあたる)の遺領の大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)を拝領し、加治木島津家をおこした人物である。

「島津兵庫頭源忠朗」の文字がある

石灯籠の刻字

 

もう一段高い場所に社殿がある。

石垣と社殿

石段をあがって拝殿へ

 

社殿横には阿弥陀堂も。阿弥陀堂の中に日秀上人が仏となった入定石室があるそうだ。また、ここに大きな層塔もある。層塔には寛永3年(1626年)の紀年銘が入っている。

境内の風景

阿弥陀堂の前に層塔が立つ

 

阿弥陀堂の横にはレリーフ状の石仏が並んでいた。これらは日秀上人の作だという。

建物横の石仏

石仏が並ぶ

 

古い石仏

日秀上人作とされる石仏群

 

石仏群

石仏いろいろ

 

石仏

作風は個性的

 

さらに奥へ行くと、石塔群があった。歴代住職の墓などがある。

古い寺の遺構

三光院の墓碑群

 

石塔群

大きな石も気になる

 

日秀上人は広く崇敬を集めていたという。神社になった現在も地域で大事にされている。なお、日秀上人の遺物も多く伝わられていて、これらは隼人歴史民俗資料館(霧島市隼人町内、鹿児島神宮の近く)に収蔵・展示されている。

 

 

日秀上人、補陀落渡海で南海へ

日秀上人の経歴は、かなりぶっ飛んだものである。もっと知られていても、いいような気もする。

その生涯は日秀神社に伝わる「日秀上人縁起」などに記される。また『三国名勝図』(19世紀に薩摩藩が編纂した地誌)にも「日秀上人伝記」として詳しく紹介されている。


文亀2年(1502年)頃に加賀国(現在の石川県)で生まれたとされる。加賀を領していた富樫氏の一族とも。また。上野国(群馬県)の出身とも伝わる。

19歳のときに殺人を犯して家を出奔。紀伊国の高野山(こうやさん、和歌山県伊都郡高野町)に入って僧になった。「日秀照海」と名乗る。

 

日秀は修行を重ね、そして補陀落渡海(ふだらくとかい)に身を投じることになる。

補陀落渡海とは捨身行である。櫓や櫂のない操作不能の小舟に乗り込んで海に出る。観音菩薩が住むという補陀落山を目指すのだという。これを行う者は、海上で入滅するのである。

日秀は命を落とさず。琉球(現在の沖縄県)に漂着した。補陀落山に至って観音菩薩に謁見し、日本へ帰還をしようとしたところ琉球に着いたのだとか。

琉球国王は海から高僧が来るとい夢を見ていたという。そこに日秀が流れてきたので、大いに歓待された。日秀は琉球で20以上の寺院を開山して、真言宗を広めた。琉球では妖怪退治の伝説も残る。

 

日秀は日本へ帰る。琉球国王が熱心に慰留したが、これを断って出航した。そして、薩摩国の坊津(ぼうのつ、鹿児島県南さつま市坊津)に上陸。坊津では一乗院(いちじょういん)の再建に奔走した。

その後は薩摩国鹿児島の上市(かみいち、鹿児島市小川町、現在の鹿児島駅のあたりか)に行屋観音堂を創建して修業をしていたという。島津忠良(しまづただよし)は日秀の高徳を聞く。島津貴久とともに帰依する。

その後、前述の大隅正八幡宮再建を任されることになった。

 

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入定は、島津氏の戦勝祈願のため?

日秀上人が入定を決心したいきさつについて、『三国名勝図会』の「日秀上人伝記」にはつぎのように記される。

豊後大友義鎮、日向伊藤義祐等、本藩に大患をなす。是に由て貫明公(島津義久)彼等を退治せん爲に、天正三年、上人に請て降伏の法を修せしむ。固辞すれども聽さず、既にして自ら誓て曰、國命を蒙り、法を修することに、我肱三たび折れ、四種の法代わる代わる行ふに、凡そ勢力の至る所、霊験利生昞然たらざることなし。然るに此度勤苦修練すとも、悉地成がたし、故に身命を捨て、大願を成さんと。 (『三国名勝図会』より、読みやすくするために句読点の打ち替えなどをしています)

島津義久(よしひさ)が戦勝の祈願を日秀上人に要請するが、日秀上人は固辞する。しかし何度も頼まれて、祈祷を行うことに。祈祷の効果は出ず、それならば入定して戦勝を祈願しようとなった。と、そんなことが書かれている。

実際にそうであったのか、真偽はわからないところであるが……。

 

天正4年(1576年)8月6日に、島津義久は鹿児島より日向へ向けて進軍する途中で立ち寄る。定室の扉を開けて、日秀上人に面会した。このときに島津義久は脇差から笄(こうがい)を抜いて喜捨したという。この笄は現存していて、隼人歴史民俗資料館で見ることができる。


なお、天正4年8月16日より島津氏は日向国高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)を攻めている。伊東氏領内への侵攻を本格的に開始したのである。

 

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

「旧三光院(隼人町)と日秀上人について」
著/藤波三千尋
※『鹿児島民俗(92)』に収録
編/「鹿児島民俗」編集委員会 発行/鹿児島民俗学会 1988年

ほか