ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

久満崎神社をお詣り、鎮座地には隼人の伝説が残る

久満崎神社(くまさきじんじゃ)は、鹿児島県霧島市国分山下町に鎮座する。ここでは、隼人(はやと)との関わりが感じられる。御祭神は大山祇命(オオヤマヅミノミコト)。そして隼人神を祀っているとも伝わる。

 

 

隼人七隈

古くはこのあたりを「ソ」の国といった。漢字では「襲」や「曾」と書かれる。和銅6年(713年)に大隅国が設置されてからは囎唹郡(そおのこおり)の内にある。7世紀前後に曾君(そのきみ)を名乗る隼人の一族があったことが『続日本紀』などで確認できる。

なお、『日本書紀』『古事記』では景行天皇の頃などの古い時代には「熊襲(くまそ、熊曾)」が登場する。熊襲と隼人は同一であるとも、別のものであるとも。諸説あり。この一帯の伝説でも「熊襲」と呼ばれていたりもする。記事では「隼人」で統一する。

隼人の拠点(おもに山城か)が7つあったという伝承が残る。これを隼人の「七隈」と呼んだという。七隈にあたるのは富隈(とみくま)・獅子隈(ししくま)・笑隈(えみくま、さきくま)・平隈(ひらくま)・隈崎(くまさき)・恋隈(こいくま)・星隈(ほしくま)。この中には地名として残っているところもある。

七隈のうちの「隈崎」というのが、久満崎神社の場所にあたるとされる。

ここは尾根の先端にあたる。この山塊は中世に隼人城(はやとじょう)があり、古代においては「曽於乃石城(そおのいわき)」という隼人の山城であったとも。

隈崎(久満崎)のあたりには、中世に上井城(うわいじょう)があった。曽於乃石城(隼人城)の支城のような感じか。上井城は諏訪氏の居城である。諏訪信仰と関わりのある一族がここに入ったのは、なんだか意味深な感じもする。

ちなみに、上井の諏訪氏はのちに上井氏を称するようになる。16世紀に島津義久の家老として活躍した上井覚兼(うわいかくけん、さとかね)もこの一族だ。

 

隼人についてはこちらの記事にて。

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富隈(霧島市隼人町住吉)には、島津義久の居城であった富隈城も。

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かつては山上に鎮座

久満崎神社の創建は詳らかならず。ただ、かなり古いらしい。『三国名勝図会』によると、永徳2年(1382年)に領地三十三町の寄附の古目録があるという。

かつては隈崎の山上に鎮座していたと伝わる。山上では不便だったことから、のちに麓に遷されたという。

 

もともとはこの一帯の惣社だったと伝わる。慶長9年(1604年)に島津義久(しまづよしひさ)が隼人城下に伊勢神社を勧請し、こちらを惣社と定めた。それ以降は、久満崎神社は上小川村の産土神になったという。なお、島津義久は隼人城下に国分城(こくぶじょう、舞鶴城ともいう、霧島市国分中央)を築いて居城を移している。亡くなる慶長16年(1611年)まで、ここで過ごした。

元禄8年(1695年)に久満崎神社は火災で焼失。このときに古記録も失われてしまったとのこと。

 

 

久満崎神社をお詣り

参道入口は二車線の道路沿いにある。山の下に鳥居がみつかる。鳥居横には駐車場もある。

山の麓に参道の入口

鳥居がある、背後の山が「隈崎」か

 

鳥居をくぐって参道をのぼる。ちょっと奥へ行くと、一気に雰囲気が変わる。

参道を歩く

参道はこんな感じ

神社の境内の石段

石段はけっこう古そう

 

石段をのぼると拝殿・本殿がある。建物もなかなか立派だ。

神社の境内の様子

石段の上に拝殿

 

拝殿の向かって右脇には、やや広い空間がある。端のほうには水神なども祀られる。写真手前の磐座のようなものも、なんだか気になる。

山中の境内

写真手前の岩はなんだろう?

 

山肌のほうにもう一つ鳥居があり、奥には小さな祠も。詳細はわからず。

山の神社

本殿脇にも祠

 

拝殿前には石の何か。詳細はわからず。

拝殿前の石

この石は何だろう?

 

石段をのぼった入口付近には門守神社(かどもりじんじゃ、御門神社、みかどじんじゃ)も。門番のような神様だ。本殿向かって右側のほうは元禄4年(1691年)の紀年銘が入っている。

参道脇の石祠

門守神社(御門神社)

 

 

 

大隅隼人の反乱

養老4年(720年)、大隅国で隼人が蜂起。大規模な反乱となり、大和朝廷は征隼人持節大将軍に大伴旅人(おおとものたひと)を任じ、征討軍を派遣した。

隼人の城のうち、曽於乃石城(隼人城か)がなかなか落ちなかったという。隈崎(久満崎)のあたりも激戦地であったと思われる。隼人は抵抗をつづけ、鎮圧まで1年半を要した。反乱鎮圧後は隼人の多くが斬首されたという。その後、大規模な反乱は起こっていない。

久満崎神社では、古来より旧暦5月28日に河神祭が行われる。これは隼人(熊襲とも)の鎮魂のためのものとも伝わっている。


ちなみに、霧島市の国分・隼人エリアには、隼人神を祀った神社がほかにもある。

大隅国一之宮でもある鹿児島神宮(霧島市隼人町内)には、摂社にて隼人命(ハヤトノミコト)という神を祀っている。また、火闌降命(ホスソリノミコト)・大隅命(オオスミノミコト)といった隼人と関わりのありそうな祭神も。

鑰島神社(かぎしまじんじゃ、霧島市隼人町真孝)にも火闌降命・隼人命・大隅命が祀られている。ここは鹿児島神宮とも関わりがある。

枝宮神社(えだみやじんじゃ、霧島市国分野口町)は、かつては「枝之宮」と呼ばれた。『三国名勝図会』によると、討たれた大隅隼人の四肢を埋めたことからそう呼ばれるようになったのだという。

 

鹿児島神宮についてはこちらの記事にて。

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近くに島津義久の墓所もある

隈崎(久満崎)のふもとには「安骨山徳持庵」という寺院もあった。ここには島津義久の分骨が納められていた。明治時代初めに徳持庵は廃寺となる。現在は島津義久の墓塔がある。明治8年(1875)年に建立され、ここに分骨を納めた。

 

玉垣の中に墓塔がある

島津義久の墓塔

 

墓塔には島津義久の御神号である「大國豊知主命」とある。「オオクニトヨシルヌシノミコト」と読む。

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『国分の古蹟』
著・発行/守屋奈賀登,・桑幡公幸 1903年

ほか