ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

富隈城跡にいってみた、大隅国に築かれた島津義久の居城

富隈城(とみくまじょう)は、島津氏16代当主の島津義久(しまづよしひさ)が拠点とした城である。場所は鹿児島県霧島市隼人町住吉。富之隈城ともいう。

 

文禄4年(1595年)、島津義久は薩摩国鹿児島にある内城(うちじょう、鹿児島市大竜町)から大隅国の富隈城に移る。慶長9年(1604年)までここを居城とした。平野にぽつんと小さな丘があり、そのまわりを囲うように城館が整備された。丘は物見に使うほどの大きさしかなく、防御には適さない。形状としては、ほぼ平城である。城門は茅葺だったとされ、簡素な造りだったようである。

 

 

石垣が残る

富隈城跡は南北約250m・東西約150mの長方形の城館跡が残る。城域の北側は稲荷山公園として整備され、散策が可能だ。南側にはラジオ放送のために施設があり、大きな電波塔が立っている。

石垣は国道223号沿いからも見える。徒歩だと国道側からも入れるが、車の場合は東側から回り込んで公園に入る。東側の石垣のある道沿いを行くと、稲荷神社の鳥居が見つかる。そこが入口だ。

朱色の鳥居

鳥居脇(写真左側)の道から車で入る

 

広場に車を停められる。土俵があったりして、ちょっとした運動場にもなっているようだ。見上げると小さな丘と稲荷神社がある。神社の石段の横には城址碑もあった。

城跡の公園

広場から見上げる

石段と鳥居

稲荷神社

「富隈城」の文字

石段の脇に城址碑

 

稲荷神社の西側の小さな丘。ここをのぼる。

神社の境内

稲荷神社の脇から登れる

散策路をのぼる

丘の上へ

丘はそれほどの高さはないが、周囲が平地なのですごく眺めがいい。南側が城館跡を見下ろせる。遠くに鹿児島湾と桜島ものぞむ。

丘の上からの眺め

正面に電波塔と桜島


北側には霧島連山も見える。

市街地と山々

高千穂峰と新燃岳

 

丘の北側のほうにおりていける道があるので、こちらへ。遊具がある。児童公園になっている。

遊具のある公園

丘の北側

 

丘のまわりはぐるりと回遊できるつくり。稲荷神社へも社殿の裏側から南の方へ抜けられる。

稲荷神社の境内

北側から神社の境内につながる

 

下の写真は、南西側から丘を見上げたところ。

城山公園の丘

古墳のようにも見える


広場の段差のところに石垣を確認。当時のものだと思われる。

城跡の石垣

公園内の石垣

 

国道のほうに抜ける通路へ。歩道沿いには石垣が続いている。

古い石垣

歩道沿いに野面積みの石垣

 

国道側の入口あたりにも石垣がある。虎口だろうか。

石垣が残っている

国道側入口の石垣

 

石垣は城跡の周囲のあちこちで見られる。城館東側も石垣がしっかり残っている。放送施設のほうも見ごたえあり。

 


島津義久の引っ越し

文禄4年(1595年)、豊臣政権による島津氏領内の検地が完了する。豊臣秀吉は薩摩国・大隅国と日向国諸県郡の島津氏領について朱印状を出した。ただし、島津義久ではなく弟の島津義弘(よしひろ)に宛てたものであった。そして本拠地がある薩摩国を島津義弘の所領とし、大隅国・日向国を島津義久の所領とされた。この配置は、それまでと逆である。豊臣政権は島津義弘を当主として扱ったのある。

豊臣政権に対して島津義弘は協力的だったが、島津義久は従わないこともたびたびあった。島津義弘を当主にしたほうが、都合がいいと考えたのだろう。そして、当主である兄を冷遇し、配下であるはずの弟を厚遇することで、島津家中の分裂も狙ったようにも思われる。

 

鹿児島に島津義弘が入り、島津義久は鹿児島を出ることを命じられる。大幅な所替えである。島津家はこれに従った。

島津義久は富隈城を改修して城館を整備し、こちらへ入る。島津義弘は鹿児島に入らず。大隅国の帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)を居館とした。あくまでも当主である兄を立てたのである。鹿児島には次期当主に指名されている島津忠恒(ただつね、義弘の子)が入った。

対外的には島津義弘が代表者のように扱われるが、領内では島津義久が依然として実権を握り続けた。

島津義久は大隅国に移ったあとは産業振興にも力を入れる。富隈城のすぐ近くの浜之市湊(はまのいちみなと、隼人港)も整備した。

 

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近衛信尹が立ち寄る

文禄5年(1596年)7月には、のちに関白となる近衛信輔(近衛信尹、このえのぶただ)が富隈城を訪れる。近衛信輔(近衛信尹)は豊臣秀吉の怒りを買って薩摩国坊津(ぼうのつ、鹿児島県南さつま市坊津町)に流されていた。帰京の際に鹿児島から浜之市へ船で入り、島津義久のものとに立ち寄ったのである。

 

近衛信輔(近衛信尹)は3日間を富隈城で過ごした。歌会が催され、その中でこう詠んだ。

立帰る名残こそあれ松影は
涼しき秋の宿と思へば


この歌をうけて、島津義久はつぎのように詠んだ。

あつき日の影もわすれて馴なるる
まつのしづにに秋風ぞ吹く


歌に詠まれた松の古木は「名残の松」と呼ばれた。この松は、天保3年(1832年)に大風で倒れてしまったという。

 

 

関ヶ原から生還した島津義弘を迎える

島津義久と島津義弘は仲違いすることはなかったものの、意見が合わないこともたびたびあった。慶長5年(1600年)、上方にあった島津義弘は国許に兵を送るよう要請する。しかし、島津義久は応じなかった。そして島津義弘は十分な兵力を得られないまま、関ケ原の戦いにのぞむことになった。

関ヶ原で敗軍の将となった島津義弘は戦場を脱出し、大坂で家族を救出し、国許に生還する。島津義弘は自領の帖佐に戻る前に、富隈城の島津義久に謁見している。

島津義久は領内の守りを固めるとともに、徳川家康との和睦を進める。上洛を促されても、理由をつけてなかなか応じず。粘り強い交渉のすえに、本領安堵を勝ち取った。その後、島津義久は家督を島津忠恒に譲る。


慶長9年(1604年)、島津義久は国分城(こくぶじょう、舞鶴城ともいう、霧島市国分中央)を新築し、こちらへ移った。富隈城は廃城となる。

 


稲荷神社が鎮座

富隈城跡には、稲荷神社が鎮座する。「富隈稲荷神社」とも称される。

鳥居と社叢と社殿

石段をのぼると稲荷神社

 

もともとは「住吉一之宮稲荷神社」と称していた。住吉大明神・一之宮大明神・稲荷大明神の三社を合祀している。『国分の古蹟』によると御祭神は、宇加魂命(ウカノミタマノミコト)・猫神(ねこがみ)・底筒男命(ソコツツノオノミコト)・中筒男命(ナカツツノオノミコト)・表筒男命(ウワツツノオノミコト)・神功皇后(じんぐうこうごう)・島津忠久(しまづただひさ)公とその妻、とのこと。


当初は住吉大明神(ソコツツノオノミコト・ナカツツノオノミコト・ウワツツノオノミコト・神功皇后)のみが祭られていたという。

島津忠久(惟宗忠久、これむねのただひさ)は12世紀末に鎌倉の幕府より薩摩国・大隅国・日向国の守護、および三国の島津荘(しまづのしょう)の地頭に任じられる。これが島津氏のはじまりである。薩摩国に下向した際に海が荒れ、住吉神と稲荷神の加護があって無事に船がついたという。

建久年間(1190年~1199年)に島津忠久は富隈の住吉大明神を参拝し、航海の無事に感謝して稲荷神も合祀したという。また、『三国名勝図会』では慶長2年(1597年)に島津義久が稲荷神を勧請したとも記されている。

ちなみに、稲荷神社は島津氏の氏神である。島津氏を名乗った惟宗氏は秦氏の後裔とされる。稲荷神は秦氏氏の氏神でもある。

また、惟宗忠久(島津忠久)には摂津国の住吉社(住吉大社、大阪市住吉区住吉)で誕生したという伝説もある。雨の降る夜に、住吉社末社の稲荷神社の狐火の守られて生まれたとも。

 

一之宮大明神は永和元年・天授元年(1375年)に合祀されという。「一之宮」とは島津忠久のこと。島津氏久(うじひさ、島津氏の6代当主にあたる)が大隅国で戦う際に、島津氏の祖を守護神としたとされる。

 

それから猫神というのは、島津久保(ひさやす)が飼っていた猫である。島津久保は島津義弘の子で、島津義久の娘を妻として後継者に指名されていた。しかし、文禄2年(1593年)に朝鮮の陣中で病没。島津久保がかわいがっていた猫もが主人を慕って餓死したと伝わる。これにちなんで、寛永13年(1636年)に猫神を奉祭するようになったのだという。

 

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『国分の古蹟』
著・発行/守屋那賀登・桑幡公幸 1903年

ほか