ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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石體神社は高千穂宮の跡地? 鹿児島神宮がもともと鎮座していたところ

石體神社(しゃくたいじんじゃ)は鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。鹿児島神宮(かごしまじんぐう)から水路沿いを北西方向にちょっと行ったところに位置し、その摂社でもある。こちらもまた、なかなか雰囲気のある神社である。

 

 

鹿児島神宮についてはこちらの記事にて。

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ヒコホホデミノミコトが住んでいた?

御祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)。鹿児島神宮の主祭神と同じである。創建は神代とも伝わる。

この地は、ヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコト(豊玉比売命)が住んだ高千穂宮(たかちほのみや)があったとされる。ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、日子波限建鵜葺草葺不合命)の誕生地であるとも。

境内前の駐車場には立派な「神代聖蹟高千穂宮址」碑もある。

大きな石碑

高千穂宮址の石碑

 

鹿児島神社(大隅正八幡宮、鹿児島神宮)は、この高千穂宮跡地につくられたのがはじまりだとされる。和銅元年(708年)に現在地に遷宮され、その跡地に石體宮(石體神社)が建てられたのだという。

御神体は大きな石であり、遷宮後もこの地に留まっているとのこと。石體神社の社名もそんなところからきている。

石體神社前にはかつて霊鷲山寺弥勒院(りょうじゅせんじみろくいん)という寺もあった。これは大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の別当寺である。『三国名勝図会』の絵図を見ると、駐車場になっているあたりに建物があったようだ。

神社と別当寺の絵図

石體宮、『三国名勝図会』巻之三十一より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』は、江戸時代後期に編纂された地誌。詳細はこちらの記事にて。

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石體神社を参拝する

駐車場から奥のほうにいくと参道の入口がある。苔むした岩と木々が神聖な雰囲気をかもしだす。

叢林と朱の鳥居

鳥居をくぐって参道へ

参道に入る。このあたりが全体的に磐座のような感じもする。

大きな石のある神社

岩の上の参道


拝殿の建物は新しめ。叢林の中に朱色が映える。

神社の建物

拝殿で参拝

 

建物の向かって右奥のほうにまわると、小石がたくさん。

社殿脇に石がたくさん

小石が積まれている

 

石體神社には安産祈願の風習がある。トヨタマヒメノミコトが産屋の鵜の羽を葺きおわらないうちにお産を終えたことにちなむという。安産祈願は戌の日に行う。御神体のかわりとして小石をひとつ持ち帰ると安産の御利益があるという。産後は丸石をひとつ加えて、小石をふたつお返しする。

 

『三国名勝図会』には旅の無事を祈願する風習があるとも書かれている。旅に出る前に小石をひとつ持っていき、旅から戻ったら石をひとつ加えてお戻しする、と。これはヒコホホデミノミコトが海宮(わたつみのみや)に行き、戻ってきた故事にあやかってのこととしている。

 

 

正興寺跡

石體神社から水路に沿って600mほど西にいったところが正興寺(しょうこうじ)跡とのこと。大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の別当寺のひとつで、寺院名に入っている「正」の字も「正八幡宮」からつけられているという。

寺院の様子は『三国名勝図会』の絵図から知ることができる。

寺院の絵図

正興寺、『三国名勝図会』巻之三十一より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

現在、境内の一部は墓地になっていた。絵図に描かれた山の雰囲気は残っている。

広場と山と

正興寺跡

 

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島神宮史』
編/三ツ石友三郎 発行/鹿児島神宮社務所 1989年

ほか