ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

帖佐館跡にいってきた、関ヶ原の戦いの頃の島津義弘の居館

鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)」「帖佐御屋地(ちょうさおやじ)」などの呼称がある。

 

当時の石垣が残る

県道42号から帖佐小学校横の道に入ってちょっと行くと、鳥居が見える。ここが帖佐館跡である。現在、館跡には稲荷神社が鎮座。鳥居に向かって左側へ行くと花園寺(かえんじ)跡公園の駐車場がある。こちらに車を停めて散策した。

鹿児島の城跡

鳥居が見えたらそこが帖佐館跡

稲荷神社は島津氏の守護神である。また、朝鮮出兵のおりに狐の神威があって大勝利を収めた(詳細は後述)。そのときの狐を祭ったものでもあり、「高麗稲荷」と呼ばれている。高麗稲荷はもともと帖佐館から見える山の上にあった。そちらには平山城(ひらやまじょう、帖佐本城)があり、その支城の高尾城(たかおじょう)に高麗稲荷を祀っていたという。高尾城が崩れるおそれがあったため、文政10年(1827年)に現在地に移された。

 

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居館跡には大手門口跡が残る。また、館の石垣も当時の様子をうかがわせる。

鹿児島の城跡

大手門跡

鹿児島の城跡

石垣が残る

鹿児島の城跡

敷地の角あたりの石積み

鹿児島の城跡

石垣を内側から、土塁かな

 

「惟新公邸之跡」という記念碑もある。大正7年(1918年)の「島津義弘公三百年祭」に際して、有志により建立されたものとのこと。

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手前に記念碑

鹿児島の城跡

記念碑の文字、揮毫は30代当主の島津忠重


島津義弘の御治所

島津義弘は、島津氏15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男。16代当主の島津義久(よしひさ)の弟にあたる。島津義弘が17代当主になったとされ、『島津国史』(江戸時代に島津氏が編纂させた歴史書)などでも歴代当主のひとりに数えられている。しかし、近年では「家督をついでいない」という説が有力だ。ただ、島津義久から大きな権限を持たされていたようで、「もうひとりの当主」といった感じだったと思われる。豊臣政権下では島津義久が対外的に出ていくことはなく、中央から命令があれば島津義弘が対応した。

文禄4年12月(1596年1月か)より島津義弘大隅国の帖佐館を本拠地とするが、それまでは日向国真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市)の領主であった。永禄7年~天正15年(1564年~1587年)に飯野城(いいのじょう)を居城とし、その後、大隅国栗野院の松尾城(まつおじょう、鹿児島県姶良郡湧水町栗野)に移った。

 

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豊臣政権の要請で島津義弘は朝鮮に出兵。文録元年(1592年)に松尾城から出撃した。島津義弘は文禄4年(1595年)5月(旧暦、以下同)に朝鮮より帰国。6月に伏見城(ふしみじょう、京都府伏見区)で太閤の豊臣秀吉に謁見し、7月に栗野の松尾城に帰ってくる。そして、12月に栗野から帖佐に移った。『三国名勝図絵』(江戸時代に島津氏が編纂させた地誌)によると、帖佐館は「宮屋質朴」であったという。規模はそれほど大きくなく、質素なものであったことは遺構からも想像できる。

帖佐館は新納旅庵(にいろりょあん、新納長住、島津義弘重臣)の指揮で工事が進められた。蒲生(かもう、姶良市蒲生)の地頭であった長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ、阿多盛淳)が石材を持って駆けつけたとも伝わる。

帖佐に移った島津義弘は、またすぐに上京する。文禄4年12月19日(1596年1月)に京へ向けて出発。文禄5年(1596年)1月17日に大坂に入り、そして伏見に滞在した。同年秋に豊臣秀吉は朝鮮への再出征を決める。9月に島津義弘を国元へ返し、10月10日に帖佐に着いた。

慶長2年(1597年)2月21日、島津義弘は朝鮮へ向けて帖佐を発した。その夜に帖佐から蒲生を抜けていくところで雨が降り、狐火が照らして一行を先導したという。

なお、島津氏では雨は縁起の良いものとされる。「島津雨」という。また、狐火も吉兆とされる。初代の島津忠久は雨が降る夜に狐火に照らされて誕生したという伝説があり、これに由来する。

 

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朝鮮半島に渡った島津義弘は活躍する。慶長3年(1598年)秋、島津義弘の軍は泗川(しせん、サチョン、場所は韓国南部にあるサチョン市)にあった。そこに明・朝鮮の大軍が攻め込んできた。島津軍に対して敵の兵数は数倍から10倍以上とも(兵数は諸説あり)。島津軍は圧倒的な兵力差を覆し、大軍を壊滅させた。

泗川の戦いでは、白狐と赤狐が現れて勝利に導いたという。2匹の狐が敵軍に向かって駆け込むと、敵の火薬庫が爆発。敵が混乱したところを攻め込んで、大勝利につながったのだという。狐については当時の従軍記などにも書かれていて、事実であったと思われる。といっても実際のところは、狐じゃなくて人である。白鎧の武者と赤鎧の武者をやって敵の火薬庫に火を付けさせたようだ。その様子を狐に見立てて「狐が現れた!」と不思議な事象とし、この演出により士気を高めたのだろう。

この戦いのあと、島津義弘は帰国命令を受ける。撤退戦である露梁海戦でも奮闘し、12月に筑前国博多(福岡市博多区)に戻ってくる。12月29日に伏見に入り、しばらく滞在した。

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原岐阜県不破郡関ケ原町)で天下を二分する合戦があった。徳川家康が率いる東軍と、石田三成が結集した西軍がぶつかったのだ。島津義弘は西軍として参加する。合戦はあっけなく半日で決した。島津義弘の部隊は戦場に取り残されたが、大胆にも徳川家康の本陣の方向への撤退を敢行。壮絶な撤退戦となるも、島津義弘は脱出に成功する。大坂に入り、堺から海路で国元を目指す。9月29日に一行は日向国細島(ほそしま、宮崎県日向市細島)に上陸。10月3日に大隅国の富隈城(とみくまじょう、鹿児島県霧島市隼人町住吉)で島津義久と会い、そして帖佐館に帰還した。

帰国した島津義弘は国内の防備を固めて、徳川方の征討軍の襲来に備えた。このときに、瓜生野城(うりうのじょう、建昌城、姶良市西餅田)や蒲生城(かもうじょう、姶良市蒲生)を改修した(あるいは、改修しようとした)とも言われている。

関ヶ原の戦いのあと、島津氏は徳川家康と粘り強く交渉。本領安堵を勝ち取っている。島津義弘は隠居して一線から身を引く。この頃はすでに高齢(70歳くらい)でもあった。

 

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慶長11年(1606年)に、居館を平松(ひらまつ、姶良市平松)へ移す。さらに、慶長12年(1607年)に加治木(かじき、姶良市加治木)に移って、晩年を過ごした。

なお、島津義弘が帖佐館を去ったあとは、館を長女の千亀(豊州家の島津朝久の妻)に与えた。千亀は「御屋地様(おやじさま)」と呼ばれていた。ここを「帖佐御屋地跡」ともいうのは、そのためである。

 

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島津義弘の看経所

帖佐館跡に隣接して花園寺跡公園が整備されている。ここには、島津義弘の看経所(かんきんしょ、経典を黙読するところ)があった。のちに花園寺が建立され、島津義弘家臣の米良(めら)氏に与えれた。跡地にはその遺構がちょっと残っている。枯山水跡の外側には石垣も残る。

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入口、米良家の武家門を移築

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枯山水

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枯山水跡近くには古い石垣も

こちらは花園寺の住職が法華経一千部を読誦したことを記念した石碑。延宝9年(1681年)と正徳元年(1711)年に建てられたもの。

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読誦の記念碑


古帖佐焼宇都窯跡

古帖佐焼宇都窯(こちょうさやきうとがま)跡というのが、帖佐館から300mほど離れたところにある。現存する薩摩焼の窯跡では最古のもの。

島津義弘は朝鮮から陶工を連れ帰った。17世紀の初め頃、陶工の金海(きんかい)に命じて帖佐宇都に窯を築かせた。ここで、島津義弘の茶道具などを制作したという。

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宇都の窯跡

 

膝跪騂の墓

帖佐館跡の北500mくらいのところに「膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓」という史跡もある。膝跪騂というのは島津義弘の愛馬である。島津義弘とともに戦場に出たのは20回以上。関ヶ原の戦い文禄・慶長の役などにも従軍したという。

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左側が墓石

元亀3年(1572年)の木崎原の戦いにおいて、島津義弘が伊東氏の将と戦った際に主人を助けたとの言い伝えもある。敵将が槍を突いてきたところ、馬が膝を折って槍が当たるのを防いだのだという。この出来事から膝跪騂と呼ばれるようになった。

現在の墓石は、宝永4年(1707年)に藩家老の種子島伊時(たねがしまこれとき)が再建したもの。

 

<参考資料>
『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

姶良町郷土誌』(増補改訂版)
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町長 櫟山和實 1995年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

ほか