ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

建昌城(瓜生野城)跡にいってきた、島津季久が築いた豊州家の拠点

建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。

鹿児島の城跡

建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る

 

もともとは瓜生野城(うりうのじょう)と呼ばれていた。別名に胡麻ヶ城(ごまがじょう)とも。豊州家(ほうしゅうけ、島津氏の分家)の島津季久(しまづすえひさ)が享徳年間(1452年~1455年)に築城したとされる。豊州家は瓜生野城を拠点に勢力を広げた。

 

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ちなみに建昌城と呼ばれるようになったのは17世紀初め頃のこと。島津義弘(しまづよしひろ)が明国から来た人に瓜生野城を見せたところ、「中国に建昌城という堅城があって、よく似ている」と言ったことからだという。

 

連なる曲輪群

高速道路と並行する一般道路から、県道446号を北に入る。しばらく登っていくと「建昌城跡」の看板がある。そこが入口だ。ずんずん進んでいくと、よく整備された駐車場に到着する。

鹿児島の城跡

駐車場は西之丸の一部にあたる

駐車場には、いい感じの説明看板もある。そこに掲載された縄張り図によると、本丸・二ノ丸・西之丸・南之丸・櫓之丸(やぐらのまる)・前之丸・常見之丸・胡麻ヶ城(ごまがじょう)・東之丸がある。城域の西側の本丸近くから馬乗馬場が東方向に伸びていて、これに沿って曲輪が連なっている。

とりあえず駐車場から西側へ。するとそこは市民農園になっている。このあたりが西之丸にあたるようだ。こちらは城の痕跡は残ってなさそう。

鹿児島の城跡

西之丸(市民農園

 

市民農園(西之丸)をかすめるようにぐるりと回り込んで奥へと進む。ちょっとした広場になっているが、訪問日は草が伸び伸び。地形がよく見えないのである。

鹿児島の城跡

本丸・二ノ丸のあたり

 

そんなわけで、2018年春の写真を載せる。このときはちょうど草刈り作業中だった。曲輪の形がよく見える。写真左の盛り上がったところが本丸、その奥が二ノ丸だ。

鹿児島の城跡

草刈りがしてあると、こんな感じ

 

草をかき分け進むと、掘り込んだ馬乗馬場へ入る。ここからはそこまで草が伸びていなくて歩きやすい。曲輪の上は草だらけだったけど。ずんずん奥へ進む。

鹿児島の城跡

馬乗馬場、まっすぐ奥へ伸びる

鹿児島の城跡

馬乗馬場から曲輪の痕跡もよく見える

鹿児島の城跡

虎口かな

 

建昌城跡の標柱は常見之丸にある。縄張り図によるとかなり大きな曲輪である。

鹿児島の城跡

建昌城の標柱

 

ふたたび馬乗馬場に戻って奥へ。入っていける道があったので行ってみる。「東之丸」の看板があった。

鹿児島の城跡

東之丸の曲輪跡

 

馬乗馬場の突き当たりに到着。山を下っていく道がある。ここが搦手口になる。その近くには曲輪の虎口がある。登ると胡麻ヶ城だ。曲輪の上にはさらに段差もあった。

搦手口

鹿児島の城跡

胡麻ヶ城の曲輪跡

この胡麻ヶ城の一帯が、はじめに瓜生野城と呼ばれていたところだと思われる。『三国名勝図絵』(江戸時代末期に薩摩藩が編纂させた地誌)には「瓜生野城は胡麻ヶ城ともいう」と書いてあるし、瓜生野城から西側に向かって増築していったような感じだが……どうだろうか?

馬乗馬場を本丸方面へ戻る。いったん広場に出て、南之城方面へも向かう。こっちも草だらけだが、尾根の先のほうにはちょっと開けた場所もあった。

鹿児島の城跡

南之丸

鹿児島の城跡

南之丸の土塁


散策時間は約40分。道中は平坦で、しんどさをあまり感じずに歩き回れた。

 

島津氏豊州家の拠点

帖佐は、もともと平山氏(ひらやま、紀姓)が治めていた。平山氏は13世紀に平山了清がこの地に下向したことにはじまるという。この人物は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、場所は京都府八幡市)の社家の一族。帖佐のうちの平山村(場所の詳細は不明)は石清水八幡宮が領家であった。その領家職(荘園管理者)を、平山了清は祖父の代から世襲していたという。平山氏の名乗りはここからきている。祖父と父は京にあったが、了清は大隅国帖佐に入る。平山城(ひらやまじょう、場所は姶良市鍋倉)を築いて居城とした。

 

平山氏は南北朝争乱期をかいくぐり、勢力を保っていた。しかし、享徳年間(1452年~1455年)に島津氏に攻められる。島津忠国(しまづただくに、島津宗家9代当主)は弟の島津季久に命じて、帖佐の平山武豊を攻撃させた。

平山城が落ちると、島津忠国はこの地を島津季久に与えた。そして、島津季久平山城に入ったのち、新たに城を築く。それが瓜生野城であった。島津季久・島津忠廉(ただかど、季久の嫡男)が瓜生野城に入城し、ここを本拠地とした。また、平山城には島津忠康(ただやす、季久の次男)が入り、平山忠康と名乗るようになった。

なお、島津氏に降伏した平山氏は薩摩国鹿児島郡武(たけ、鹿児島市武)や揖宿郡(現在の指宿市)に知行を与えられて移り住んだという。

帖佐を領有した島津季久は、分家のひとつとして島津家中でも重きをなすようになる。島津季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。以下は島津氏の略系図

島津氏の略系図

島津季久は三男の満久を養子として送り込み、加治木(かじき、姶良市加治木)郡司の加治木氏も一門に組み込む。また、蒲生氏を攻めて蒲生院(かもういん、姶良市蒲生)を奪い、こちらも支配下とした。豊州家は現在の姶良市一帯に勢力を広げたのである。

 

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島津季久は、宗家9代当主の島津忠国をよく支えた。10代当主の島津立久(たつひさ、季久の甥にあたる)が実権を握ったあとも宗家に従って活躍する。しかし、立久が亡くなって幼少の島津忠昌(ただまさ、立久の子)が当主になると反乱を起こす。

文明7年(1475年)、島津季久(豊州家)・島津国久(薩州家、季久の甥)は、島津忠昌の国老たちと意見があわずに対立。ついに挙兵する。島津季久は帖佐から大隅国吉田(よしだ、鹿児島市吉田)に侵攻し、さらに薩摩国鹿児島をうかがった。島津忠昌は鹿児島の清水城(しみずじょう、島津氏の拠点、鹿児島市清水町)から伊集院(いじゅういん、鹿児島県日置市伊集院)に避難した。

一方、島津国久(薩州家)は薩摩国南部の加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)で抗戦。島津国久(薩州家)は、島津友久(相州家、季久の甥)に攻められて降伏する。しかし、今度は島津友久(相州家)が宗家に叛く。おまけに、降伏させた島津国久(薩州家)も誘った。

反乱は泥沼化するが、文明9年(1477年)4月に島津国久(薩州家)が降伏。島津季久も国久にすすめられて帰順し、反乱はひとまず沈静化する。その後、島津忠昌は分家・一門衆と盟書を交わす。こちらには島津忠廉(豊州家)が名を連ねた。この頃、豊州家は代がわりしており、島津季久は文明9年(1477年)8月に亡くなっている。

 

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文明16年(1484年)、日向国の南部で伊作久逸(いざくひさやす)が叛く。伊作氏は島津氏庶流で、伊作久逸は宗家から養子入り。島津立久の弟で、島津忠昌の叔父にあたる。もともと薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)を本領としていたが、この頃は日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)を任されていた。これは日向国で大きな勢力を持つ伊東(いとう)氏に備えてのことだった。ところが、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)にあった新納忠続(にいろただつぐ、島津氏庶流)と不和となる。新納忠続が伊作久逸を伊作に戻すよう宗家に訴えたことに端を発し、伊作久逸がブチギレる。伊東氏と結託して飫肥に攻め込んだのである。

飫肥の争乱をきっかけに、薩摩国でも大隅国でも反乱が起こる。北薩摩に勢力を持つ渋谷一族の祁答院(けどういん)氏・入来院(いりきいん)氏は、たびたび島津忠廉(豊州家)を反乱に誘った。しかし、島津忠廉(豊州家)は応じなかった。

島津忠廉(豊州家)は、伊作久逸と新納忠続の和議をまとめようと動く。伊作久逸を説得しようと櫛間に向かうが、会えずに帰ってくる。この動きを知った島津宗家では、「島津忠廉が伊作久逸と手を組もうとしている」と噂される。島津忠廉は釈明するが、疑いは晴れず。島津忠廉は宗家から離反し、独自に動くようになった。

文明17年(1485年)2月、島津忠廉は帖佐で挙兵。祁答院重度を攻めようと兵を進めた。まずは薩摩国満家院(みつえいん)の川田城(かわだじょう、場所は鹿児島市郡山町川田)を攻撃。ここは落とせず、祁答院へと進軍した。島津忠廉は祁答院に入り、藺牟田城(いむたじょう、鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田)を攻め落とす。しかし、その後は祁答院氏を攻めきれず帖佐に撤退した。ほとんど間をおかず、今度は大隅国囎唹(そお)の上井城(うわいじょう、鹿児島県霧島市国分上井)を攻め、これを落とした。

島津国久(薩州家)は島津忠廉(豊州家)が離反したままでは領内は治まらないと考えた。そこで、説得に動く。島津忠廉は説得に応じ、宗家に帰順する。入来院氏や東郷氏などもことごとく島津宗家に従い、薩摩と大隅の反乱はいったん収束する。

その後、島津忠昌は南日向に出征する。飫肥に侵攻した伊作久逸・伊東祐国らの軍と決戦におよんだ。島津忠廉(豊州家)も従軍し、大いに活躍した。伊東祐国は戦死し、伊作久逸は櫛間に退いたあとに降伏する。

戦後、伊作久逸は櫛間から旧領の伊作へ、飫肥の新納忠続も旧領の日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志)へ戻された。その飫肥・櫛間は、島津忠廉(豊州家)に与えられることになった。

文明18年(1486年)、豊州家は帖佐を離れ、飫肥・櫛間の領主となった。島津忠廉が飫肥城に入り、島津忠朝(ただとも、忠廉の子)が櫛間城に入った。

豊州家が去ったあと、瓜生野城は使われなくなったようである。

 

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その後の豊州家

延徳2年(1490年)に島津忠廉が亡くなり、島津忠朝が家督をつぐ。豊州家は志布志の新納氏と対立し、たびたび戦になった。天文7年(1538年)には志布志城を攻撃してこれを奪う。新納氏を追い出して志布志も所領とした。

 

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島津氏の覇権をめぐって相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)と、薩州家の島津実久(さねひさ)が争うようになると、豊州家は和平の仲介をしようと動く。しかし、この試みは失敗した。

 

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その後は薩州家方についたり、宗家の島津勝久についたり、と相州家の敵に回る。しかし、のちに相州家に従い、日向の伊東氏に対する防波堤としての役割を担った。

16世紀中頃、日向では伊東義祐(いとうよしすけ)のもとで伊東氏が最盛期を迎えていた。伊東氏は飫肥にたびたび侵攻。対する豊州家は5代当主の島津忠親(ただちか)の代であった。

島津忠親は、もともと北郷(ほんごう)氏の当主だった。北郷氏は島津氏庶流で、日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市)に勢力を持つ。豊州家4代の島津忠広(ただひろ)には後継ぎがなかったため、北郷忠親は嫡男の北郷時久(ほんごうときひさ)に北郷氏をつがせ、みずからは豊州家に養子入りしたのである。ちなみに、島津忠親(北郷忠親)は島津忠廉の娘を母としていて、島津忠広の従兄弟にあたる。

伊東氏との抗争は苦戦続き。その苦境を打開するために、島津宗家に支援を求めた。永禄3年(1560年)、宗家より島津忠平(ただひら)を養子に迎え入れ、豊州家の後継ぎとした。島津忠平は宗家15代の島津貴久の次男である。のちに島津義弘(よしひろ)と改名し、こちらの名乗りがよく知られている。島津忠平(島津義弘)は大隅合戦(帖佐や蒲生での戦い)の激戦を経験したあとで、若いながらもその武勇は評価されていた。宗家との関係を強くするとともに、豊州家は名将を手に入れたのである。

 

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島津忠平(島津義弘)は飫肥に入り、義父の島津忠朝とともによく守った。しかし、永禄5年(1562年)、島津宗家は島津忠平(島津義弘)に帰還を命じる。養子縁組も解消された。その頃、島津宗家も戦局が厳しくなっていた。大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)の肝付兼続(きもつきかねつぐ)と全面戦争に突入していて、豊州家を支援する余裕はなくなっていた。戦略上で島津忠平(島津義弘)も必要だったのだろう。その後、島津忠平(島津義弘)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)に入り、この地から日向方面の攻略を任された。

島津忠平(島津義弘)が去った飫肥城は、伊東氏の攻撃を受けて落城する。また、豊州家は肝付兼続の攻撃も受ける。島津忠親(豊州家)は飫肥を伊東氏に、志布志を肝付氏にそれぞれ割譲して和睦する。豊州家の支配地は大幅に縮小した。

その後、島津忠親(豊州家)は伊東氏から飫肥を奪還したり、北郷氏と結んで伊東氏に撃って出たりと一進一退の攻防が続いた。しかし、永禄11年(1568年)、飫肥は伊東氏の総攻撃を受ける。6月に飫肥城が陥落し、7月には櫛間城も陥落した。島津忠親(奥州家)は日向国庄内(宮崎県都城市)へ逃れた。伊東氏が飫肥を取り、肝付氏が櫛間を取り、豊州家は所領を失った。

島津忠親は庄内で没した。嫡男の島津朝久も庄内にあったが、島津義弘の命令で真幸院の飯野(いいの)へ、さらに馬関田(まんがた)に移り住んだ。島津朝久は島津義弘の長女を妻とし、島津義弘の配下として活躍。天正14年(1586年)の筑前岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市)攻め、天正15年(1587)の豊臣軍との戦いにも参加している。その後、大隅国帖佐の平松に移り住んだ。豊州家ゆかりの地へと戻ってきたのである。島津朝久は文禄2年(1592年)には朝鮮出兵に従軍し、陣中で没した。

島津朝久のあとは島津久賀(ひさか)がつぐ。母は島津義弘の娘で、久賀は義弘の孫にあたる。慶長5年(1600年)に薩摩国長野(ながの、鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に1000石を拝領してこの地の地頭を任された。また、慶長12年(1607年)には帖佐地頭を任される。そして、寛永9年(1632年)に薩摩国祁答院黒木(くろき、鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木)を領する。このことから黒木島津家とも呼ばれる。江戸時代には藩家老も出した。

 

島津義弘の帖佐入り

島津忠平(島津義弘)は、飫肥から鹿児島に戻ったのち、永禄6年(1563年)に日向国真幸院の領主となる。飯野城を居城としたのち、天正15年(1587年)に大隅国栗野の松尾城(まつおじょう、鹿児島県湧水町栗野)に移る。そして、文禄4年12月(1596年1月か)に帖佐に移る。

 

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帖佐での居館は現在の姶良市鍋倉にある。現在は稲荷神社が鎮座するが、境内には「惟新公邸之址」碑がある。当時の石垣も残っている。島津義弘は帖佐屋形に慶長10年(1605年)まであったのちは平松へ、さらに加治木に移って晩年を過ごした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと、島津義弘は徳川方の襲来に備えて、領内の守りを固める。島津義弘は軍議にて「瓜生野城を改修して備えよう」と言ったとされる(『三国名勝図絵』より、実際に改修したかは不明)。

 

島津氏の本城になりかける

鹿児島藩薩摩藩)の初代藩主となる島津忠恒(ただつね、のちに島津家久と改名、島津義弘の子)は新たに本拠地の城を築こうとしていた。そのときに、瓜生野城(建昌城)も候補にもなっていた。

慶長5年(1600年)5月に島津義弘島津忠恒に書状を送り、瓜生野城(建昌城)について述べている。「守りが固く、地の利もいい。だけど、水利がよくないから、工事が難儀で領民に迷惑をかける。鹿児島のほうがいい」といった感じであった。そんな助言もあってなのか、島津忠恒は鹿児島城(鶴丸城)を築いて本拠地とした。

元和元年(1615年)にも島津家久は本城を建昌城に移したいと考えた。家老の伊勢貞昌を通じて幕府に許可を求めたが認められなかった。

また、寛永10年(1633年)に幕府の巡検使が島津領内を検分した際に、建昌城を見て「堅城だが、水が乏しい」と評している。

 

<参考資料>
『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

姶良町郷土誌』(増補改訂版)
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町長 櫟山和實 1995年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか