ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

加治木館跡にいってきた、島津義弘の最後の居城

島津義弘(しまづよしひろ)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いから帰還したのち一線を退く。慶長12年(1607年)に大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)に移り住み、ここで最晩年を過ごした。

隠居所としたのが加治木館(かじきやかた)だ。加治木城の麓に築いた平城である。城域は、現在の加治木高等学校の敷地にあたる。南側の一角に加治木護国神社が鎮座しているが、このあたりに石垣が残っている。

鹿児島の城跡

加治木館跡(加治木護国神社


島津義弘公終焉の地

加治木図書館・加治木郷土館の向かいに、観光客向けの駐車場がある。このに車を停めて、ちょっと歩く。JR加治木駅も近いので、電車利用でも行きやすい。目指すは加治木護国神社。加治木高等学校の南角のあたりだ。

鹿児島の城跡

加治木護国神社の正面

加治木護国神社には「加治木島津家屋形の跡」「島津義弘終焉の地」の看板がある。このあたりの石垣は立派だ。工法は切込接ぎ(きりこみはぎ)の乱積み(らんづみ)だろうか。

鹿児島の城跡

加治木館の石垣

鹿児島の城跡

石垣は高校の門のほうまで続いている

鹿児島の城跡

門の跡か

 

神社にお参りして、境内をちょっと歩いてみる。そんなに広くはない。

鹿児島の城跡

境内、本殿背後の脇に何かある

 

奥のほうには「義弘公薨去地碑」も建てられている。揮毫は内閣総理大臣を務めた松方正義(まつかたまさよし)による。これは大正7年(1918年)の「島津義弘公没後三百年祭」に関連して建てられたものだ。

鹿児島の城跡

義弘公薨去地碑

 

記念碑の近くは庭園っぽくなっている。ここにある石橋は、慶長11年に居館の南堀にあったものを移築した。記録には「欄干橋」と出てくる。当初は木製だったが破損して橋柱だけが残っていて、これを島津久徴(ひさなる、加治木島津家6代当主)が石造りで再築したのだという。

鹿児島の城跡

欄干橋

 

石仏もあった。こちらの由来はよくわからない。

鹿児島の城跡

石仏群

 

なお、島津義弘の居館(加治木高等学校のあたり)は加治木館の東之丸にあたる。のちに中之丸・西之丸が増築され、柁城小学校や加治木図書館・加治木郷土館のあたりまで城域は広がった。

鹿児島の城跡

柁城小学校(西之丸)の石垣

 

このあたりの住所は「仮屋町(かりやまち)」という。この町名は「地頭仮屋」からきている。地頭の居館のことで、江戸時代の鹿児島藩薩摩藩)における地方役所のような場所だ。加治木館は地頭仮屋として利用され、このあたりには当時の町割りがそのまま残っている。

 

加治木と島津義弘

島津義弘は加治木よりやや西の帖佐館(ちょうさやかた、姶良市鍋倉)に住んでいたが、慶長11年(1606年)に平松城(ひらまつじょう、姶良市平松、現在は平松小学校)に移り、さらに翌年に加治木に移ることとなる。

 

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ちなみに、加治木は文禄4年(1595年)の検地ののちに豊臣家の直轄地となっていた。島津義弘の朝鮮での戦功に対する恩賞として、慶長4年(1599年)に加治木は再び島津氏に与えられた。

当初、山城である加治木城を修築し、ここを居城とするつもりであった。島津義弘は先発隊48人を加治木城に送り込んで準備をさせた。しかし、計画を変更して麓に平城を築くことになった。山城を築くことは幕府に反逆の意図がある、ととられかねない。あるいは許可が下りなかったのか? そんな事情もあって変更したのだろう。

加治木館に入った島津義弘は、町の整備や産業振興に力を入れた。治水工事や水利工事を行ったほか、朝鮮の陶工に窯を開かせたり、蜂蜜の試験場を設けたり。また、貿易にも目を向け、フィリピン総督に書状を送ったりもしている。

教育にも力を入れた。武士だけでなく町人の子にも四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)を読ませた。

こんな話も伝わっている。

加治木城下の青年たちが徒党を組んで、夜な夜な騒いで迷惑をかけていた。島津義弘は青年たちとその親を呼びつけて「遠流を命ずる、四書を渡すからよく伝習するように」と告げた。悪さをした青年たちは桜島や垂水などに送られ、四書を読み終わるころに召還したという。

また、こんな話も。

島津義弘も高齢になると、ぼんやりとして食事をとらないことがあった。配下の者たちが一斉に鬨の声を揚げて「敵ですぞ!」と言うと、正気に戻って食事を始めたのだという。

元和5年7月21日(1619年8月30日)、島津義弘は加治木館で逝去する。享年85。

8月16日、遺骸は鹿児島の福昌寺(ふくしょうじ、島津氏の菩提寺鹿児島市池之上町)に移され、火葬のうえで埋葬された。

加治木から島津義弘を送り出したその日のこと、13人の家臣が殉死した。実窓寺磧(じっそうじかわら、姶良市加治木町木田)はそのうちの7人が自刃したところである。この事績を忘れないように記念の松が植えられたという。しかし、松は枯れてしまったので、加治木の人々が安永5年(1776年)に石碑を建立した。また、加治木家当主の島津久徴天明5年(1785年)に石燈籠を建て、毎夜明かりを灯したという。この地は時代とともに荒廃していたので、明治44年(1911年)に修築。そのときの記念碑もある。

鹿児島の城跡

実窓寺磧、真ん中が石燈籠、記念碑も2基

 

島津義弘の位牌と御影は伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の妙圓寺(みょうえんじ)に安置された。生前に島津義弘は、御影を仏師にふたつ彫らせていた。もう1体は加治木の本誓寺(ほんせいじ、姶良市加治木町反土にあった)に納めた。なお、本誓寺の御影は安政年間(1855年1860年)に紛失したという。

明治初めに本誓寺は廃寺となったため、島津義弘を祀る精矛神社(くわしほこじんじゃ)が創建された。ちなみに島津義弘の神号を「精矛厳健雄命(くわしほこいずたけおのみこと)」という。

当初、精矛神社は加治木館跡にあった。大正7年(1918年)に「島津義弘公没後三百年祭」を行うとともに加治木町日木山に遷座。現在に至る。加治木館跡のほうにはのちに護国神社が遷された。

鹿児島の城跡

精矛神社

 

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こちらは加治木館跡にある石碑で、精矛神社の創建や遷座について記されている。文をしたためたのは島津久賢(ひさかた、加治木島津家12代当主)。

鹿児島の城跡

大正7年建立の石碑

 

加治木島津家

島津義弘の遺領は、のちに島津忠朗(ただあき)が拝領する。これが加治木島津家のおこりである。

忠朗は島津家久(いえひさ、18代当主・初代藩主、義弘の子)の三男。島津義弘の孫にあたり、初名は祖父と同じ「忠平(ただひら)」だった。

加治木家は「御一門」のひとつで、分家の中でもっと家格が高い。本家に後継者がいない場合は、当主を出せる家柄でもある。そんな事情もあってなのか、加治木家の当主はたびたび本家から養子が送り込まれている。いざとなったら養子縁組を解消して、本家に戻るのである。

加治木家4代当主の島津久門(ひさかど)は、5代藩主の島津継豊の次男であった。寛延2年(1749年)、6代藩主の島津宗信(むねのぶ、継豊の長男)が若くして急死したため、島津久門は本家に復帰。当主についた。このときに将軍の徳川家重より偏諱を賜り、島津重年と名乗るようになった。

加治木家は島津重年の長男の島津久方(ひさかた)が継承した。だが、久方も本家に入り、島津忠洪(ただひろ)と名乗るようになる。しばらく加治木家は当主不在となったがのちに、知覧島津家から島津久徴が養子に入って相続した。

島津重年も宝暦5年(1755年)に若くして亡くなり、島津忠洪が11歳で当主についた。忠洪もまた徳川家重より偏諱を賜る。島津重豪(しまづしげひで)と名乗ったのである。

一転して、島津重豪は長命だった。89歳まで生き、老いても元気だった。天明7年(1787年)に家督を譲って早々に隠居するが、それから40年以上にわたって実権を握り続ける。

島津重豪は傑物であった。蘭学にはまりまくり、西洋の知識を国政にも取り入れる。みずからオランダ商館にも出向いた。オランダ語に堪能で、通訳なしで会話もできたのだという。隠居したのも、自由に動けるようにというのが理由であった。

鹿児島に天文学や暦学を研究する「明時館(別名に天文館)」、医師を養成する「医学院」などを設立。教育にも力を入れ、藩校の造士館・演武館も設置した。ちなみに藩校の費用は藩が負担(つまり学費はタダ)。さらには武家以外の子弟も通えた。

また、自身の娘を徳川家の御台所に送り込んだ。初名を於篤(おあつ、篤姫)といい、落飾したのちは広大院と称する。篤姫というと幕末の頃の天璋院(てんしょういん)がよく知られるが、前例があったのである。篤姫の名も広大院にあやかってのもの。

島津重豪鹿児島藩薩摩藩)の近代化の基礎を築く。曾孫の島津斉彬(なりあきら、28代当主、11代藩主)も島津重豪の薫陶を受け、大いに影響を受けたのである。

 


<参考資料>
『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編さん委員会 発行/加治木町長 宇都宮明人 1992年

姶良市誌史料 二
『加治木古老物語』『隅陽記』など収録
編/姶良市誌史料集刊行委員会 発行/姶良市教育委員会 2014年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

ほか