ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

平山城(帖佐本城)跡にのぼってみた、島津忠良・島津貴久も攻めた西大隅の激戦地

帖佐(ちょうさ)は大隅国の西の端に位置する。場所は現在の姶良市姶良地区(旧姶良郡姶良町)のあたりだ。交通の要衝であり、薩摩国との国境にも近く、たびたび戦の舞台となった。

姶良市鍋倉にある平山城(ひらやまじょう)は帖佐を代表する山城である。別名に平安城(へいあんじょう)、帖佐本城(ちょうさほんじょう)、内城とも。城跡の南側には帖佐八幡神社(別名に鍋倉八幡神社、新正八幡神社)が鎮座し、この周辺は散策可能だ。

 

 

 

 

 

帖佐八幡神社が山城跡

別府川沿いに平野が広がっているが、山塊が川に迫っているところがある。その山の一部に平山城はあった。

川を挟んで山城跡を見る

別府川右岸から見る平山城跡

 

県道42号から帖佐小学校の脇の道に入っていくと稲荷神社の鳥居が見える。鳥居を正面に見て右側へ折れ、稲荷神社の右背後のほうへと向かう。

ちなみに稲荷神社は帖佐館(ちょうさやかた、別名に御屋地、おやじ)の跡地である。ここはかつて島津義弘(しまづよしひろ)の居館だった。詳細は関連記事にて。

【関連記事】帖佐館跡にいってきた、島津義弘は関ヶ原からここに帰還

 

稲荷神社の裏手にどんどん進む。すると、急に住宅街が途切れて、山道へと入る。なかなか険しい雰囲気でちょっと不安になるが、そこまで道が悪いわけではない。

しばらく登ると。白い標柱が目に入る。こちらは高尾城(たかおじょう)跡。平山城の支城だ。慶長3年(1598年)にこの地に稲荷神社が建立されたという。朝鮮の泗川(しせん、サチョン)の戦いで島津軍を勝利に導いた狐を祀ったものだった。稲荷神社は文政10年(1827年)に麓の帖佐館跡に遷座している。

夏草の中に標柱が立っている、写真左側に曲輪跡

高尾城跡

 

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高尾城からさらに登っていく。鬱葱とした林道を進むと鳥居が現れる。ここが帖佐八幡神社である。

帖佐八幡神社の参道入口に鳥居と石段

帖佐八幡神社の鳥居

 

鳥居横の駐車場に車を停めて散策へ。この駐車場も曲輪跡のようだ。境内を歩くと、ところどころ曲輪っぽい地形も見られる。

参道脇にこんもりとした地形

参道、写真右側が曲輪っぽい

 

『三国名勝図会』によると、「東北は山続きにて、堀切あり、南は絶壁、西は水田に臨む、樹木欝然として水泉多し」と説明されている。現地を見ても、だいたいその通りである。また、曲輪には「本丸、中丸、平安城、荒神城、鶴丸城、松尾城、小城、櫓城、賀茂城、東城、玄番城、南城、高尾城」があったという。どの曲輪がどれに当たるのかは、ちょっとよくわからないけど。

平山城は、平山了清なる人物が弘安5年(1282年)にこの地に下向して築城したとされる。帖佐八幡神社も平山了清が創建した。

苔むした境内はなかなか雰囲気がある。イチョウの大木もある。境内の本殿脇に平山城跡の標柱がある。

城跡の標柱、写真奥に大銀杏と社殿が見える

「平山城跡」標柱

 

標柱手前から脇の方へ降りていける。こっちには空堀が確認できた。整備されていなくて進めない感じだが、こちらのほうにもずっと曲輪が連なっているようだ。

参道脇に空堀が確認できる

標柱近くの空堀

 

参道入口まで戻る。鳥居の前にも曲輪跡。こちらは桜公園として整備されているが、訪問した日はかなり草が伸びていた。曲輪の先のほうまで行くと、姶良市街地と桜島が見える。

鳥居の向かい側にも曲輪の跡がある

桜公園も曲輪跡

桜公園側の曲輪の上

のぼるとこんな感じ

掘り込んだような感じの山城っぽい地形

ここも曲輪の痕跡か

視界が開ける、姶良市街地を見下ろす

曲輪の端から麓を見る

 

桜公園には上への道もあった。頂上部分と思われる曲輪に放送関係の設備(中継局か)もある。

山頂には通信関係の施設がある

高いところまで登る

なかなかに守りが固そうな城だった。散策時間は30分ほど。

 

桜の季節にも再訪した。

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帖佐と平山氏

このあたりは古くは大隅国の桑原郡のうちにあった。 『和名類聚抄』によると桑原郡に「答西」という地名がある。これが帖佐にあたると思われる。音は「チョーセ」あるいは「チョーサ」か。これに漢字をあてたのだろう。由来はわからず。「チョーサ」というのは古代の隼人の時代から残る地名なのかも、という気もする。

帖佐の支配者として、古くは紀姓の西郷氏がある。平安時代後期に帖佐は大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人)領であり、西郷氏が帖佐西郷の弁済使(荘官)となっていたようだ。

12世紀末、鎌倉に武士政権が確立すると、幕府は中原親能(なかはらのちかよし)を大隅正八幡宮領の地頭に任命。帖佐もその支配下にあったと思われる。その後、中原親能は地頭職を解任。かわって肥後坊良西が帖佐地頭に補任されたが、こちらも支配年数はあまり長くなかったようだ。ちなみに、肥後坊良西の後裔が平田氏を称したとされる。

 

弘安5年(1282年)、平山了清が一族を引き連れて山城国(現在の京都府)より大隅国帖佐に下向した。平山了清は紀姓で、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市)の社家の一族。善法寺(石清水八幡宮別当寺)の別当・検校職を世襲する家系だ。承久2年(1220年)に善法寺栄清(了清の祖父)が大隅国帖佐平山村の領家職を与えられ、相伝していく。これにより栄清は平山氏を号するようになったという。だが、栄清は京にあり、孫の代になって任地に入った。

それまで帖佐は大隅正八幡宮社家の留守氏(るす、こちらも紀姓)が支配していたが、代わって平山氏が治めるようになる。

平山了清は石清水八幡宮より勧請して八幡神社を創建。新正八幡宮と称した。これが現在も残る帖佐八幡神社である。さらに新正八幡宮が鎮座する台地では築城も進めた。その城が平山城である。

平山氏は帖佐で繁栄する。一族には松元氏・市成氏・小城氏・小川氏・木幡氏・甑氏・餅田氏・中津野氏・平瀬氏・高城氏・平松氏などがある。

14世紀中頃、南北朝の争乱がはじまると平山氏は北朝方の島津貞久(しまづさだひさ、島津宗家5代)に従ったようだ。

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争乱は複雑怪奇な展開となっていく。全国的には北朝方が優勢だったが、九州では南朝方にかなり勢いがあった。そこに幕府の内紛がからんで、九州に入った足利直冬が独自の勢力を築いたりと、混沌とした状況に。そして、島津氏と畠山直顕(はたけやまただあき)の対立も表面化する。畠山直顕は足利氏一門で、幕府から九州に派遣されていた。日向国・大隅国に支配権を広げ、島津氏にとって脅威となっていた。島津氏は苦境の中で南朝方について、畠山氏との対決を優先させる。

延文2年・正平12年(1357年)頃、島津氏久(うじひさ、島津氏6代)と畠山直顕は帖佐で決戦におよぶ。このとき平山氏は畠山方についたようだ。平山氏の城である餅田城・萩峯城(場所はともに姶良市西餅田)でも戦いがあった。

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南北朝の争乱が終わっても、南九州の戦乱は続く。平山一族は島津元久(もとひさ、宗家7代、奥州家)に従っていた。応永4年(1397年)の薩摩国入来院(いりきいん、鹿児島県薩摩川内市入来)の清色城(きよしきじょう)攻めにも島津方として従軍した。また、島津氏内で奥州家と総州家が対立したあとも、引き続き島津元久に協力。応永8年(1401年)の薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)の合戦では奥州家方として奮戦している。

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15世紀の南九州は大いに乱れた。島津氏が支配体制を確立しようとし、国人たちがそれに反発する。そこに島津氏内でも分裂がからんできたりも。この混乱の中で、没落した在地領主も多い。

帖佐領主の平山武豊(平山氏9代)は島津氏に反抗する。享徳年間(1452年~1455年)に、島津忠国(ただくに、島津宗家9代)は島津季久(すえひさ、忠国の弟)に平山氏を攻めさせた。平山城は落ち、帖佐は制圧された。

戦後、帖佐は島津季久の所領となる。島津季久は豊後守を称したことから豊州家(ほうしゅうけ)という。豊州家は島津氏の有力分家のひとつとして力を持つようになっていく。

平山氏が長禄3年(1459年)に反乱を起こした記録もある。しばらくは抵抗を続けていたようだ。その後、降伏。平山氏は薩摩国鹿児島の武(たけ、鹿児島市武)や薩摩国揖宿郡(鹿児島県指宿市)に知行を与えられて移り住んだ。領主としての平山氏は没落する。

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豊州家の帖佐支配

平山城に入った島津季久(豊州家)は、新たに瓜生野城(うりうのじょう、場所は姶良市西餅田)を築いた。嫡男の島津忠廉(ただかど、豊州家2代)とともに瓜生野城に入り、こちらを本拠地とした。

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平山城には次男の島津忠康(ただやす)を置いた。以降は、平山忠康と名乗るようになった。

また、島津季久(豊州家)は帖佐の東に隣接する加治木(かじき、姶良市加治木)も傘下に組み込む。加治木は古くから加治木氏が領有していたが、島津季久はここに三男の満久を養子として送り込んだ。

帖佐の西側の蒲生院(かもういん、姶良市蒲生)にも勢力をのばす。蒲生城の蒲生宣清を攻めて、これを奪った。

豊州家は帖佐・加治木・蒲生を勢力下においた。その支配領域は、ほぼ現在の姶良市一帯にあたる。

島津季久(豊州家)は、宗家の島津忠国・島津立久(たつひさ、島津宗家10代)をよく支えた。しかし、幼少の島津忠昌(ただまさ、11代)が当主になると南九州は再び乱れる。島津氏の分家には薩州家(さっしゅうけ)・豊州家・相州家(そうしゅうけ)・羽州家(うしゅうけ)・伯州家(はくしゅうけ)などがあり、これらが宗家に反乱を起こすのである。

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文明8年(1476年)から翌年にかけて、島津国久(くにひさ、薩州家)と島津季久(豊州家)が反乱を起こす。島津豊久(伯州家)や島津忠徳(羽州家)も同調。さらに、薩摩・大隅・日向の国人も加わった。

島津季久(豊州家)は帖佐から鹿児島に向けて軍を進めようと動く。清水城(しみずじょう、島津宗家の本拠地、鹿児島市清水町)にあった島津忠昌が伊集院(いじゅういん、鹿児島県日置市伊集院)に避難する事態にもなった。

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文明16年(1484年)には日向国の南部で伊作久逸(いざくひさやす)が叛く。伊作久逸は島津忠国の三男で、伊作氏に養子入り。島津忠昌からみて叔父にあたる。

この頃、伊作久逸は日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)を任されていたが、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)にあった新納忠続(にいろただつぐ、島津氏庶流)と対立。伊作久逸は伊東祐国(いとうすけくに、日向の有力領主)と結んで飫肥に攻め込んだ。さらに、北原立兼(きたはら)・祁答院重度(けどういん)・入来院重豊(いりきいんしげとよ)・東郷重理(とうごう)・吉田泰清(よしだやすきよ)・菱刈氏重(ひしかりうじしげ)らも同調して薩摩国北部で蜂起する。島津領内は大乱となる。

島津忠廉(豊州家)は祁答院重度らから誘いを受けるが応じなかった。島津宗家のために伊作久逸と新納忠続の和睦を取りまとめようと動く。しかし、これが失敗。さらに、「伊作久逸と同調するのでは?」と疑いをもたれてしまうのである。そして、島津忠廉(豊州家)は宗家に叛き、独自に動くようになる。

文明17年(1485年)2月、島津忠廉(豊州家)は挙兵。薩摩国満家院(みつえいん)の川田城(かわだじょうを)を攻め、それから薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩川内市祁答院・薩摩郡さつま町のあたり)に進攻。帖佐に戻って、大隅国囎唹(そお)の上井城(うわいじょう、霧島市国分上井)を攻め落とす。

島津国久(薩州家)はこのままでは事態は収拾できないと考え、島津忠廉(豊州家)の説得に動いた。島津忠廉(豊州家)は聞き入れて、5月に宗家方に帰順した。これにより薩摩・大隅で反乱を起こした者たちもつぎつぎと島津宗家に従った。

島津忠昌は日向国南部へ軍を動かす。飫肥を攻撃中の島津久逸・伊東祐国・北原立兼らを撃つために。この戦いに島津忠廉(豊州家)も従軍する。島津忠昌方は6月に飫肥で敵連合軍を撃破。さらに、櫛間に撤退した伊作久逸を攻めて降伏させた。

文明18年(1486年)、飫肥と櫛間は島津忠廉(豊州家)に与えられた。島津忠廉は飫肥城に移り、こちらの領主となった。

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帖佐には平山忠康(忠廉の弟)が残った。しかし、明応4年(1495年)に大隅国の串良城(くしらじょう、鹿児島県鹿屋市串良)を与えられ、こちらへ移る。帖佐は島津宗家の直轄領となった。帖佐地頭には川上忠直(かわかみただなお、島津氏庶流川上氏の一族)が任命された。そして帖佐内の邊川(へがわ)の地名にちなんで、邊川忠直と名乗るようになった。

明応4年(1495年)6月、加治木領主の加治木久平が反乱を起こし、帖佐の平山城に攻め込んできた。加治木氏は豊州家の一門で、久平は平山忠康の甥にあたる。

邊川忠直は高尾城(平山城の支城)にこもって、加治木氏の攻撃からよく守った。島津忠昌は大軍を率いて帖佐に入り、加治木氏を撃退する。翌年には加治木久平が降伏。加治木氏は旧来の所領を失って没落する。

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乱世の激戦地に

16世紀に入ると、島津氏(宗家、奥州家)当主の夭折が続いたこともあって政権は不安定に。宗家14代当主の島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久と改名)では統制がとれず、当主の交代が画策される。覇権を狙うのは、薩州家と相州家であった。

薩州家は分家の筆頭格で、若い島津実久が当主となっていた。相州家の当主は島津忠良(ただよし)。もともとは伊作氏の生まれで、伊作久逸の孫にあたる。相州家に養子入りし、相州家と伊作氏の家督をあわせて継承している。

大永6年(1526年)、島津忠良(相州家)が実権を握る。そして、忠良の嫡男の虎寿丸を島津忠兼の養子とし、後継者とした。11月、島津忠兼が宗家家督と守護職を虎寿丸に譲る。虎寿丸は元服して島津貴久と名乗った。島津貴久は清水城に入って、島津忠良が後見。島津忠兼は伊作城(いざくじょう、鹿児島県日置市吹上)を隠居所とし、こちらへ移った。

この動きに薩州家が反発する。

帖佐地頭の邊川忠直が謀反。薩州家と結んで、帖佐から鹿児島を襲おうとはかった。島津忠良は帖佐に進軍する。邊川忠直は防戦するが、平山城は陥落した。島津忠良は島津昌久(まさひさ)を帖佐地頭に任命し、平山城に入れる。島津昌久は薩州家の一族だが、忠良の姉婿という縁もあって相州家方にあった。

大永7年(1527年)4月、今度は島津昌久が薩州家に通じて謀反。加治木地頭の伊地知重貞(いじちしげさだ)とともに挙兵する。島津忠良は鹿児島から兵を出し、鎮定にあたった。6月に加治木城を攻め落とし、伊地知重貞を自害させた。平山城も落とし、島津昌久を討ち取った。

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だが、島津忠良が鹿児島を離れている隙をついて、薩州家の兵が相州家の領内に侵入。薩摩国の日置・伊集院(ひおき・いじゅういん、ともに鹿児島県日置市)を攻め落とした。そして谷山(たにやま、鹿児島市谷山)をとり、鹿児島の清水城に迫った。島津貴久は清水城を脱出し、田布施(たぶせ、相州家の本拠地、鹿児島県南さつま市金峰)に逃亡した。

その一方で、伊作城の島津忠兼のもとに薩州家の使者が訪れ、復帰を持ちかけたのである。島津忠兼は説得に応じ、鹿児島に戻って宗家当主と守護職に復したのである。このときに名を島津勝久(かつひさ)と改める。

これからしばらくは、島津実久(薩州家)と島津忠良・島津貴久(相州家)の抗争が続いていく。島津勝久は島津実久(薩州家)と組むが、のちに決裂。鹿児島を奪われ、追放されてしまう。

 

 

 

祁答院氏の帖佐支配、そして大隅合戦へ

薩州家と相州家の抗争で混乱しているすきに、祁答院重武(けどういんしげたけ)が帖佐と山田(やまだ、姶良市上名)に侵入。相州家方の地頭が守っていたが、平山城・新城・山田城は陥落する。帖佐はしばらく祁答院氏の支配下となった。

祁答院氏は薩摩国祁答院(けどういん)を拠点とする。13世紀に幕府より地頭に補任されて下向した渋谷氏の一族である。

天文9年(1540年)頃、相州家が薩州家を押し込み、薩摩の形勢がほぼ決まる。島津貴久は島津氏の覇権を握った。薩摩国中南部を平定し、つぎは西大隅に目が向くのである。

加治木城主の肝付兼演(きもつきかねひろ、肝付氏庶流)は、島津貴久(相州家)に従ってこの地の領主となっていた。しかし、薩州家方に転じて、相州家方に反抗していた。天文18年(1549年)、肝付兼演は入来院重朝(いりきいんしげとも、渋谷一族)・東郷重治(とうごうしげはる、渋田一族)・祁答院良重(けどういんよししげ、重武の子)・蒲生茂清(かもうしげきよ)と共謀。相州家傘下であった大隅国吉田院(鹿児島市吉田)の松尾城(まつおじょう)を襲った。

島津貴久の軍勢は吉田院に入り、反乱軍を敗走させた。さらに加治木城を攻め、肝付兼演は降伏した。帖佐の祁答院良重も降った。

天文23年(1554年)、祁答院良重・蒲生範清(のりきよ、茂清の子)・入来院重嗣(しげつぐ、重朝の子)らが再び叛く。北原守兼(きたはらもりかね)・菱刈隆秋(ひしかりたかあき)らもこれに応ずる。反乱軍は加治木城の肝付兼盛(かねもり、兼演の子)を攻めた。

島津貴久は大軍を率いて鹿児島から出陣。加治木城の救援のために帖佐の西に位置する岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲んだ。岩剣城は蒲生氏や祁答院氏にとっては落とされたくない城である。ここを取られると祁答院・蒲生方面と帖佐の間に敵が入り込むことになる。「岩剣城を攻めれば加治木の囲みを解くだろう」というの狙いも島津方にはあった。反乱軍はそのとおりに動く。加治木城の攻撃をやめて、帖佐へと軍を動かしてきた。

島津方では島津貴久の3人の息子も初陣を飾った。長男の島津義辰(よしたつ、島津義久、よしひさ)、次男の島津忠平(ただひさ、島津義弘)、三男の島津歳久(としひさ)である。

島津方は岩剣城を囲みつつ、帖佐に進軍してきた蒲生・祁答院連合軍もたたく。激戦の中で有力武将を討ち取り、敵軍を敗走させた。孤立した岩剣城に島津方は総攻撃をかけ、ついには落城させる。

その後、岩剣城には島津忠平(島津義弘)が在番する。

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年が明けて天文24年(1555年)、島津貴久は帖佐と蒲生の攻略をすすめる。加治木の肝付兼盛は平安城(平山城)の祁答院良重を攻めるが、落とせず。しばらくして、今度は島津貴久が平安城(平山城)を囲む。5日間にわたる猛攻に祁答院良重は耐えられず、城を棄てて本拠地の祁答院に逃亡した。島津貴久は帖佐を平定する。その後、祁答院良重は帖佐奪還の兵を差し向けるが、島津方が撃退している。

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弘治3年(1557年)には、島津方は蒲生氏の本拠地である蒲生城(姶良市蒲生町)を陥落させる。島津貴久は蒲生院も手中におさめた。

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帖佐地頭は、弘治3年に鎌田政年が任される。永禄8年(1565年)には島津征久(ゆきひさ、島津以久、もちひさ、貴久の甥)に帖佐が与えられた。

 

 

島津義弘が帖佐を本拠地とする

文禄4年12月(1596年1月か)、島津義弘は大隅国栗野(くりの、鹿児島県姶良郡湧水町栗野)から帖佐に移り住む。平山城の麓に帖佐館(ちょうさやかた)を築いて居館とした。戦時には平山城にこもることも想定していたと思われる。

慶長2年(1597年)に島津義弘は二度目の朝鮮渡海となるが、帖佐から出陣している。泗川の戦いでの劇的な勝利や、撤退戦となった露梁海戦で目覚ましい活躍を見せた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前方への退却という壮絶な撤退戦を展開。戦場から離脱し、帖佐に帰還した。

慶長11年(1606年)に、島津義弘は平松城(ひらまつじょう、姶良市平松)に移る。さらに慶長12年(1607年)に加治木館(かじきやかた、姶良市加治木)に移って余生をおくった。

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『姶良町郷土誌』(増補改訂版)
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町長 櫟山和實 1995年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

ほか