南北朝の争いは引き続き混沌とした状況に。貞和3年・正平2年(1347年)の吉野陥落をもって北朝方が圧倒するかと思いきや、幕府では足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)の兄弟喧嘩(観応の擾乱)が勃発。幕府が分裂し、直義が南朝にくだったり、尊氏が南朝にくだったり。南北朝合一が成ったり、北朝が復活したり。
足利兄弟の南朝への帰順は、あくまでも抗争収拾のために利用したにすぎなかった。この頃から、戦っている者の意識は南朝とか北朝とかどうでもよくなっているかのような印象がある。北朝につくも南朝につくも、あくまでも利害による。「どっちが得か?」という思考をもとに、コロコロと立場を変えるのである。
『島津国史』(19世紀初め頃に鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した正史)の記述をもとに南九州の動きを追っていく。今回は、正平7年(1352年)に幕府が北朝を復活させた直後から。元号については北朝と南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。
三つ巴の戦いが続く
幕府内の抗争はおさまったものの、戦乱はまだまだ続く。
九州では、幕府の混乱に乗じて南朝方が盛り返す。征西大将軍・懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)は肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池氏)に征西府を置き、九州攻略を展開。菊池領主の菊池武光(きくちたけみつ)が中心となって、幕府方や佐殿方を圧倒しつつあった。
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南九州においては幕府に反発する足利直冬(あしかがただふゆ、尊氏の庶長子)の勢力(佐殿方、すけどのがた)もまだ健在であった。佐殿方の日向国守護・畠山直顕(はたけやまただあき)と幕府方の島津氏との対立が激しくなっていく。
正平7年(1352年)9月18日
幕府が島津師久(もろひさ、貞久の三男)と島津氏久(うじひさ、貞久の四男)に、足利直冬党(佐殿方)の討伐を命じる。また、島津氏久が大隅・日向の反幕府勢力を攻めた、とも幕府に報告あり。
この頃から当主の島津貞久が表に出てこなくなる。貞久は文永6年(1269年)の生まれとされ、かなりの高齢である。一線から身を退き、島津師久・島津氏久が代理で動くようになっていく。島津師久は薩摩国を任され、薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、現在の鹿児島県薩摩川内市天辰町)に入った。島津氏久は鹿児島郡の東福寺城(とうふくじじょう、鹿児島市清水町)を本拠地とし、大隅方面の攻略を任された。
文和元年・正平7年12月3日(1353年1月)
大隅国南部で南朝方の楡井頼仲(にれいよりなか)が再挙兵。禰寝清成が守っていた大姶良城(おおあいらじょう、鹿児島県鹿屋市大姶良)を奪ってここに入る。楡井頼仲は観応2年・正平6年(1351年)に畠山直顕の軍に敗れ、本拠地の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町)も奪われていた。禰寝(ねじめ)氏は大隅国禰寝院(ねじめいん、現在の肝属郡南大隅町根占)の国人で、畠山直顕に従っている。翌日、禰寝清成・禰寝清増・禰寝清有らは、畠山氏配下の野本行秀に従って城を攻める。落とせず。
文和2年・正平8年(1353年)2月~3月頃か
島津師久・島津氏久が、佐殿方の市来時家(いちきときいえ)・東郷道義らと戦う。勝てず。
市来時家は薩摩国市来院(いちきいん、現在の鹿児島県いちき串木野市市来・日置市東市来)の国人。東郷道義は大前(おおくま、おおさき)氏の一族で、薩摩国東郷別府(とうごうべっぷ、薩摩川内市東郷)あたりの人だろうか。市来氏はそれまで南朝方として活躍しており、この頃は佐殿方に同調していたのだろうか。
3月5日に島津師久・島津氏久は幕府に援助を求める。その後、幕府より薩摩国・大隅国の御家人に対して島津氏を助けるよう書が発せられている。
この頃、島津氏はかなり厳しい状況だった。幕府へ救援を求めているが、足利義詮から出されるのは激励の言葉だったり、恩賞の約束だったり、あるいは以前の軍功を褒めたたえたり、といった内容の書がたびたび下される。援兵などはなし。幕府は「頑張れ!」と言うだけだった。
文和2年・正平8年(1353年)6月10日
南朝方の楡井頼仲が再び挙兵。大隅国下大隅に木谷城(きたにじょう、場所は現在の鹿屋市花岡)を築いて抗戦。薩摩国の南朝勢力もこれに呼応した。
窮する島津、幕府の助けも来ない
文和2年・正平8年(1353年)10月9日
日向国の穆佐院(むかさいん、宮崎県宮崎市)と島津院(しまづ、宮崎県都城市)をぶんどった畠山直顕・伊東氏祐(いとううじすけ)を討伐するよう、幕府が島津貞久に命じる。
文和2年・正平8年(1353年)10月28日
島津貞久が幕府に書を送り、足利義詮の京奪還を祝うともに、薩摩・大隅の状況を伝えた。
文和3年・正平9年(1354年)2月22日~25日
佐殿方の禰寝清成・禰寝清増・禰寝清有らが、南朝方の楡井頼仲一党を攻める。2月22日夜より大隅国鹿屋院(かのやいん、鹿児島県鹿屋市)の一谷城(いちのたにじょう)を攻撃し、24日に陥落させる。また、木谷城も落とす。25日には大姶良城も陥落した。
文和3年・正平9年(1354年)3月頃
畠山直顕は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市)や大隅国下大隅(鹿児島県垂水市・鹿屋市)方面に勢力を広げていく。その一方で、薩摩国の南朝方が伊作田城(いざくだじょう、場所は鹿児島県日置市東市来町伊作田)に集結して蜂起。碇山城に攻めかかろうとする。
文和3年・正平9年(1354年)6月10日
南朝方の和泉政保と知色行覚(知識行覚)が島津氏を攻める。薩摩国山門院にある木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)に兵を向けた。島津師久は撃って出て、知色行覚の居城である尾崎城(おざきじょう、知色城、知識城とも)を攻撃。12日、これを落とす。
和泉(いずみ)氏は和泉郡(現在の鹿児島県出水市)の郡司。伴姓で、大隅の肝付氏の庶流である。知色(ちしき)氏は「知識」氏とも書く。和泉郡知識に土着した一族。尾崎城は出水市中央町の大将軍神社(御祭神は知色行覚)のあたりにあったという。
文和3年・正平9年(1354年)9月
畠山直顕が東福寺城を攻撃。畠山勢は軍をふたつにわけ、野元(鹿児島市武岡)と原羅(はらら、鹿児島市原良)より攻めかかった。島津氏久は撃って出て、数日にわたって交戦した。
同じ頃、肥後国球磨郡須恵・多良木(熊本県球磨郡あさぎり町・多良木町)に、九州探題一色氏の将である一色範親(いっしきのりちか)が出陣。島津師久は援軍を送った。
文和4年・正平10年(1355年)4月
大隅国下大隅(鹿児島県垂水市)にあった肥後種顕・肥後種久が、島津氏を裏切って畠山直顕につく。崎山城(垂水市海潟)に畠山勢を入れたので、島津氏久はこれを攻めた。12日に崎山城を落とした。
ちなみに、肥後(ひご)氏は名越北条氏の被官として大隅に下向した一族で、のちに種子島氏を名乗る。
文和4年・正平10年(1355年)4月26日
南朝方が山門院の木牟礼城に夜襲をかける。牛屎高元・市来氏家・東郷道義らが和泉郡の和泉政保や肥後国葦北郡(現在の熊本県水俣市のあたり)の国人と連携して攻めかかった。島津師久は知色城(知識城)より来援して迎え撃ち、敵を退却させた
牛屎氏は「うしくそ」と読む。または、「うぐつ」「ねばり」など諸説あり。薩摩国牛屎院(鹿児島県伊佐市大口)に所領を持つ。
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在国司道久(在国司および祁答院郡司の大前氏)が足利直冬に応じる。肥後国の菊池氏らと連携して知色城(知識城)を攻めようとするが、京での足利直冬の敗北を聞いて実行されず。
文和4年・正平10年(1355年)9月2日
南朝方の三條泰季(さんじょうやすえ、懐良親王の家来)が市来氏家・鮫島家藤(さめじまいえふじ)・知覧忠世(ちらんただよ)・左當彦次郎入道らを率いて薩摩国薩摩郡の櫛木野(串木野城、くしきのじょう、現在の鹿児島県いちき串木野市串木野)を攻撃。島津師久は知色城(知識城)より兵を出し、連戦すること五日。敵軍を破る。この戦いで島津氏配下の猿渡信重(さるわたりのぶしげ)が戦死した。
市来氏・鮫島氏・知覧氏はいずれも薩摩半島中南部に所領を持つ。鮫島氏は阿多郡(鹿児島県南さつま市金峰)の地頭、知覧氏は知覧院(南九州市知覧)の郡司。
文和4年・正平10年(1355年)10月22日
和泉政保・牛屎高元・在国司道超(大前氏、道久の父)らが知色城(知識城)を急襲。島津師久は兵を還して救援する。この戦いで島津師久や北郷資忠(ほんごうすけただ、貞久の弟)らが負傷。酒匂久景(さこうひさかげ、守護代)・酒匂忠胤(さこうただたね)・愛甲彌四郎・土田五郎・阿曾谷三郎右衛門尉・堀源五が戦死した。
文和4年・正平10年(1355年)11月7日
足利義詮より島津貞久が教書を賜り、「鎮西の平定のために幕府から討伐軍を出すから、到着までなんとか持ちこたえてほしい」と救援の約束を得る。島津師久は窮状を幕府に訴えており、足利尊氏・足利義詮の九州征討を願い出ていた。しかしながら、幕府軍の出動は実現しなかった。
この頃、九州探題・一色直氏が博多を棄てて長門国(現在の山口県)へ退いており、北朝方はすっかり勢いを失っていた。島津氏の置かれた状況は切迫していた。
幕府は島津氏に対してこれまでの軍功を賞する、恩賞や本領安堵など、離反しないように懐柔をはかっていたが……。
畠山が幕府に戻り、島津が南朝に転ず
延文元年・正平11年(1356年)秋
畠山直顕が幕府に帰順する。一方、島津氏は南朝に応じた。幕府に義理を果たすことよりも、目の前の敵(=畠山直顕)と戦うことを選んだ。
延文元年・正平11年(1356年)10月25日
南朝方となった島津氏久が、三條泰季とともに大隅国加治木郷の岩屋城(いわやじょう、現在の鹿児島県姶良市加治木町木田)を攻撃する。畠山直顕(幕府方)は禰寝重種・禰寝清増を岩屋城の救援に遣わした。久木崎久春が城に討ちいって陥落させる。伊集院久氏(いじゅういんひさうじ)・本田親春(ほんだちかはる)・比志島範平(ひしじまのりひら)・野田刑部左衛門尉・帖佐太郎左衛門らも活躍した。
伊集院久氏は島津氏庶流の伊集院氏の6代当主で、薩摩国日置郡伊集院(日置市伊集院)を領する。伊集院氏は南朝方として戦い、それまでは本家の島津氏とも敵対関係にあった。
本田氏は島津氏の重臣を出す一族。比志島氏は満家院比志島(みつえいんひしじま、鹿児島市皆与志町)を拠点とし、一貫して島津氏に従っている。
岩屋城を守った人物については記載がないが、この地を古くから支配する加治木氏の居城だったと思われる。当主の加治木政平は畠山氏に応じていた。岩屋城跡に隣接して、「岩屋寺」という寺院もあった。その跡地には古い石垣も残る。こちらにも兵を配していたのかも。
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延文元年・正平11年(1356年)11月10日
畠山勢が加治木本城(姶良市加治木町反土)から撃って出て、三條泰季の陣営を急襲。久木崎久春・伊集院久氏がこれを撃退した。
延文2年・正平12年(1357年)1月22日
島津氏久が三條泰季とともに再び加治木で戦う。25日にも戦闘あり。
延文2年・正平12年(1357年)1月27日
南朝方の楡井頼仲・楡井頼重(頼仲の弟)が再々挙兵。日向国救仁郷(現在の鹿児島県曽於郡大崎町)の胡麻崎城(ごまがさきじょう)にたてこもった。畠山勢の禰寝重種・禰寝清増がこれを攻めた。数日後に胡麻崎城は陥落し、楡井頼重は戦死。楡井頼仲は志布志に逃れた。2月5日には志布志の松尾城も落ち、楡井頼仲は大慈寺で自刃。楡井氏は滅ぶ。
延文2年・正平12年(1357年)3月22日
島津氏久が加治木で夜襲をかける。
延文2年・正平12年(1357年)5月10日
島津氏配下の久木崎久春が大隅国帖佐の餅田城(もちだじょう、茶臼城とも、場所は姶良市西餅田)を攻撃。帖佐の領主は平山氏で、畠山氏の傘下となっていた。この城も平山一族のものと思われる。
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畠山直顕は加治木に軍をすすめ、土器園塁(かわらけとりで、姶良市加治木町黒川)を築いて島津氏と対峙する。畠山家執事・野元秀安を帖佐の萩原城(萩峯城のこと、姶良市西餅田)に入れて、ともに島津氏を攻撃した。畠山勢は本田重親(ほんだしげちか、島津氏久の執事)が守る溝辺城(霧島市溝辺町)を囲む。一方、島津氏久は萩原城(萩峯城)を囲んだ。
大隅正八幡宮(鹿児島神宮、場所は霧島市隼人町)の社人が仲立ちとなって両陣営は和睦。お互いに囲みを解いた。しかし、島津氏久は茶ヶ尾(場所詳細わからず)に細作(間者)を遣わし、虚をついて夜襲をかけた。畠山勢は総崩れとなり、山北(薩摩国北部)に敗走した。
なお、萩峯城・溝辺城の戦いについては『西藩野史』で延文2年・正平12年(1357年)としている。『島津国史』では康安元年・正平16年(1361)年の記事の後に、この情報が記載されている。
その後、島津氏久は下大隅に侵攻。畠山方の末次城(鹿屋市吾平町)を落とす。さらに西俣城・姶良城・大姶良城(いずれも鹿屋市南部)も制圧。島津氏久は大姶良城に入り、末次城と西俣城にも城将を置いた。また、志布志も畠山氏から奪い、志布志松尾城には新納実久(にいろさねひさ、島津氏庶流の新納氏2代目)を入れた。
畠山直顕は山北より志布志へ侵攻し、志布志内城に入る。ここを拠点に新納実久が守る志布志松尾城を攻撃。これに対して、島津氏久は大軍を率いて志布志に至り、畠山勢を打ち負かした。
畠山直顕は日向国櫛間院へ逃れ、さらに飫肥へと引いた。伊東祐重(いとうすけしげ、伊東氏祐)に助けを求めるも断られ、本拠地の穆佐城(むかさじょう、場所は宮崎市高岡町)へと退いた。
延文3年・正平13年(1358年)春
征西府の菊池武光が、筑紫探題(九州探題)の一色直氏と決戦。島津氏も南朝方で参戦した。菊池勢が大勝し、一色直氏は九州から逃亡。幕府は九州の拠点を失うこととなった。
延文3年・正平13年(1358年)11月
幕府方で残るのは日向国の穆佐城にある畠山直顕のみ。菊池武光はこれを攻めて打ち破る。畠山直顕はその後、豊後国(現在の大分県)へと逃亡した。
九州においては、南朝方がほぼ制圧するに至った。
……つづく。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
『志布志町誌 上巻』
発行/志布志町役場 1972年
『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編さん委員会 発行/加治木町 1992年
『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町 1995年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか