ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

肝付氏のこととか、高山の歴史とか

南九州の歴史というと、どうしても島津(しまづ)氏ばかりが取り上げられる。というのも、薩摩国・大隅国・日向国の勝者だからだ。敗れた側の歴史は次第に語られなくなるものである。

中世に大隅国で繁栄した一族に、肝付(きもつき)氏がある。肝属郡高山(こうやま、現在の鹿児島県肝属郡肝付町高山)を本拠地とし、薩摩国や日向国にも支族がいた。南九州においては島津氏よりもずっと古い。歴史の要所要所で肝付氏は存在感を放ち、一時は島津氏をしのぐほどの勢力を持っていたのだ。

 

古い石造りの「高山城跡」碑、奥に山城跡も見える

肝付氏の居城、高山城跡

 

下の写真は盛光寺跡。文永9年(1272年)に5代・肝付兼石が創建したとされる。現在は廃寺となっているが、肝付家累代の墓が歴史をの長さを感じさせる。

並べられた石塔群

盛光寺跡、肝付氏累代の墓

 

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肝付氏のはじまり

肝付氏に伝わる家譜(『肝付文書』に記される)によると、肝付氏のはじまりは安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩国掾に任じられて下向したことによるとされる。この人物は、大宰府(だざいふ)の大監(だいじょう、だいげん、役職のひとつ)だったとも。伴兼行は薩摩国鹿児島郡神食(かんじき、現在の鹿児島市伊敷)に居住し、その居館を「伴掾館(ばんじょうかん、ばんじょうのやかた)」と呼んだという。

その後、長元9年(1036年)に伴兼貞(とものかねさだ、兼行の孫)が、大隅国肝属郡の弁済使(べんざいし、荘園の管理者)に任じられて高山に入る。伴兼貞は平季基(たいらのすえもと)の娘を妻としたとも伝わる。平季基は万寿年間(1024年~1028年)に島津荘を開拓し、その管理者となっていた。娘婿である伴兼貞は、平季基から大隅国肝属郡や日向国三俣院(みまたいん、宮崎県北諸県郡三股町と都城市の一部)など、広大な所領を任された。そして、兼貞の子の兼俊(かねとし)の代から肝付氏を名乗るようになった。この肝付兼俊を初代としている。肝付一族は日向・大隅・薩摩のあちこちに所領を得て、各地に支族がちらばって繁栄していく。支族には和泉氏・鹿屋市・安楽氏・萩原氏・梅北氏・北原氏・頴娃氏など。

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肝付氏は伴(とも、ばん)姓である。伴氏はかつて大伴(おおとも)氏を称し、天皇家の側近として権勢を誇っていた名族である。

肝付家譜によると、伴兼行を大友皇子(おおとものみこ、天智天皇の第一皇子)の九世孫としている。大友皇子の子・余那足が伴姓を賜り、そこから大納言の伴善男(とものよしお)につながった、と。そして、善男→仲用(中庸)→仲兼→兼遠→兼行→行貞→兼貞→兼俊という系図になるのだという。

なお、出自を大友皇子とするのは、後世の偽作とされる。そもそも、大伴氏は古代から続く氏族であり、大友皇子とはつながりえないのである。

伴善男につながる系図も真偽のほどはわからない。こちらも仮冒の可能性あり、かと。ただ、伴氏の一族であった、あるいは伴氏と関係が深い、というのはほぼ間違いないと思われる。伴氏は10世紀以降は歴史の表舞台から姿を消した一族である。系図をでっちあげるとするなら、わざわざ伴氏を選ばないだろう。もっと勢いのあるブランド(藤原氏・源氏・平氏あたり)を選ぶはず。

「うちはもともと伴氏なんだけど、どうせ名乗るならそれなりの有名人の後裔を称したいな。それなら、伴善男とかいいかも」って感じか?

肝付氏草創期の系図にはつじつまの合わないところもある。兼貞が肝属郡に入ったとされる長元9年(1036年)を基準に考えると初代・兼俊は11世紀後半頃の人物ということになる。長生きしたとしても12世紀初め頃までだ。ところが、2代・兼経(かねつね)は12世紀末頃の人物である。親子というには間があきすぎなのだ。系図で何代か抜けがあるのか、あるいは歴史を古く見せるために年代を前にずらしたのか……そんな可能性も考えられる。

 

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肝付氏と島津氏、対立から融和へ

12世紀末、鎌倉に武家政権が成立すると、島津氏をはじめとする鎌倉御家人が幕府方の統治者として守護や地頭に任命される。当然、郡司・荘官であった在地豪族は反発し、争いも少なくなかった。

島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)は建仁3年(1203年)に大隅国守護を解任され、その後は北条氏がこの地の守護職・地頭職を得た。肝付氏は北条氏と土地をめぐって争い、元亨3年(1323年)に6代・肝付兼藤(かねふじ)が北条方に殺害されるという事件も起こっている。

元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇を中心とする建武の新政が始まる。しかし、新政権もすぐに崩壊。御家人に支持される足利尊氏(あしかがたかうじ)と非御家人に支持される後醍醐天皇との対立に、北朝と南朝のふたつの朝廷の争いもからんできて、戦乱の時代へと突入する。南北朝の争乱である。

山中の曲輪、「本丸跡」看板もある

高山城跡、中世山城の痕跡が残る

 

肝付氏は南朝方(後醍醐天皇方)として戦った。延元元年(1336年)、8代・肝付兼重(かねしげ)が三俣院の高城(たかじょう、現在の宮崎県都城市高城町)で挙兵。北朝方(足利幕府方)の畠山直顕(はたけやまただあき)、薩摩守護の島津貞久(しまづさだひさ)らの軍を相手に奮戦した。高城が落とされたあとも兼重は反島津・反幕府を貫いて抗戦を続ける。鹿児島の東福寺城(とうふくじじょう、現在の鹿児島市清水町)での戦いなどにも参加している。

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観応元年・正平5年(1350年)頃より、楡井頼仲・肝付兼重ら南朝方が一時は大隅を制圧する。しかし、翌年には北朝方(幕府方)の畠山氏の軍に敗れる。兼重もこの頃に病没したとされる。楡井頼仲も戦い続けるが、延文2年・正平12年(1357年)に敗れて自害。楡井氏は滅亡した。

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肝付氏は畠山氏に降り、そのあとは島津氏に協力するようになる。10代・肝付兼氏(かねうじ)は島津氏久(うじひさ、島津氏6代)より「氏」の一字をもらって名乗りを「兼里」から「兼氏」と改めている。また、11代・肝付兼元(かねもと)も島津元久(もとひさ、島津氏7代)より「元」の字をもらいうけている。高山城近くの道隆寺跡には島津氏久と島津元久の逆修供養塔(生前に建てる供養塔)も残っていて、肝付氏と島津氏が良好な関係であったことがうかがえる。

木々に囲まれた石塔群

道隆寺跡、蘭渓道隆の開基とされる

 

応永18年(1411年)に島津元久が急死し、島津久豊(ひさとよ、元久の弟)が強引に守護職を継承すると、相続問題をめぐる争いが勃発する(伊集院頼久の乱)。11代・肝付兼元は島津久豊に叛く。大隅国鹿屋院(かのやいん、鹿屋市の鹿屋地区)に 侵攻する。ここを治める鹿屋氏は肝付氏の一族で、守護家の国老に任じられていた。

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文明15年(1483年)に14代・肝付兼久(かねひさ)が幼くして家督を継ぐと、肝付家中で反乱があった。兼久は飫肥城(おびじょう、現在の宮崎県日南市)の新納忠続(ただつぐ、島津氏支族)のもとに逃れた。兼久の母は新納氏の出身でその縁を頼ってのことだった。その後、新納忠続の援助で高山を奪還し、兼久は当主に復帰した。

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永正3年(1506年)、兼久は島津忠昌(ただまさ、島津氏11代)に反旗をひるがえす。島津忠昌は高山城を攻めるが、兼久は新納忠武(ただたけ、忠続の子)の援軍を得て迎え撃つ。忠昌は大敗し、鹿児島に逃げ帰った。

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守護の島津忠昌は反乱の収拾に苦心し、思い悩んだのか永正5年(1508年)に自殺してしまう。その後の島津宗家(奥州家)は若く短命な当主が続き、南九州の戦乱はさらに混沌としていく。そんな中で、分家の島津忠良(ただよし、島津日新斎、相州家と伊作家を相続)が台頭。また、薩州家(こちらも分家)の島津実久(さねひさ)も守護職の座を狙っていた。

大永6年(1526年)、島津忠良は嫡男を島津宗家(奥州家)に養子入りさせて、宗家の当主とした。15代・島津貴久(たかひさ)である。政変はなったが、すぐに薩州家が反撃。相州家は引きずり降ろされた。それから、南九州の覇権をめぐって、薩州家と相州家の抗争が続く。

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天文19年(1550年)頃に、島津忠良・貴久が内訌を制する。薩摩国をほぼ平定し、大隅国や日向国へも進出していく。さらに島津義久(よしひさ、16代当主、貴久の長男)や島津義弘(よしひろ、貴久の次男)の代には、九州北部まで勢力を広げていくのだ。

時を同じくして、大隅の肝付氏にも強い当主が現れた。16代・肝付兼続(かねつぐ)である。

 

 

肝付氏の全盛期、そして没落

肝付兼続は、15代・肝付兼興(かねおき、兼久の子)の長男として永正8年(1511年)に生まれた。肝付兼興は島津忠良と手を組み、親密な姻戚関係も築く。肝付兼続は島津忠良の長女・御南(おみなみ、「阿南」とも)を正室に迎え、島津貴久は肝付兼続の妹を正室とした。薩摩国で島津貴久が覇権を確立していく一方で、肝付兼続も大隅で勢力を広げていく。

天文2年(1533年)に肝付兼続は家督を継ぐ。その頃、日向国南部から大隅国東部に割拠した勢力(とその本拠地)はつぎのとおり。それぞれが手を組んだり、敵対したりしながら勢力争いを繰り広げる。

 

伊東(いとう)氏/日向国の佐土原(さどわら、現在の宮崎県宮崎市佐土原)を拠点に勢力は広範囲にわたる
島津氏豊州家/日向国那珂郡飫肥(おび、宮崎県日南市)、島津氏庶流
新納(にいろ)氏/日向国救仁院志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)、島津氏庶流
北郷(ほんごう)氏/日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市)、島津氏庶流
禰寝(ねじめ)氏/大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)
伊地知(いじち)氏/大隅国下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市)、島津宗家の家老
廻(めぐり)氏/大隅国曽於郡廻(めぐり、鹿児島県霧島市福山町)

 

このうち新納氏は天文7年(1538年)に豊州家の島津忠朝(ただとも)・北郷忠相(ただすけ)・肝付兼続の連合軍に攻められて滅亡。志布志は豊州家の領有となる。

肝付氏は伊東氏と同盟関係にあった。また、禰寝氏とは敵対していたが、のちに肝付氏に従う。禰寝重長(ねじめしげたけ)は肝付兼続の娘を正室としている。伊地知氏も肝付氏に協力するようになっていく。

天文11年(1542年)頃より肝付兼続は、豊州家や北郷氏と激しく争うようになる。肝付兼続は戦勝を重ね、大崎(おおさき、現在の鹿児島県曽於郡大崎町)・平房・市成(ひらふさ・いちなり、ともに鹿屋市輝北町)・大姶良(おおあいら、鹿屋市大姶良)・安楽(あんらく、志布志市志布志町安楽)・蓬原(ふつはら、志布志市有明町蓬原)・恒吉(つねよし、曽於市恒吉)などを攻め取った。大隅国東部をほぼ制圧するに至った。

島津貴久との友好関係は続き、肝付兼続はしばしば援軍を出している。天文8年(1539年)の市来城(日置市東市来)攻め、天文23年(1554年)の西大隅の合戦(戦場となったのは現在の姶良市)などに参陣した。

天文22年(1553年)に肝付兼続は家督を嫡男の良兼(よしかね)に譲るが、隠居後も実権を握り続けた。

 

島津氏は薩摩国を制圧して西大隅や日向国にも勢力を広げていく。そして、大隅では肝付氏が大きな勢力となった。お互いに相手の存在が脅威となっていく。永禄2年(1558年)頃から両家の関係は悪化しはじめる。

永禄4年(1561年)、肝付兼続は島津方であった大隅国曽於郡の廻城(めぐりじょう、場所は現在の鹿児島県霧島市福山町)に侵攻し、これを攻め取る。島津貴久は廻城の奪還のために兵を出す。この激戦の中で島津忠将(ただまさ、貴久の弟)は戦死している。

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肝付氏は伊東氏と結んで飫肥の島津忠親(豊州家)を攻め、志布志城も取る。のちに志布志城は肝付兼続の隠居所とした。その後も、肝付氏と島津氏とのあいだでは一進一退の攻防が続く。

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肝付兼続は永禄9年(1568年)に志布志で没するが、次代の肝付良兼も互角の戦いを繰り広げる。しかし、元亀2年(1571年)に肝付良兼が37歳の若さで病没してしまうと、肝付氏は次第に勢いを失っていく。そのあとを継いだ肝付兼亮(かねすけ、かねあき、良兼の弟)の代になると味方だった禰寝氏が島津方に寝返り、伊地知氏も降伏する。

天正2年(1574年)、肝付氏は島津氏に降る。その後、肝付兼亮は追放され、肝付兼護(かねもり、名は兼道とも、良兼・兼亮の弟)が19代当主となる。天正8年(1580年)には薩摩国阿多郡(現在の鹿児島県南さつま市金峰町)に転封となり、肝付氏の高山支配は終焉する。

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肝付氏が去った高山には島津氏の重臣である伊集院忠棟(いじゅういんだたむね)が入った。江戸時代には外城のひとつとなり、高山麓に御仮屋(地方行政の拠点)が置かれた。

肝付兼護は慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦に島津義弘の配下として従軍。撤退戦において戦死する。嫡男・肝付兼幸(かねゆき、肝付氏20代)が家督を継ぐが、その兼幸も慶長15年(1611年)に船の事故で亡くなる。兼幸に子はなく、肝付氏本家の血統は途絶えた。その後は遠縁の新納氏より養子を迎え、家名を存続させた。

 

 

 

もうひとつの肝付氏

戦国時代に島津氏の配下として肝付兼演(かねひろ)・肝付兼盛(かねもり)・肝付兼寛(かねひろ)・肝付兼篤(かねあつ)といった名も出てくる。この一族は大隅国加治木郷(かじき、現在の鹿児島県姶良市加治木町)を拠点とした肝付氏の庶流である。高山の肝付氏と区別するために「加治木肝付氏」とも呼ばれる。

加治木肝付氏は、本家12代・肝付兼忠(かねただ)の三男・兼光(かねみつ)を祖とする。肝付兼光は一族で不仲となって出奔し、島津氏の配下となった。兼光の孫にあたる肝付兼演は島津氏の家老となり、のちに島津貴久より加治木などを与えられた。

 

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江戸時代には薩摩国給黎郡喜入(きいれ、鹿児島市喜入町)の領主となり、「喜入肝付氏」と呼ばれた。ちなみに、幕末の藩家老・小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀)はこの家の出身。もとは肝付兼戈(かねたけ)という名で、肝付家から小松家(禰寝家が改姓)に養子入りした。

 

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肝付氏の支族についてはこちらの記事にまとめた。

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肝付氏の守り神「大来目神社」

高山城には大来目神社(おおくめじんじゃ)が鎮座する。城の守り神である。主祭神は天槵津大来目命(アメノクシツオオクメノミコト)。

山中に鎮座する神社、朱の鳥居と小さな祠がある

大来目神社(高山城内)

 

天槵津大来目の名は『日本書紀』による。『古事記』では天津久米(アマツクメ)の名で登場する。『古事記』によると天孫降臨神話において、天忍日(アメノオシヒ)と天津久米(天槵津大来目)が先導役を務めている。天忍日は大伴氏(伴氏)の祖とされ、天津久米(天槵津大来目)は久米氏の祖とされている。

神武東征神話にも、似たようなコンビが出てくる。道臣(みちのおみ、当初は「日臣」)と大久米(おおくめ、『日本書紀』では大来目)である。こちらもそれぞれが天忍日の後裔で大伴氏(伴氏)の祖、天津久米の後裔で久米氏の祖と伝わる。

なお、『古事記』と『日本書紀』でちょっと違う。『古事記』では天忍日と天津久米、および道臣と大久米が対等の立場として書かれている。一方『日本書紀』では、「天忍日が天槵津大来目をひきいて」「日臣(道臣)が大来目(大来目部)をひきいて」と書かれている。古代の大伴氏は来目部(表記はほかに大来目部、久目部、久米部など)という軍事集団を従えて天皇に仕えたという。両氏の関係性については、大伴氏が久米氏を従えた、あるいは同化した、あるいはもともと同族である、など諸説あるようだ。

天孫降臨神話の舞台は九州。神話がなんらかの史実をモデルとしているなら、ニニギノミコトに随行した大伴氏や久米氏の祖も九州にあったということになる。そして、神武東征も九州が出発地である。

ちなみに、高山周辺には神武天皇カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)に関する伝承地が多い。肝付町宮下の桜迫神社には、カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が育った西洲宮があったと伝わり、記念碑もある。神社近くの肝属川沿いには生誕地とされる場所もあり、こちらにも記念碑が建っている。

「神武天皇御降誕伝説地」石碑

神武天皇御誕生地伝説の碑

 

はるか古代から住み着いている大伴氏あるいは久米氏の一族があり、肝付氏のルーツはそこにあるという可能性もなくはないのでは? なんて思ったりもするのである。

 

 

 

 

<参考資料>
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 第2巻』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年
※『肝付文書』を収録

『高山郷土誌』
編/高山郷土誌編纂委員会 発行/高山町長 栫博 1966年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『明赫紀』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1987年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

ほか