鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代へと移り変わっていく14世紀。ふたつの朝廷の対立を軸に、状況は二転三転する。その大まかな流れについては「鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱へ」という記事を見てほしい。
戦乱は全国に広がり、九州もかなりの乱れっぷりであった。この時期の南九州の状況を『島津国史』から拾ってみた。ちなみに、『島津国史』は19世紀初め頃に鹿児島藩(薩摩藩)が編纂した正史である。
南北朝争乱期に突入したときの薩摩国(現在の鹿児島県西部)守護は島津貞久(しまづさだひさ)。文保2年(1318年)から正平18年・貞治2年(1363年)まで守護職の地位にあった。
なお、元号については南朝と北朝のものを併記。日付は旧暦で記す。
島津貞久、鎮西探題を攻め滅ぼす
文保2年(1318年)3月15日
島津貞久が父・忠宗より家督を譲られる。相続した所領はつぎのとおり。
薩摩国守護職
十二島(竹島・硫黄島・黒島・口永良部島・屋久島・吐噶喇列島)地頭職
薩摩郡(現在の薩摩川内市、いちき串木野市串木野のあたり)地頭職
山門院(やまといん、現在の出水市高尾野・野田、阿久根市脇本のあたり)地頭職
市来院(いちきいん、現在のいちき串木野市市来、日置市東市来)地頭職
鹿児島郡永吉(ながよし、現在の鹿児島市伊敷)地頭職
讃岐国櫛無保上村下村(くしなしほう、現在の香川県善通寺市のあたりか)地頭職
信濃国太田荘南郷(おおたのしょうなんごう、現在の長野県長野市)地頭職
下総国相馬郡苻川村・下黒崎・発戸(ふかわむら・しもくろさき・ほっと、現在の茨城県取手市のあたりか)地頭職
日向国高知尾荘(たかちおのしょう、現在の西臼杵郡高千穂町のあたり)地頭職
豊前国副田荘(そえだのしょう? 現在の福岡県田川市のあたりか)地頭職
元弘元年(1331年)10月頃
この年の8月に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が挙兵し、笠置山(かさぎやま、現在の京都府相楽郡笠置町にある)にたてこもった。笠置山は陥落したが、反乱に呼応した河内国(現在の大阪府)の楠木正成(くすのきまさしげ)が赤坂城で幕府の大軍を相手に奮闘する。
鎮西探題(幕府の九州の拠点)の北条英時(ほうじょうひでとき)は京の騒ぎを聞いて軍を招集した。薩摩からは小山田景範・邊牟木義英・班目政泰・河上道乗らが筑前国博多(現在の福岡市)に至った。島津貞久は幕府方として赤坂城包囲戦に参加した。
ちなみに、小山田(こやまだ)氏と邊牟木(へむき)氏は薩摩国比志島(ひしじま、現在の鹿児島市皆与志)を拠点とした比志島氏の一族。班目(まだらめ)氏は薩摩国祁答院(けどういん、薩摩郡さつま町のあたり)の国人。河上道乗は市来院郡司の市来氏の一族か。
元弘2年・正慶元年(1332年)3月7日
後醍醐天皇(廃帝)が隠岐に流される。
元弘2年・正慶元年(1332年)12月1日
島津貞久は勲功を賞され、幕府政所より周防国楊井荘(やないのしょう、現在の山口県柳井市のあたり)の領家職に任じられる。
元弘3年・正慶2年(1333年)2月3日
勘解由次官が後醍醐天皇の綸旨を奉って、島津貞久を日向国(現在の宮崎県)守護職とする。
勘解由次官とは五条頼元(ごじょうよりもと)のことか? 倒幕に向けて、後醍醐天皇方が先走って守護職に補任したと思われる。鎌倉幕府の下ではまだ実現していない。
元弘3年・正慶2年(1333年)4月1日
後醍醐天皇(廃帝)が隠岐を脱出し、伯耆国船上山(せんじょうさん、現在の鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵。
元弘3年・正慶2年(1333年)4月28日
勘解由次官が後醍醐天皇の綸旨を奉って、島津貞久を大隅国(現在の鹿児島県東部)守護職とする。
元弘3年・正慶2年(1333年)4月29日
足利高氏(あしかがたかうじ)が島津貞久に書を送り、官軍(倒幕軍)に応じるよう要請する。
元弘3年・正慶2年(1333年)5月7日
足利高氏が六波羅探題(幕府の京の拠点)を攻め落とす。
元弘3年・正慶2年(1333年)5月22日
新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻め落とす。鎌倉幕府滅亡。
元弘3年・正慶2年(1333年)5月25日
島津貞久は、少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)とともに鎮西探題から離反。博多館を攻め落とし、北条英時は自害する。
島津氏の配下の将としては、副将の島津宗久(伊作宗久、いざくむねひさ、島津氏庶流)のほか、島津忠能(山田忠能、やまだただよし、島津氏庶流)・指宿忠篤(いぶすきただあつ、指宿郡司、薩摩平氏の一族)・二階堂行久(にかいどうゆきひさ、阿多郡北方地頭)の名が挙げられている。
元弘3年(1333年)6月5日
後醍醐天皇が京に帰還し、親政を開始。「正慶」の元号を廃する。
元弘3年(1333年)6月15日
島津貞久を日向国守護職とする綸旨が出される。
建武元年(1334年)2月21日
勲功を賞され、島津貞久が薩摩国市来院名主職と豊後国井田郷(現在の大分県豊後大野市)地頭職に任じられる。
建武元年(1334年)4月28日
島津貞久を大隅国守護職とする綸旨が出される。島津氏は建仁3年(1203年)に失った日向国守護・大隅国守護を回復した。
建武元年(1334年)9月12日
足利尊氏より、島津氏・少弐氏・大友氏に九州の鎮定が命じられる。
筑前国今津・本岡・比加利・上妻(現在の福岡市のあたりか)、豊前国曾井荘(場所の詳細わからず)、豊後国井田郷、筑後国小鹿荘(現在の佐賀市のあたりか)が島津貞久に与えられた。
建武2年(1335年)3月17日
島津貞久を日向国守護職とする綸旨が出される。再度の綸旨発給の記述。
足利尊氏に従う
建武2年(1335年)7月~8月
北条時行(ほうじょうときゆき、北条高時の遺児)を旗頭として関東で反乱が勃発(中先代の乱)。反乱軍は鎌倉を制圧するが、足利尊氏が出征により鎮圧された。しかし今度は足利尊氏がそのまま鎌倉にとどまり、建武政権に反旗をひるがえす。
建武2年(1335年)11月17日
島津貞久を大隅国守護職に補任する、という綸旨が出される。こちらも、再度の綸旨発給の記述。それまでは「為す」であったところが、ここでは「補す」となっている。表現の違いが気になるところでもある。
建武2年12月11日(1336年1月)
島津時久(新納時久、にいろときひさ、貞久の弟)を日向国新納院(にいろいん、現在の宮崎県日向市の一部、児湯郡の東部)の地頭職に、足利尊氏が任じる。これに由来して、時久の家系は新納氏を称するようになった。足利尊氏は、時久が京や鎌倉で勲功があったことを賞して、とくに守護装束を賜った。島津貞久とともに「両島津」と並び称したという。
中先代の乱のあと、足利尊氏は恩賞を独自に出した。時期から推測すると、この件もそのひとつだと思われる。
貞久の兄弟や島津支族については下の記事でも触れている。
建武3年(1336年)1月27日
足利尊氏軍が京に攻め込み、島津貞久もこれに従った。島津氏配下の島津道慶(山田宗久、山田忠能の父)・本田久兼(島津氏の重臣)・国分友光(薩摩国分寺留守職の一族、執印氏と同族)に功があった。
当初、島津貞久は新田義貞が率いる官軍(足利尊氏討伐軍)に従軍していたが、足利尊氏が京に入る前にこちらへ寝返ったと考えられる。
足利尊氏は京を制圧するが、その後、官軍に敗れて九州へ逃げた。
足利尊氏の九州大返しを助ける
建武3年(1336年)2月13日
足利尊氏は九州に入り、島津貞久もこれに従った。筑前では島津忠能(山田忠能)と川田慶喜(比志島氏の一族か)が出迎えた。
延元元年(1336年)3月2日
足利直義(あしかがただよし、尊氏の弟)の軍が筑前国多々良浜(現在の福岡市東区)で天皇方の菊池武敏を撃破する。この戦いで島津氏は足利方に味方し、島津忠能(山田忠能)・川田慶喜・小山田景範・大隅次郎四郎忠充(石原忠充、島津氏庶流家の伊集院忠国の弟)らが功を挙げた。鎌田清正・清春の父子は戦死した。のちに小山田景範は戦功により足利直義より恩賞を受ける。また、大隅次郎四郎忠充は足利直冬より感状が与えられた。
多々良浜で足利尊氏が勝利したことにより、九州はほとんどが足利方となった。しかし、肝付兼重(きもつきかねしげ)が日向国三俣院(現在の宮崎県諸県郡三股町・都城市の一部)を拠点に官軍方として抵抗を続けた。肝付氏は大隅国肝属郡高山(こうやま、現在の鹿児島県肝属郡肝付町高山)を本拠地とする一族である。この掃討のため、足利尊氏は島津貞久を薩摩へ帰国させた。
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延元元年(1336年)3月26日
足利尊氏は大隅国禰寝院(ねじめいん、現在の鹿児島県南大隅町根占)の禰寝(ねじめ)氏に書状を送り、肝付兼重の軍にあたらせた。ここに島津貞久が遣わされ、禰寝氏とともに戦った。
大隅次郎三郎(前述の大隅次郎四郎とは別人か、あるいは同一人物の誤記か)・島津宗久(伊作宗久)・島津忠能(山田忠能)・執印友雄(しゅういん、新田宮の執印職)・菱刈重直(ひしかり、大隅国菱刈郡の国人)・莫禰成長(あくね、薩摩国莫禰院の国人)・市来崎妙義(いちきざき、薩摩国山門院市来崎の国人)・杉道悟(薩摩国和泉荘下司の一族)にも肝付攻めが命じられた。国人たちは島津貞久軍に属して戦功を挙げた。
ちなみに、当時の島津氏の本拠地は山門院の木牟礼城(きのむれじょう、所在地は現在の鹿児島県出水市高尾野)である。戦いに加わったのは、山門院近隣の者が多い。
島津貞久と肝付兼重の激闘
延元元年(1336年)4月26日
足利尊氏は九州から京へ向かった。
一方、島津貞久は肝付兼重との戦いを続ける。野田忠種(伊集院野田の国人)・指宿忠篤・執印友雄・柿木原政家(大隅国菱刈郡の国人か)らを率いて攻める。
延元元年(1336年)5月5日
大隅式部少三郎が柿木原政家らを率いて、日向国の姫木城(ひめきじょう、宮崎都城市姫城町にあった)を攻撃する。
なお、大隅式部少三郎は島津氏の一族と思われる。
延元元年(1336年)5月6日
島津貞久が大隅国の加瀬田城(かせだじょう、鹿児島県鹿屋市輝北にあった)を攻める。加瀬田城は肝付兼隆(肝付氏の一族)が守っていた。本田久兼を軍奉行、中條木工左衛門入道祐心(詳細わからず)を水寨奉行とした。島津忠能(山田忠能)・莫禰成長・郡山頼平(こおりやま、加治木氏の支族、比志島氏とも縁がある)・禰寝清種(禰寝院地頭・郡司の禰寝清成の従兄弟)・篠原国道(しのはら、薩摩国伊佐郡篠原の国人か)らが従軍し、戦功があった。
5月23日には肝付方に援兵があったが、島津資久(樺山資久、かばやますけひさ、貞久の弟)が莫禰成長・禰寝清種・国分友光らを率いて迎え撃った。
5月25日、郡山頼平や野上田伊予坊(禰寝氏とは同族の建部姓佐多氏)らが水寨を破った。
6月10日、島津軍は加瀬田城を陥落させた。
延元元年(1336年)5月25日
足利尊氏は摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市)で官軍を破る(湊川の戦い)。薩摩国からは比志島義範(ひしじまよしのり)・小山田景範の兄弟が従軍した。比志島義範は戦死。
その後、足利尊氏が京を制圧した。
建武3年・延元元年(1336年)8月
足利尊氏が持明院統から光明天皇(こうみょうてんのう、光厳上皇の弟)を即位させる。こちらが北朝となる。北朝方では「建武」の年号を引き続き使った。
後醍醐天皇は比叡山に逃げて抵抗を続けていたが、足利方の和睦要請に応じる。建武政権は終焉。足利尊氏が実権を握り、これが実質的な室町幕府の始まりとなった。
建武3年(1336年)11月
畠山直顕(はたけやまただあき、足利尊氏の配下の日向方面司令官)が結城行郷と友永澄雄(いずれも詳細不明)、禰寝清種らを派遣して、日向国南郷の櫛間城(くしまじょう、宮崎県串間市にあった)を攻めさせる。これを落城させた。
建武3年12月6日(1337年1月)
結城行郷・友永澄雄・禰寝清種・禰寝清道らが日向国下財部院の新宮城(場所は宮崎県都城市横市町か)を攻め落とした。
建武3年12月18日(1337年1月)
畠山直顕が日向国三俣院の高城(たかじょう、場所は宮崎県都城市高城町)を攻める。ここは肝付兼重が戦いの拠点としたところである。この戦いで、禰寝清種や柿木原兼政に戦功があった。
足利尊氏が政権を打ち立ててひとまずは決着……と思いきや、諦めの悪い後醍醐天皇は再起をはかろうとする。そして、状況はさらに混沌としたものになっていくのだ。
つづく。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年
『鹿児島の歴史』
著・発行/鹿児島県社会科教育研究会 高等学校歴史部会 1958年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『島津家文書』などからの抜粋を収録
『松元町郷土誌』
編/松元町郷土誌編さん委員会 発行/松元町長 九万田萬喜良 1986年
『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか