文明6年(1474年)、島津忠昌(しまづただまさ)が島津宗家の当主になった。しかしながら、忠昌はもともと後継者に指名されていなかった。寺に入っていたところ呼び戻され、還俗して家督をついだのである。しかも12歳とまだ若い。代替わりした島津宗家は、だいぶ頼りない状況だった
領内には分家が多く、戦乱をかいくぐってきた実力者ばかりである。薩州家(さっしゅうけ)の島津国久(くにひさ)、豊州家(ほうしゅうけ)の島津季久(すえひさ)、相州家(そうしゅうけ)の島津友久(ともひさ)らがそうである。そんな面々が、宗家の政務を代行する国老たちと対立。ついには反乱を起こし、領内は戦火に覆われた。
この反乱は文明9年(1477年)にひとまず治まった。
そして、日向国南部で反乱が勃発する。領内はまた乱れるのである。なお、この記事では日付を旧暦で記す。
- 南九州の有力者たち
- 桂庵玄樹を招聘
- 豊州家が囎唹を取る
- 肝付氏のお家騒動
- 伊作久逸と新納忠続の対立
- 伊作久逸の挙兵、国中が大乱に
- 渋谷一族が動く
- 豊州家の離反
- 島津忠廉の帰順
- 飫肥の決戦、再び
- 祁答院重度、また叛く
- 飫肥と櫛間は豊州家に任される
南九州の有力者たち
『戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(6)』の記事にも掲載したが、薩摩国・大隅国・日向国の有力者たちをまとめておく。以下は、文明10年頃のもの。
島津忠昌(しまづただまさ)
島津宗家11代当主。鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を居城とする。
島津国久(しまづくにひさ)
分家の薩州家(さっしゅうけ)の2代当主。島津忠昌の母方の伯父であり、従兄弟にもあたる。薩摩国北部の出水・山門・阿久根(いずみ・やまと・あくね、現在の鹿児島県出水市・阿久根市)、薩摩国南部の加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)・河邊(かわなべ、南九州市川辺)・鹿籠(かご、枕崎市)などを領し、大きな力を持つ。
島津忠廉(しまづただかど)
分家の豊州家(ほうしゅうけ)の2代当主。豊州家は島津忠国(ただくに、宗家9代当主)の弟の季久(忠昌の大叔父にあたる)を祖とする。大隅国帖佐・蒲生(ちょうさ・かじき、鹿児島県姶良市)などに勢力を持つ。
加治木忠敏(かじきただとし、か? 名は満久とも)
大隅国加治木(かじき、姶良市加治木)領主。島津忠廉の弟で、豊州家から加治木氏に養子入りした。
島津友久(しまづともひさ)
分家の相州家(そうしゅうけ)の当主。島津立久(たつひさ、宗家10代当主)の兄で、島津忠昌の伯父にあたる。薩摩国田布施・阿多(たぶせ・あた、鹿児島県南さつま市金峰)に所領を持つ。
島津豊久(しまづとよひさ)
分家の伯州家(はくしゅうけ)の当主。島津忠国の弟で、島津忠昌の大叔父にあたる。薩摩国平和泉(ひらいずみ、鹿児島県伊佐市大口平出水)などを領する。日向国志和池(しわち、宮崎県都城市志和池)も領し、こちらは島津忠堯(豊久の子)が守る。
島津忠福(名の読み確認できず、名は忠徳とも)
分家の羽州家(うしゅうけ)の2代当主。島津立久の従兄弟にあたる。日向国庄内梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北)を領する。
伊作久逸(いざくひさやす)
日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)を守る。島津忠国の三男で、伊作氏をついだ。島津忠昌の叔父にあたる。
新納忠続(にいろただつぐ)
日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の領主。島津氏庶流。島津立久の母は新納氏出身である。本領の日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志)は新納是久(これひさ、忠続の弟)が守る。
北郷敏久(ほんごうとしひさ)
島津氏庶流。日向国庄内都城(宮崎県都城市)などを領する。
樺山長久(かばやま、名の読みは確認できず)
島津氏庶流。日向国庄内野々美谷(ののみたに、宮崎県都城市野々美谷)などを領する。
平田兼宗(ひらたかねむね、か?)
宗家の国老。忠昌を補佐して国政を執る。大隅国串良院(くしらいん、鹿児島県鹿屋市串良)を領する。
村田経安(むらたつねやす、か?)
宗家の国老。忠昌を補佐して国政を執る。薩摩国郡山(こおりやま、鹿児島市郡山)に所領を持つ。
肝付兼連(きもつきかねつら)
肝付氏嫡流13代当主。大隅国肝属郡の高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点とする。兼連は文明15年(1483年)に亡くなり、嫡男の肝付兼久が跡を継ぐ。
禰寝重清(ねじめしげきよ)
禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)を拠点に大隅国南部に勢力を持つ。禰寝氏は鎌倉時代以前から南九州に土着する。
北原立兼(きたはら、名の読みは確認できず)
肝付氏庶流。日向国真幸院(まさきん、宮崎県えびの市・小林市)や大隅国栗野院・筒羽野(くりのいん・つつはの、鹿児島県姶良郡湧水町)などに所領を持つ。
入来院重豊(いりきいんしげとよ)
鎌倉時代に薩摩国北部に下向した渋谷(しぶや)氏の一族。入来院(いりきん、鹿児島県薩摩川内市入来)を拠点に大きな勢力を持つ。
祁答院重度(けどういん、名の読みは確認できず)
名は祁答院重慶とも。渋谷一族。薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)などに勢力を持つ。
東郷重理(とうごう、名の読みは確認できず)
渋谷一族。薩摩国東郷(とうごう、薩摩川内市東郷)の国人。
税所篤庸(さいしょ、名の読みは確認できず)
大隅国囎唹(そお、霧島市国分のあたり)に古くから土着する一族。
吉田泰清(よしだやすきよ、か?)
大隅国吉田院(よしだいん、鹿児島市吉田)の領主。
菱刈氏重(ひしかりうじしげ)
大隅国菱刈(ひしかり・鹿児島県伊佐市菱刈)などに勢力を持つ。
相良為続(さがらためつぐ)
肥後国の水俣(みなまた、熊本県水俣市)や球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)に勢力を持つ。
伊東祐国(いとうすけくに)
日向国都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)を拠点に日向国中部に勢力を持つ。島津氏領内への侵入をうかがう。
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桂庵玄樹を招聘
島津忠昌は文化面に力を入れた。文明10年(1478年)、禅僧の桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)を招聘した。応仁の乱(1467年~1477年)で京は荒廃していて、乱を避けて南九州へとやってきたのである。桂庵玄樹は明国で学んだ朱子学を講じた。桂庵玄樹の教えは「薩南学派」と呼ばれるようになり、南九州に定着する。
豊州家が囎唹を取る
文明15年(1483年)、税所篤庸が帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)を攻めた。帖佐は豊州家(ほうしゅうけ)の島津忠廉(ただかど、豊州家2代)の所領である。島津忠廉は税所氏をくだし、囎唹は豊州家の支配下となった。鎌倉時代以前より大隅国に土着していた税所氏は没落する。
肝付氏のお家騒動
大隅国高山の肝付氏で内紛があった。文明15年(1483年)に当主の肝付兼連が亡くなると、肝付兼久が家督をつぐ。兼久はまだ10歳と幼かったため、一族の肝付兼広(兼久の大叔父)らが実権を握ろうと反乱を起こす。兼久は母方の実家である飫肥の新納忠続を頼って避難する。のちに、新納忠続の援助があって高山城に復帰することができた。
伊作久逸と新納忠続の対立
日向国南部を守る伊作久逸と新納忠続が対立する。ともに10代当主の島津立久の命令で日向国の伊東(いとう)氏に備えてこの地を任されている。
文明16年(1484年)10月、新納忠続は「伊作久逸を櫛間から移してほしい」と願い出た。島津忠昌はこれを受け入れ、伊作久逸を本領の薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)に戻すことにした。だが、伊作久逸はこの決定に不服だった。命令には従わず、ついには反乱を起こすのである。
伊作久逸の挙兵、国中が大乱に
文明16年10月26日、伊作久逸は宗家に叛く。挙兵して飫肥に侵攻した。伊作久逸は、島津氏と敵対していた伊東氏と結ぶ。南北より新納忠続を挟み撃ちにする格好となった。
志布志を守る新納是久も伊作久逸につく。是久の娘は伊作善久(よしひさ、久逸の嫡男)に嫁いでいたた。
島津忠昌は飫肥救援のために3000の兵を送る。北郷敏久・樺山長久・平田兼宗・村田経安・禰寝忠清らをつかわした。28日、北郷敏久らは櫛間に入り、熊田原と郡本に布陣した。
同じ頃に、薩摩国北部では祁答院重度・北原立兼が反乱を起こす。入来院重豊・東郷重理・吉田泰清・菱刈氏重らもこれに応じた。11月、北原立兼と菱刈氏重は帖佐に行き、島津忠廉(豊州家)も反乱に誘った。しかし、島津忠廉は応じなかった。
島津友久と島津国久は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)に入り、昼夜を徹して改修し、城の守りを固める。北原氏ら反乱軍の襲来に備えた。
11月14日、日向国では北郷敏久らが櫛間城を攻めるも落とせず。17日、伊作久逸は城から撃って出る。熊田原・郡本の陣中では「伊東氏の来援がある」あるいは「薩摩大隅の反乱軍が襲来する」といった噂があった。北郷敏久ら諸将は相談し、20日にいったん兵を退く。
11月28日、伊東祐国が数千の兵を率いて飫肥城(おびじょう、場所は日南市飫肥)に攻めかかった。新納忠続は冨嶺(場所の詳細わからず)に出て防戦するが持ちこたえられず、新山城(にいやまじょう、飫肥城の支城、日南市星倉)に退く。伊東軍は新山城も落とし、いよいよ飫肥本城に迫った。
12月3日、伊作久逸は再び飫肥を攻める。南郷城(なんごうじょう、日南市南郷)を抜き、こちらも飫肥本城をうかがった。
和泉久氏(島津氏庶流の和泉氏の一族)は酒谷城(さかたにじょう、日南市酒谷)を守っていた。北郷敏久・樺山長久・村田経安らは庄内(宮崎県都城市)より来援。酒谷城に入って飫肥城を救おうとする。
12月20日には島津豊久(伯州家)が300の兵を率いて飫肥の救援に駆けつけた。22日に伊作久逸・伊東祐国が1000余の兵で島津豊久を攻撃。島津豊久は奮闘するも戦死する。
伊作・伊東連合軍も被害が大きく撤退した。
渋谷一族が動く
文明17年(1485年)1月10日、島津忠昌は夫人を鹿児島から伊集院(いじゅういん、日置市伊集院)に移す。入来院重聡(しげさと、入来院重豊の子)・祁答院重度らが鹿児島を攻めるという噂があり、その難を避けるためであった。
1月12日、入来院重聡・祁答院重度は帖佐におもむき、またも島津忠廉(豊州家)を味方に引き入れようと誘う。島津忠廉は応じない。
祁答院重度は守護方に帰順するが、これは表面的なものであったようだ。2月1日、祁答院重度はひそかに家来を遣わし、東郷氏・高城氏(いずれも渋谷一族)とともに薩摩郡の水引城(みずひきじょう、薩摩川内市水引)を攻撃させ、落とす。また、入来院重聡は碇山城(いかりやまじょう、薩摩川内市天辰町)を攻め取った。渋谷一族は勢力を拡大する。
豊州家の離反
島津忠廉(豊州家)は伊作氏と新納氏の和議をまとめようと画策していた。伊作久逸を説得するために櫛間に向かったが、途中で新納忠明(ただあき、新納忠続の弟)に行く手を遮られる。伊作久逸とは会えずに帰ってくる。
この動きは、「伊作久逸に応じようとした」と鹿児島では受け取られてしまう。島津忠廉は誤解であると釈明するが、疑いは晴れず。島津忠廉は宗家から離反し、独自に動くようになる。
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島津忠廉は祁答院氏を攻めようと考える。この頃、祁答院重度は島津忠昌方にあったと思われる。水引城の合戦の際には東郷氏とも通じていたが、その後、渋谷一族内で対立が起こったのだろう。入来院氏や東郷氏は祁答院重度と敵対し、島津忠廉と手を組んだようだ。
文明17年(1485年)2月11日、島津忠廉(豊州家)は兵を挙げる。まずは薩摩国満家院(みつえいん)の川田城(かわだじょう、鹿児島市郡山町川田)を攻めた。城主の川田立昌(満家院を領有する比志島氏の一族)が堅く守り、落とせず。川田城の救援に村田経安らの軍が駆けつけるが、こちらは敗走させている。
島津忠廉(豊州家)は川田城を離れ、入来院氏・吉田氏らとともに祁答院の藺牟田城(いむたじょう、薩摩川内市祁答院町藺牟田)へ軍を進めた。ここは祁答院氏の支族である藺牟田(いむた)氏の居城である。同じく祁答院氏支族の久富木(くぶき)氏が遠見岡(遠見ヶ城、高城)に陣し、大村氏が東尾に陣して藺牟田城を応援するが、島津忠廉はこれらも撃ち破った。2月20日(19日とも)、ついに藺牟田城を落とした。
東郷重理は島津忠廉に呼応して北西側から進軍。祁答院一ツ木(ひとつぎ、薩摩郡さつま町虎居)で祁答院勢と合戦になった。東郷軍は一ツ木では勝利するが、東郷山田(薩摩川内市東郷町山田)で敗れる。東郷軍は撤退する。
加治木忠敏(満久、忠廉の弟)も東側から祁答院へ進軍するが、祁答院勢と戦って敗れる。こちらの応援もおよばず。
藺牟田城を落としはしたものの、島津忠廉と入来院勢・吉田勢も被害が大きかった。祁答院攻略は失敗に終わり、島津忠廉は兵を退いた。
なお、島津忠廉の祁答院攻めについては郷土誌などの資料によって内容がけっこう違う。例えば「島津忠廉と東郷重理が戦った」とか「島津忠廉が渋谷一族を攻めた」とか書いてあるものも。敵味方の関係がまちまちで、どれが真実に近いのか迷うところである。ちなみに『島津国史』では「東郷重理自西北道入共攻祁答院(東郷重理は西北道より入り、ともに祁答院を攻める)」とある。とりあえず『島津国史』をベースに、『西藩野史』も参考にしつつ、各資料の情報も参考にしつつ、前後の展開やらも考えつつ、という感じで導き出してみた。「豊州家・東郷氏・入来院氏・吉田氏の連合軍が祁答院氏を攻めた」という状況が妥当かと。
島津忠廉は帖佐に帰るとすぐにまた動く。3月5日に大隅国の上井(うわい、鹿児島県霧島市国分上井)へ侵攻。上井城は3月16日に陥落する。島津国久(薩州家)・島津忠福(羽州家)・北郷敏久・樺山長久・平田兼宗らが上井城の救援のために敷根(しきね、霧島市国分敷根)に入る。だが、城はすでに落ちたと知り、援軍は引き返した。
同じ頃に薩摩国でも戦いがある。3月17日、島津成久(しげひさ、薩州家、国久の子)が出水(いずみ、鹿児島県出水市)より進軍し、渋谷一族を攻める。18日に湯田城(ゆだじょう、鹿児島県薩摩郡さつま町湯田)を攻め落とす。20日には奪われていた水引城を落とした。
島津忠廉の帰順
文明17年(1485年)閏3月1日、島津忠廉(豊州家)は大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)を訪れ、菱刈氏重に協力を求めた。両者は連合する。さらに、9日に薩摩国牛屎(うしくそ、伊佐市大口)にあった相良長輔(相良長毎、ながつね、相良為続の子)とも会って、こちらとも手を組む。
閏3月8日、日向でが伊東祐国は再び飫肥城を囲んだ。この頃、島津忠昌は病気にかかっていた。おまけに島津忠廉の離反で領内は混乱している。島津国久(薩州家)は、島津忠廉(豊州家)を帰順させようと動く。飫肥の救援のためには、まず領内の問題解決からと考えたのである。
4月10日、島津国久は肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)におもむいて、相良為続に島津忠廉(豊州家)説得の仲介を求めた。島津国久・相良為続はいっしょに牛屎に行き、菱刈にあった島津忠廉に使者を送って帰順するようすすめる。島津忠廉は応じる。16日には相良為続が菱刈を訪れ、そして島津国久(薩州家)と島津忠廉(豊州家)が会見する。和睦は成った。
5月1日、島津忠廉(豊州家)が相良為続ともに鹿児島へ。2日に島津忠昌は使いを送って、帰順を喜ぶ旨を伝えた。3日には島津忠廉(豊州家)は島津忠昌に面会する。加治木忠敏・入来院重豊・東郷重理・吉田孝清(吉田泰清の子)・菱刈忠氏(菱刈氏重の子)・羽月氏・山野氏らも島津忠昌に謁見した。
豊州家の与党であった反乱勢力は島津宗家にことごとく帰順。薩摩・大隅の混乱は治まった。
飫肥の決戦、再び
飫肥城は伊東祐国・伊作久逸・北原立兼の軍に囲まれ、城内の糧食も尽きる。鹿児島では飫肥の救援を決める。しかし、長雨のために出征は遅れる。文明17年(1485年)5月27日、島津忠昌は島津国久(薩州家)・島津忠廉(豊州家)を日向国都城につかわして、兵を集めさせた。6月12日、島津忠昌も病をおして鹿児島から出陣し、翌日には大隅国末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)に入る。
6月17日、まずは北郷敏久・樺山長久・村田経安ら2000の兵が飫肥に向かい、酒谷権現尾に布陣する。18日には都城にあった島津国久(薩州家)・島津忠廉(豊州家)らが2800の兵を率いて出征し、北郷敏久らの先遣隊と合流する。
同じ頃、日向国真幸院の北原氏の兵が都城近くの栗峯・霧島の集落を焼き討ち。志和池から島津忠堯(伯州家、島津豊久の子)が兵を出して、こちらの敵を撃ち破った。
6月21日、島津宗家方は飫肥に進軍。北郷敏久は2000余、島津国久(薩州家)は1500余、島津忠廉(豊州家)は1300余、新納忠明・和泉久氏らが500余の兵を率いる。合計で5000余。一方の伊東祐国・伊作久逸・新納是久(新納忠続の弟だが、敵側につく)・北原立兼の連合軍は楠原(くすばる、日南市楠原)などに陣取って、4000余の兵で迎え撃った。
島津国久(薩州家)は伊作久逸の部隊に攻めかかるが勝てず。続いて北郷隊が撃って出て、伊作久逸を敗走させた。北郷敏久・島津忠廉(豊州家)はさらに楠原陣を落とす。この戦いで伊東祐国・北原立兼・新納是久は討ち死に。伊作久逸は櫛間へ逃げた。島津国久(薩州家)・島津忠廉(豊州家)・北郷敏久らはこれを追撃し、6月25日に櫛間城を囲んだ。
6月29日、島津忠昌は櫛間に合流。島津国久(薩州家)はひそかに櫛間城へ使いを送り、伊作久逸に降伏を勧めた。伊作久逸は応じる。島津忠昌もこれを許した。7月2日、伊作久逸は島津忠昌に面会して謝罪する。櫛間を離れること申し出る。島津忠昌は伊作久逸を旧領の薩摩国伊作へ返すこととした。
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祁答院重度、また叛く
祁答院重度は飫肥の戦いに出兵しなかったため、島津忠昌の不信をかう。祁答院重度は鹿児島へ使いを送り、反抗の意思がないことを伝えた。さらに、7月23日にみずから鹿児島を訪れ、忠昌に会って謝罪した。しかし、その日の夜に祁答院重度は態度を変え、祁答院へと逃げ帰る。
島津忠昌は離反した祁答院重度の討伐を決める。島津国久(薩州家)・島津忠廉(豊州家)・島津友久(相州家)らを祁答院に出征させた。
9月5日、島津忠廉(豊州家)・村田経安らが兵を率い入来(いりき、鹿児島県薩摩川内市入来)に至り、入来院重豊・東郷右京亮が合流する。進軍して9月8日に、山崎牧峯(鹿児島県薩摩郡さつま町山崎)に布陣した。島津国久(薩州家)・島津友久(相州家)が12日に山崎に到着し、島津忠廉(豊州家)らに合流した。守護方は大村城(おおむらじょう、薩摩川内市祁答院町下手)に向けて進軍し、馬比尾(馬頃尾、まころべ、大村城よりやや南に位置する)に布陣した。島津忠頼(豊州家、忠廉の子)も帖佐の兵を率いて馬頃尾で合流する。15日までに移動が完了し、守護方の兵はあわせ3000となった。
大村城は容易に落ちなかった。守護方は兵を分けて黒木(くろき、薩摩川内市祁答院町黒木)や中津川(なかつがわ、薩摩郡さつま町中津川)の集落を焼き討ちした。祁答院重度は兵800を率いて鋒尾(大村城の北のあたり)に陣し、守護方と交戦する。9月21日に島津国久・島津忠廉らは兵を入来に退くが、9月23日に再び撃って出て紫尾大願寺(薩摩郡さつま町柏原のあたり)で敵を破った。
守護方は祁答院氏を倒すことができないまま撤退する。
飫肥と櫛間は豊州家に任される
文明18年(1486年)、日向国飫肥の新納忠続を本領の救仁院志布志に移した。また、末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)・財部(たからべ、曽於市財部)・救仁郷(くにごう、鹿児島県肝属郡大崎町)を新たに与えた。
島津忠昌は北辺の守りの強化を図った。10月19日、島津忠廉(豊州家)を飫肥と櫛間の領主として移した。
なお、豊州家旧領の帖佐には島津忠康(平山忠康、忠廉の次男)が残った。また、加治木忠敏(忠廉の三男)もそのまま加治木にあった。
伊作久逸の反乱にはじまる南九州の戦乱は、ひとまず収束した。だが、乱世は続く……より加速していくのである。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『宮之城町史』
編/宮之城町史編纂委員会 発行/宮之城町 2000年
『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年
『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌編纂委員会 発行/姶良町長 池田盛孝 1968年
『祁答院町誌』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町長 小倉圭市 1985年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか