平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめる。その3回目!
大隅正八幡宮の行賢
行賢は11世紀末~12世紀前半頃に大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の執印(しゅういん、神宮の管理者)だった人物。大隅正八幡宮領は寄進を集めて巨大荘園になっていくが、この行賢がいた時代に急拡大したと見られている。
行賢は寛治元年(1087年)に大隅国に下向したされる。父は大隅国司だったとも。惟宗(これむね)氏の一族とも伝わる。惟宗氏は秦(はた)氏の一派。
大隅正八幡宮(鹿児島神宮)は鹿児島県霧島市隼人に鎮座する。
執印氏(しゅういん)
名乗りは、新田八幡宮(にったはちまんぐう、新田神社)の執印職を世襲したことから。惟宗康友(これむねのやすとも)が文治年間(1185年~1190年)に執印職となったという。惟宗康友は鹿児島郡(現在の鹿児島市)の郡司として名が残っており、「鹿児島康友」とも名乗っていた。惟宗氏であることから前述の行賢とも、何かしら関係があるかもしれない。
この惟宗一族は、保明親王(やすあきらしんのう、醍醐天皇の皇子)の後裔を称している。保明親王の別名が惟宗親王なのだという。ただ、この系図はちょっとあやしい感じもする。やはり秦氏の系統であろう。
新田神社は薩摩川内市宮内町にあり、神亀山を境内とする。主祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)で、山頂の可愛山陵(えのやまのみささぎ)はその陵墓とされている。
執印氏には分家も多い。執印康友の次男の友久が薩摩国分寺(こちらも現在の薩摩川内市にあった)留守職に任じられて国分(こくぶん)氏を名乗ったことをはじめ、五代(ごだい)氏や羽島(はしま)氏なども。
また、市来(いちき)氏はもともと大蔵(おおくら)姓だったが、国分氏から養子をむかえて惟宗姓を称するようになった。
蒲生氏(かもう)
大隅国の蒲生院(かもういん、現在の鹿児島県姶良市蒲生)を領有した。蒲生舜清(かもうちかきよ)を祖とし、この人物が保安4年(1123年)に大隅に下向したことに始まるという。
蒲生氏は藤原氏の一族だとされる。関白の藤原教道(ふじわらののりみち、藤原道長の五男)の後裔に検校坊教清(藤原教清)なる人物がいて、豊前国宇佐(現在の大分県宇佐市)の宇佐八幡宮の留守職であったという。教清は宇佐八幡宮の宮司の娘を妻とし、生まれた子が藤原舜清であった。舜清は大隅国の垂水(現在の垂水市)にまず下向し、そのあと蒲生院・吉田院に移って蒲生氏を称するようになったとされる。これらの土地は宇佐八幡宮の神領だったと考えられる。
蒲生舜清は大隅正八幡宮(鹿児島神宮)執印の行賢の娘を妻にした、とする史料もある。
蒲生城(竜ヶ城)を築城して本拠地とした。現在は公園として整備されている。写真は「桜公園」と名付けられた場所で、二の丸付近になる。山上から周辺を見渡せる。
蒲生城の東側の断崖には梵字が彫られている。「竜ケ城磨崖一千梵字仏蹟」と呼ばれるもので、梵字の数は1700にもなる。詳細についてはよくわかっていないが、鎌倉時代以前のものと推測されている。
蒲生氏は16世紀までこの地で繁栄した。15世紀初めの頃に蒲生清寛(蒲生氏第6代)は島津元久・島津久豊の家老を務め、島津氏を支える存在でもあった。しかし時代が下って、渋谷一族とともに島津貴久と戦い(大隅合戦)、弘治3年(1557年)に蒲生城が落城。島津氏に下り、蒲生の地を失った。
蒲生舜清は宇佐八幡宮を勧請して正八幡若宮(蒲生八幡神社)も創建している。神社は蒲生氏の衰退後も島津氏によって再興され、大事にされている。境内には推定樹齢1500年の大楠もある。
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矢上氏(やがみ)・長谷場氏(はせば)
矢上氏は鹿児島郡(現在の鹿児島市)の郡司に任じられた。矢上というのは現在の鹿児島市坂元町のあたり。また同族には長谷場氏も。長谷場というのは鹿児島市の上町地区のあたりだったようだ。
矢上氏は矢上城(やがみじょう、催馬楽城、せばるじょう)を拠点とした。また、長谷場氏は東福寺城(とうふくじじょう、現在の鹿児島市清水町)を拠点に土着した。
この一族は藤原純友(ふじわらのすみとも)の後裔を称する。藤原純友の子の藤原直純が鹿児島郡の郡司・弁済使としてこの地に来たのが始まりとされる。当初は鹿児島氏を称したとも。
南北朝の争乱期に、南朝方にあった矢上氏・長谷場氏は北朝方の島津貞久と戦う。東福寺城は攻め込まれ、暦応4年(1341年)に落城。その後、島津貞久は奪った東福寺城に入り、鹿児島に拠点を移した。
東福寺城は天喜元年(1053年)に長谷場永純が築いたとされる。現在、多賀山公園として整備されている。海辺の山の上に立地し、公園内には山城の痕跡がいくらかうかがえる。園内を奥に進み、こんもりとした小山を登ると「島津氏居城東福寺城跡」の碑がある。
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英祢氏(莫禰氏、あくね)
12世紀初め頃に神埼兼重(かんざきかねしげ)が薩摩国英祢院(あくねいん、現在の鹿児島県阿久根市)に入り、英祢氏(のちに莫禰氏、阿久根氏、読みは同じ「あくね」)を名乗った。
この神埼氏は、もともとは肥前国の神埼荘(かんざきのしょう、現在の佐賀県神埼市)にあった。兼重の父である平兼輔(たいらのかねすけ)を祖とする。さらに兼輔の父は島津荘の開発者の平季基(たいらのすえもと)とも伝わる。
英祢氏は15世紀中頃に所領を失い、島津氏薩州家の配下となった。また、島津氏の家臣に名が見える遠矢氏は、英祢氏の次男家である。
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菱刈氏(ひしかり)
大隅国菱刈(現在の鹿児島県伊佐市)の領主。初代・菱刈重妙は、太政大臣の藤原頼長(ふじわらのよりなが)の後裔と伝わる。藤原頼長は保元の乱(保元元年、1156年)で崇徳上皇方として戦って敗死し、4人の息子は配流された。頼長三男の隆長の孫にあたるのが、菱刈重妙だという。
菱刈重妙は院宣により菱刈両院の土地700町を拝領したことから、菱刈氏を名乗るようになった。菱刈両院とは大隅国太良院(たらいん)と薩摩国牛屎院(読みは「うしくそいん」、「ねばりいん」、「うぐついん」など諸説あり)のこと。のちに源頼朝に本領を安堵され、建久4年(1193年)に重妙が下向したとされる。
戦国時代には、菱刈氏は渋谷一族や蒲生氏とともに島津貴久・義久と対立。激戦を繰り広げるが、永禄12年(1569年)に降伏。島津氏の傘下となる。
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<参考資料>
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年
『蒲生郷土誌』
編/蒲生郷土誌編さん委員会 発行/蒲生町 1991年
『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編纂委員会 発行/吉田町 1991年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市 1969年
『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市 1971年
※『島津家文書』などからの抜粋を収録
『阿久根市誌』
編/阿久根市誌編さん委員会 発行/阿久根市 1974年
『南九州御家人の系譜と所領支配』
著/五味克夫 出版/戎光祥出版 2017年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか