鹿児島県姶良市に蒲生(かもう)というところがある。この地に鎮座する蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は素敵な場所だ。
主祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。ほかに摂社・末社も境内には祀られている。
そして、境内には「蒲生の大楠」と呼ばれる巨樹がある。この御神木もすごい存在感なのだ。
蒲生氏が創建
保安4年(1123年)に蒲生舜清(かもうちかきよ、藤原舜清)が創建した、と伝わる。もともとは「正八幡若宮」と呼ばれていた。
蒲生氏は関白の藤原教道(ふじわらののりみち)の後裔を称する。蒲生舜清(藤原舜清)は豊前国宇佐(現在の大分県宇佐市)の宇佐八幡宮の社家の出身だという。父は宇佐八幡宮の留守職、母は宇佐八幡宮の宮司の娘とされる。
藤原舜清は宇佐から大隅国に移る、まずは下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市)に入り、そのあとに蒲生に移る。この地に土着して蒲生氏を名乗るようになったという。そして、宇佐八幡宮より勧請して正八幡若宮を創建した。
大隅正八幡宮(鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町)の執印職の行賢より、蒲生にあった社領(大隅正八幡宮領の寄郡)を任されたとも。また、行賢の娘を妻にしたとも。
蒲生氏は16世紀まで大隅国の有力者として名が出てくる。蒲生清寛(きよひろ)は島津元久(しまづもとひさ)・島津久豊(ひさとよ)の家老を務めた。
蒲生氏についてはこちらの記事にて。
天文23年(1554年)、18代当主の蒲生範清は祁答院良重(けどういんよししげ)らとともに島津貴久(しまづたかひさ)と戦う。「大隅合戦」と呼ばれるものである。蒲生範清は岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)の激戦に敗れ、その後も抗戦を続けるが、弘治3年(1557年)に蒲生城が陥落。蒲生氏は蒲生の地を失った。
大隅合戦についてはこちらの記事にて。
島津義弘が再興
蒲生が島津氏領となったあと、島津義弘(よしひろ)によって正八幡若宮が再興された。八幡神は人気のある武神だ。正八幡若宮(蒲生八幡神社)は島津氏にも大事にされてきた。
島津義弘が奉納した「正八幡若宮」の鳥居の神額がある。その裏には「建立鳥居大願主、島津兵庫入道藤原義弘朝臣、元和四年戊午」とある(『三国名勝図会』より)。
この年に社殿が造営された。島津義弘は元和5年(1619年)に没しているので、最晩年のことであった。
なお、社殿は昭和60年(1985年)に台風被害により大破。再建して現在の社殿となっている。
『三国名勝図会』(天保14年12月/1844年1月に成立)には正八幡若宮(蒲生八幡神社)の絵図が掲載。19世紀頃の様子がわかる。建物が変わっているが、雰囲気はだいたいそのままであろう。ただ、絵図には大楠が描かれていない。何でだろう?
木々の生命力を感じる
蒲生を訪れると場所はすぐにわかる。鹿児島県道42号沿いに鳥居が見える。ここを入っていく。
参道をしばらく進むと、石段がある。写真の左側の道をのぼっていくと駐車場や社務所がある。
入口すぐに、大きなクスノキがある。しかし、これは「蒲生の大楠」ではない。初めて訪れた人はけっこう勘違いするのである。ただ、こちらもかなり立派である。また、入口横のソテツも、みょうに存在感があったりする。
参道を奥へと進む。門守社がある。古そうな石垣もある。
石段をのぼると本殿前の広場へ。社殿の向かって左脇には巨樹。これが「蒲生の大楠」だ!
推定樹齢は1500年以上。根回りは約33.57m、幹回りは約24.22m、樹高は約30m。国の特別天然記念物に指定されている。また、昭和63年度に環境庁が実施した巨樹・巨木林調査で「日本一の巨樹」と認定されている。
一段高くなったところに拝殿がある。石段前には狛犬も。
石段をのぼって拝殿へ。参詣する。ここでも大楠の存在感を感じる。本殿脇には摂社の四所神社(御祭神は仁徳天皇・宇治皇子・宇礼姫・九礼姫)、末社の武内社(御祭神は武内宿禰)・早風社(火闌降命)・十八種神社などもある。
境内をもうちょっと散策してみる。拝殿の脇のほうには鬼瓦が転がっていた。かつての社殿のものだ。建物のどこに使われていたものだろう。
境内から参道口のほうを見る。遠くに見える山は蒲生城跡。蒲生氏の居城だ。
ここは人気のある神社だ。人を強く引き寄せる感じがする。叢林に囲まれた境内には、木々の生命力が満ちていた。
「蒲生の大楠」については、こちらの記事でも。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『蒲生郷土史』
発行/蒲生町 1955年
ほか