JR南鹿児島駅前に「牛掛公園」というのがある。このあたりは「牛掛(うしかけ)」と呼ばれるところ。「牛懸」とも書く。あるいは「牛落」「牛下」とも。こちらの読みは「うしおろし」。
鹿児島と谷山の間では、たびたび合戦があった。そのことも併せて紹介する。
なお、日付は旧暦にて記す。
鹿児島と谷山の境目
牛掛は鹿児島市南郡元町にある。かつての薩摩国鹿児島郡の郡元(こおりもと)のうちであった。そして、すぐ南は鹿児島市宇宿。こちらは谿山郡(たにやまのこおり)の宇宿(うすく、うすき)であった。
つまり、牛掛は鹿児島(鹿児島郡)と谷山(谿山郡)の境界にあたるのだ。
ここにはシラス台地の崖がある。台地の上のほうが「紫原(むらさきばる)」だ。牛掛の「掛」は、この崖から来ているのかもしれない。そして崖から海まではあまり距離がない。現在は埋立地があり、かつてはもっと海が近かったと思われる。
鹿児島市には平野が少ない。シラス台地があり、その崖下から海との間に狭い平野がある。その中でも、牛掛のあたりはとくに狭くなっているところだ。
鹿児島と谷山を往来する際に、紫原の山越えをしないのであれば、牛掛を通過することになる。軍勢を進めるときもそうだったのだろう。鹿児島と谷山、それぞれから攻め出すと、牛掛のあたりでぶつかることになるのだ。
牛掛公園には古戦場らしさを感じられるものはとくにない。ただ、公園の端のほうに「牛掛灘の古戦場」の説明看板があった。
牛掛公園から道路をはさんで南鹿児島駅。写真手前は鹿児島市電の線路、その奥に南鹿児島駅の線路とホームがあり、その背後は紫原台地の崖だ。
駅そばの陸橋から見ると地形がよくわかる。崖下が牛掛だ。
史跡らしいものがあるわけではないが、地形を見ると合戦の様子をいろいろと想像させられる。
島津氏と谷山氏
14世紀は南北朝争乱期にあたる。南九州も大乱となった。鹿児島郡司の矢上高純(やがみたかすみ)と谿山郡司の谷山隆信は南朝方にあった。薩摩国は南朝方が強盛で、幕府(北朝方)は守護の島津貞久(しまづさだひさ、島津5代)に薩摩の攻略を命じた。
矢上氏は藤原純友の後裔を称する。10世紀に藤原純友の子の藤原直純が鹿児島郡の郡司・弁済使としてこの地に来たのが始まりとされる。矢上(鹿児島市坂元町のあたり)に居城を築いたことから矢上氏を称する。この居城は「矢上城」または「催馬楽城(せばるじょう)」と呼ばれる。また、長谷場(はせば、鹿児島市清水町のあたり)にも城を築く。こちらは「長谷場城」あるいは「東福寺城(とうふくじじょう)」と呼ばれる。また、長谷場城を守る矢上氏の一族は、長谷場氏を称した。
谷山氏は薩摩平氏の一族。薩摩平氏は11世紀頃から薩摩国中南部に繁栄し、それぞれの所領にちなんで河邊(かわなべ)・阿多(あた)・別府(べっぷ)・知覧(ちらん)・給黎(きいれ)・頴娃(えい)・串木野(くしきの)・薩摩(さつま)・指宿(いぶすき)・伊作(いざく)などを名乗る。谷山氏は別府氏から分かれた一族で、谿山郡司を任される。谷山城(鹿児島市下福元町)を居城とした。鎌倉時代には島津氏が派遣した地頭代と土地の領有権をめぐって争論もあった。谷山五郎入道覚信(谷山資忠)の訴えを起こした史料もある(『山田文書』)。その谷山資忠から子の谷山五郎入道隆信に谿山郡司が譲られている
島津貞久は足利尊氏に従って畿内で転戦していたが、薩摩への帰国命令が出る。暦応3年・延元5年(1340年)に薩摩に帰国したすぐあとに鹿児島に侵攻。矢上氏の東福寺城・催馬楽城を攻めた。暦応4年・興国2年(1341年)4月には東福寺城を、閏4月には催馬楽城を陥落させた。島津氏は鹿児島を奪い、東福寺城をこの地に拠点とした。
この頃、征西大将軍の懐良親王(かねよししんのう、後醍醐天皇の皇子)が薩摩入りする。それは暦応4年・興国2年(1341年)5月のことである。谷山隆信は懐良親王を谷山城に迎え入れ、御所も造営した。懐良親王の薩摩入りをきっかけに、南朝方は大いに盛り返すことになる。
康永元年・興国3年(1342年)8月、島津貞久は谷山を攻める。島津方は佐佐野木原(ささのきばる)に陣取り、谷山氏が率いる南朝方と交戦したという。谷山に「笹貫(ささぬき)」という場所がある。牛掛からやや南のほうに位置する。おそらく島津方は牛掛を抜けて南下したと推測される。
南朝方は谷山隆信が率い、知覧氏・給黎氏・別府氏(いずれも薩摩平氏)なども加わった。戦況は南朝方が優勢。島津貞久は谷山から撤退した。
貞和3年・正平2年(1347年)にも島津氏と谷山氏の大きな戦いがあった。そのことは「道鑑公御譜」「和泉氏忠直譜」(いずれも『旧記雑録 前編一』に収録)に記される。なお、こちらには谷山氏を率いたのは「谷山郡司平忠高」と記される。この人物は谷山隆信の子そする説、あるいは谷山隆信と同一人物とする説がある。
この年の正月、谷山城には南朝方が集結し、鹿児島侵攻の構えを見せた。その情報を得た島津貞久は軍備を固めて、北朝方の仲間に参陣を促した。同年6月、南朝方は東福寺城を攻める。城内に内応者もあり、支城の浜崎城を奪った。島津方は苦戦を強いられるも浜崎城を奪還。敵勢を押し返し、島津貞久は谷山に向けて進軍する。
谷山忠高は谿山郡の波平(なみのひら)に陣を構え、島津方はこちらに攻めかかる。戦況は南朝方が優勢で、島津方は大敗したようである。谷山忠高は策をめぐらし、弟の谷山祐玄の部隊を牛落に派遣。隘路となったこの地を塞ぎ、島津方の退路を断った。これに対して、島津方の和泉忠直(いずみただなお、和泉氏2代、島津貞久の甥にあたる)は青屋松原(鹿児島市郡元の海岸のほう)から牛落へ撃って出た。谷山祐玄と一騎打ちとなり、これを討ち取った。これにより島津方は撤退することができたという。
その後、島津氏は苦戦が続く。のちには南朝に転じたりもする。
島津久豊が伊集院頼久を攻める
応永18年(1411年)に島津元久(もとひさ、島津氏7代)が急逝。その弟の島津久豊(ひさとよ、島津氏8代)は強引に家督を相続する。ここから大乱となる。
家督相続には伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)が深く絡む。伊集院頼久は島津元久の妹を妻とし、島津元久も伊集院氏から正室を迎えている。島津元久の後継者には伊集院頼久の嫡男の初犬千代丸が立てられようとしていた。島津久豊は葬儀に乱入して、その相続を阻んだ。
伊集院頼久は島津久豊に対して挙兵。伊集院氏に協力する者も多かった。薩摩は大乱が長く続くことになった。「伊集院頼久の乱」とも呼ばれている。
応永24年(1417年)、島津久豊は河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)に侵攻。ここで伊集院頼久の軍勢とぶつかる(鳴野原の戦い)。島津久豊は大敗する。伊集院頼久は谷山・給黎・鹿児島の割譲を条件に和睦に同意した。島津久豊は鹿児島に撤退する
しかし、和睦が成立したあとに島津久豊と伊集院頼久は揉める。鹿児島の引き渡しをめぐって折り合いがつかなかった。そして、島津久豊は谷山城に向けて軍勢を繰り出し、伊集院頼久を降伏させた。
『山田聖栄自記』には「むらさき原辺めんに陳をとられ」とあり、さらに「かこしま通路もむつかしかるへし」と記されている。これは牛掛のあたりだろうか? 伊集院氏の軍勢が通路を塞ぐように陣を固めていたという。
島津貴久と薩州家の戦い
16世紀に入ると島津氏では守護職にある奥州家(おうしゅうけ)の力がなくなり、分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が台頭してくる。
守護の島津勝久(しまづかつひさ)は、薩州家の島津実久(さねひさ)の助けを得てなんとか政権を維持していた。しかし天文4年(1535年)に島津勝久は島津実久(薩州家)と戦って敗れる。島津勝久は鹿児島を出奔し、島津実久が覇権をとった(当主の座についたとも)。
島津勝久は相州家の島津貴久(たかひさ)と手を組む。天文6年(1537年)、島津貴久は鹿児島に侵攻して薩州家からこの地を奪い取った。薩州家方は谷山城に落ち、ここで抵抗を続けた。
天文8年(1539年)3月、島津貴久(相州家)は谷山の薩州家方を攻める。谷山城は禰寝播磨守が守っていた。禰寝播磨守は撃って出て兵を北上させる。そして南下してきた島津貴久の軍勢と紫原でぶつかった。紫原の戦いは島津貴久が大勝した。禰寝播磨守は討ち取られた。
合戦の場は紫原の台地の上であったのだろうか? 牛掛(牛落)のあたりも戦場になった可能性はあると思う。ここは鹿児島から谷山に向かう通り道でもあるので。ちなみに、島津貴久は紫原で勝利したあと神前城(鹿児島市和田、伊佐智佐神社が鎮座)を攻め落とす。神前城は牛掛から海岸沿いに南下したところなので、海側のルートをとった可能性は十分にあるうるんじゃないか、と思う。
紫原の戦いを制した島津貴久は、谷山の諸城を次々と降伏させた。
西南戦争の「涙橋の戦い」
明治10年(1877年)の西南戦争において「紫原の戦い」「涙橋の戦い」と呼ばれるものがある。戦いは6月24日のことだった。薩摩軍の今給黎久清(いまきいれひさきよ)が率いる部隊が、海から攻めかかる官軍と涙橋のあたり戦った。涙橋は牛掛からやや北のほうに位置する。
今給黎久清は213名の兵を率いて、海上と陸上から攻めかかる官軍の大軍を相手に奮戦した。大激戦となり薩摩軍は95人が戦死。薩摩軍は弾薬も尽き、撤退した。
涙橋の近くには「涙橋血戦之碑」がある。揮毫は床次竹二郎(とこなみたけじろう)。
昭和2年(1927年)に枕崎の有志によって建立された。今給黎久清は鹿籠(かご、現在の枕崎市)の出身である。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 発行/鹿児島県地方史学会 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年
『西藩野史』
著/得能通昭 発行/鹿児島私立教育會 1896年
鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年
『山田聖栄自記』
編・発行/鹿児島県立図書館 1967年
『谷山市誌』
編/谷山市史編纂委員会 発行/谷山市役所 1967年
『鹿児島市史 第三巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市 1971年
『枕崎市史』
編/枕崎市史編さん委員会 発行/枕崎市 1969年
ほか