可愛山陵(えのみささぎ)は鹿児島県薩摩川内市宮内町にある。ニニギノミコトの陵墓とされ、川内川沿いの神亀山が治定地となっている。神亀山には新田神社が鎮座する。山頂に社殿があり、本殿の裏手に可愛山陵は位置している。
神亀山
川内川という大きな川が流れている。川に沿って広がる平野の中に、山が忽然とある。それが神亀山だ。大きさは南北に500mほど、東西に400mほど。全体的には丸っこい山塊で、山の北西のほうがちょっと飛び出している。そちらが亀の頭のようにも見える。

新田神社の本殿の背後に
神亀山の山頂を目指す。新田神社の駐車場は二の鳥居の近くにもあるほか、山腹にも広い駐車場がある。車である程度の高さまで登っていくことができる。二の鳥居のほうからだと石段は300段以上ある。もちろん、こちらをのぼってもいい。


石段をのぼり切ると新田神社の社殿がある。御祭神は天津日高彦火瓊瓊杵尊(アマツヒダカヒコホノニニギノミコト)を本祀とし、配祀には天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)と正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒノアメノオシホミミノミコト)。
新田神社につていはこちらの記事にて。
本殿の背後が可愛山陵だ。社殿の東側から裏手のほうに回り込める。奥へいくと、可愛山陵の参道に合流する。

石段をさらにのぼると玉垣があり、その向こう側に陵墓が見える。気の張りつめたような、なんとも言えない雰囲気の場所である。

ニニギノミコトは川内へ?
神話では「出雲の国譲り」のあとに「天孫降臨」という順番になっている。譲られた国を治めるために、アマテラスオオミカミの孫(つまり天孫)にあたるニニギノミコトが天降る。「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)」に降り立ったニニギノミコトは、「笠沙の御前」にたどりつく。そこでオオヤマツミノカミの娘であるカムタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)と出会って妻にする。
「笠沙の御前」は薩摩国の阿多(鹿児島県南さつま市)とされる。さらに阿多から川内川の河口のほうへ移り住んだのだという。
ニニギノミコトは高城千臺宮を宮居とした。その場所は神亀山であったという。「川内(せんだい)」という地名は、「千臺(千台、せんだい)」に由来するとされる。また、神亀山は薩摩国の高城(たき)郡のうちである。
天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛之山陵 (『日本書紀』より)
陵も神亀山に。ニニギノミコトは亡くなったあとは「可愛之山陵」に葬られた、とされる。また、このあたりを「エ(江)」と呼んだとも。川内川沿いには「江内」「高江」といった地名もある。
『新田神社文書』の建長8年(1256年)4月の「新田宮所司神官等解文」に、「可愛陵」「高城千臺宮」の文字が確認できる。伝承については、すくなくともこの時期には語られていたようだ。
宮内庁により治定
ニニギノミコト天孫降臨、その子のヒコホホデミノミコトは海幸山幸伝説で知られる。そして、3代目のヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトまでは日向(ひむか)にあったという。「日向三代」とも呼ばれる。この系譜は天皇家へとつながる。
ニニギノミコトの陵とされる「可愛山陵」、ヒコホホデミノミコトの陵とされる「高屋山陵(タカヤヤマノエノミササギ)」、ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの陵とされる「吾平山上陵(アヒラヤマノエノミササギ)」は、三つまとめて「神代三陵」と呼ばれる。治定地はいずれも鹿児島県内にある。
明治7年(1874年)に神代三陵が国により治定された。治定地はいずれも鹿児島県内にある。可愛山陵は鹿児島県薩摩川内市の川内に、高屋山陵は霧島市の溝辺に、吾平山上陵は鹿屋市の吾平に。
薩摩藩では神代三陵の研究が行われ、いずれも島津家の領内にあるとした。このことが治定の背景になっている。
薩摩藩の白尾国柱(しらおくにはしら)は『神代三陵考』を著す。寛政4年(1792年)のことである。この中で可愛山陵は「薩摩国高城郡水引郷五臺村中山之峯」としている。
この中山之峯というのは、神亀山の山頂ではない。『神代三陵考』でも「中山陵の右に新田廟がある」と説明されている。神亀山の北西の亀の頭のように出っ張ったところの首のあたりに中陵(なかのみささぎ)がある。白尾国柱は「中陵が可愛山陵である」と比定した。
白尾国柱は寛政7年(1795年)に『麑藩名勝考』を著す。こちらは島津氏領内の地理誌である。本書の中には『神代三陵考』における説も見ることができる。
後年、薩摩藩では『三国名勝図会』が編纂される。藩主の島津斉興(しまづなりおき)の命で、橋口兼古・五代秀堯・橋口兼柄・五代友古によってまとめられた。天保14年12月(1844年1月)に完成。『三国名勝図会』は『麑藩名勝考』の情報をかなり参考にしている。そのため、ここでも「中陵=可愛山陵」の説をとっている。下の絵図でもそうなっている。


その後、白尾国柱は島津重豪(しげひで、島津氏25代当主/薩摩藩8代藩主)から神代三陵のさらなる調査を命じられる。そして文化11年(1814年)11月に『神代三陵取調書』を提出した。なお、白尾国柱は文政2年(1819年)には薩摩藩の記録奉行にも任じられている。
『神代三陵取調書』では、「可愛山陵は神亀山の山頂である」という説にかわっている。新田神社の古記録などを改めて精査され、「可愛山陵は新田宮のある場所」と結論づけられている。その後は、これが定説となった。
可愛山陵の伝承地はほかにもある。宮崎県延岡市の「北川陵墓参考地」と宮崎県西都市の「男狭穂塚古墳」は参考地に指定されている。
神代三陵の治定には、政治的な意図も絡んでいると思われる。明治の宗教政策には、田中頼庸(たなかよりつね)をはじめ薩摩藩出身者が大きく関わっている。
吾平山上陵の記事もあります。
古代の川内を想像してみる
『続日本紀』の大宝2年(702年)8月に「薩摩多褹隔絶化逆命 於之發兵征討 遂挍戸置吏焉」とある。「薩摩と多褹(種子島)の反乱を鎮めて、この地に役所を置くことができた」のだという。10月には「唱更国(はやひとのくに)」が設置され、「薩麻国」「薩摩国」と名称が改められる。
薩摩国の国府は川内に置かれた。もともとこの地が薩摩の中心地であったことがうかがえる。川内川という大きな川がある。川沿いに平地が広がっていて、水もたっぷりある。稲作に向く場所である。米が穫れるから、人も多かったはず。
川内には高塚式古墳もいくつかある。そのうちの一つの天辰寺前古墳(あまたつてらまえこふん)は5世紀初め頃の造立と推定され、石棺からは壮年女性の遺骨が出てきていて、副葬品などから身分の高い人物だったようだ。
天辰寺前古墳についてはこちらの記事にて。
天辰寺前古墳からは、川内を治める権力者がいたことがわかる。そして、高塚式古墳が点在することからヤマト王権との関りもありそうである。
ニニギにノミコトの伝説は、歴史ではなく神話である。ただ、神話にもモデルとなった人物や事象があったはず。川内にはそれにあたる何かがあったのかも?
いろいろと想像させられる。興味が尽きない。
<参考資料>
『神代三山陵』
編・発行/鹿児島史談会 1935年
『神代山陵考』(著/白尾國柱)、『神代三陵取調書』(著/白尾國柱)、『神代三陵志』(著/後醍院眞柱)、『神代三陵異考』(著/樺山資雄)、『高屋山陵考』(著/田中頼庸)などを収録
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集3『薩摩国新田神社文書』
発行/鹿児島県立図書館 1962年
『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年
『川内市史 下巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1980年
『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』
著/窪壮一朗 出版/法蔵館 2022年
ほか