戦国時代の薩摩国と大隅国と日向国は、島津貴久・島津義久が制圧する。島津氏の配下には新納(にいろ)氏の名前が見える。すごくたくさん出てくる。戦国時代に活躍した新納一族の人物のうち、一部を紹介する。
- 新納氏とは
- 新納氏嫡流
- 新納是久の一族
- 新納是久/にいろこれひさ
- 新納是久の娘
- 新納友義/にいろともよし
- 新納忠祐/にいろただすけ
- 新納祐久/にいろすけひさ
- 新納忠元/にいろただもと
- 新納忠堯/にいろただたか
- 新納忠光/にいろただみつ ※新納忠堯の子
- 新納忠増/にいろただます
- 新納忠清/にいろただきよ ※新納忠増の子
- 新納忠佐
- 新納忠澄/にいろただすみ
- 新納康久/にいろやすひさ
- 新納又八郎
- 新納久饒/にいろひさあつ
- 新納久詮
- 新納旅庵(新納長住)/にいろりょあん(ながすみ)
- 新納忠雄
- 新納忠秀/にいろただひで
- 新納忠光/にいろただみつ ※新納友義の子
- 新納忠清/にいろただきよ ※新納忠光の養子
- 新納久時/にいろひさとき
- 新納藤四郎
- 新納久宣/にいろひさのぶ
- そのほかの庶流
なお、日付は旧暦にて記す。

新納氏とは
新納氏は島津氏の支族である。4代当主の島津忠宗(しまづただむね)の四男の島津時久(ときひさ)より始まる。
島津時久は、建武2年12月11日(1336年1月)に足利尊氏より日向国新納院(にいろいん、宮崎県児湯郡の東部、日向市の一部)の地頭職に任じられた。「新納」という名乗りは、これに由来する。なお、当初の居城は新納院高城(たかじょう、宮崎県児湯郡木城町)とも伝わる。のちに島津氏にとって重要な戦いがあったところでもある。新納院は天正6年(1576年)の高城川の戦い(耳川の戦い)の戦場となった。
新納院を領有した期間は長くはない。観応元年・正平5年(1350年)に畠山直顕に攻め取られてしまう。それでも「新納」を名乗り続けた、というのも興味深いところである。
2代目の新納実久(さねひさ)のときに日向国の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町帖)を任される。中世は志布志の領主として君臨した。
3代目の新納忠臣(ただおみ)は島津忠国(ただくに、島津氏9代当主)を支援する。島津忠国は弟の島津用久(もちひさ、薩州家の祖)と争っていた。新納忠臣は島津用久との和睦をまとめ、事態を収拾するのの一役買った。また、新納忠臣の娘は島津忠国の正室となり、島津立久(たつひさ、島津氏10代当主)や伊作久逸(いざくひさやす、伊作氏の家督を継承)の母となる。新納氏は、島津氏本家の外戚として大きな力を持っていた。
文明16年(1484年)、新納氏に内紛がある。これには伊作久逸も絡んでくる。
この頃の日向国南部では飫肥(おび、宮崎県日南市)を新納忠続(ただつぐ)が、櫛間(くしま、宮崎県串間市)を伊作久逸が守っていた。島津立久が北方の伊東氏に対して守りを固めたもので、実弟の伊作久逸を薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)からこちらに移封してテコ入れをしている。また、新納氏の本領の志布志は新納是久(これひさ、忠続の弟)が入っていた。
島津立久が亡くなったあと、新納忠続と新納是久の関係が悪化。新納忠続には後継の男子がなく、新納是久が家督を狙っていたのかも。この兄弟の争いに伊作久逸も関わる。ちなみに新納是久と伊作久逸は姻戚関係にある。新納是久の娘は伊作善久(よしひさ、久逸の子)に嫁いでいる。
伊作久逸と新納是久は文明16年(1484年)に挙兵。新納忠続のいる飫肥に攻めかかった。反乱には伊東祐国も加わった。翌年に島津忠昌(ただまさ、島津氏11代当主)が日向へ出陣し、飫肥で反乱軍を破る。新納是久は戦死。伊作久逸は降伏し、薩摩国伊作に戻される。
新納忠続のあとは、弟の新納忠明(是久の弟でもある)が家督をつぐ。新納氏は日向国南部の実力者としてその後も君臨する。群雄割拠の様相の中で戦国大名化し、勢力争いを繰り広げる。しかし、天文7年(1538年)に北郷氏・島津氏豊州家に攻められて志布志城が陥落。領主としての地位を失った。
新納氏は庶流もものすごく多い。嫡流の没落後も、新納一族はあちこちの家に仕える。島津貴久・島津義久の配下として活躍したものも多い。
新納氏嫡流
日向国の志布志(鹿児島県志布志市)を拠点に勢力を広げた、最盛期には日向国の松山・大崎、大隅国の財部・末吉・恒吉・高隈・市成・牛根・垂水などを領した。その領域は、現在の鹿児島県志布志市・曽於市・垂水市・鹿屋市にまたがる。肝付氏・北郷氏・島津氏豊州家と抗争を繰り広げた。天文7年(1538年)に志布志が陥落して没落するが、島津貴久・島津義久の配下として家系は続く。
新納忠続/にいろただつぐ
新納氏嫡流5代目にあたる。新納忠治の長男。母は不明。生年不明。延徳元年(1489年)9月20日没。通称は「近江守」。叔母は島津忠国(島津氏9代当主)の正室で、島津立久(島津氏10代当主、忠国の次男)・伊作久逸(忠国の三男)は従兄弟にあたる。
日向国の志布志城を拠点としていたが、飫肥の守りを任されてこちらに居城を移す。志布志は弟の新納是久に任せる。
文明15年(1483年)には大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)の肝付氏の御家騒動に介入。肝付家では当主の肝付兼連が亡くなり、嫡男の肝付兼久が家督を相続。肝付兼久はまだ幼く、大叔父の肝付兼広が家督簒奪を狙った。肝付兼久の母は新納氏の出身で、新納忠続を頼って飫肥に逃れてきた。新納忠続は肝付兼久を支援し、当主の返り咲きを実現させている。
文明16年(1484年)10月に志布志の新納是久と櫛間の伊作久逸が反乱を起こし、飫肥を攻められる。翌年にも反乱軍が飫肥に侵攻した。島津忠昌(島津氏11代当主)も日向まで出向いて反乱は鎮定された。
その後は志布志に戻る。飫肥・櫛間は豊州家の島津忠廉に任された。
新納忠明/にいろただあき
新納氏嫡流6代目。新納忠治の三男、または次男とも。母は不明。生年不明。明応3年(1494年)7月27日没。通称は「三郎左衛門尉」「越前守」「近江守」。
兄の新納忠続に男子がなく、その後嗣となる。新納忠続(長男)と新納是久(次男)の不和は、家督相続問題も絡んでいる可能性もありそう。
文明17年(1485年)の飫肥の戦いでは、反乱鎮圧の軍勢にも加わっている。
新納忠武/にいろただたけ
新納氏嫡流6代目。新納忠明の長男。母は不明。生年不明。大永元年(1521年)11月17日没。通称は「四郎」「近江守」。
15世紀末から16世紀の初めにかけて、南九州は「三州大乱」と呼ばれる状況に。守護の島津忠昌の権威は弱く、領内の統制がまったくとれない。各地で反乱が頻発し、領主たちは勢力争いを展開した。群雄割拠の様相であった。新納忠武は日向国の梅北(宮崎県都城市梅北町)、大隅国の市成・平房(鹿児島県鹿屋市輝北町)を獲るなど、版図を広げている。
また、永正3年(1506年)に島津忠昌は高山城の肝付兼久を攻める。このときに新納忠武は肝付氏に援軍を出す。高山で島津忠昌の軍勢を迎え撃ち、大敗させた。
新納忠勝/にいろただかつ
新納氏嫡流8代目。新納忠武の長男。母は北郷数久の娘。延徳3年(1491年)生まれ。天文18年(1549年)2月8日没。初名は「忠家」。通称は「四郎」「弾正忠」「近江守」。入道名は「栖嵐」。
鹿児島の守護には従わず、半独立勢力といった感じに。新納氏は戦国大名化しつつあり、志布志を拠点に日向国・大隅国に勢力を広げていた。大永3年(1523年)には島津忠兼(島津氏14代当主)が志布志を攻めるが、迎え撃って大敗させている。
鹿児島では島津氏本家にあたる奥州家と、分家の薩州家と相州家による惣領の座をめぐる抗争が続いていた。日向国・大隅国では薩州家につく者が多いなかで、新納忠勝は相州家(島津忠良・島津貴久)に与していたとも。新納忠勝は北郷氏・島津氏豊州家・肝付氏など激しく争う。まわりは敵だらけ。次第に劣勢となっていく。天文7年(1538年)7月に志布志城が陥落する。新納氏は領地をすべて失う。新納忠勝も逃亡する。その後は、豊州家の世話になり、飫肥に住んだという。
新納忠茂/にいろただしげ
新納忠勝の長男。母は伊東尹祐(いとうただすけ)の次女。永正7年(1510年)生まれ。永禄4年(1561年)11月20日没。初名は「忠重」。通称は「四郎」。
天文7年(1538年)に志布志が陥落すると、母の実家の伊東氏を頼って日向国佐土原(宮崎市佐土原町)へ落ちのびた。天文7年11月に剃髪。12月に薩摩国鹿児島の小野に移り住む。その後、島津貴久に召し抱えられ、大隅国日当山(鹿児島県霧島市隼人町日当山)に所領を与えられた。
新納武久/にいろたけひさ
新納忠茂の長男。母は不明。享禄3年(1530年)生まれ。天正年間没。命日は10月19日。通称は「四郎」「近江守」。新納忠茂の家督をつぐ。大隅国日向山から薩摩国平泉(鹿児島県伊佐市平出水)に移封され、さらも日向国富田(とんだ、宮崎県児湯郡新富町)へ移った。
新納忠真/にいろただざね
新納氏嫡流11代目にあたる。新納武久の子。母は大野忠元(おおのただもと)の娘。永禄7年(1564年)生まれ。寛永14年(1637年)7月18日没。
日向国富田を領していたが、島津氏が豊臣秀吉に降ったあとはこの地を去る。その後は、末吉(鹿児島県曽於市末吉)→谷山水樽(鹿児島市坂之上)→庄内薄木野(宮崎県北諸県郡三股町蓼池)→菱刈市山(鹿児島県伊佐市菱刈市山)→伊集院福山(鹿児島市福山町)→踊三躰堂(鹿児島県霧島市牧園町三体堂)、と移り住んだという。
新納忠在(島津久元)/にいろただあり
新納忠真が無嗣であったことから、慶長4年(1599年)に島津家から養子として入る。
島津忠長(ただたけ)の次男。母は島津忠将の次女。天正10年(1582年)4月22日生まれ。寛永20年(1643年)6月13日没。通称は「新八郎」「近江守」。
朝鮮出征や庄内の乱などに従軍する。関ヶ原の戦いにも参加し、長寿院盛淳らと陣に残って奮戦しつつ生還している。帰国後に新納家を抜けて実家に戻り、「島津久元」と名乗る。兄が亡くなっていたことから、島津忠長の跡継ぎとなった。元和四年(一六一八年)から島津家久(島津忠恒)の家老を務めた。寛永十四年(一六三七年)の島原の乱にも出陣している。
慶長15年(1610年)に新納家を抜けて、実家に戻る。兄が亡くなっていたことから、島津忠長の後継者となる。「島津久元」と名乗る。宮之城島津家の3代目にあたる。元和4年(1618年)より島津家久(島津忠恒)の家老を務めた。
新納忠影/にいろただかげ
新納忠在(島津久元)が実家に戻り、かわって新納氏の家督を継承する。
島津忠清(ただきよ)の長男。母は皆吉続能の娘。慶長9年(1604年)生まれ。寛永5年12月29日(1629年1月)没。通称は「又助」「近江守」。
島津忠清は、薩州家の島津義虎(さっしゅうけ)の三男。兄の島津忠辰(ただとき)が改易となったあと、肥後国宇土(熊本県宇土市)の小西行長の預かりとなっていた。島津忠清は宇土で妻を娶り、長男も生まれている。ちなみに妻はキリシタンで、洗礼名は「カタリナ」。
島津忠清の母は島津義久の娘で、新納忠影は島津義久の曾孫にあたる。また、妹は島津家久(島津忠恒)の側室となり、二代藩主の島津光久を産んでいる。
江戸時代には藩の家老を出すなど、この家系は薩摩藩の重職を担った。
新納忠常/にいろただつね
新納忠勝の次男。母は伊東尹祐(いとうただすけ)の次女。通称は「孫四郎」。
天文7年(1538年)の志布志陥落のあと、父ともに日向国飫肥(宮崎県日南市)の島津忠朝(豊州家)のもとに身を寄せる。その後は豊州家に仕えたという。天文10年(1541年)9月3日に戦死。
新納忠充/にいろただみつ
新納忠常の子。母は島津忠秋(豊州家の島津忠朝の弟)の娘。生年不明。天正12年(1584年)7月6日没。初名は「忠職」。通称は「四郎左衛門」。入道名は「栖雲」。
父ともに豊州家に仕え、福島(宮崎県串間市)に長く住んだという。永禄11年(1568年)に飫肥が伊東義祐により奪われ、豊州家の島津忠親は没落。庄内(宮崎県都城市)の北郷時久(島津忠親の長男でもある)のもとに落ちた。新納忠充も島津忠親とともに庄内へ入った。
次女は北郷忠虎(時久の次男)の正室に。
新納久徳/にいろひさのり
新納忠充の長男。母は日置久達の娘。永禄11年(1568年)2月27日生まれ。明暦3年(1657年)8月21日没。初名は「忠陸」。通称は「孫四郎」「四郎右衛門」「三河守」。入道名は「楚弓」。
もとは豊州家の家臣。のちに島津義久に仕える。慶長16年(1611年)に島津義久が亡くなると、大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)に移って島津義弘に仕える。元和8年(1622年)より島津家久(島津忠恒)に仕えて薩摩国鹿児島に住んだ。
弓の名手であったとされ、朝鮮出陣においてはかなりの数の敵を射抜いたという。弓術を叔父の日置忠充(豊州家の家臣)より伝授され、弓法の書を島津義弘・島津家久(島津忠恒)に献じている。
すごく長生き。
新納是久の一族
戦国島津氏の祖は、相州家の島津忠良とされる。この島津忠良の母は、新納是久の娘である。新納是久は反乱に失敗し、戦死する。しかし、新納是久から続く一族は繁栄することになる。
新納是久/にいろこれひさ
新納忠治の三男、または次男とも。母は不明。生年不明。文明17年(1485年)6月21日没。
兄の新納忠続から日向国の志布志城を任される。文明16年に伊作久逸とともに反乱を起こし、飫肥の新納忠続を攻めた。翌年の再挙兵では、島津忠昌が大軍勢を飫肥に繰り出す。楠原(くすばる、宮崎県日南市楠原)に陣取って戦うが反乱軍は敗走。新納是久は討ち死にした。
新納是久の娘
名は「常盤」とも伝わる。母は不明。生年不明。大永5年(1525年)10月10日没。法名「梅窓妙芳大姉西福寺殿」から「梅窓夫人」とも呼ばれる。
伊作善久(伊作久逸の子)に嫁ぐ。飫肥の反乱で父は戦死し、伊作氏は薩摩国伊作へ移る。伊作善久との間に一男二女をもうける。長女は吉田位清の正室、次女は島津昌久の正室に。そして3人目に生まれた男子が、島津忠良である。
伊作氏では不幸が続く。明応3年(1494年)に伊作善久が馬丁に殺害される。明応9年(1500年)には伊作久逸が戦死した。
その後、伊作家の未亡人(新納是久の娘)は、相州家の島津運久と再婚する。連れ子が相州家の家督を相続することになる。
島津運久との間に二女をもうける。それぞれ島津忠将(吉利氏)の正室、佐多忠成の正室になっている。
新納友義/にいろともよし
新納是久の子。母は佐多氏。生没年不明。命日は10月6日。通称は「又五郎」「越前の守」「伊勢守」。来歴については、記録がみつからず。
新納忠祐/にいろただすけ
新納友義の長男。母は不明。生年不明。大永8年(1528年)5月1日没。通称は「次郎三郎」「左京亮」。
新納忠祐は新納忠勝に仕えていた。新納忠明の娘(忠勝の叔母)を妻とし、一門衆として重用されたと推測される。最期は日向国庄内冷水(宮崎県都城市横市のあたりか)で戦死。
新納祐久/にいろすけひさ
新納忠祐の子。母は新納忠明の娘。生没年不明。通称は「次郎四郎」「刑部大輔」「加賀守」。
天文7年(1538年)に志布志が陥落すると、相州家を頼って落ちてきた。島津忠良の母は新納是久の娘で、遠縁にあたる。また、相州家には叔父の新納忠澄が仕えていて、こちらの伝手を頼ったという。島津忠良・島津貴久の配下となる。
新納忠元/にいろただもと
新納祐久の長男。母は新納久友の娘。大永6年(1526年)生まれ。慶長15年12月3日(1611年1月)没。通称は「次郎四郎」「武蔵守」「刑部大輔」。入道名は「拙斎」「為舟」。
天文7年(1538年)に志布志が陥落し、父とともに相州家に身を寄せる。新納忠元は長じて島津貴久・島津義久に仕える。島津氏の重臣として活躍する。
長寿でもあり、出陣はすごく多い。おもな戦いを列挙する。
◆天文14年(1545年)に薩摩国の郡山城(鹿児島市郡山)攻めに参加。初陣とされる。
◆天文18年(1549年)、島津貴久が大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)の肝付兼盛を攻める。このときに新納忠元は、三原重益や宮原景種らとともに大隅国吉田(鹿児島市の吉田地区)で戦った。
◆天文23年(1554年)からの大隅合戦に従軍。
◆永禄5年(1562年)、大隅国の溝邊(鹿児島県霧島市溝辺)や横川(霧島市横川)で戦う。
◆永禄10年(1567年)の大隅国の馬越城(鹿児島県伊佐市前目)攻めに従軍。その後の菱刈氏・相良氏との戦いで活躍する。新納忠元は市山城(伊佐市菱刈市山)の守りを任される。敵に急襲されて脇腹を刺されながらも撃退した、という話も伝わる。その後、羽月城(伊佐市大口羽月)に配置換えとなり、菱刈氏・相良氏がたてこもる大口城に対峙。
◆永禄12年(1569年)5月、羽月戸神尾(鳥神尾)の戦い。島津家久が荷駄隊に扮して敵兵を城から釣り出し、新納忠元・肝付兼盛・宮原景種らの伏兵で殲滅する。この戦いで敵に大打撃を与え、同年9月に大口城は開城する。島津氏のものとなった大口城には、新納忠元が入る。
◆元亀3年(1572年)5月、木崎原の戦いに大口より援軍を出す。
◆元亀4年(1573年)、大隅半島侵攻に従軍する。肝付氏・伊地知と戦う。島津義久のもとで入船城(鹿児島県垂水市牛根麓)攻めでも活躍。入船城が開城されると、城の受け取りは新納忠元が担当した。
◆天正2年(1574年)、肝付氏・伊地知氏が降る。降伏勧告には新納忠元が動いたとされる。新納忠元の母と、肝付兼純(肝付氏の重臣)の母が姉妹であったという。母を肝付家に遣わして和睦をまとめた。
◆天正4年(1576年)、日向国の高原(宮崎県西諸県郡高原町)攻めに従軍。
◆天正6年(1578年)、豊後国の大友義鎮(大友宗麟)・大友義統が日向国に侵攻。島津氏と全面抗争となる。11月の決戦は「高城川の戦い」「耳川の戦い」と呼ばれる。新納忠元は肥後からの攻撃に備えて、大口城で守りを固めた。
◆天正7年(1579年)、島津義虎とともに天草五人衆(天草氏・志岐氏・栖本氏・上津浦氏・大矢野氏)を調略。島津氏の味方につける。
◆天正7年(1579年)から翌年にかけて、比志島国貞とともに肥後国水俣の宝河内城(ほうがわちじょう、熊本県水俣市宝川内)を攻める。
◆天正8年(1580年)、島津氏は肥後国隈元(熊本市)・宇土(熊本県宇土市)に軍勢を派遣。これは城氏と名和氏の求めに応じだもの。11月に阿蘇氏が領する矢崎城(熊本県宇城市)・綱田城(おうだじょう、田平城、熊本県宇土市)を攻める。新納忠元は鎌田政年・伊集院久治とともに矢崎城を囲み、攻め落とす。
◆天正9年(1581年)、島津氏は肥後国の水俣城(熊本県水俣市)を総攻撃。新納忠元も従軍。この戦いのあと、相良義陽が降る。
◆天正12年(1584年)、島津家久を大将として肥前国島原(長崎県島原市・南島原市)に派兵。有馬晴信の援軍要請に応じてのこと。新納忠元も従軍する。肥前の龍造寺隆信は大軍勢を率いて襲来する。3月24日に決戦となる。「島原合戦」「沖田畷の戦い」と呼ばれる。島津・有馬連合軍は数倍もの兵力差を覆して勝利。龍造寺隆信は戦死する。また、この戦いで島津家久嫡男の島津豊久が初陣を飾る。新納忠元はその後見となったとも。
◆天正13年(1585年)の阿蘇合戦に従軍。
◆天正14年(1586年)6月、筑前・筑後侵攻では後詰として島津義久が肥後国八代(熊本県八代市)まで出陣。新納忠元はこれに同行する。
◆天正14年(1586年)10月、島津氏が豊後侵攻を開始。肥後口の大将の島津義珎(島津義弘)に従って出陣。しかし、新納忠元は病のために帰国する。
◆天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州に大軍勢を繰り出す。5月に島津義久は降伏した。しかし、新納忠元は大口城で抗戦の構えを見せた。豊臣秀吉は大口に向けて進軍し、5月24日に大口城の南の天堂ヶ尾(伊佐市大口曽木)に陣を置いた。新納忠元は開城の説得になかなか応じず。「御両殿トモニ御指出之上ハ弓箭不可然之由(島津義久と島津義弘が降って人質を出している、戦えば主君に敵対したことになるぞ)」と説得し(『本藩人物誌』より)、ようやく降伏に応じたという。新納忠元は剃髪して天堂ヶ尾へおもむき、豊臣秀吉に謁見。降伏を許された。その忠勇が賞され、長刀などを賜る。そして、引き続き大口城主を務める。
◆朝鮮へは出陣せず。そろそろ高齢に。
◆慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いのあと大口城で守りを固める。
島津忠良が「島津家になくてはならない名臣」として四人の名を看経所の柱に書きつけていたという。「看経所の四名臣」と呼ばれる。川上久朗・肝付兼盛・鎌田政近とともに、新納忠元も名を連ねている。
新納忠堯/にいろただたか
新納忠元の長男。母は種子島時興の娘。天文23年(1554年)生まれ。天正11年(1583年)6月23日没。通称は「次郎四郎」「刑部大輔」。
父ともに日向や肥後を転戦。天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)では、前哨戦の松山陣攻撃でとくに功あり。天正7年(1579年)の肥後国の宝河内城(熊本県水俣市宝川内)の攻略は、新納忠元ではなく新納忠堯が戦ったとも。
天正11年に肥前国の島原に渡海。深江城(長崎県南島原市深江町)攻めで戦死。
新納忠光/にいろただみつ ※新納忠堯の子
新納忠堯の長男。母は上原尚常の娘。生年不明。慶長8年(1603年)8月25日没。通称は「次郎四郎」「次郎兵衛」。
天正14年(1586年)に島津義久の加冠で元服。島津氏が豊臣政権の傘下になったあと、天正18年(1590年)より人質に出される。京に滞在した。その後、早世。
新納忠増/にいろただます
新納忠元の次男。母は種子島時興の娘。生年不明。慶長9年(1604年)5月7日没。没年は慶長13年説もあり。通称は「次郎九郎」「左京」「彌太右衛門」。
天正12年(1584年)に島原合戦(沖田畷の戦い)に従軍。これが初陣か。島津家が豊臣秀吉に降伏したあとは、新納忠元の人質として出された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍する。島津隊は壮絶な撤退戦を展開して戦場を離脱するが、このときに新納忠増は長寿院盛淳とともに陣に残って奮戦している。そこから生還。
新納忠清/にいろただきよ ※新納忠増の子
新納忠増の長男。母は猿渡信孝の娘。文禄4年(1595年)3月9日生まれ。承応3年(1654年)2月17日没。通称は「次郎四郎」「刑部大輔」「加賀守」。
新納忠元の後継者は、嫡男の新納忠堯が若くして戦死。嫡孫の新納忠光は早世する。そこで、新納忠増の次男が家督をつぐことになった。このときに、新納忠堯の長女の婿となっている。薩摩藩の高奉行に任じられ、大口地頭も務めた。薩摩藩の重臣として新納家は幕末まで続く。寛永14年(1637年)の島原の乱にも出陣している。
なお、新納忠増の家督は、次男の新納久連がつぐ。
新納忠佐
名の読みは「ただすけ」か。新納祐久の次男。母は不明。生没年不明。通称は「次郎五郎」「五郎左衛門尉」。
兄の新納忠元の家臣として活躍。子孫も大口郷士として続いた。
新納忠澄/にいろただすみ
新納友義の次男。新納是久の孫にあたる。母は三原氏。生年不明。永禄2年(1559年)没。通称は「又六」「右衛門尉」「能登守」。入道名は「魚隠」。
島津忠良の母は、新納忠澄の叔母である。「常盤」という名も伝わっている。伊作久逸が日向国櫛間から薩摩国伊作へ移るときに、叔母に同行してこちらへ。その後、叔母が島津運久(相州家)と再婚すると、新納忠澄も相州家に移った。幼い菊三郎(島津忠良)に仕えたとされ、学問を教えたとも。傅役のような感じだろうか。菊三郎が海蔵院で学んだ際にも同行。目立った記録はないが、島津忠良の側近くに仕えたことが想像される。
ちなみに母方は三原氏。島津忠良・島津貴久の家老に三原重益がいる。こちらの一族だろうか? 三原氏は古くから伊作氏に仕えていたようだ。
新納康久/にいろやすひさ
新納忠澄の子。母は三原氏。生没年不明。通称は「又五郎」「右衛門佐」「伊勢守」。入道名は「十珪」。
島津忠良・島津貴久の家老を務めた。天文8年(1539年)に相州家が薩摩国加世田(鹿児島県南さつま市加世田)を獲ると、地頭も任された。その後は市来の地頭に。市来城(鹿児島県日置市東市来)を任される。
イエズス会の報告によりと、天文19年(1550年)にフランシスコ・ザビエルが市来城を訪れた記録もある。新納康久はザビエルを歓待し、布教を許可。妻や子が洗礼を受けたという。また、家臣の一人が熱心なクリスチャンになったとも。日本名は不明だが、「家老ミゲル」という名が伝わっている。
新納又八郎
「又八郎」は通称で、諱は不明。新納康久の長男。母は小門氏か。生年不明。
永禄4年(1561年)7月11日に大隅国廻(鹿児島県霧島市福山町)の竹原山で戦死。島津忠将(島津忠良の次男)とともに討ち死にした。
新納久饒/にいろひさあつ
新納康久の次男。母は小門氏。生年は天文16年(1547年)か。寛永元年(1624年)8月17日没。通称は「彌五郎」「伊勢守」「五郎右衛門尉」。入道名は「遊甫」。
肥後攻略などで戦功あり。朝鮮出兵にも参加した。文禄3年(1594年)に島津勢が兵糧不足で困っているときに、食糧調達で功があったとも。天正18年(1590年)には、琉球国への使者も務めている。
新納久詮
読みは「ひさのり」か。新納久饒の養子となり家督をつぐ。新納久時の次男。母は新納康久の娘(四女か)。新納久饒の甥にあたる。文禄元年(1592年)生まれ。延宝3年(1675年)1月6日没。初名は「久賢」。通称は「少助」「右衛門佐」。入道名は「遊山」。
島津光久(島津19大/2代藩主)に重用された。江戸留守居役など重職を任され、寛永20年(1643年)より家老。
新納旅庵(新納長住)/にいろりょあん(ながすみ)
新納康久の三男。母は小門氏。天文22年(1553年)生まれ。慶長7年(1602年)10月26日没。もとは時宗の僧で「旅庵」と号した。「休閑」とも。また、名は「長住」とも
肥後国で住職をしていたところを、島津義久からスカウトされる。兄の新納久饒の説得もあり(島津義久が説得させた)、還俗して仕えた。
島津義弘の家老となり、とくに外交面で活躍し、豊臣政権との連絡役も任されている。軍事のほうでも、文禄3年(1594年)に島津忠恒のお供として朝鮮へ渡海している。
慶長5年(1600年)、京で戦乱の兆しあり。島津義弘はわずかな兵しか持たず、国許への「兵を送れ」の要請も容れられず。志願兵を募る檄を発する。新納旅庵は国許にあり、檄に応えて上京。島津義弘に合流した。
関ヶ原の戦いは徳川家康方が勝利する。敗軍に島津隊もあった。戦場に取り残される形となるも、正面に退路を取って突破して戦場を離脱した(島津の退き口)。新納旅庵は本隊とはぐれて別行動に。鞍馬山に潜伏していたところを徳川方の追手に見つかる。新納旅庵は自刃も考えたが、徳川方の将が山口直友であったので投降する。新納旅庵は徳川家との取次で山口直友をよく知っていた。捕虜となり尋問を受けると、「島津義弘に叛意はない」「石田三成に与したのは人質をとられていたから」といったことを答えたという。新納旅庵の回答が、その後の和睦交渉でも有利に働いたとも言われている。
新納旅庵は捕虜から解放され、講和交渉の連絡役に奔走することになる。そして、慶長7年(1602年)10月に島津家は本領安堵を勝ち取った。島津忠恒は新納旅庵の働きを賞して加増もしている。しかし、同月に新納旅庵は大坂で病死した。過労で倒れたのか? そして、和睦がなって安心したのか? ……そんな想像もさせられる。
新納忠雄
名前の読みは「ただかつ」か。川上久辰(かわかみひさとき)の次男。母は頴娃兼朝の娘。新納旅庵の一人娘の婿となり、その家督をついだ。天正16年(1588年)生まれ。延宝4年12月12日(1677年1月)没。初名は「忠紹」。通称は「平兵衛」「雅楽助」「仲佐衛門」。入道名は「所印」
薩摩藩主の島津家久の命で、大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)を領した島津忠朗(ただあき、島津家久の三男)に仕えた。
新納忠秀/にいろただひで
新納康久の末子。四男か。母は不明。新納忠貞の養子となり、その家督をつぐ。生年不明。寛永17年(1640年)7月22日没。通称は「彌四郎」「宮内少輔」「四郎左衛門尉」。入道名は「慶雲」。
新納忠元の部将で、日向攻め相良氏との戦いなどで軍功あり。朝鮮にも出陣している。
養子に入った家は、新納忠臣(新納氏3代)次男の新納忠匡(ただまさ)から続く家。新納忠臣の娘、新納忠匡の娘は肝付氏嫡流に嫁いでいて、肝付家当主の母にもなっている。
新納忠秀の嫡男は、後嗣のなくなった肝付氏嫡流の家督をつぐ。肝付兼康と名乗った。肝付氏とは遠縁であることから、養子入りが命じされた。
新納忠秀の跡目は次男の新納久親がつぐ。正保2年12月(1646年1月)の島津久章上意討ちに関わる。新納久親は使者を務め、島津久章主従を討ち取っている。
新納忠光/にいろただみつ ※新納友義の子
新納友義の三男。母は不明。生没年不明。通称は「四郎五郎」「隠岐守」「尾張守」「山城守」。
天文7年(1538年)の志布志陥落のあと、兄の新納忠澄を頼って相州家に仕えた。薩摩国阿多(鹿児島県南さつま市金峰町)の地頭を任されたという。島津貴久の家老とも。
新納忠清/にいろただきよ ※新納忠光の養子
新納忠祐の次男。母は不明。新納忠元の叔父にあたる。新納忠光に後嗣がなく、その跡目となった。生年不明。天文22年(1553年)8月22日没。
薩摩国市来の龍雲寺(鹿児島県日置市東市来町)で亡くなったと伝わる。新納康久に仕えていたのかな?
新納久時/にいろひさとき
新納忠清の子。母は平田備中守(平田宗秀か)の娘。生年は不詳だが、享年からの逆算で天文17年(1548年)頃か。慶長12年(1607年)9月11日没。初名は「忠明」。通称は「藤四郎」「縫殿助」。
元亀4年(1573年)からの大隅国牛根(鹿児島県垂水市牛根麓)の戦いで功あり。筑前国の岩屋城(福岡県太宰府市観世音寺)攻めにも従軍する。日向国の目井・酒谷(ともに宮崎県日南市)の地頭、のちに綾(宮崎県東諸県郡綾町)の地頭を任される。
新納藤四郎
新納久時の長男。母は不明。諱は不明。生年不詳だが、享年からの逆算で元亀2年(1571年)頃か。父とともに岩屋城攻めに従軍。このとき16歳だったという。天正15年(1587年)4月17日、日向国の根白坂(宮崎県児湯郡木城町)で戦死。
新納久宣/にいろひさのぶ
新納久時の次男。母は新納康久の娘。生年不詳だが、享年からの逆算で元亀5年(1574年)頃か。正保2年(1645年)10月26日没。通称は「百次郎」「小右衛門」「尾張」「勘解由」
島津義弘・島津忠恒に従って朝鮮へ出陣。慶長3年(1598年)の泗川の戦いや露梁海戦でも活躍した。
弟の新納久詮は、新納久饒の後嗣に。
そのほかの庶流
新納忠誠
名の読みは「ただまさ」か。新納忠堯(新納忠元の長男とは別人)の長男。母は大寺安勝の娘。永正7年(1510年)生まれ。永禄6年(1563)5月3日没。通称は「十郎」「治部少輔」「越後守」
新納実久(新納氏2代当主)の次男の新納久顕より始まる家系で、当主は代々「十郎」を称する。もともとは志布志の新納氏嫡流の家臣か。新納忠誠の代から島津貴久に仕え、鹿児島に住む。
新納忠包/にいろただかね
新納忠誠の子。母は敷根頼愛の娘。生年不明。天正20年(1592年)8月20日没。通称は「十郎」「兵部左衛門尉」「越後守」。
島津貴久・島津義久に仕え、大隅国山田(鹿児島県姶良市の山田)や薩摩国隈之城(鹿児島県薩摩川内市隈之城)などの地頭を任された。
新納教久
名の読みは「のりひさ」か。新納忠包の子。母は深野義弘の娘。生年不明。元和9年(1623年)6月14日没。通称は「十郎」「兵部左衛門尉」「狩野介」。入道名は「昨少」。
日向国野尻(宮崎県小林市野尻)の地頭を任される。島津義弘の命令で朝鮮へ出陣し、長期にわたって在陣したという。
新納久景/にいろひさかげ
新納徳教久の長男。母は新納忠充の娘。天正2年(1574年)生まれ。寛永11年(1634年)9月11日没。通称は「十郎」「越後守」。
若年より島津義弘に仕えた。大隅国加治木で没。
新納忠苗
名の読みはわからず。新納孝晴の子。母は不明。生没年不明。通称は「民部少輔」「常陸」。入道名は「道久」。新納実久(新納氏2代当主)の次男の新納久顕から続く家系。新納忠誠とは同族。
薩州家の島津実久に属し、薩摩国の市来城(鹿児島県日置市東市来町)を任されていた。天文8年(1539年)に島津忠良・島津貴久に攻められて降伏。その後は島津忠良に仕え、薩摩国日置(日置市日吉町日置)に90町の土地が与えられた。島津尚久の家臣に付けられ、新納忠苗の後裔は宮之城島津家に仕え続けた。
新納忠征/にいろただゆき
新納忠友の長男か。母は不詳(系図には「山田腹」とあり)。生年不明。天文24年(1555)9月5日没。通称は「又五郎」「河内守」「尾張守」。
新納実久(新納氏2代当主)の庶長子の新納久吉より始まる家系で、一時は所領の日向国大崎(鹿児島県曽於郡大崎町)「大崎」を家号にしたとも。
大崎城守。日向国の目井(宮崎県日南市)で戦死したという。もともとは新納氏嫡流の家臣か。天文7年(1538年)の志布志陥落後は豊州家の家臣か? あるいは肝付氏の家臣か?
新納忠氏/にいろただうじ
新納忠友の次男か。母は不詳。生年不明。天正4年(1576年)10月1日没。通称は「又七郎」「安芸守」。入道名は「永看」。
もともとは新納氏嫡流に仕える。天文7年(1538年)の志布志陥落のあと、妻の縁(詳細は不明)を頼って大隅国高山(鹿児島県肝属郡肝付町)の肝付兼続に仕える。のちに肝付家にて大崎地頭をまかされる。恒吉城(曽於市恒吉)の城主とも。天正4年に飫肥で戦死。
新納忠家/にいろただいえ
新納忠氏の子。母は不明。生年不明。天正14年12月7日(1587年1月)没。通称は「又八郎」「勘解由次官」。
島津義久に召し抱えられ、恒吉地頭を任された。豊後国の鶴賀城(大分市上戸次)攻めで戦死。
新納忠鎮
名の読みは「ただしげ」か。新納忠家の養子。父は梅北兼陸。母は新納忠家の娘。生年不明。寛永17年(1640年)8月14日没。初名は「忠氏」。通称は「孫七郎」「利兵衛」「善兵衛」。入道名は「宗看」。
新納忠元に養育される。成長して大口の士となる。
新納忠盈
名の読みは「ただみつ」か。新納忠友の三男か。母は不詳。生年不詳だが、享年の逆算から天文16年(1547年)頃か。天正4年(1576年)10月没。通称は「又八郎」「狩野介」。
肝付氏の家臣。兄の新納忠氏とともに、日向国飫肥で戦死したという。
新納忠成
名の読みは「ただなり」か、あるいは「ただしげ」か。生年不詳だが、享年の逆算から天正3年(1575年)頃か。慶安5年(1652年)6月25日没。新納忠盈の養子か。実父は富山氏とも。通称は「外記」。入道名は「自看」。
伊集院忠棟に仕える。伊集院氏没落後は、島津忠仍(島津彰久の子)に仕えて大隅国垂水(鹿児島県垂水市)へ。後裔は垂水島津家に仕える。
新納久友/にいろひさとも
新納忠辰の次男か。母は不明。生年不明。享禄5年(1532)3月17日没。通称は「又七」「兵部少輔」「周防介」。新納忠臣の次男の新納忠匡から続く家系。
三男二女をもうけ、次女が新納祐久妻に、そして新納忠元の母でもある。
また、長男は新納忠智といい、天文7年(1538年)の志布志陥落後は出奔して、その後の消息は不明。次男は新納忠行といい、天文3年(1534年)に戦死している。長女は肝付兼純(高山の肝付氏の一門)の妻。末子は鹿児島の松峯山浄光明寺(鹿児島市上竜尾町)の住職で「其阿西嶽」と号した。
天正2年(1574年)、新納久友の子たちが活躍する。島津義久は肝付兼亮を攻めて大勢が決しつつあった。そこで、降伏勧告をする。その役目は新納忠元に任された。肝付家に叔母がいたことから、その妹(新納忠元の母)と弟(其阿西嶽)を使者として送る。この三人の働きもあって、肝付兼亮はついに降伏した。
新納久治/にいろひさはる
新納忠朝の子。母は春山越中守の妹(熊谷氏)。天正10年(1582年)2月3日生まれ。元和5年(1619年)8月23日没。通称は「源八郎」「式部少輔」。新納忠匡から続く家系。
島津義弘が亡くなった2日後に殉死した。
<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録 諸氏系譜一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
ほか