ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

『三国名勝図会』(編/橋口兼古・五代秀堯・橋口兼柄・五代友古) 南九州の歴史を知りたければ、ひとまずこの書に訊ねるべし!

当ブログはおもに南九州の歴史をテーマにしているが、参考にすることが多いのが『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』である(実際の表記は『三國名勝圖會』)。鹿児島藩(薩摩藩)が編纂させた地理誌で、天保14年12月(1844年1月)に発行された。

明治38年(1905年)に出版されたものが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。

 

 

 

 

 

 

島津氏領内の情報を網羅

その内容は、島津家領内の各地域の情報を集めたもの。山水・名所・旧跡・神社・仏寺・城跡・施設・物産などについて知ることができる。三国とは薩摩国・大隅国・日向国(南部のみ)のこと。現在の鹿児島県と宮崎県南部にあたる。

各項目について、由来や歴史を掘り下げている。例えば神社の場合だと、創建や御祭神、どういう経緯でできたのか、伝説や事件などをつづる。城跡については、いつ誰が築城したものであり、規模や形状について、ここであった戦いについて、さらには城主の出自について、といったことを知ることができる。

絵図もなかなか多い。江戸時代の頃の姿を知ることができる。今でも痕跡が残る場所と照らし合わせると、かなり正確だと推測される。

下の絵図は鹿児島県姶良市の岩剱神社。社殿の背後には急峻な山塊があり、これが岩剣城跡である。現在はちょっと変わったところもあるが、この絵図の雰囲気がだいぶ残っている。

峻険な山城跡のふもとに神社が鎮座する、という絵図

岩剱神社と岩剣城跡、『三国名勝図会』より(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

岩剣城跡についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

また、明治時代初めの廃仏毀釈運動で寺院の多くが破壊されてしまった。これらの往時の様子がわかるという点でも、すぐれた資料なのだ。

下はその一例。鹿児島市にある慈眼寺(じげんじ)である。現在は慈眼寺公園として整備され、寺院の痕跡がわずかに残るのみ。絵図からは、かつての繁栄ぶりを知ることができる。

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慈眼寺、『三国名勝図会』より(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

情報が詰まっている。絵図も見どころたっぷり。南九州の歴史が浮かびあがってくるのである。

序文によると、藩主の島津斉興(しまづなりおき)の命令で橋口兼古を総裁とし、五代秀堯(ごだいひでたか)を副裁として編纂がはじまったとのこと。編纂事業は長い時間を要したようで、事業半ばで橋口兼古が死去。五代秀堯が総裁を引き継ぎ、橋口兼柄(兼古の子)と五代友古が編纂事業に加わって完成させた。

橋口兼古や五代秀堯は藩の御記録方の役人である。ほかの2名もたぶんそうであろう。五代友古については、調べたがよくわからず。名前の感じからすると、五代秀尭の縁者だと思われる。

 

 

全60巻の内容は

『三国名勝図会』は全60巻。地域別にまとめられている。各巻の収録内容についてはつぎのとおり。なお、郡域は時代によって変わる。ここに記されているのは編纂当時(19世紀中頃)のもの。

 

巻之一/薩隅日総説(薩摩・大隅・日向のあらまし)

【薩摩国 巻之一~巻之三十】
巻之二/鹿児島の山水・居處・橋道/現在の鹿児島市
巻之三/鹿児島の神社
巻之四/鹿児島の仏寺
巻之五/鹿児島の仏寺
巻之六/鹿児島の仏寺
巻之七/鹿児島の旧跡(城跡など)・物産、鹿児島郡の吉田(よしだ)/現在の鹿児島市吉田
巻之八/日置郡(ひおきぐん)の伊集院(いじゅういん)、永吉(ながよし)、吉利(よしとし)/現在の日置市
巻之九/日置郡の日置、市来(いちき)/現在の日置市・いちき串木野市
巻之十/日置郡の郡山(こおりやま)、串木野(くしきの)/現在の鹿児島市郡山・いちき串木野市
巻之十一/薩摩郡の百次(ももつぎ)、高江(たかえ)、平佐(ひらさ)、山田(やまだ)、樋脇(ひわき)/現在の薩摩川内市
巻之十二/薩摩郡の入来(いりき)、中郷(ちゅうごう)、東郷(とうごう)/現在の薩摩川内市
巻之十三/薩摩国高城郡(たきぐん)の水引(みずひき)/現在の薩摩川内市
巻之十四/水引
巻之十五/薩摩国出水郡(いずみぐん)の阿久根(あくね)、高尾野(たかおの)/現在の阿久根市・出水市
巻之十六/薩摩国出水群の出水、長島(ながしま)/現在の出水市・長島町
巻之十七/薩摩国伊佐郡(いさぐん)の大口(おおくち)、山野(やまの)、羽月(はつき)、鶴田(つるだ)、佐志(さし)/現在の伊佐市・さつま町
巻之十八/伊佐郡の宮之城(みやのじょう)、黒木(くろき)、山崎(やまさき)、大村(おおむら)、藺牟田(いむた)/現在のさつま町・薩摩川内市
巻之十九/谿山郡(たにやまぐん)の谷山(たにやま)/現在の鹿児島市谷山
巻之二十/給黎郡(きいれぐん)の喜入(きいれ)、知覧(ちらん)/現在の鹿児島市喜入・南九州市
巻之二十一/揖宿郡(いぶすきぐん)の指宿(いぶすき)、今和泉(いまいずみ)/現在の指宿市
巻之二十ニ/揖宿郡の山川(やまがわ)/現在の指宿市
巻之二十三/頴娃郡(えいぐん)の頴娃/現在の南九州市・指宿市
巻之二十四/頴娃郡の頴娃
巻之二十五/河邊郡(かわなべぐん)の川邉(かわなべ)、山田(やまだ)、鹿籠(かご)/現在の南九州市・枕崎市
巻之二十六/河邊郡の坊・泊(ぼう・とまり)/現在の南さつま市
巻之二十七/河邊郡の久志・秋目(くし・あきめ)、加世田(かせだ)/現在の南さつま市
巻之二十八/河邊郡の硫黄島(いおうじま)、黒島(くろしま)、竹島(たけしま)、七島(しちとう、トカラ列島のこと)の総説、口之島(くちのしま)、中之島(なかのしま)、臥蛇島(がじゃじま)、平島(たいらしま)、諏訪之瀬島(すわのせじま)、悪石島(あくせきじま)、寶島(たからじま)/現在の三島村・十島村
巻之二十九/阿多郡(あたぐん)の阿多、田布施(たぶせ)、伊作(いざく)/現在の南さつま市・日置市
巻之三十/甑島郡(こしきしまぐん)の甑島/現在の薩摩川内市甑島

【大隅国 巻之三十一~巻之五十一】
巻之三十一/囎唹郡(そおぐん)の国分(こくぶ)/現在の霧島市
巻之三十二/囎唹群の国分/現在の霧島市
巻之三十三/囎唹郡の曽於郡(そのこおり)/現在の霧島市
巻之三十四/囎唹郡の曽於郡/現在の霧島市
巻之三十五/囎唹郡の敷根(しきね)、福山(ふくやま)、財部(たからべ)/現在の霧島市・曽於市
巻之三十六/囎唹郡の末吉(すえよし)、恒吉(つねよし)、市成(いちなり)/現在の曽於市・鹿屋市
巻之三十七/始羅郡(しらぐん)の加治木(かじき)/現在の姶良市
巻之三十八/始羅郡の帖佐(ちょうさ)/現在の姶良市
巻之三十九/始羅郡の重富(しげとみ)、蒲生(かもう)、山田(やまだ)、溝邊(みぞべ)/現在の姶良市・霧島市
巻之四十/桑原郡(くわばらぐん)の日当山(ひなたやま)、踊(おどり)/現在の霧島市
巻之四十一/桑原郡の横川(よこがわ)、栗野(くりの)、吉松(よしまつ)/現在の霧島市
巻之四十二/菱刈郡(ひしかりぐん)/現在の伊佐市
巻之四十三/大隅郡の桜島(さくらじま)/現在の鹿児島市桜島
巻之四十四/大隅郡の牛根(うしね)、垂水(たるみず)/現在の垂水市
巻之四十五/大隅郡の小根占(こねじめ)、大根占(おおねじめ)/現在の南大隅町・錦江町
巻之四十六/大隅郡の田代(たしろ)、佐多(さた)/現在の錦江町・南大隅町
巻之四十七/肝属郡(きもつきぐん)の百引(もびき)、高隈(たかくま)、新城(しんじょう)、花岡(はなおか)、鹿屋(かのや)、串良(くしら)/現在の鹿屋市・垂水市
巻之四十八/肝属郡の高山(こうやま)、姶良(あいら)/現在の肝付町・鹿屋市
巻之四十九/肝属郡の大姶良(おおあいら)、内之浦(うちのうら)/現在の鹿屋市・肝付町
巻之五十/馭謨郡(ごむぐん)の屋久島(やくしま)/現在の屋久島町
巻之五十一/熊毛郡(くまげぐん)の種子島(たねがしま)/現在の西之表市・中種子町・南種子町

【日向国(諸県郡のみ) 巻之五十二~巻之六十】
巻之五十二/諸県郡(もろかたぐん)の吉田(よしだ)、馬関田(まんがた)、加久藤(かくとう)/現在の宮崎県えびの市
巻之五十三/諸県郡の飯野(いいの)/現在のえびの市
巻之五十四/諸県郡の小林(こばやし)、須木(すき)、野尻(のじり)/現在の宮崎県小林市
巻之五十五/諸県郡の綾(あや)、高岡(たかおか)/現在の宮崎県綾町・宮崎市
巻之五十六/諸県郡の倉岡(くらおか)、穆佐(むかさ)、高原(たかはる)/現在の宮崎県宮崎市・高原町
巻之五十七/諸県郡の高崎(たかざき)、高城(たかじょう)、山之口(やまのくち)、勝岡(かつおか)/現在の宮崎県都城市・三股町
巻之五十八/諸県郡の都城(みやこのじょう)/現在の都城市
巻之五十九/諸県郡の都城、松山(まつやま)、大崎(おおさき)/現在の宮崎県都城市、鹿児島県志布志市・大崎町
巻之六十/諸県郡の志布志(しぶし)/現在の鹿児島県志布志市

 

国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。

dl.ndl.go.jp

 

編者は、五代友厚の父

編者の五代秀堯の子に、五代友厚(ごだいともあつ)がいる。五代友厚は幕末の鹿児島藩(薩摩藩)で経済・外交面を担い、明治時代には政治家を経て実業家に転身した。大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)を設立して大阪経済の立て直しに尽力したことでも知られる。最近ではドラマや映画でも取り上げられ、ちょっと知名度も上がった感じがする。

五代秀堯が地理に造詣が深かったこともあり、五代家には世界地図もあった。幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす)が制作した『新訂萬國全圖』の模写である。模写の書き込みによると、五代秀堯が五代友健(ともたけ、名は徳夫とも、友厚の兄)に作らせ、天保10年(1839年)に完成したのだという。五代友健(五代徳夫)の子孫の家に伝えられていたもので、現在は鹿児島市の鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託されている。 ※この情報は、鹿児島市長田町の「五代友厚誕生地」の看板を参考にした。

学者肌の父がいて、家に世界地図があって、と当時としてはなかなか特異な家庭環境で五代友厚は成長したのである。

 

 

 

<参考資料>

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年