ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

鹿児島の一之宮神社へお詣りに、天智天皇と大宮姫の伝説も息づく

一之宮神社(いちのみやじんじゃ)は鹿児島市郡元に鎮座する。鹿児島市内でもっとも古い神社とも言われている。創建は天智天皇の御代(7世紀後半)と伝わる。

御祭神は大日靈貴命(オオヒルメムチノミコト)。天照大神(アマテラスオオミカミ)と同一とされる神である。社伝によると、天智天皇の一之姫宮(いちのひめみや)が枚聞神社(ひらききじんじゃ、鹿児島県指宿市開聞)の御分霊を奉祀したのがはじまりだという。「一之宮」というのは、枚聞神社が「薩摩国一之宮」であることが由来ともされる。

 

 

 

 


開聞の大宮姫伝説

南九州には、天智天皇に関する伝説があちこちにあったりする。そして、その伝承地のひとつが、枚聞神社が鎮座する開聞(ひらきき、かいもん)なのである。天智天皇は大宮姫(おおみやひめ)を追いかけて、開聞に遷り住んだのだという。

「天智天皇の一之姫宮」というのは、そのまま「一番目の姫君」といったところ。枚聞神社との関わりから、開聞で生まれた姫なのだろう。そうなると、天智天皇と大宮姫の娘ということになる。

 

『三国名勝図会』に、天智天皇と大宮姫の伝説について記されている。出典は『開聞縁起』。大意はつぎのとおりだ。

大宮姫は天照大神の化身、あるいは玉頼姫(タマヨリヒメ、玉依姫か)とも。開聞岳(かいもんだけ)の麓に洞窟があり、ここで神仙鹽土老翁(シオツチノオジか)が法水をくんで修業をしていた。そこに牝鹿がきて法水をなめると、たちまち懐妊して口から女の子を生んだ。白雉元年(650年か)のことであった。

その後、女の子は智通という僧に預けられ、幼名を瑞照姫とした。瑞照姫は2歳のときに都へあがり、中臣鎌足に養育された。美しい娘に育ち、大宮姫と号する。13歳で天智天皇の后となった。

寵愛を受けた大宮姫は宮女に嫉妬される。「大宮姫の足は、鹿の足」という風説があった(雪合戦の際に足袋が脱げて鹿の足があらわになった、という話も)。そして、都を去ることに。故郷の開聞へ帰った。

天智天皇は大宮姫のことを忘れられず、開聞まで会いに行く。天智天皇10年12月3日(672年1月7日、通説では崩御した日)に都を抜け出す。丹波路よりひそかに大宰府へ入り、そこから船に乗る。日向の志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)と櫛間(くしま、宮崎県串間市)の間に着船して、この地にしばらく滞在する。その後、薩摩の揖宿田良浦(鹿児島県指宿市東方の田良浜)に船が着き、大宮姫と再会。そこから開聞にいたった。天智天皇は大宮姫とともにこの地に38年間暮らした。天智天皇は慶雲3年(706年)3月8日に崩御。79歳だった。また、大宮姫は和銅元年(708年)6月18日に崩御。59歳だった。

と、そんな感じである。なお、『三国名勝図会』ではこの説を後世の偽説としている。天智天皇が開聞に行った……なんてことは『日本書紀』などにも書かれていない。

 

年月日が記されていたりとか、移動経路が詳しく書かれていたりとか、物語はなかなかに具体的である。もとになった出来事が何かしらあるのかな? という感じもする。

天智天皇が南九州まで来ている可能性もなくはない、とも思う。斉明天皇7年(661年)の白村江の戦いの際に、筑紫(現在の福岡県)までは来ているのだから。ちょっと時期がずれて、皇太子(中大兄皇子)時代のことだけど。

 

『三国名勝図会』についてはこちら。

rekishikomugae.net

 

 

市街地の中に森

けっこうな街中に、緑に覆われた空間がある。住宅地の路地を入っていくと鳥居が見える。参道入口近くには駐車場もあって、お詣りしやすい。

風格を感じさせる鳥居

参道入口

 

鳥居をくぐると空気が変わる感じがする。

石柱と燈篭、奥に社殿

木々が茂る境内


入ってすぐ、何かある。「力石」とのこと。明治時代から昭和初期にかけて、若者たちがこの石を使って力比べをしたそうだ。

石と看板

力石


そのすぐ横には「大永の名号板碑」という史跡も。「南無阿弥陀仏」の名号が刻字された板碑である。「大永五天」とあり、大永5年(1525年)に建てられたものと考えられる。かつて「延命院」という別当寺があったとのことで、これに関連したものらしい。

仏教史跡

古い板碑

 

立派な拝殿がある。境内には木が多い。

境内の木陰

拝殿前に森がある

拝殿で社叢

社殿は緑に囲まれている

 

本殿の裏手には森がある。その一角には弥生時代の住居跡もある。

円形の古代の住居跡

弥生式住居跡

 

森のなかへ足を踏み入れる。クスの巨木もある。古い石塔・石碑も並んでいた。

森の中に石塔も見える

本殿裏手の社叢

 

ここには、明治時代に建立された一之姫宮の墓もあったりする。鎮座地の郡元には、一之姫宮が住んだという伝承もあるそうだ。

 

 

鹿児島三社の一之宮

かつて島津家は年始に「鹿児島三社」を参拝していた。その「一之宮」が一之宮神社であった。なお、「二之宮」は鹿児島神社(かごしまじんじゃ、鹿児島市草牟田)、「三之宮」は川上天満宮(かわかみてんまんぐう、鹿児島市川上町)である。

鹿児島神社についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

『三国名勝図会』によると、江戸時代は「一條宮」と称していたとのこと。古くは「一之宮大明神」とも称していたという。当初は涙橋付近(現在地から南に400mほどの場所)に境内があったとのこと。

また、建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』には「郡本社 七町五段 麑嶋郡内 地頭 右衛門兵衛尉」とある。この「郡本社」が一之宮神社とされる。七町五段(約7.5ha)の社領を有し、地頭は右衛門兵衛尉(島津忠久)であったという。

かなり力を持った神社であったようだ。

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※建久8年の『薩摩国図田帳』を収録

ほか