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安良姫の伝説を知っていますか? 大隅横川の安良神社

安良神社(やすらじんじゃ)は鹿児島県霧島市横川町上ノに鎮座する。創建は和銅元年(708年)と伝えられている。なかなかに古い神社だ。御祭神は安良姫命(ヤスラヒメノミコト)。

なお、日付については旧暦にて記す。

 

 

 

 

安良姫の伝説

この地には安良姫の伝説が語り継がれている。『三国名勝図会』(19世紀に編纂された地誌)には、つぎのように記される。

社説並に當郷中の口碑に、往古安良姫は、京都の官女にて、或時川邉へ出て、紺染の直垂を洗ひしに、白鷺許多飛来りしを、眺望して覚へず、直垂の片袖河水へ流失たり、其罪に依り、穢多に命して門の扉に縛り付、炭火にて焼殺さる、然るに彼姫素より十一面観世音を信仰ありし故に、観音其身代になり、安良姫は其難を遁れ、隅州横川に落下り、安良嶽の絶頂にて自殺す、此後種々の靈怪ありければ、土人其靈を崇めて、安良大明神と號す、是和銅元年のことなりとぞ (『三国名勝図会』巻之四十一より)

 

 

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安良神社の東のほう1㎞ほどの場所に、かつて腰越宮(こしごえぐう、腰越神社)があった。明治時代に安良神社に合祀されている。ここは安良姫の母を祀ったものだという。

『横川町郷土史』によると、腰越宮にはこんな伝説があるとのこと……。

遠く西国に落ちのびた娘のことを思い、安良姫の母君もあとを追った。老いた身には厳しい長旅であり、さらには都からは追手もあったという。苦難のすえに、母君は安良嶽の近くまでたどり着いた。しかし、安良姫を匿う村人たちは「姫のいる場所」を教えなかった。村人たちはこの老女を疑っていた、追手に遣わされた者だと。母君はすぐ近くまで来ていながらも娘と対面することができず、自害してしまった。村人たちは老女の墓を建て、そこが腰越宮になったという。また、村人たちはこの顛末を安良姫の耳には入れなかった。しかし、しばらくして安良姫も自害した。母の死を知ったのだろうか。

……と。


もう一つ、「安良神社のうた」についても紹介しておきたい。『横川町郷土史』に掲載されているものだ。詳細はよくわからないが、作者は「竜菴」とある。歌詞の内容からは明治時代以降の作であろう。こちらの歌が、伝説のあらましがよくわかるものになっている。

 

安良神社のうた(竜菴作)

一、
白鷺飛んで紺の袖
流した罪のおしおきを
遠く遁れて姫様は
安良の山に消えました

 

二、
郷人(さとびと)憐れみ悲しんで
お宮を建てて、心から
おまつりしました千余年
今は郷社の安良様

 

三、
姫を慕つて母様(かあさま)は
後追つかけて幾月も
歩いて側まで来たけれど
遂に逢えずは果てました

 

四、
腰越神社の母様は
今は一しょに祀られて
金山川のほど近く
朱塗の社が見えてます

 

五、
遠い昔の物語り
愛と情に結ばれて
郷土(さと)の護りの神様と
永久(とわ)に畏(かしこ)い安良さま

 

(『横川町郷土史』より)

 

 

この地にはこんな慣わしもあったそうだ、安良姫伝説に関連して。

◆門を建てることを禁ずる
◆炭火を焚くことを禁ずる
◆紺屋を建ててはならない、藍を植えてはならない
◆シラサギを飛来させない、もし入ってきたら神楽奉納などをする
◆白い色はダメ、白壁にも薄墨を塗る

……などなど。

藍が禁じられているので木の皮で染めたりしていたとか。また、炭火については、後世に茶が生産されるようになって焙煎に使うことが許されたそうだ。

 

 

 

安良岳の麓に

前述の伝承にあるとおり、もともとは安良岳の山頂に創建された。現在は山の南側に鎮座する。麓へ遷されたという。享保19年(1734年)に「正一位」が贈位され、「正一位安良大明神」と号した。

 

JR横川駅から西へ3kmちょっとの場所にあり、山あいの道を車でいくと朱色の鳥居が現れる。そこが安良神社だ。広めの駐車場もあって、参拝しやすい。

 

朱の鳥居と石段

鳥居が道路から見える

 

朱の鳥居をくぐって石段をあがると石の鳥居がある。その先に社殿がある。

 

石段と鳥居、奥に社殿

石の鳥居がもう一つ

 

さらに奥へ。歴史を感じさせるたたずまいだ。境内はきれいに手入れされている。

 

石段と社殿

もう一段高いところに祭られる

 

石段と社殿

石段を上へ

 

社殿は2008年に改築されたものとのこと。安良岳を拝むような配置に。

 

社殿

立派な社殿がある

 

本殿の向かって右脇のほうに小さな祠。境内社の「山ノ神神社」である。安良神社から西へ3kmちょっとの場所に、かつて山ヶ野金山(やまがのきんざん)というのがあった。こちらの金山と関係のある神様だとされる。

 

境内の祠

山ノ神神社

 

拝殿の左脇には境内社がもう一つ。「安良天神社」という。昭和52年(1977年)に大宰府天満宮より分霊を勧請したもの。

 

境内社

安良天神社

 

安良天神社の横から上にいける。階段をのぼっていくと御神木があった。杉の巨木だ。推定樹齢は約400年。幹回りは太いところで5mほど。高さは30m以上。

 

山へ

天神社の向かって左に階段

 

杉の巨木

御神木

 

安良神社には、明治時代の神社合祀政策にともなって横川の神社が集められている。十一面観世音・腰越神社・諏訪神社・稲牟礼神社・南方神社・八坂神社・荒神社・久木元神社・水神社も併せて祭る。

また、十一面観世音は安良大明神の本地仏であろう。そして、安良姫の伝説の中にも登場する。

 

 

 

安良神社の歴史

『三国名勝図会』には絵図も掲載されている。19世紀頃のものだろうか。

 

安良神社の絵図

『三国名勝図会』巻之四十一より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

境内の雰囲気は今とかなり近い感じもするが、建物の配置が少し違っている。山神は現在の天神社の場所にあり、ちょうど御神木を背後にしたような感じである。

絵図によると、本殿の向かって右脇には大王社があったようだ。大王社は末社であったとされる。現在は山ノ神神社がこちらへ遷されているが、併せて祀っているのだろうか?

鹿児島県内には「大王社」「大王神社」というのがある(現在は、他社に合祀されている場合が多い)。「デオサア(大王様)」と呼ばれて信仰されてきたが、この神様についてはよくわからない。南九州の古い神様なのかな? ……と。大王社が安良神社の境内にあったことも、なんとなく気になる。

 

安良神社は安良岳の山頂に創建されたと伝わる。麓へ遷座された時期についてははっきりしない。『三国名勝図会』によると次のような記録があるとのことで、14世紀以前のことであろう。

◆康応2年(1390年)の藤内左衛門正智の修復の棟札あり
◆貞永5年(?)の左兵衛尉藤原長親の修復の棟札あり
◆応永29年(1422年)の酒井親久の修復の棟札あり
◆宝徳2年(1450年)の酒井久重の修復の棟札あり

 

なお、「貞永5年」は存在しない。貞永2年(1233年)で改元しているので。「貞永五年」は誤記ではないだろうか。『三国名勝図会』の説明が年代順に並んでいるとすれば、康応2年(1390年)と応永29年(1422年)の間となる。もしかしたら「応永」の書き違いかな? と。そうすると応永5年(1398年)ということになる。

 

また、「藤内左衛門正智」「左兵衛尉藤原長親」ついては、横川氏の一族だと推測される。『三国名勝図会』の「横川城」のところにこうある。

 

當城は承久の比、横川藤内兵衛尉時信、此邑を領して治所とす、時信は、平姓にて、左馬頭行盛、子肥後守信基の三男、藤内左衛門信行の息男なり (『三国名勝図会』巻之四十一より)

 

「藤内兵衛尉」「藤内左衛門」という名乗りがここに見える。そして、横川領主の一族が領内の神社の修築をするのもありうることだ。

 

横川氏は肥後氏の一族である。肥後氏の初代は肥後信基(ひごのぶもと)とされる。肥後信基は大隅国守護職の北条朝時(ほうじょうともとき、名越朝時)の配下であった。承久年間(1219年~1222年)の頃に守護代・地頭代として大隅国に入ったという。その肥後信基の子に肥後信行があり、さらにその子の肥後時信が横川氏を名乗るようになったとされる。

肥後信基は平行盛(たいらのゆきもり、父は平基盛、祖父は平清盛)の遺児とされ、北条時政(ときまさ)に庇護されて、その養子になったとも伝わる。ただし、これはちょっと怪しい感じがする。藤原北家の流れとも言われており、こちらのほうが通説となっている。つまり、実際には藤原姓であった、と。

ちなみに肥後氏は種子島(たねがしま)を領有。のちに嫡流は種子島氏を名乗った。

 

それから、酒井氏は大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町内)の神官の一族だ。安良神社は大隅正八幡宮と関係があったことがうかがえる。安良神社の神紋の「三つ巴」は、八幡神社に見られるものでもある。

 

安良神社の拝殿

神紋は「三つ巴」

 

ちなみに、酒井氏は豊前国宇佐郡酒井(大分県宇佐市)からの名乗り。渡来系の氏族で、秦氏の一流とも。宇佐八幡宮(宇佐神宮)とも関わりがある。


横川城の近くには「安良山来福寺眞乗院」という寺院もあった。本尊は十一面観音。こちらは安良大明神の別当寺であったのかも。

 

 

もう一つのヤスラ神社

鹿児島県志布志市志布志町安楽にもヤスラ神社が鎮座する。こちらは「安楽神社」と書く。なお、地名のほうは「あんらく」と読む。旧称は「中之宮大明神」。御祭神の一座は玉依姫(タマヨリヒメ)である。

 

この玉依姫というのは、天智天皇の第二皇后であったという。別名に大宮姫とも。こんな伝承がある……。『三国名勝図会』より。出典元は『開聞縁起』。

大宮姫(玉依姫)は開聞岳(鹿児島県指宿市開聞町)の麓で、鹿の口から生まれた。美しい少女は宮中に行くことになり、天智天皇の后となった。しかし、「姫の足は鹿の足」という噂が広がって、宮中から逃げ出す。都を去って、開聞に帰る。天智天皇は、天智天皇10年12月3日(672年1月7日、通説では崩御した日)に都を抜け出し、姫を追って南九州へ。大宮姫(玉依姫)と再会して、その後、38年間を一緒に暮らした。大宮姫(玉依姫)は和銅元年6月18日に亡くなった。

……と。これに関連して、天智天皇は志布志を訪れたという伝承もある。

 

大宮姫(玉依姫)についてはこちらの記事でも触れている。

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「都を追われる」「南九州へ逃げてくる」「慕って追ってくる人がいる」「没年は和銅元年」といった、安良姫伝説との共通点もある。もしかしら、この二つの伝説は関連性があるのかも、と思ったりも。同じ話をモチーフにしていたりとか……?

 

 

「和銅」の頃、隼人が抵抗していた

和銅年間に創建されたと伝わる神社は、鹿児島県内にはけっこうあるように思う。

この和銅年間の頃というのは、大和政権が隼人を服従させる動きが一気に進められた時期である。和銅年間に創建された神社にはこのことが大きく絡んでいるのではないか? という気がする。

当時の南九州の状況をちょっと追ってみる。


『日本書記』の持統天皇6年(692年)閏5月の条にこうある。

詔筑紫大宰率河内王等曰 宜遣沙門於大隅與阿多 (『日本書紀』より)

筑紫の大宰の率(かみ、長官)の河内王らに詔を出し、大隅と阿多に沙門(仏僧)を派遣するように命じた、と。隼人を従わせるために仏教を利用したのだろう。

 

文武天皇4年(700年)6月には……。

薩末比賣久賣波豆 衣評督衣君縣 助督衣君弖自美 肝衝難波 従肥人等 持兵剽劫覓國使刑部眞木等 於是勅竺志惣領准犯決罸 (『続日本紀』より)

 

薩末比賣久賣波豆(さつまのひめくめはず?)・衣評督衣君縣(えのこおりのかみえのきみあがた?)・助督衣君弖自美(すけえのきみてじみ)・肝衝難波(きもつきのなにわ?)らは兵を率いて覓國使(調査団)に脅しをかけた。そのため、竺志(筑紫)の惣領(長官)に罰するよう勅を出した。……と。これをきっかけに、大和政権の征討が始まったと考えられる。

なお、人名の読みは正確にはわからない。とりあえず、通説とされているものを載せた。また、「薩末比賣久賣波豆」は「薩末比賣」「久賣」「波豆」と3人の女性として解釈されるのが一般的みたい。でも、こちらは「薩末比賣久賣波豆」とひとりと読むのが適切だと個人的には思う。ここにある人名は一族名+個人名という構造になっている。「薩末比賣久賣波豆」もそうなっているんじゃないかと。

 

その後、隼人に対して征討軍を派遣し、大宝2年(702年)8月に制圧している。同年10月には唱更国(はやひとのくに)が設置されていることも確認できる。この唱更国は「阿多」にあたり、のちに「薩麻国」「薩摩国」へと改称される。

 

 

一方、大隅国は和銅6年(713年)4月に設置されたという記録がある。そして和銅7年(714年)には……。

隼人昏荒野心未習憲法 因移豊前國民二百戸令相勸導也 (『続日本紀』より)

隼人がなかなか従わないから豊前国(現在の大分県北部のあたり)から200戸(5000人くらい)を移住させた、という。

 

しばらくして大隅国に桑原郡が新設されている。桑原郡は現在の鹿児島県霧島市の国分・隼人・牧園・溝辺・横川、姶良市や湧水町のあたり。豊前国には秦氏をはじめとする渡来系の者たちが多く住んでいたとされる。「桑原」という地名には、秦氏との関わりもうかがえる。そして、和銅年間の頃に創建されたとされるこの地域の神社には、秦氏の影響も見え隠れする。例えば、和銅元年に遷座されと伝わる鹿児島神宮もそうであろう。

 

養老4年(720年)には大隅隼人が反乱を起こす。大和朝廷は鎮圧に1年半を要した。征討後、隼人側の斬首者と捕虜の数は1400人余にもなったという。

 

 

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安良神社は隼人と関係があるのでは? ……と感じる。あくまでも、個人的な想像ではあるが。

 

まず、神社のカタチからは古代の祭祀の匂いもする。もともとは安良山を神として崇める、隼人の聖地だったのではないだろうか。

そして、そこに別の神格が重ねられたのでは? ……と。それは、隼人の鎮魂のための祭祀であったかもしれない。また、移住者(おもに秦氏)が持ち込んだ信仰という可能性もなくはないかな、と。

 

それから、天智天皇と大宮姫(玉依姫)の伝説とか、薩末比賣久賣波豆なんかとも、どこか引っかかりがあるようにも感じる。


安良姫伝説にある「白鷺」「藍染(紺)」「直垂」「片袖」「川に流す」「火刑」「十一面観世音」「姫の死」といった要素は、何かを暗示しているようにも思う。そこには、隼人の悲劇にまつわることが織り込まれているような……そんな気もするのである。

 

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『横川町郷土史』
編/横川町史蹟保存会 発行/横川町教育委員会 1958年

『日本書紀通釈』第5増補正訓
著/飯田武郷 発行/日本書紀通釈刊行会 1940年

『六国史 巻參』増補版(『続日本紀』を収録)
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1940年

ほか