ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

黒島神社を『三国名勝図会』より、石橋の向こう側は女人禁制だった

田園風景の中に鳥居が見つかる。山の麓に黒島神社(くろしまじんじゃ)は鎮座。なんとも独特な雰囲気の神社である。場所は鹿児島県姶良市の山田地区(姶良市上名)。県道40号沿いに小さな案内看板があり、そこから小道に入って北上すると着く。

田園風景の中の神社

山の麓に鳥居が見える

 

薩摩藩が編纂した地誌『三国名勝図会』にも、絵図入りで紹介されている。こちらの情報を交えつつ紹介していこう。

 

『三国名勝図会』の詳細はこちら。

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黒島神社の由緒

絵図は、『三国名勝図会』が編纂された19世紀前半頃のものと思われる。建物が変わったりもしているが、現在の境内の配置はそれほど変わっていないようだ。

山腹に鎮座する神社の絵図

黒島神廟(黒島神社)、『三国名勝図会』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』巻之三十九の大隅国始羅郡(しらのこおり、しらぐん)の山田に「黒島大明神廟」の説明がある。同書に記された情報を列挙してみる。

◆鈴木三郎なる人物が勧請して創建した。

◆御祭神はわからないとしているが、木座像五体であった。

◆当初、神廟は山頂にあった。宝永6年(1709年)に山津波があり、神廟が流出した。神社の記録も失われる。御神体は山中で無事であった。その後、山腹に神廟が遷される。

◆女性は神廟に近づけなかった。拝殿と神廟を隔てる水路があり、そこに橋がかかっていた。女性は橋を渡ることが許されず、橋から先は女人禁制とされていた。

現地の由緒を記す看板によると、御祭神は五柱。多紀理毘売命(タキリビメノミコト、多祇留姫)・多岐津比売命(タキツビメノミコト、多祇津姫)・大穴牟遅神(オオナムジノカミ、大名持命)・応神天皇・神功皇后とのこと。

また、和銅元年(708年)に宮牟礼四郎政良が創建したとしている。他の資料なども見てみると、鈴木三郎政氏がこの地に下向し、弟の鈴木四郎政良(宮牟礼四郎政良)に山田が任されたのだという。

ちなみに、住吉池近くにある住吉神社(すみよしじんじゃ、姶良市住吉)も和銅元年に鈴木三郎が創建したとされる。こちらは摂津国の住吉社(住吉大社、大阪市住吉区)から勧請したものと伝わる。


女人禁制というと、福岡県宗像市の沖ノ島が連想される。ここには宗像三女神(タゴリヒメノカミ、タギツヒメノカミ、イチキシマヒメノカミ)を祭る宗像大社の一部である。沖ノ島ではタゴリヒメノカミを祭る。黒島神社の御祭神にも宗像三女神のうちの二柱の名が見える。

宗像三女神は海の女神である。住吉神社の住吉三神(ウワツツノオノカミ・ナカツツノオノカミ・ソコツツノオノカミ)も海の神である。鈴木三郎・鈴木四郎は筑後国の志賀島(しかのしま、福岡市東区)から来たとも伝わっていて、海と深い関りのある者であったと考えられる。

 

 

石橋を渡って

車道から田んぼのほうの農道に入る。鳥居の前にやや広いスペースがあり、車はここに停められる。鳥居をくぐるとちょっとした広場がある。絵図を見ると、かつてはこのあたりに若宮と拝殿があった。若宮には八幡神(応神天皇や神功皇后)を祭っていたのであろう。

鳥居をくぐって参拝

黒島神社の参道へ

 

奥へ進むと。記念碑や石灯篭などが並んでいた。写真右手前の灯篭には「享保三年(1718年)」と刻字されている。

古い石灯籠が並んでいる

石灯篭は江戸時代のもの

 

石橋を渡って拝殿へ。もともとは木製だったか、天明4年(1747年)にこの石橋が架けられた。この橋から先は女人禁制だった。

石橋の向こうに社殿が見える

この橋の向こう側は聖域

 

石橋を横から見る。建造から300年近く経っているが、しっかりとしている。逆V字型のアーチも特徴的だ。

古い石橋を横から見る

歴史を感じさせるたたずまい

古い石碑

橋の完成時に奉納された記念碑もある

石碑の文字

石橋建造のあらましを記す

 


祭壇の石垣も歴史を感じさせる。本殿は老朽化が激しかったこともあって、大正2年(1913年)に現在地に遷された。『三国名勝図会』では本殿の位置を「中腹」としているので、かつてはもう少し奥のほうにあったようだ。また、拝殿は2016年に大改修が行われたとのこと。

石段の上に社殿がある

石段をのぼって参拝

朱と黒の社殿と、緑のカエデ

拝殿のまわりは清々しい

 

参拝してみて、黒島神社はなんとなく神威が強そうな感じもした。

 

 

創建年代について

和銅元年(708年)の創建と伝わるが、これについてちょっと考えてみた。

鹿児島県内には和銅年間の創建とされる神社がやたらとある。その頃は、大和朝廷による隼人の支配が進められていた時期である。大隅国は和銅6年(713年)に設置。養老4年(720年)に大隅隼人の大規模な反乱があり、この鎮圧を最後に隼人は従属したようだ。

『続日本紀』には、和銅7年(714年)に豊前国(現在の大分県の一部、福岡県の一部)から大隅国に住民を移住させた記録もある。移住先はかつての桑原郡(くわはらのこおり、くわはらぐん)と推測される。桑原郡は現在の鹿児島県姶良市や姶良郡湧水町、霧島市の横川・牧園・隼人のあたりになる。

和銅元年創建説には、このあたりの事情が絡んでいそうに思える。

黒島神社はもともと山を御神体としていたのだろう。ここにはもともと隼人が崇拝する神があり、移住者が持ち込んだ別の神が重ねられたような感じもするのである。

 

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鈴木氏について

鈴木三郎政氏・鈴木四郎政良が何者なのかはわからない。ただ、和銅年間の人ではないと思う。まず、名前の感じがこの時代のものではない。ちなみに、天平8年(736年)の『薩麻國天平八年正税目録帳』に出てくる人物名は「呉原忌寸百足」「大伴部足床」「建部神嶋」「韓柔受郎」といったもの。「三郎政氏」「四郎政良」はもっとあとの時代の名前っぽい。

ちなみに、「鈴木」という苗字を使うようになったのも、10世紀の初めのことらしい。鈴木氏は古代氏族の穂積(ほづみ)氏の後裔で、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野信仰とも縁が深い。こちらとのつながりも考えられそうだ。

あくまでも推測であるが、和銅元年創建と鈴木氏のことは、別々の時代の要素が組み合わさったものなのではないだろうか。

ちなみに、「鈴木」というのは、日本全国では2番目に多い名字である。でも、鹿児島県では鈴木さんをあまり見かけない。県内には熊野神社もけっこうな数があるのに、不思議なものである。

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

姶良町文化財調査報告書4『姶良町内の神社』
編・発行/鹿児島県姶良町教育委員会 2009年

『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町 1995年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
※『続日本紀』の抜粋、『薩麻國天平八年正税目録帳』を収録

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