ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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市来湯田の稲荷神社をお詣りした、創建したのは島津忠久の母!?

稲荷神社は島津氏の氏神である。そのひとつが市来湯田(いちきゆだ、鹿児島県日置市東市来町湯田)に鎮座する。境内は重厚な雰囲気である。かなりしっかりとした造りで、大事にされてきたことがうかがえる。

承久3年(1221年)に丹後局(たんごのつぼね)が創建したと伝わる。丹後局というのは、島津氏初代の惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)の母とされる人物である。

御祭神は稲倉魂之命(イナクラタマノミコト)・猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)・宮毘姫之命(ミヤビヒメノミコト)・八幡大神(ハチマンオオカミ)。

 

 

 

 

島津忠久の誕生伝説

『島津国史』や『島津世家』など、江戸時代に編纂された島津氏の歴史書では島津忠久を源頼朝の庶長子としている。

丹後局が源頼朝の子を身籠り、北条政子の怒りを買う。難を逃れるために鎌倉から脱出。逃亡の途中、摂津国の住吉社(住吉大社、大阪市住吉区住吉)で子を産んだ。母と子は、住吉社を訪れた関白の藤原基通(ふじわらのもとみち、近衛基通)に保護される。事の次第を報告された源頼朝は、生まれた子に三郎という名を与えた。その後、丹後局は惟宗広言(これむねのひろこと、ひろとき)に嫁ぎ、三郎も惟宗姓を称することになった。三郎は長じて惟宗忠久と名乗る。

と、その出自について説明している。

 

また、誕生時にはこんな話もある。

丹後局攝州住吉に於いて公を生み玉ひし時、大雨にて其夜甚暗かりしに、狐火暗を照して擁護す、是稲荷神の冥助なり (『三国名勝図会』巻之九より)

時ニ雨頻ニ降テ東西ヲ辨セス適マ狐火前後ヲ照シ其便ヲ得タリ 住吉神ノ攝社稲荷神アリ衆以為神狐火ヲシテ此児ヲ護スルナリト 於是稲荷ヲ以テ氏ノ神トス (『西藩野史』より)

 

大雨が降る中で狐火に照らされて島津忠久は誕生。住吉社摂社の稲荷神が守護したということから、稲荷神が島津氏の氏神になったのだという。

 

なお、「源頼朝の庶長子」というのも、それに付随する誕生の伝説も、通説ではのちの創作と考えられている。ただ、島津氏が稲荷神を氏神としているというのは事実だ。また、この誕生伝説にちなんで、雨天は「島津雨」といって縁起が良いともされてきた。


のちに、丹後局と惟宗広言は薩摩国市来に移り住んだと伝わる。そして、稲荷神を勧請して創建したのが、市来湯田の稲荷神社なのだという。

 

rekishikomugae.net

 

当初、神社は現在地からやや南にあった。天和3年(1683年)に、新田開発にともなって現在地に移されている。貞享元年(1684年)には別当寺の大明寺(だいみょうじ)もこの地に移る。

 

現在の稲荷神社は、17世紀頃の様子をよく残していると思われる。江戸時代の地誌『三国名勝図会』に絵図が載っている。こちらと照らし合わせてみると、神社の境内には大きな変化はない。

稲荷神社の絵図

『三国名勝図会』巻之九より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 


お詣りする

神社はJR湯之元駅から700mほど西に位置する。国道3号「向湯田」交差点を北に入って、川を渡り、線路下をくぐった先に入口がある。

 

駐車場から参道へ入る。鳥居の目の前は線路である。

稲荷神社の入口

参道入口は線路沿いにある

 

鳥居の前には仁王像がある。別当寺の大明寺のものだ。ちなみに前述の絵図には仁王像は見えない。

大きな仁王像が1対と小さな仁王像が1対。鹿児島県内の石仏は廃仏毀釈により破壊されていることが多いが、ここの仁王像はきれいにカタチが残っている。紀年銘を見ると大型のほうが正徳5年(1715年)、小型のほうが延享5年(1748年)のもの。

鳥居と仁王像が4体

がっちりとした仁王像が守護

大きな仁王像と小さな仁王像

阿形の2体

大きな仁王と小さな仁王

吽形の2体

 

鳥居をくぐって参道をすすむ。段差を上がると狛犬が迎えてくれる。狐ではない。こちらも仁王像と同じ頃のものとのこと。門守神の石祠もある。

参道を奥へ

本殿を見上げる

古い狛犬像

狛犬

 

さらに進む。石段の上に拝殿がある。石垣も立派だ。

石段を上がる

石段は傾斜がきつめ

古い石垣

石垣も歴史を感じさせる


拝殿は大きくて立派!

木々の向こうに社殿が見える

拝殿と本殿


拝殿の脇から下っていく道もある。こちらには大明寺関連の石造物も並んでいる。

仏塔

大明寺の石塔群


青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)。享和3年(1803年)に建てられたもの。

石仏

青面金剛像

 


島津家と稲荷信仰

稲荷神は秦(はた)氏の氏神である。惟宗氏は秦氏の後裔であり、島津氏の稲荷信仰もそこからつながっているものと思われる。

 

島津氏ゆかりの稲荷神社というと、鹿児島市稲荷町にもある。こちらは島津氏が本拠地とした清水城(しみずじょう)の麓に位置している。

『三国名勝図会』の鹿児島の「正一位稲荷大明神社」の説明によると、島津忠久が建久8年(1197年)に日向国島津に稲荷神社を勧請。こちらは宮崎県都城市郡元町に鎮座する島津稲荷神社である。そして、承久3年(1221年)に薩摩国市来院に稲荷神社を祀ったという。ちなみに、こちらの説明では丹後局は出てこない。

鹿児島の稲荷神社は、市来院から分社したものであるという。その時期については島津忠国の時代(1425年~1570年)、あるいは天文年間(1532年~1555年)としている。分社の際には、鹿児島には御幣のみを遷し、御神体は市来湯田に留められたという。

 

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『東市来町誌』
編/東市来町史編さん委員会 発行/東市来町 2005年

ほか