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花尾神社【後編】 丹後局の墓/丹後局御荼毘所/丹後局御腰掛石

花尾神社(はなおじんじゃ)の記事の続きである。旧称は花尾権現社。鹿児島市花尾町に鎮座し、源頼朝・丹後局(たんごのつぼね)・永金(ようきん)を祭る。丹後局は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の母とされる人物だ。また、島津忠久は源頼朝の庶子とも伝わる。

花尾神社の詳細は【前編】にて。

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このあたりは、古くは薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(あつち)と呼ばれるところ。丹後局は晩年を厚地で暮らし、この地で亡くなったとされる。花尾神社の境内には「丹後局の墓」とされるものもある。

 

 

 

 

丹後局の墓

参道の途中で登っていけるところがある。こちらに丹後局の墓がある。「子宝・安産」「丹後局の御墓」「おこけ石」と書かれている。ここを上へ。

 

丹後局の墓へ向かう

参道脇を登る

 

登っていくと古石塔群がある。14世紀の造立と思われるものも。これらは平等王院と関わりのあるものだろうか。ちなみに、平等王院は花尾権現社(花尾神社)の別当寺である。

 

古石塔群

森の中に並ぶ

 

古石塔群の奥のほうに丹後局の墓がある。玉垣の中に立派な多宝塔がある。「丹瓊御統姫命(アカニミツマルノヒメノミコト)」という御神号と、「安貞元年丁亥十二月十二日(1228年1月20日)」の命日も確認できる。こちらの墓は江戸時代以降に建てられたものだと推測される。御神号は明治時代以降につけられたものか? 

 

玉垣の中に

丹後局の墓

 

丹後局の墓

玉垣の中には多宝塔

 

多宝塔の一部

笠の先端には「丸に十」

 

丹後局の墓の向かって右側にもう一つ玉垣がある。ここに小さな古石塔がある。もともとはこちらが「丹後局の墓」とされていたようだ。「おこけ石(御苔石)」と呼ばれていて、石塔についた苔を削って持ち帰ると子宝・安産の御利益があるとされる。

 

玉垣の中の石塔

おこけ石

 

もう一つ玉垣がある。この中の五輪塔は永金の墓だと伝わる。こちらはけっこう古いもののようである。永金は花尾権現社や平等王院の創建に関わったとされる。

 

玉垣の中に五輪塔

永金の墓

 

永金の墓の近くの宝篋印塔には、「永徳四年(1384年)甲子卯月二十五日当山座主大禅師影相逮善」の名がある。奥のほうの月輪塔には、「元徳元年(1329年)八月吉日僧快善道修」の刻字がある。

 

古いものだ

月輪塔(標柱のすぐ横)

 

『三国名勝図会』の絵図にも、丹後局の墓と永金の墓は描かれている。場所も変わっていないようだ。

 

花尾権現社の絵図

『三国名勝図会』巻之十より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』についてはこちら。

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丹後局荼毘所跡

参道に標柱がある。ここを降りていくと玉垣がある。その内側には「丹後局御荼毘所」碑がある。丹後局は花尾山の麓で荼毘にふされたと伝わる。その場所がここであるとされる。

 

花尾神社の参道

参道を下りたところに

 

玉垣の中の碑

丹後局御荼毘所跡

丹後局御荼毘所跡

六角柱が建てられている

 

『花尾大権現廟記』によると、元禄2年(1689年)に島津綱貴(つなたか、島津氏20代当主、3代藩主)荼毘所跡に六地蔵塔が建立されたという。この六地蔵塔は文化元年(1804年)に破損し、島津重豪(しげひで、島津氏25代当主、8代藩主)が同年12月に再建された。

 

六地蔵塔は廃仏毀釈により破壊され、明治8年(1875年)に六角柱に建てかえられた。これが現在の「丹後局御荼毘所」碑である。

 

丹後局御荼毘所跡碑

六角柱の文字

 

 

丹後局御腰掛石

一の鳥居に向かう道路沿いに「丹後局御腰掛石」なるものもある。丹後局が腰掛けて休憩した石であると伝わる。

 

石と記念碑

丹後局御腰掛石

 

石とともに置かれた記念碑。揮毫は島津忠重(ただしげ)。島津氏の30代当主である。

 

碑文

記念碑の文字

 

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年

ほか