吉田(よしだ)は鹿児島市北部に位置する。江戸時代には薩摩国鹿児島郡のうち、16世紀以前は大隅国桑原郡のうちにあった。その吉田に本城(ほんじょう)という場所がある。
この地に花尾神社(はなおじんじゃ)が鎮座する。こちらへお詣りに。なかなかに雰囲気のある場所だった。
御祭神は丹後局
花尾神社(はなおじんじゃ)というと、鹿児島市の郡山(こおおりやま)に鎮座するものがよく知られている。島津氏ゆかりの神社である。
島津氏の祖は島津忠久(しまづただひさ)という。母は丹後局(たんごのつぼね)とされ、源頼朝の庶長子という伝説もある。郡山の花尾神社は源頼朝・丹後局などを御祭神とする。ちなみに花尾山には熊野神社があり、もともとは山岳信仰の地であったようだ。
吉田本城に鎮座する花尾神社の御祭神は丹後局。創建時期は不明。かつては高牧山中腹の天狗山に丹後局の分神が祀られていたという。参拝しにくい場所だったことから現在地に遷座されたらしい。こちらの情報からも、なんとなく山岳信仰の雰囲気を感じさせる。
参道の奥には仁王像が待ち構える
場所は鹿児島市役所吉田支所(鹿児島市本城町)の近く。支所から橋を渡り川沿いの道を進んでいくと鳥居が現れる。ここが花尾神社の参道口だ。鳥居前には駐車スペースもある。
石造りの鳥居の向こうに参道が伸びる。異界へとつながっているような、独特の雰囲気がある。
森の中の参道をのぼっていく。
大きな仁王像が待ち構えていた。高さは約2.2m、胸囲は1.7m、重量は3.5tとのこと。延宝7年(1679年)にこの地の庚申講の者たちが建立したものであることが、背面に刻字されている。
石段をのぼり切ると、やや広めの空間。拝殿と本殿は昭和2年(1927年)に改築されたものとのこと。本殿は入母屋造。
境内には石祠も。神像と思われるものも確認できる。詳細はわからず。門守神社のような感じもするが……。
御神木の杉。風格がある。
もともとは吉田氏の神社か?
19世紀に編纂された地理誌『三国名勝図会』にはこんな情報が載っている。
御神体は木像8体と鏡。木像には文明12年(1480年)の銘があり、「大檀那息長氏泰清并孝清」「大願主權律師主萬」「作者權律師快教」と記されている。また、鏡の裏には文明13年の銘があり、「奉施入花尾八社大明神御正躰」「願主藤原氏女」と記されている。境内には若宮大明神と狩長大明神があった。
ということだ。
大檀那の息長(おきなが)氏とは、古くから吉田を領していた吉田氏のこと。ここに出てくる名前は、吉田氏12代の吉田泰清と13代の吉田孝清である。僧の「主萬」と「快教」はよくわからない。鏡に記された「藤原氏女」についてもよくわからない。
吉田を領していたのは、古くは建部氏(たけべ、禰寝氏、ねじめ)や大蔵(おおくら)氏であった。天仁2年(1110年)に大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市)が大蔵氏から吉田の地を買い取り、大隅正八幡宮領(島津荘とならぶ南九州の巨大荘園)に組み込まれた。当初は源為重(源為朝の子と伝わる)がこの地を治めたという。
その後、吉田は源為重から息長清道に譲渡。吉田を領するようになったことから、吉田清道と称するようになった。息長氏は大隅正八幡宮の祠官を務めていた。検校職を世襲する桑幡(くわはた)氏が息長姓で、こちらとも同族である。
吉田氏は16世紀初めまで吉田を支配する。当初は島津氏と対立していたが、14世紀末頃にはその配下となっている。吉田清正(よしだきよまさ、吉田氏10代)は、島津元久(しまづもとひさ、島津氏7代)・島津久豊(ひさとよ、島津氏8代)の家老として活躍している。
本城のあたりは、吉田氏の拠点があったところでもある。地名からもそのことがうかがえる。上城(うえんじょう)という山城もあった。この地にある花尾神社は、もともと吉田氏と関わりのある場所だったようにも思える。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編さん委員会 発行/吉田町 1991年
『郡山郷土史』
編/郡山郷土誌編纂委員会 発行/鹿児島市教育委員会 2006年
ほか