ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

大隅国吉田の源為朝伝説、下坊上山の五輪塔はその墓!?

鹿児島市本城町は、かつての大隅国吉田(よしだ)のうち。ここに「下坊上山の五輪塔」と呼ばれるものがある。ちなみに「しもんぼううえやま」と読む。

 

山の中に五輪塔が2基。『三国名勝図会』によると、次のような伝承があるという。

本城村、下之坊阿彌陀薬師堂の庭に在り、鎮西八郎爲朝夫婦の墓と傳称す、或は云爲朝自ら此石塔を建て、島へ下ると (『三国名勝図会』巻之七より)

源為朝(みなもとのためとも)とその妻の墓であると伝わる。また、源為朝が自分で建て、そして南島へ渡った、とも。


源為朝は保延5年(1139年)の生まれ。源為義の八男とされる。兄に源義朝(よしとも)があり、源頼朝は甥にあたる。

とにかく、めちゃめちゃ強かったと伝わる。怪力の持ち主で、強弓の使い手であったという。

保元元年(1156年)の「保元の乱」にて、父とともに崇徳上皇方で戦い、敗軍の将となる。戦後は伊豆大島に配流となる。伊豆大島で戦って死んだとされるが、琉球に渡ったという伝説もある。

 

 

 

 

 

下坊上山の五輪塔

五輪塔は、鹿児島市吉田支所から南東へ300mほどの場所に。南北にはしる九州自動車道沿いの山中にある。高速道路の下をくぐって、山沿いの細い道を行くと、看板がみつかる。ここから山中に入る。

史跡を示す看板がある

高速道路脇の山道に

 

山に入ってすぐ。五輪塔がまず1基。

 

古い石塔

五輪塔

 

ちょっと高いところに、五輪塔がもう1基。こちらは祭壇ような石の囲いもある。

 

古い石塔

こちらには標柱もある

 

古い石塔

上のほうの五輪塔、ちょっと寄りめで

 

いずれも平安時代末期のものであるという。これらが源為朝夫婦のものであるとするならば、位置関係的には高いところにあるほうが源為朝のものだろうか。ただ、下段の石塔のほうがやや大きく、「こっちかな?」とも思わせる。

 

 

 

南九州の源為朝伝説

源為朝は、若い頃に九州で暴れまわったという。

乱暴者であったことから、13歳のときに父から勘当されて九州へ。そして、源為朝は鎮西総追捕使を称して九州を席捲したとされる。この頃、薩摩国の阿多忠景(あたただかげ)の娘を妻に迎えた、とも伝わる。

 

12世紀の薩摩国南部には「河邊一族(かわなべいちぞく)」または「薩摩平氏」と呼ばれる豪族が君臨していた。この一族の中で、阿多忠景が兄を討って一族の惣領となる。阿多忠景は国衙に反抗し、薩摩国・大隅国に勢力を広げたとも。しかし、朝廷より追討軍が派遣され、阿多忠景は鬼界島(現在の薩摩硫黄島か)へ逃亡した。

 

源為朝と阿多忠景の関係については『保元物語』に見ることができる、史実性についてはちょっとあやしいところもあるけど。

また、阿多忠景の反乱については『吾妻鏡』にも記されている。

 

で、「下坊上山の五輪塔」のうちの1基は源為朝の妻のものであるという。伝説のとおりであれば、阿多忠景の娘ということになる。

 

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吉田院は大隅正八幡宮領

この地は、吉田院(よしだいん)とも呼ばれていた。「院」というのは、徴税のための区域を示す行政単位。郡域でいうと桑原郡(くわはらのこおり)のうちにあった。なお、国域・郡域は時代によって変わる。中世においては大隅国始羅郡(しらのこおり)のうち。そして、天正15年(1587年)には薩摩国鹿児島郡に編入された(『三国名勝図会』より)という。

南九州には巨大荘園が二つあった。島津荘(しまづのしょう)と大隅正八幡宮領である。吉田院は大隅正八幡宮領であったようだ。大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう)は別名に鹿児島神社とも。現在の鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座)である。


吉田院の領主は、古くは建部(たけべ)氏や大蔵(おおくら)氏であった。

治承5年(1069年)に建部頼光が吉田の領主であったという記録が残る。建部氏は大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町)などに所領を持ち、のちの禰寝氏・小松氏につながる一族である。大隅正八幡宮領の運営にも深く関わっていたっぽい。

また、寛治年間(1087年~1093年)には大蔵氏が吉田院の院司(郡司)となったようだ。大蔵氏は大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)を拠点とする豪族で、のちに加治木(かじき)氏を称する。大隅国の在庁官人でもあったという。吉田院の管理は建部氏から大蔵氏へ次第に移っていったと思われる。

そして、天仁3年(1110年)に大隅国正八幡宮の執印職であった行賢(ぎょうけん、か)により、吉田院の土地が買い取られた。大蔵氏の手を離れて大隅国正八幡宮領となった。また、建部氏・大蔵氏についても、これ以降も吉田に関わっていた可能性があるかも。土地の管理者として。

 

大隅正八幡宮(鹿児島神宮)についてはこちらの記事にて。

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吉田と源為朝の関係は?

源為朝の墓(伝)が、どうして大隅国の吉田にあるのか? 

『吉田町郷土誌』によると、吉田の領有が「源為重」に譲られた、とある。この人物は源為朝の次男とされる。母は阿多忠景の娘だろうか?

出典元の史料についてはわからず。史実か否か、なんとも言えないところだ。

 

吉田のある桑原郡には、源為朝の居城と伝わる場所もある。山田の玉城山である。鹿児島県姶良市上名にその伝承地はある。

また、木津志(きづし、姶良市木津志)に鎮座する城野神社は、源為朝の妻を御祭神とする。「浄之御前」という名であるという。阿多忠景の娘か?

源為朝が大隅国でいかなる活動をしたのかは判然としない。だが、伝説が残っているというのは興味深い。何かあったのかも? ……と、いろいろと想像させられる。

 

 

上城跡

源為重は上城(うえんじょう、うえのじょう)を居城としたとされる。鹿児島市吉田支所から南に500mほどの場所に丘陵がある。そこが上城跡だったようだ。「下坊上山の五輪塔」があるあたりも城域の一角であったかも。

 

山城の跡

上城跡

 

城域は南北に高速道路が突っ切る。城域の西側を本城川が流れていて、川が水堀のような感じとなっている。

 

 

息長氏(吉田氏)が後継者に

その後、吉田院の領有権は、源為重から息長清道(おきながきよみち)に譲渡されたという。息長氏はこの地の領有にちなんで、「吉田」を名乗りとするようになる。吉田氏は16世紀初め頃まで吉田を領した。

息長氏は大隅正八幡宮の社家の一つで、宮司を務める桑幡(くわはた)氏もこの一族である。

吉田清道(息長清道)の父は息長助清といい、大隅正八幡宮の執印でもあった。そして母は源為重の娘(源為朝の孫)であった。源為重から孫へ吉田院は相続されたことになる。

 

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この伝承のとおりであるなら、吉田氏は源為朝の血を受け継いでいることになる。

伝説の英雄の存在を系図に盛り込んで家柄に箔をつけた可能性も……あるかも?

 

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編さん委員会 発行/吉田町 1991年

ほか