ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

加治木城跡をあるいてみた、戦乱にさらされ続けた大隅の要衝

加治木城(かじきじょう)は大隅国桑原郡加治木(「桑原郡」はのちに「始羅郡」)にあった。現在の鹿児島県姶良市加治木町である。「本城」や「古城」、「龍門ヶ城」とも呼ばれた。南九州の戦乱史において、加治木はたびたび戦いにさらされた。

長さ約1.2㎞、周囲4kmほどの丘陵に築かれている。曲輪には「本丸」「二ノ丸」「西ノ丸」「御馬城」「高城」「向江城」「松尾城」「新城」「栫城」などがあったという。そのほかに「犬馬場」「弓馬場」も配置し、近くの山には砦もあった。かなり堅固そうである。

 

現在は宅地となっているが、山城の痕跡もけっこう見られる。ちょっとあるいてみた。

なお、日付については旧暦にて記す。

 

 

県道脇から急坂をのぼって

加治木インターチェンジから鹿児島県道55号を北のほうへのぼっていくと、その道沿いに山に入る急坂がある。ここが加治木城跡への入口だ。「搦手口」とされる。交通量が多く反対車線からは入りにくいので注意。

 

急坂がある

搦手口、県道から見る

 

急坂を見上げる

車でのぼる

 

坂道をすこし登ると、加治木城跡の看板がある。城の構造も確認できる。看板の前にはちょっと広めのスペースがあるので、ここに車を停めて散策するのがよさそうだ。

 

加治木城の看板

看板がある

 

看板のところからすぐ。この道路の形状が山城っぽい。左側は「高城」だと思われる。

 

山城の雰囲気

正面が高城跡

 

前述の写真の左側の道をのぼっていく。しばらく行くと、こんな地形が。「高城」の虎口だろうか?

 

山城の遺構か

虎口っぽい?

 

さらに登る。切通があって、「加治木城御馬城跡」の白い標柱がある。そして「御馬城」から道を挟んだところにあるのが「二ノ丸」だ。

堀切

道路の右が御馬城、左が二ノ丸

 

曲輪の痕跡

御馬城の裏手のほうはこんな感じ

 

近くには「御馬大明神」が祭られている。文政2年(1819年)の銘がある。これが「御馬城」と呼ぶ由来とのこと。

 

神様が祭られる

御馬大明神

 

「二ノ丸」の北側に沿って道があるので入ってみる。曲輪の形状がなんとなくわかる。山道を奥へ行くと「本丸」「西ノ丸」と曲輪が連なっている。

 

山城をあるく

山道を入る、写真左が二ノ丸

 

しばらく進むと堀があった。ここで「二ノ丸」と「本丸」を仕切っている。

 

空堀

写真左が二ノ丸、右が本丸

 

堀切を奥へ行くと、「二ノ丸」にのぼれるようになっていた。曲輪の上には平坦な広い空間がある。

 

曲輪の上

二ノ丸の上のほう

 

曲輪の縁

曲輪の上から下をのぞき込む

 

 

「二ノ丸」のほうから道路に戻り、北のほうへ向かう。このあたりが「犬馬場」だろうか。道沿いには水路がある。また、ちょっと下のほうには網掛川も流れる。水の確保がしやすい城だったようだ。

 

林道をあるく

犬馬場か、水路がある

 

水路沿いの道からちょっと脇に入ると小さな神社があった。「大山祇神社」または「本城山神」と呼ばれている。大山祇神(オオヤマツミノカミ)を祭る。御神体は神鏡一面。創建時期等はよくわからず。寛永20年(1643年)の社殿造立の棟札があるとのこと。情報は『加治木郷土誌』より。

 

山の神様

本城山神(大山祇神社)

 

神社の裏手は川。そのちょっと下流には龍門滝が落ちる。

rekishikomugae.net

 

もうちょっと歩いてみる。こんな地形があった。のぼっていくと広い空間になっていて、墓地があった。ここが「松尾城」だろうか。

 

松尾城か?

のぼってみる

松尾城か?

上のほうはこんな感じ

 

その後、道沿いに南へあるいていくと、車を停めた看板のところに出た。

 

 

いったん山を下りる。県道沿いに北東のほうへ。コンビニがあるあたりから加治木城跡を見る。大手口はこっち側にあるらしいが、詳細はわからず。

 

山城跡を遠くから

加治木城のある丘陵

 

来た道を戻って、加治木インターチェンジ近くまで戻る。県道沿いに石段の入口があり、こちらに城址碑がある。なお、周辺には車を停めるところがなさそう。龍門滝の駐車場に停めてここまで歩く、ちょっと遠いけど。

 

加治木城跡を麓から見る

手前のほうに石段がある

 

石段をのぼる

石段脇に城址碑も

 

こちらの石段は、山城跡のものではなさそう。展望所として整備されたものだろうか。また、水道関連施設がある。のぼると眺めが良い。目の前には蔵王岳。遠くに桜島。

 

蔵王岳と桜島

城山からの眺め

 

加治木城跡は、案内らしいものはあまりない。「ここがそうなのかな?」と想像しながら歩く感じ。これはこれで楽しめたかな、と。

 

 

 

 

加治木氏(大蔵氏)

加治木城の築城年代は不詳。加治木氏(大蔵氏)の築城と伝わる。加治木氏は藤原姓を称するが、もともと大蔵(おおくら)氏を名乗る。東漢(やまとのあや)氏の一流であると考えられる。

大蔵氏は11世紀以前より南九州に大きな勢力を有した。在庁官人を務め、大隅国・薩摩国のあちこちに所領を持っていた。大蔵氏のうち加治木を拠点とした一族が、加治木氏を名乗る。ちなみに薩摩の市来氏(いちき)や比志島氏(ひしじま)も、もともとは大蔵姓である。

 

伝わっている加治木氏の系図では、初代を加治木頼経とする。あるいは頼経の父の加治木経平とも。つぎのような話もある。

寛弘3年(1006年)に藤原経平が加治木に流されてきた。藤原経平は関白の藤原頼忠の三男であるという。ただし、藤原頼忠の子に経平の存在は確認できない。そのときに世話をしたのが肥喜山という女性だった。加治木郡司の大蔵良長の娘または後家とされ、良長の死後に加治木郡司職を引き継いでいた。肥喜山は経平を世話するうちにやがて夫婦となり、ふたりの間に生まれた子が郡司職を継承した。これが加治木頼経である。なお、加治木氏は「平」を通字とする。

だいぶ嘘くさい話ではあるが、大蔵氏がかなり古い時代から土着していたことがうかがえる。また、関白の子ではないにしろ、藤原氏から婿をとって権威を強めた可能性もあるかも。そんな想像をさせられる。

12世紀末に島津忠久が大隅国の守護職となったときには、加治木親平の名が確認できる。

南北朝争乱期には、当主の加治木政平は畠山直顕(はたけやまただあき)に従っていたようだ。延文元年・正平11年(1356年)に加治木周辺で戦いがあった。島津氏久の軍勢が畠山方の岩屋城(いわやじょう、姶良市加治木町木田)を攻めているが、こちらは加治木氏の城であった可能性が高そう。また、畠山直顕が加治木城から撃って出た、という記録もある。

 

rekishikomugae.net

 

 

 

島津氏豊州家と加治木氏

享徳年間(1452年~1455年)、島津忠国(しまづただくに、島津9代当主)は弟の島津季久(すえひさ)を派遣して大隅国帖佐(ちょうさ)を攻めさせた。帖佐は加治木の隣の郷である。帖佐は平山氏が治めていたが、ここに島津氏が侵攻。平山氏を降伏させ、この地を奪った。そして、帖佐は島津季久に与えられた。

「豊後守」を称した島津季久の家系は、「豊州家(ほうしゅうけ)」と呼ばれる。その後、薩州家(さっしゅうけ)や相州家(そうしゅうけ)とともに有力分家の一つとなる。

 

豊州家は桑原郡一帯(現在の姶良市全域)に勢力を広げた。蒲生(かもう、姶良市蒲生町)を蒲生氏から奪い、そして、加治木も支配下においた。島津季久は三男を加治木氏の養子に送り込み、加治木満久と名乗らせた。「加治木実平が無嗣であったことから」と系図は伝えるが、豊州家が乗っ取ったような感じだろう。その後、加治木氏は豊州家の一門として動いている。

文明18年(1486年)、豊州家は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)に移封となる。ただ、加治木氏は引き続き加治木を支配した。また、島津季久の次男は平山氏を名乗り、こちらも帖佐に残している。桑原郡は引き続き豊州家一門に任されている。

 

明応4年(1495年)、平山氏が大隅国串良(くしら、鹿児島県鹿屋市串良町)に移封となり、帖佐は島津氏奥州家(守護家)の直轄地となった。すると、加治木久平(満久の子)が挙兵。帖佐の平山城(姶良市鍋倉)を攻めた。軍事行動を起こした理由はわからない。土地の領有権をめぐって反発したものであろうか。島津忠昌(ただまさ、島津氏11代当主)は兵を派遣して、加治木氏を破った。明応5年、降伏した加治木久平は薩摩国阿多(あた、鹿児島県南さつま市金峰町)に移封。加治木を離れた。

 

加治木は島津氏奥州家(守護家)の直轄地となり、国家老の伊知地重貞(いじちしげさだ、伊地知氏庶流)が地頭に任じられた。また、帖佐地頭は川上忠直(かわかみただなお、川上氏庶流)に任された。ちなみに川上忠直は邊川(へがわ、姶良市加治木町辺川)に領地を持ったことから、邊川氏を称するようになった。

 

rekishikomugae.net

 

rekishikomugae.net

 

 

伊地知重貞の討ち死に

大永6年(1526年)、帖佐の邊川忠直(川上忠直)が挙兵する。この頃、島津氏奥州家(守護家)では政変があった。実権を握っていた島津氏薩州家が排除され、代わりに相州家の島津忠良(ただよし)が実権を握った。帖佐の挙兵もこの政変と関わりがあると推測され、邊川忠直は薩州家方についていたようだ。

また、当主の島津忠兼(ただかね、のちに勝久)は、忠良嫡男の虎寿丸を後継者とした(させられた)。虎寿丸は元服後に島津貴久(たかひさ)と名乗る。

島津忠良は帖佐本城(平山城)を攻めて乱を平定。邊川忠直は討ち取られた。帖佐地頭には変わって島津昌久(まさひさ)が入った。島津昌久は薩州家の一族だが、島津忠良の姉を妻としている。相州家と協力関係にあった。

 

大永7年(1527年)、今度は島津昌久が挙兵。薩州家方に寝返ったのだ。加治木の伊知地重貞も同調した。島津忠良は再び帖佐に遠征。島津昌久と伊知地重貞を討ち取り、反乱を抑え込んだ。

しかし、島津忠良が遠征中に薩州家方が鹿児島に侵攻。島津忠良は鹿児島に入れずに相州家の本拠地の田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰町)に撤退。鹿児島にあった島津貴久も脱出して田布施に落ちた。薩州家が再び実権を掌握し、隠居させられていた島津忠兼(島津勝久)も守護に復帰した。

 

 

rekishikomugae.net

 

 

 

加治木肝付氏(肝付氏三男家)

加治木には肝付兼演(きもつきかねひろ)が入る。島津勝久の国家老を務める人物である。天文3年(1534年)に加治木城を与えられて入城した、あるいは大永7年(1527年)に伊地知氏の後任を任されたとも。時期については諸説ある。

この肝付氏は庶流である。「肝付氏三男家」とも、また加治木を領したことから「加治木肝付氏」とも呼ばれる。さらに、のちに薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)に移封となり、江戸時代には「喜入肝付氏」に。薩摩藩の家老を多く輩出している。余談だが幕末に藩家老として活躍した小松清廉(小松帯刀)は喜入肝付氏の出身で、もとの名を「肝付兼戈(かねたけ)」という。

 

肝付氏は大隅国肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点に、大隅半島に勢力を持つ。伴姓で、大納言の伴善男(とものよしお)につなげる系図も伝わる。島津荘(しまづのしょう)の発展に関わった一族で、長元9年(1036年)に伴兼貞(とものかねさだ)が肝属郡の弁済使に任じられたことから肝付氏を名乗りとしたという。

文明6年(1474年)、肝付氏に内紛があった。肝付国兼と肝付兼連の兄弟が争った。弟の肝付兼連は兄を攻め、兄の肝付国兼は国外へ逃亡。肝付兼連が家督を奪った。三男坊の肝付兼光はこの兄に従わず。島津忠昌の傘下に入り、これ以降は島津氏奥州家に仕えることになる。

 

rekishikomugae.net

 

肝付兼光は大隅国救仁郷(くにごう)の大崎城(おおさきじょう、鹿児島県曽於郡大崎町)を居城とした。文明15年(1483年)に没し、嫡男の肝付兼固が継ぐ。文明18年(1486年)に大隅国溝辺(みぞべ、鹿児島県霧島市溝辺町)が島津忠昌より与えられ、肝付兼固は溝辺城へ移った。

肝付兼演は肝付氏三男家の3代目にあたる。父の肝付兼固から溝辺城を受け継いでいた。国家老に任じられ、島津勝久の治世を支えた。そして、加治木の領主を任されることになったのだ。

 

また、帖佐には祁答院重武(けどういんしげたけ)が勢力を広げている。


天文4年(1535年)、鹿児島で島津勝久(奥州家)と島津実久(薩州家)が戦う。このとき、肝付兼演は弟の肝付兼利を奥州家方の援軍として送っている。戦いは島津実久(薩州家)が勝利。肝付兼利は戦死した。

鹿児島で島津実久(薩州家)が実権の握る。当主の座についたとも。一方で、鹿児島から逃げた島津勝久(奥州家)は、今度は相州家と手を組む。相州家の島津忠良・島津貴久は薩州家を攻め、鹿児島を制圧する。薩州家を追い出して実権を掌握する。島津貴久はそのまま当主の座についた。

 

島津貴久に対して、反発する者も多かった。国家老である本田薫親(ほんだただちか)と肝付兼演らは島津勝久を担いで、島津貴久に戦いをしかけた。ちなみに本田薫親は囎唹郡(そおのこおり、鹿児島県霧島市のあたり)に領地を持つ。

反貴久派が大隅国の生別府城(おいのびゅうじょう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)は囲む。生別府城は相州家方の樺山善久が守っていた。天文10年(1541年)のことだった。

島津貴久は生別府城の救援に失敗。また、加治木城を攻めて肝付氏に大敗を喫した。その後、島津貴久は本田薫親と和睦し、生別府城を割譲している。

 

 

rekishikomugae.net

 

 

 

黒川崎の戦い

天文18年(1549年)5月、本田氏の内紛をきっかけとして加治木の周辺は再び戦乱となる。出兵してきた島津貴久に対して、肝付兼演・祁答院良重(けどういんよししげ)・蒲生茂清(かもうしげきよ)・入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)・東郷重治(とうごうしげはる)らが抵抗する。

島津方は加治木城に向けて軍勢を出す。伊集院忠朗(いじゅういんただあき)・伊集院忠倉(ただあお)らは海側の黒川崎に陣を置いた。肝付勢も日木山川を挟んで対陣した。戦い長引き、半年にも及んだ。

12月に肝付兼演は島津氏と和睦する。肝付兼演は加治木の安堵に加え、楠原・中野・日木山(いずれも姶良市加治木)が島津家より割譲される。かなり有利な条件を聞き出している。祁答院氏・蒲生氏・入来院氏・東郷氏も降った。

 

rekishikomugae.net

 

 

大隅合戦

肝付兼演は天文21年(1552年)に没する。家督は嫡男の肝付兼盛(かねもり)がついだ。

天文23年(1554年)9月、反貴久派が再び挙兵する。このとき肝付兼盛は島津方につく。島津貴久に反抗するのは帖佐を領する祁答院良重と、蒲生を領する蒲生範清(のりきよ)が中心。これに入来院氏・東郷氏・菱刈氏・北原氏なども同調した。肝付兼盛にとっては、周りは敵だらけである。

反貴久派は加治木城を囲む。島津方は島津忠将(ただまさ、島津貴久の弟)・伊集院忠朗・樺山善久らが加治木城の救援に動く。肝付兼盛も堅く守り、城を落とさせなかった。

島津貴久も鹿児島から出陣する。そして、平松の岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲んだ。祁答院氏・蒲生氏は加治木城の囲みを解き、岩剣城の救援に動いた。主戦場はこちらへと移る。

戦いは島津方が優勢となり、10月には岩剣城も陥落する。肝付兼盛も島津方で奮戦し、山田(姶良市の山田地区)の攻略などで戦功を挙げている。

その後、島津方は祁答院氏から帖佐を奪い、弘治3年(1557年)4月には蒲生氏の本拠地である蒲生城も陥落した。大隅国の始羅郡一帯(現在の姶良市全域)を制圧した。

 

 

rekishikomugae.net

 

 

この「大隅合戦」のあと肝付兼盛は島津貴久の家老に任じられる。以降は、島津家の重臣として活躍した。

島津家には「看経所四名臣」と呼ばれる者たちがいる。島津忠良が「島津家不可無此四人(島津家になくてはならない4人)」として、川上久朗(かわかみひさあき)・新納忠元(にいろただもと)・鎌田政年(かまだまさとし)、そして肝付兼盛を挙げている。

また、肝付兼盛は島津忠良の三女を妻に迎えている(のちに離縁)。名は「御西」といい、島津貴久の妹にあたる。島津家から頼りにされていたことがうかがえる。

 

 

 

 

加治木城は豊臣軍に囲まれた?

肝付兼盛の嫡男は、肝付兼寛(かねひろ)という。母は御西である。肝付兼寛も武勇にすぐれた人物で、島原合戦(沖田畷の戦い)や阿蘇合戦などで活躍した。

天正15年(1587年)5月、島津氏は豊臣秀吉の軍勢と戦って降る。『伴姓肝付氏系譜』(『旧記雑録拾遺 家わけ 二』に収録)によると、島津義久(よしひさ)が降伏したあとも、肝付兼寛は加治木城にこもって抗戦の構えを見せたという。豊臣秀長が加治木に兵を派遣したとも。詳細はよくわからないが、おそらくは説得に応じて降ったのだろう。

 

 

 

豊臣家の直轄領に

加治木はその後も肝付氏が領したが、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より所領替えが命じられた。肝付氏は加治木・溝辺・三体堂などの所領に替えて、薩摩国喜入へ移封となった。そして、加治木は豊臣家の直轄領とされた。

慶長4年(1599年)1月、加治木は島津氏に返還された。泗川(サチョン)での大勝をはじめ、島津氏の朝鮮での活躍に対しての恩賞として。

 

 

 

島津義弘の居城となる計画も

島津義弘は慶長12年(1607年)より加治木を隠居所とした。加治木に移る際に、加治木城を修築して居城とする計画もあったようだ。先遣隊48人を送り込んで準備が進められたが、実行はされなかった。

けっきょくは加治木の麓に居館を築くことになり、こちらを住まいとした。島津義弘は元和5年(1619年)に加治木館で没している。

 

rekishikomugae.net

 

その後、島津義弘の遺領は島津忠朗(ただあき)が継承する。島津忠朗は島津家久(いえひさ、18代当主・初代藩主、義弘の子)の三男で、島津義弘の孫にあたる。この家系は「加治木島津家」と呼ばれる。

加治木島津家は分家の中でもっとも家格が高い「御一門」に列せられる。本家に後継者がいない場合は、当主を出せる家柄でもある。実際に加治木家から島津重年(しげとし)が当主になっている。嫡男の島津重豪も、もともとは加治木島津家の出身である。

 

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編さん委員会 発行/加治木町長 宇都宮明人 1992年

『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年

ほか