ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(8)守護支配の崩壊、乱世に島津忠良が誕生

伊作久逸(いざくひさやす、島津氏庶流)の乱に端を発して、文明16年(1484年)から翌年にかけて島津氏領内に戦火が広がった。島津宗家11代当主の島津忠昌(しまづただまさ)は苦労しながらも、なんとか混乱をおさえ込んだ。

 

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しかし、その後も領内のあちこちで、戦火が上がるのである。島津忠昌の苦心は続く。そして、守護家(島津宗家)の実権はどんどん弱くなり、ますます領内の有力者たちを統制できなくなっていくのだ。

 

島津宗家の弱体化について

郷土史などの資料を見ていくと「15世紀末から16世紀はじめにかけて、島津宗家が弱体化した」と説明されていることが多い。それはまさに島津忠昌が当主にある時期(1474年~1508年)と重なる。そんなわけで、「島津忠昌はダメな当主」というイメージがついてきてしまうのだ。

島津忠昌は能力の低い人物ではなかったと思う。まず、死ぬまで当主であり続け、その期間も30年以上とけっこう長い。もしダメ当主だったとなると、その地位を奪われたことだろう。また、当主になってすぐの頃に分家が反乱を起こしたが、これも島津忠昌に反発してのことではない。分家衆と、政務を代行する国老たちとの対立によるものだった。そして、大乱となった文明16年頃はまだ20歳くらい。若いのによくやっている、という感じなのである。

 

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一方で、この頃の島津宗家は権限がかなり抑えられている。宗家当主がグイグイ引っぱるのではなく、島津氏の分家・庶家、領内の有力国人ともよく相談して政治を動かしているのだ。裏を返せば、一門衆や国人衆の発言力が大きくなった。相対的に守護(島津宗家)の力は弱くなるというわけだ。

もともと南九州は地力を持った国人衆が多く、統治が難しかった。南北朝争乱期には守護方と反守護方の対立が軸となって、争いが続いたのである。そんな中で、島津氏は統率力に優れた当主が続いた。5代の島津貞久(さだひさ)、6代の島津氏久(うじひさ)、7代の島津元久(もとひさ)、8代の島津久豊(ひさとよ)がそうである。宗家が分裂して争ったり、後継者争いの混乱があったりもしたが、強い当主がそこをおさえこんできたのだ。

 

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ところが、9代の島津忠国(ただくに)から、状況が変わってくる。島津忠国も強い権力を行使しようとしたのだが、専横がすぎたのか領内での支持を失った。そして、弟の島津用久(もちひさ、薩州家の祖)が擁立されて実権を握ったのだ。その後、島津忠国は政権に復帰するが、またも専横が目立つ。またまた支持を失い、二度目の失脚となった。忠国は追放されて隠居し、嫡男の島津立久(たつひさ、10代当主)が立てられた。忠国の死後に立久は家督をつぎ、正式な当主となる。

 

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島津立久は、一門衆・国人衆の支持を失わないようにうまく治めた。一方で、この頃に島津姓を持つ分家もいくつか立てられた。薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)・羽州家(うしゅうけ)・伯州家(はくしゅうけ)などである。領内に身内の領主を増やし、支持基盤を固める狙いもあったのかもしれない。だが、その分家がのちに本家を脅かす存在にもなっていく。

 

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島津家の棟梁は、領内有力者の支持ありきのものとなっていた。そんな状況の中、12歳の島津忠昌家督をついだ。領内の有力者たちを抑えるのは困難なのである。それでも、島津忠昌は領内を安定させようと奔走した様子がうかがえる。

文明17年(1485年)の日向国飫肥(おび、現在の宮崎県日南市)の戦いでは、島津忠昌は病身をおして出陣した。この頃、忠昌は京より竹田昭慶という医師を招聘して療養していた。竹田昭慶は出陣を思いとどまらせようとするが、島津忠昌は「以身愛之故、廃国之大事也(身を愛するのゆえをもって、国の大事を廃せるや)」(『島津国史』より)と言って聞かなかった。そして、竹田昭慶を伴って戦地に向かった。

島津忠昌はダメ当主ではなく、むしろ優れた人物だったと思われる。とにかく、置かれた状況が厳しかった……。

 

島津忠良の誕生

反乱を起こした伊作久逸だったが、降伏して許される。そして、日向国櫛間(宮崎県串間市)から旧来の領地であった薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)へ戻される。

伊作久逸の嫡男は伊作善久(よしひさ)という。伊作善久は新納是久の娘(常盤、ときわ)を妻としていた。伊作久逸は新納忠続(にいろただつぐ、島津氏庶流、新納氏4代)と対立した際に、志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町)を守っていた新納是久(これひさ、忠続の弟)を味方に引き入れたのである。なお、新納是久は飫肥で戦死している。

新納是久の娘(常盤)は、夫とともに伊作に移った。そして、一男二女を産んだ。嫡男は明応元年(1492年)に誕生する。幼名を菊三郎(きくさぶろう)という。のちの島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)だ。ゆくゆくは下剋上で島津宗家の実権を握り、戦国大名としての島津氏の基礎をつくる人物である。

鹿児島の城跡

伊作城には島津忠良の誕生石もある

 

明応3年(1494年)、事件が起こる。伊作善久が馬丁に殺害された。暗殺か? 菊三郎は2歳で父を失った。

 

南日向にまたも戦火

日向国南部で豊州家と新納氏が対立。明応3年(1494年)9月29日、島津忠朝(しまづただとも、豊州家3代当主)と新納忠武(にいろただたけ、新納氏6代、新納忠続の甥)はついに合戦に及んだ。

飫肥の争乱のあと、新納忠続が領していた飫肥(おび、宮崎県日南市)と伊作久逸が守っていた櫛間(宮崎県串間市)には豊州家が入った。一方、新納氏は旧領の志布志に戻っていた。

豊州家と新納氏の争いはこのあとも続いていく。

 

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蒲生氏が旧領に復帰

明応4年(1495年)、島津忠昌は蒲生宣清(かもうのぶきよ)に大隅国蒲生院(姶良市蒲生)を与える。蒲生氏にとっては、36年ぶりの旧領復帰であった。蒲生宣清は、長禄3年(1459年)に島津忠国の命で薩摩国給黎(きいれ、鹿児島市喜入)へ移封。蒲生はしばらく豊州家が支配していた。

蒲生氏は島津久豊の側近として活躍した蒲生清寛(かもうきよひろ)を出すなど、島津宗家によく仕えた。蒲生宣清も島津忠昌に従って各地を転戦。信頼が厚かったと思われる。

蒲生は交通の要衝で、鹿児島の島津氏にとっても重要な場所である。島津氏にたびたび反抗すれ祁答院(けどういん)氏や入来院(いりきいん)氏の所領にも近い。豊州家が飫肥・櫛間に移ったこともあり、信頼のおける者を置きたかったはずである。蒲生氏の旧領復帰には、そんな意図もあったのではないだろうか。

 

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平田兼宗・村田経安が失脚

明応4年(1495年)、大隅国の串良城(くしらじょう、鹿児島県鹿屋市串良)で平田兼宗(ひらたかねむね、か?)が反乱を起こす。4月15日、島津忠昌は島津忠朝(豊州家)に命じて串良城を攻めさせた。串良城が落ちると、島津忠昌はこれを島津忠朝に与えた。串良城には大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市帖佐)にあった平山忠康(豊州家の一門で、島津忠朝の叔父)が入った。

平田兼宗は島津忠昌の国老として活躍した人物で、村田経安(むらたつねやす、か?)とともに島津宗家の中枢にあった。そんな人物が、どういういきさつで叛いたのかはよくわからない。島津忠昌と何かしらの対立があったのだろうか。

また、同年には島津忠昌が村田経安を「無礼があった」として殺害している。こちらも詳しいことはわからない。

平田兼宗・村田経安は島津氏分家とたびたび対立していた。この国老2人がいなくなった。島津忠昌の政権で、分家の影響力がさらに大きくなっていったものと考えられる。

 

加治木氏が叛く

大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の加治木久平が挙兵。明応4年(1495年)6月、帖佐の平山城(ひらやまじょう、場所は姶良市鍋倉)に攻め込んだ。島津忠昌は兵を率いてこれを撃った。加治木久平は加治木城に逃げ帰った。

鹿児島の城跡

帖佐を見る、平山城(帖佐本城)より

 

帖佐はもともと豊州家の拠点であった。豊州家が南日向に移ったあとも、一族の平山忠康が守っていた。しかし、大隅国串良が奥州家に与えられると、平山忠康がそちらへ移された。帖佐は島津宗家の直轄地となったようだ。この年に川上忠直(かわかみただなお、島津氏庶流川上氏の一族)を帖佐地頭とした。『姶良町郷土誌』によると、川上忠直は高尾城(たかおじょう、平山城の支城)にあって固く守り、この功をから地頭に任命されたのだという。そして、帖佐のうちの邊川(へがわ)にちなんで、邊川氏を名乗るようになった。

加治木氏は、本来は東漢氏(やまとのあやうじ)後裔の大蔵(おおくら)氏であるが、のちに藤原姓を称する。加治木にかなり古くから土着している一族である。ただ、久平の父の加治木忠敏(名は満久とも)は豊州家初代の島津季久の三男である。つまり、豊州家の一門となっていた。帖佐に侵攻したのは、豊州家ゆかりの地を奪われることに反発したのか? あるいは、ただただ勢力拡大を狙ったのか?

明応5年(1496年)、加治木久平は降伏する。加治木氏は薩摩国阿多(あた、鹿児島県南さつま市金峰)に移され、旧来の地を失う。

 

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薩州家で内紛

明応9年(1500年)、薩州家では島津忠興(ただおき、薩州家4代当主)と一族の島津忠福が対立。島津忠福は島津用久(薩州家初代)次男の島津延久の子で、加世田城(かせだじょう、別府城ともいう、鹿児島県南さつま市加世田)を任されていた。島津忠興は加世田を攻撃する。

伊作久逸は娘を薩州家の島津昌久に嫁がしていた。昌久は忠福の兄であり、その縁もあって島津忠福を支援する。加世田に出兵するが、11月11日に島津忠興の軍と戦って敗れる。そして、島津久逸は討ち取られてしまう。

鹿児島の城跡

加世田城(別府城)跡

 

伊作の女城主

伊作久逸の死で、伊作氏は当主を失った。その嫡子である伊作善久はすでになく、善久の子の菊三郎(島津忠良)もまだ幼少である。

伊作城は菊三郎の母の常盤が家臣とともに守ることとなった。伊作は敵対勢力(おもに薩州家だろう)からしばしば攻め込まれる。田布施(鹿児島県南さつま市金峰)の領主である島津運久(ゆきひさ、相州家2代当主)は伊作氏を支援し、相州家の兵の助力もあって伊作氏は持ちこたえた。

なお、この頃の菊三郎(島津忠良)は願成就寺海蔵院(がんじょうじゅじかいぞういん)に入り、住持の頼宗を師として学んでいた。

 

菊三郎の母、相州家に嫁ぐ

島津運久(相州家)は伊作家の常盤に縁談を持ちかける。運久には世継ぎがなく、菊三郎を相州家の後継者にすることも約束した。常盤はこの話を受ける。菊三郎は伊作氏の家督とともに、相州家の家督もあわせて継承することになった。

『島津世家』(18世紀に島津氏が編纂させたもの)によると、島津運久は常盤(『島津世家』では「新納氏」と記す)の美貌に惚れ込んで熱心に求婚したのだという。これが史実であったかはわからない。「仕方なく承諾した」「状況的にそうせざるをえなかった」という感じを出すための創作なのでは? そんな気もするのである。ちょっとうがった見方をすると、伊作氏側から持ちかけたものであったのかも。

この縁談は、相州家と伊作氏の利害が一致してのことだったと考えられる。相州家にとっては後継者を得るとともに伊作氏を吸収して勢力を広げることができるし、伊作氏にとっては危機的な状況の中で幼主が長じるまで家を守ることができる、というわけだ。

相州家と伊作氏はかなり近い親戚だったりもする。相州家初代の島津友久(ともひさ、)は島津忠国(宗家9代当主)の長男で、母は伊作氏の出身である。そして、伊作久逸は友久の弟(忠国の三男)である。つまり、島津運久と伊作善久は従兄弟であり、菊三郎は運久にとっては甥にあたる。「養子にしたい」と考えるにはまったく無理のない血縁関係なのだ。


島津忠昌、高山城攻めに失敗

永正3年(1506年)、大隅国肝属郡の高山城(こうやまじょう、鹿児島県肝属郡肝付町高山)で肝付兼久(きもつきかねひさ)が反乱を起こす。8月、島津忠昌は高山城に出征した。

鹿児島の城跡

高山城跡、写真奥が山城跡

志布志の新納忠武も肝付氏のために援軍を出す。肝付兼久の母は新納氏の出身であり、その縁から救援を求めた。

島津忠昌軍は高山城を落とせず、新納忠武の軍が救援にきたことで挟み撃ちの形となる。島津忠昌は大敗し、12月に鹿児島へ撤退した。

 

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島津忠昌の自害

永正5年(1508年)2月15日、鹿児島の清水城(しみずじょう、島津宗家の居城)で島津忠昌が自害する。国内の争乱を収拾することができずに思い悩んでのことだったという。

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃

死に際して、島津忠昌西行(さいぎょう)作の和歌を吟じたとされる。「春に花の下で死にたいものだ、それも如月の満月の頃(旧暦2月15日、釈迦の命日)に」といった意味。

家督は島津忠治(ただはる、忠昌の長男)がついだ。

鹿児島の城跡

清水城跡、写真右奥が山城跡


島津忠良、相州家の当主に

永正3年(1506年)、菊三郎は伊作城で元服。三郎左衛門尉忠良(さぶろうさえもんのじょう ただよし)と名乗り、伊作氏の10代当主となった。

さらに、永正9年(1509年)には島津運久が阿多城(あたじょう、別名に鶴之城、場所は南さつま市金峰町宮崎のあたり)へ移って隠居し、相州家の家督を譲る。名乗りを島津相模守忠良とした。相模守(さがみのかみ)は相州家当主が代々称する受領名である。

島津忠良田布施の亀ヶ城(かめがじょう、田布施城とも、場所は南さつま市金峰町尾下)に入城した。薩州家3代の島津成久(しげひさ、忠興の父)の娘を妻とし、永正11年には長男が誕生。幼名は虎寿丸。のちに宗家15代当主となる島津貴久である。

鹿児島の城跡

亀ヶ城跡には島津貴久誕生地の記念碑もある

 

この頃の薩州家と相州家・伊作氏との関係性についてはよくわからない。明応9年(1500年)には薩州家の内訌にも関与して対立もあったようだが、のちに和睦したのだろう。


薩隅日三州大乱

永正5年(1508年)、島津忠治が家督をついで12代当主となった。まだ20歳(数え年)。経験の少ない青年当主である。父が苦労しまくった領国経営を任されるには、あまりにも荷が重い。

『島津国史』の永正7年(1510年)の条には「是年薩隅日三州大乱」と記される。記録があまり残っていなくて詳細はわからないが、島津忠治もまた戦いに明け暮れたようである。

『島津国史』には「永正8年に種子島忠時(たねがしまただとき、大隅国種子島の領主)の戦功を賞してして加増した」、「永正9年に禰寝尊重(ねじめたかしげ、名は忠清とも、大隅国大隅の領主)に恩賞として加増した」、「永正11年に本田親安(ほんだちかやす、大隅国囎唹清水の領主)に加増した」という記事が出てくる。戦功が何によるものかは不明だが、戦いがあったことはうかがえる。

このほか、永正7年には入来院重聡(しげさと)に薩摩郡隈之城(くまのじょう、薩摩川内市隈之城)などが与えられている(『入来院文書』による)。入来院重聡は薩摩国北部の川内川流域の広範囲(現在の薩摩川内市のかなりの範囲)に勢力を持つ。この頃は、島津忠治に協力して活躍していたようだ。

また、島津運久(相州家)は永正9年(1509年)に阿多城を攻め落としているが、これも島津忠治の命によるものだとされる。

永正12年(1515年)、島津忠治は大隅国吉田(よしだ、鹿児島市吉田)の吉田位清を攻めた。だが吉田城(松尾城)攻めの最中の8月25日に没する。享年27。島津忠治は吉田の津友寺(しんゆうじ)に葬られた。ちなみに、忠治の母は大友氏の出身で、「津友寺」というのは「島津」と「大友」から1字ずつとっているそうだ。

島津忠治に子はなく、家督は弟の島津忠隆(ただたか、忠昌の次男)がつぐ。これまた20歳(数え年)と若い。

永正14年(1517年)2月、島津忠隆は吉田城を攻めて、吉田位清を降伏させた。兄が落とせなかった城を落とす。

鹿児島の城跡

松尾城(吉田城跡)

 

永正16年(1519年)4月4日、島津忠隆が逝去する。享年23。忠隆にも子がなく、弟の島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久と改名、忠昌の三男)が家督をついだ。こちらもわずか17歳(数え年)での襲封だった。

『島津国史』の與岳公(島津忠隆のこと)の巻の最後には、またこの言葉が出てくる。

「三州大乱」と。

 


<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1987年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

鹿児島県史料集36『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

姶良町郷土誌』(増補改訂版)
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町長 櫟山和實 1995年

『吹上郷土史 中巻』
発行/日置郡吹上町教育委員会 1969年

『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編さん委員会 発行/吉田町 1991年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか