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おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(7)大隅合戦、島津義久と島津義弘と島津歳久の初陣

天文21年(1552年)、島津貴久(しまづたかひさ)は任官がなり、幕府からも正式に守護と認められた。だが、領内はまだまだ安定しない。一度は帰順した西大隅の国人たちが、再び叛旗をひるがえすのである。

 

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なお、日付については旧暦で記す。

 

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島津実久の死

16世紀前半の島津氏の内訌は、相州家(そうしゅうけ)と薩州家(さっしゅうけ)が覇権を争ったものである。一時は薩州家の島津実久(さねひさ)が強勢で、守護についたともされる。天文8年(1539年)に島津貴久(相州家)にその座を追われたあとも、本拠地の薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市)に勢力を保っていた。

島津実久が降伏したという記録はなく、独立勢力のような感じであったと思われる。島津貴久も大隅の反乱の対応のために余裕はなく、薩州家と事をかまえようとはしなかった。一方、薩州家も東郷(とうごう、鹿児島県薩摩川内市)領主の東郷重治(とうごうしげはる)と勢力争いをしていたようである。

島津実久は天文22年(1553年)1月に上洛し、将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に謁見した。これは、前年に朝廷と幕府に地位を認められた島津貴久に対抗してものであろう。もしかしたら、「守護を譲られたのは自分であり、あっちじゃない」というような訴えをしたのかもしれない。

そして、帰国の途中で島津実久は病気になり、7月に出水に到着してすぐに亡くなったのだという。42歳だった。急な死はちょっと不審な感じもする。

薩州家の家督は嫡男の島津晴久(はるひさ)が継いだ。島津晴久はのちに名を陽久(はるひさ)、さらに義俊(よしとし)、義虎(よしとら)と改める。島津義虎の名がよく知られており、この記事ではこちらで統一する。

時期は不明だが、島津義虎は島津貴久と和睦したようである。ただ、傘下に入ったという感じではなく、独立勢力としてその後も存続する。永禄6年(1563年)には上洛し、将軍の足利義輝(よしてる)に謁見。このときに偏諱として「義」の字を賜っている。

島津義虎は島津義久の長女(於平、おひら)を正室に迎えた。島津貴久・義久とは良好な関係が続いた。

 

 

加治木の動乱、再び

天文18年(1549年)の加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の戦いののち、反乱を企てた肝付兼演(きもつきかねひろ)・蒲生茂清(かもうしげきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)・入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)らは島津貴久に帰順した。しかし、天文23年(1554年)に、肝付氏をのぞく3氏が再び叛く。

肝付氏は大隅国加治木を領する。大隅国高山(こうやま)の肝付兼続とは同族で、その庶流にあたる。天文18年の戦いで肝付兼演は島津貴久に敗れるが、新たに所領を得るなど有利な条件で和睦している。ただ、肝付兼演は天文21年に死去。子の肝付兼盛(かねもり)があとを継いでいた。

蒲生氏は大隅国蒲生(かもう、姶良市蒲生)を領する。その歴史は古く、保安4年(1123年)よりこの地を治めている。こちらも代替わりしている。蒲生茂清は天文19年に没し、蒲生範清(のりきよ)があとをつぐ。

祁答院氏は、13世紀に薩摩国北部に土着した渋谷(しぶや)氏の一派である。薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)を本貫としている。さらに、16世紀になって大隅国帖佐(ちょうさ、姶良市の姶良地区)にも勢力を広げていた。

入来院氏も渋谷一族。薩摩国入来院(いりきいん、薩摩川内市入来町・樋脇町のあたり)を本貫とする。入来院重聡(しげさと、重嗣の祖父)の娘は島津貴久の後室となっており、かつては島津氏に協力的だった。しかし、入来院重朝(しげとも、重嗣の父)が島津氏と対立するようになった。

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加治木の肝付氏のみが島津氏と親密な関係に転じた。一方、蒲生氏・祁答院氏・入来院氏は帰順したものの表面的なものにすぎず、態度をはっきりさせない。そんな中で肝付氏と蒲生氏の間に不和が生じたという。その発端は、肝付兼盛が蒲生範清に対して島津貴久に党するよう誘ったことによる(『島津国史』より)。

おそらく、島津貴久のほうから肝付兼盛に蒲生氏調略の依頼があったのではないだろうか? この4氏の所領のおおまかな位置関係は下のとおり。赤字は島津方。

 

西大隅略地図


東から西に向かって加治木、帖佐、蒲生、そして祁答院と入来院という位置関係である。蒲生が島津貴久方に転じると、帖佐の祁答院良重が孤立する。島津方が一気に有利な状況になるのだ。だが、蒲生氏にとっては危険な賭けでもある。蒲生が島津方につくと祁答院氏・入来院氏に囲まれる形となってしまうのだ。

蒲生範清は肝付兼盛の誘いを蹴り、祁答院氏らと組んで肝付氏を攻める。天文23年8月29日、蒲生範清・祁答院良重は加治木城(肝付氏の居城)を囲んだ。入来院氏、大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)の菱刈氏、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)北原氏も同調して、この攻撃に加わった。

城址碑と石段

加治木城跡

 

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肝付兼盛は島津貴久に援軍を要請。島津方は加治木の東側の清水(きよみず、鹿児島県霧霧島市国分清水)の島津忠将(ただまさ、島津貴久の弟)、姫木(ひめき、霧島市国分姫木)の伊集院忠朗(いじゅういんただあき)、長浜(ながはま、霧島市隼人町小浜)の樺山善久(かばやまよしひさ、貴久の姉婿)が兵を出して加治木城を支援。加治木勢は網掛川に出て敵を破るが、9月10日に蒲生・祁答院連合軍が加治木城をふたたび囲んだ。

鹿児島にあった島津貴久は、加治木城救援のために兵を出す。吉田城(よしだじょう、松尾城、鹿児島市吉田)の守りを固めるとともに、軍を帖佐平松(ひらまつ、姶良市平松)に進めた。

島津方は加治木には向かわず、平松の岩剣城(いわつるぎじょう)に進軍した。岩剣城を奪えば、蒲生と帖佐が分断される。蒲生氏・祁答院氏にとって大きな不利となる。ここを攻めれば蒲生氏・祁答院氏は加治木城の囲みを解いて救援に動くだろう、というのが狙いだった。

岩剣城攻撃にはじまる島津貴久の戦いは「大隅合戦」と言われたりもする。

 

 

島津貴久の4人の息子たち

岩剣城の戦いには、島津貴久の息子たちも従軍する。これが初陣であった。島津貴久の息子は、つぎの4人である。

 

長男/島津義久(しまづよしひさ)
天文2年(1533年)生まれ。初名は忠良(ただよし、祖父と同じ名前)、その後は義辰(よしとき)、義久と名を改める。通称は又三郎、三郎左衛門尉など。出家後は龍伯(りゅうはく)と号した。のちに、島津貴久から家督をついで、島津氏の16代当主となる。島津義久の代に島津氏は最盛期を迎え、その勢力は九州をほぼ制圧するにいたる。

 

次男/島津義弘(しまづよしひろ)
天文4年(1535年)生まれ。初名は忠平(ただひら)、その後は義珍(よしまさ)、義弘と名を改める。通称は又四郎、兵庫頭(ひょうごのかみ)など。出家後は惟新斎(いしんさい)と号する。日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)の領主を長く務める。最前線の守りを任されるとともに、出撃の際には総大将を務めることが多かった。島津氏の軍事面の要として活躍する。豊臣政権下での朝鮮半島での派手な戦果や、関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」などもあって、武名は全国的にも知られた。

 

三男/島津歳久(しまづとしひさ)
天文6年(1537年)生まれ。通称は又六郎、祁答院、金吾など。法号は晴簔(せいさ)。祁答院氏が滅んだのちに、薩摩国祁答院の領主となる。島津義久の補佐役という役回りで、信任が厚かった。戦場では島津義久や島津義弘の副将を務めることが多い。

 

四男/島津家久(しまづいえひさ)
天文16年(1547年)生まれ。通称は又七郎、中務大輔など。のちに日向国佐土原(さどわら、宮崎県宮崎市)の領主。かなりの戦上手であり、島津氏の勢力拡大に大きく貢献する。耳川の戦い(天正6年、1578年)や沖田畷の戦い(天正12年、1584年)で活躍。沖田畷の戦いでは肥前国(佐賀県)大名の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を討ち取った。

 

岩剣城の戦いには島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)・島津歳久が出陣する。ちなみに、この3人の母は雪窓院(せっそういん)といい、入来院重聡の娘である。島津家久は母が異なり、年齢も兄たちとちょっと離れている。

 

 

岩剣城の戦い(岩剣合戦)

天文23年(1554年)9月12日、島津貴久は鹿児島から出兵する。翌13日に船で平松に上陸し、岩剣城を囲んだ。岩剣城は山の尾根の先端に築かれていて、三方は断崖の多い急峻な地形だ。城につながる尾根も深い堀で切ってある。見るからに攻め難い山城である。このときは、蒲生氏配下の西俣盛家が守っていた。

険しい断崖のある山城跡

岩剣城跡、白銀公園より見る

急峻な地形の山城の曲輪跡

岩剣城の本丸のあたり、石垣も残る

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島津貴久の本隊は島津義辰(島津義久)を大将とし、伊集院忠朗を軍配として狩集(かりづまり、岩剣城からやや北)に布陣。本隊は日當比良(ひなたびら、狩集からやや西)に進み、岩剣城をうかがう。

城方の兵が出てきたとことを、梅北国兼(うめきたくにかね、肝付氏庶流)らの部隊が迎え撃った。白銀坂(しらかねさか)付近で戦闘となり、島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)・島津歳久も撃って出た。

岩剣城の攻撃がはじまると、蒲生氏・祁答院氏の軍は加治木攻めどころでなくなった。大急ぎで岩剣城の救援に動く。島津貴久の狙い通りとなった。

島津貴久は島津尚久(なおひさ、貴久の弟)の部隊を狩集に派遣して、岩剣城を牽制する。また、清水から合流した島津忠将が帖佐に進軍し、岩野原(いわのばる)で合戦となった。岩剣城救援に動いてきた敵軍を叩く。さらに翌14日には島津忠将が軍艦5艘を率いて脇元(わきもと、岩剣城下)を攻撃した。

姶良市加治木町木田に「岩原(いわばる)」という地名が残る。このあたりが岩野原だと思われる。

9月17日、島津忠平(島津義弘)が白銀坂に布陣し、尾根側から岩剣城をうかがう。18日には島津忠将が50艘あまりの船を出し、ふたたび帖佐に攻撃をしかけた。さらに脇元に兵をかえして島津忠平(島津義弘)の部隊と合流。敵を敗走させた。この戦いでは鉄砲も使用されたのだという。

9月20日、島津忠平(島津義弘)が脇元に撃って出る。これに誘い出されて帖佐から祁答院勢が進撃。あらかじめ伏せておいた兵が取り囲み、大勝した。また、同日には島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい、貴久の父)が陣中を訪れている。

9月21日、島津忠平(島津義弘)の手勢が脇元川(思川)上流にあった城方の船10艘を奪う。翌22日には城方が焼山(狩集の近く)に陣を張ったので、狩集陣の部隊がこれを攻めた。

9月30日、星原(現在の重富小学校のあたり)で合戦。島津貴久・島津義辰(島津義久)の本隊が迎え撃って、敵を敗走させる。

10月2日、島津貴久は岩剣城に総攻撃をかける。島津義辰(島津義久)が城の西門(大手門口か)から攻める。島津尚久の部隊も城下に布陣する。一方、蒲生・祁答院連合軍は兵2000を差し向けた。白銀陣の本隊が星原でこれを迎え撃った。この戦いで蒲生・祁答院連合軍は渋谷重経(祁答院良重の子)・西俣盛家などの有力武将が討ち取られ、総崩れとなった。岩剣城は孤立し、その日の夜に城兵は逃亡。岩剣城は陥落した。

10月3日に島津貴久らは岩剣城に入城する。それから鹿児島に帰還する。10月19日に島津忠平(島津義弘)が岩剣城に入り、城番を任された。

 

 

蒲生北村の戦い

天文24年(1555年)1月、大隅国蒲生の北村城(きたむらじょう、姶良市蒲生町北)から内応の申し出があり、島津貴久を北村城に迎え入れることを約束した。島津貴久・島津義辰(島津義久)・島津尚久らは吉田城に入り、さらに北村城を目指した。しかし、北村で島津方は敵軍に囲まれた。内応は偽りであった。

先遣隊の島津尚久は血路を開いて、追撃をかわしながらなんとか吉田城へと撤退する。島津貴久も囲みを突破して薩摩国郡山(こおりやま、鹿児島市郡山)へ落ち、そこから鹿児島へ帰還した。この撤退戦では島津歳久が力戦し、重傷を負いながら島津貴久を窮地より救った。

この敗戦で、島津貴久は蒲生侵攻をいったんやめる。まずは、帖佐の攻略にとりかかることとなった。

 

 

溝辺の戦い

天文24年(1555年)2月、北原兼守(きたはらかねもり)が大隅国溝辺(みぞべ、霧島市溝辺)に侵攻してきた。溝辺は加治木の北方に位置し、現在の鹿児島空港のあるあたりだ。ちなみに、加治木肝付氏はもともとは溝辺を拠点としていた。

北原氏は日向国真幸院のほかに大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)や大隅国横川(よこがわ、霧島市横川)も領していて、そこから加治木をうかがう。帖佐の祁答院氏の救援に加え、南へ勢力を拡大する狙いもあったと思われる。

2月28日、島津忠将が溝辺で迎え撃ち、北原氏を追い返した。島津方は鉄砲を発し、7人を討ち取ったのだという。

 

 

帖佐を制圧する

岩剣城を押さえたことで、島津方はかなり有利な状況となった。島津貴久は帖佐攻めを展開していく。

天文24年(1555年)3月2日、島津忠平(島津義弘)と島津忠将の軍が帖佐に侵攻し、別府川で祁答院良重の軍と戦った。別府川は祁答院氏の拠点である帖佐本城(ちょうさほんじょう、別名に「平山城」や「平安城」とも、姶良市鍋倉)の麓を流れる。

川越しに見る山城跡

別府川南岸、写真左奥の山が帖佐本城跡

【関連記事】平山城(帖佐本城)跡にのぼってみた、島津忠良・島津貴久も攻めた西大隅の激戦地

 

3月8日には肝付兼盛・樺山善久らが帖佐郷山田(やまだ、姶良市上名・下名)を攻める。

鹿児島からも島津貴久・島津義辰(島津義久)らの軍が到着し、平松に入る。3月27日、島津貴久らの本隊は別府川の南に布陣し、島津忠将は岩野原に軍を進める。島津忠将は20人ほどの小部隊を編成し、帖佐本城を攻撃させる。これは敵を城から誘い出すための囮であった。城から敵兵が撃って出ると、囮部隊は撤退。敵軍はこれを追撃する。そこへ、兵を伏せていた島津忠将隊と島津尚久隊が挟み撃ちに! 取り囲んで一気に攻めかかり、敵軍を大いに破る。島津氏が得意とする「釣り野伏せ(つりのぶせ)」である。ちなみに、『島津貴久-戦国大名島津氏の誕生-』(著/新名一仁)によると、これが島津貴久が行った「釣り野伏せ」の史料上の初見とのことだ。ちなみに岩剣合戦でも伏兵を使った戦術の記録がある(前述)。

島津方は勢いを増して、さらに攻める。4月2日、帖佐本城・帖佐新城(姶良市三拾町、若宮神社のあたり)・山田城(姶良市上名)の祁答院勢は城を棄てて逃げる。本貫地の祁答院に撤退した。島津貴久は帖佐を制圧した。

7月25日には蒲生範清・祁答院良重が帖佐奪還の兵を出す。帖佐新城に攻めかかるが、帖佐本城から島津忠将・樺山善久が撃って出て敵を敗走させた。

 

 

蒲生城陥落

島津貴久が帖佐を取り、北原氏や入来院氏は和睦に応じたと見られる。西大隅で残すは蒲生のみとなった。入来院氏を仲介として蒲生城の開城を求めたが、交渉はまとまらなかったようである。蒲生氏と祁答院氏はなおも戦う。これに菱刈氏も加勢する。

弘治2年(1556年)、島津貴久は蒲生攻めを開始する。蒲生城は堅固な山城であり、支城をひとつひとつ落としていくこととなった。

削り込んだ山城の痕跡

蒲生城跡、本丸と二の丸を区切る堀切

 

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まずは、帖佐側から松坂城(まつざかじょう、姶良市蒲生町米丸)を攻める。3月15日に島津忠平(島津義弘)を大将とし、梅北国兼とともに出撃させた。島津方は城を落とせず、いったん兵を退いた。

10月19日に再び松坂城を攻める。島津方は後詰めとして島津貴久が帖佐に布陣し、島津義辰(島津義久)が山田城に入って牽制する。城攻めは島津忠将が野首口から、島津尚久が水の手口から迫り、本隊の島津忠平(島津義弘)・梅北国兼が西の口から攻めかかった。蒲生範清・祁答院良重も救援の兵を出すが、こちらは後詰めの島津貴久が撃退した。総攻撃を受けて、松坂城は陥落する。

翌日、島津忠平(島津義弘)は松坂城の北の漆(うるし)に兵を進め、祁答院氏の部隊を攻撃。祁答院勢を撤退させる。漆を制圧し、祁答院から蒲生への補給路を分断した。

 

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11月、島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)は蒲生城の西側に陣取る。東側の蒲生新城には島津貴久・島津尚久が入った。島津忠将は馬立(住吉池の近く)に陣取って蒲生城を北からうかがう。島津方は蒲生城を包囲する。

12月、菱刈氏は蒲生氏救援のために菱刈重豊(菱刈重州の長男)を派遣する。島津方は菱刈勢に苦戦するが、弘治3年(1557年)4月に島津忠平(島津義弘)・島津忠将・島津尚久が総攻撃をかけて破る。菱刈重豊は自刃した。島津方は蒲生北村を押さえた。

山城から見下ろす

蒲生城より北村方面を見る

蒲生城は孤立する。ついに蒲生範清は降伏を願い出る。弘治3年(1557年)4月20日、蒲生範清は城を棄てて祁答院氏をたよって落ちていった。

島津貴久は西大隅を平定した。各所には地頭を配置する。帖佐に鎌田政年(かまだまさとし)、山田に梅北国兼、蒲生に比志島美濃守(ひしじまみののかみ)、吉田に村田経平(むらたつねひら)、松坂に市来内蔵助(いちきくらのすけ)を置いた。

……つづく。

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『薩藩旧記雑録 前編 巻三十六』
編/伊地知季通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『薩藩旧記雑録 後編 巻一』
編/伊地知季通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町 1995年

『蒲生郷土誌』
編/蒲生郷土史編さん委員会 発行/蒲生町 1991年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか