ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

薩摩の渋谷一族、入来院氏/祁答院氏/東郷氏/高城氏/鶴田氏

中世の薩摩国では、渋谷(しぶや)氏が大きな力を持っていた。島津氏と手を組んだり、あるいは対立したり。戦国時代には渋谷一族の入来院(いりきいん)氏・祁答院(けどういん)氏・東郷(とうごう)氏が島津貴久(しまづたかひさ)に抵抗した。

 

渋谷一族の動きを追ってみる、とくに15世紀~16世紀について。

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

 

渋谷氏とは

渋谷氏は、桓武平氏の秩父(ちちぶ)氏の一族。もともとは鎌倉御家人である。名乗りは相模国高座郡の渋谷荘(しぶやのしょう、現在の神奈川県綾瀬市・大和市のあたり)に由来する。


渋谷光重(しぶやみつしげ)が宝治元年(1247年)の宝治合戦で活躍し、その恩賞として薩摩国に所領が与えられた。東郷(とうごう、薩摩川内市東郷)・入来院(いりきいん、薩摩川内市入来・樋脇)・祁答院(鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院)・鶴田(つるだ、さつま町鶴田)・高城(たき、鹿児島県薩摩川内市の高城・水引)。これらの地は千葉氏が領していた。宝治合戦で千葉氏は所領を没収され、その旧領が渋谷光重に与えられている。

宝治2年(1248年)に渋谷光重は一族を薩摩国の任地に入れた。長男の渋谷重直を相模国に残し、次男家以下を下向させた。

次男/早川実重→東郷へ
三男/吉岡重保→祁答院へ
四男/大谷重茂→鶴田へ
五男/曽司定心→入来院へ
六男/落合重定→高城へ


なお、四男の大谷重茂と六男の落合重定は戦死しており、それぞれの子の大谷重行と落合重秀が任地に入った。

渋谷一族の五つの家は、のちに領地を名乗りとする。東郷氏祁答院氏鶴田氏入来院氏高城氏を称するようになった

 

入来院氏についてはこちらの記事にて。

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祁答院氏についてはこちらの記事にて。

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渋谷一族についてはこちらの記事でも。

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14世紀から15世紀半ばまで

南北朝争乱期の南九州は大乱が続いた。守護家である島津(しまづ)氏をはじめ有力領主たちが南朝方と北朝方に分かれて争う。戦況はどんどん複雑化し、南朝から北朝に転ずる者があったり、あるいはその逆もあったりと、混沌とした状況になっていく。対立の構図は、島津氏に党する者と反抗する者との争いになっていく。

当初、渋谷一族は島津氏に協力することが多かった。ただし、五つの家がそれぞれに動き、一族で敵と味方に分かれることもあった。

14世紀に渋谷一族の中でもっとも力を持っていたのは入来院氏であった。そして、入来院重門(いりきいんしげかど)・入来院重頼(しげより、重門の子)は、反島津方を主導する立場となる。

九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と島津氏が対立するようになると、入来院氏は今川氏に協力。島津氏と激しく戦った。

今川貞世(今川了俊)が九州探題を罷免されて九州を去ると、入来院氏は後ろ盾を失って劣勢となる。応永4年(1397年)に島津氏に攻められ、入来院の清色城(きよしきじょう、鹿児島県薩摩川内市入来)を落とされる。入来院の地を失う。

 

山城

入来院の清色城跡(写真奥の山)

 

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その後、島津氏では一族どうしが争う。奥州家の島津氏久(うじひさ)と総州家の島津伊久が対立した。島津伊久は入来院重頼に薩摩国谿山郡(鹿児島市の谷山地区)を与えて味方に引きれている。

渋谷一族は入来院・祁答院・東郷・高城の四氏が総州家につき、鶴田氏のみが奥州家についた。

応永8年(1401年)、島津伊久(総州家)は入来院氏・祁答院氏・東郷氏・高城氏を従えて、鶴田を攻める。島津元久(奥州家)も兵を出し、大合戦となった(鶴田合戦)。島津伊久(総州家)が勝利し、鶴田城の鶴田重経は棄城して逃亡。これにより、鶴田氏は領主としての地位を失う。

 

古戦場跡

鶴田合戦古戦場、手前は戦没者の首塚

 

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入来院重頼は応永18年(1411年)に清色城を攻め、居城を奪還する。その直後に島津元久(奥州家)が清色城に出陣するも、島津元久は陣中で病に倒れる。しばらくのちに鹿児島で没している。


入来院氏・祁答院氏・東郷氏・高城氏はその後も、島津氏に反抗したり、あるいは協力したりと、乱世を渡っていく。

 

 

 

 

 

文明の大乱

15世紀には、守護家の島津氏では一族どうしの争い、家督相続問題などもあり、混沌とした状況が続いた。また、領内統治のために島津氏は分家を立てて要地の領主とした。のちに、その分家が本家をも脅かすようにもなる。島津氏の分家の中では、薩州家・豊州家・相州家などが力を持つようになった。

文明6年(1474年)に島津立久(島津氏10代)が逝去。12歳(数え年)の島津忠昌が家督をついだ。当主が幼いために国老が政務を代行するが、その国老たちと分家衆が対立。島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)らが反乱を起こし、そこから戦乱が激化する。渋谷一族も戦いに巻き込まれていく。

 

文明16年(1484年)10月には、日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)を領する伊作久逸(いざくひさやす)が反乱を起こす。伊作久逸は島津忠国(ただくに、島津氏9代)の三男で、もともとは本家の出身である。島津氏庶流の伊作氏の家督をついでいた。

伊作久逸は日向国志布志(鹿児島県志布志市)の新納是久(にいろこれひさ)と共謀し、さらには伊東氏とも手を組み、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の新納忠続(ただつぐ、是久の兄)を攻めた。

伊作久逸の反乱は島津氏領内全体に波及。薩摩国北部では祁答院重度・入来院重豊・東郷重理・北原立兼・菱刈氏重らが反乱を起こす。彼らは島津忠廉(豊州家)も反乱に誘った。文明17年(1485年)1月には入来院重聡(しげさと、重豊の子)と祁答院重度が島津忠廉(豊州家)のもとにおもむく。協力を呼びかけるが、島津忠廉(豊州家)は応じず。

祁答院重度は東郷氏・高城氏とともに薩摩国の水引(みずひき、鹿児島県薩摩川内市水引町)に出兵して制圧。入来院重聡は碇山城(いかりやまじょう、薩摩川内市天辰町)を攻め取る。渋谷一族は勢力を拡大した。

 

島津忠廉(豊州家)は伊作久逸への内応を疑われ、島津忠昌から離反する。そして、祁答院重度を攻めた。入来院氏と東郷氏は一転して島津忠廉(豊州家)を手を組み、祁答院攻めに加わっている。豊州家方は祁答院を攻めきれずに撤退する。

 

古城跡

祁答院の藺牟田城、豊州家が攻める

 

文明17年(1485年)5月、島津忠廉(豊州家)は守護家の説得受け入れて和睦。豊州家と行動をともにしていた反乱軍もこれに従い、入来院氏と東郷氏も島津忠昌に帰順した。

6月になって島津忠昌は飫肥へ出陣。伊作久逸の反乱を鎮定した。この戦いで祁答院重度が出兵の要請に応じなかった。島津忠昌の不審を買うこうとになった。7月に祁答院重度は釈明するも、その後、離反する。

9月、島津忠昌は祁答院へ軍勢を送る。島津国久(薩州家)・島津忠廉(豊州家)島津友久(相州家)がが攻め、入来院氏と東郷氏も攻め手に加わった。しかし、守護方は祁答院を制圧できずに撤退した。

 

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高城氏の没落

15世紀の戦乱の中で、高城氏は没落した。

応永29年(1422年)に島津久豊(ひさとよ、島津氏8代)が総州家を攻めた。総州家の拠点のひとつが川内の永利(ながとし)・隈之城(くまのじょう)だった。いずれも高城郡に近い。高城氏は総州家とともに戦って敗れ、このときに高城を奪われて島津氏のものになったという。高城は島津氏の直轄地となり、代官として給黎氏を置いたという。この給黎氏の詳細はわからず。伊集院一族の今給黎氏だろうか?

『文明六年行脚僧雑録』には「高城の給黎殿、水引に高城彦太郎」という記事があるという(情報は『川内市史 上巻』より)。この史料によると、文明6年(1474年)の時点で高城氏は水引を領したいたことになる。

文明17年(1485年)3月に島津国久(薩州家)は水引を攻略し、その際に高城氏は水引の地を失ったという(情報は『川内市史 上巻』より)。

高城氏は祁答院重度を頼り、その後、一族は祁答院氏の家老を務めるようになった。

また、高城はのちに東郷氏が領するようになる。高城に入った東郷氏の一族が「高城氏」を名乗るようにもなった。

 

 

三州大乱、渋谷一族の隆盛

文明の大乱のあとも、島津氏の領内は戦乱が続く。守護家の影響力は弱くなり、各地の領主がそれぞれに勢力争いを繰り広げる。島津忠昌はたびたび出兵するも、領内を抑えきることができない。思い悩んだのか、永正5年(1508年)に自害してしまう。その後は島津忠治(ただはる、忠昌の長男)、島津忠隆(忠昌の次男)と当主の早世が続く。

薩摩・大隅・日向の大乱は激しさを増す。『島津国史』には「三州大乱」とこの頃の状況を伝えている。

乱世において、入来院氏・祁答院氏・東郷氏は大きな力を有していた。

入来院氏は本拠地の入来院に加え、大隅国蒲生・帖佐(鹿児島県姶良市)、薩摩郡(鹿児島県薩摩川内市の川内のあたり)も領した。祁答院氏は祁答院をしっかりと保つ。東郷氏は東郷を領するとともに、高城(高城氏の旧領)にも進出している。

また、永正7年(1510年)には島津忠治が入来院重聡に薩摩郡の隈之城を与えている。また、同じ頃に東郷重朗(しげあき)も島津忠治より水引を与えられていおる。島津氏は渋谷一族を厚遇し、味方につけていたようだ。

 

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奥州家と薩州家と相州家と渋谷一族と

永正16年(1519年)に島津忠治(13代当主)が没すると、頴娃氏の養子に入ってや島津忠昌の三男が本家に戻される。家督をついで島津忠兼(ただかね)と名乗る。島津忠兼もまだ若く、大乱の世を治めるには荷が重い。

この頃の薩摩国では、薩州家の島津忠興(ただおき)が大きな力を持っていた。薩摩国北部の出水(いずみ、鹿児島県出水市・阿久根市)と中南部の串木野・市来・加世田・河邊・鹿籠(現在の鹿児島県いちき串木野市・南さつま市・南九州市川辺・枕崎市など)をも領する。その力は本家をもしのぐものであった。

島津忠兼は島津忠興(薩州家)の娘を正室に迎えており、薩州家を頼みとしていたことがうかがえる。同時に島津本家の政務に関して、薩州家がかなりの影響力を持っていたことがうかがえる。また、そのあとの展開を見ていくと、島津忠興嫡男の島津実久を次期当主に擁立しようという動きがあったことも想像される。

入来院重聡・祁答院重貴(しげたか)・東郷重朗らも守護家を支援していたが、薩州家が大きな力を持つことに危機感を抱いていたのではないだろうか?


大永5年(1525年)、島津忠興(薩州家)が没する。そして大永6年(1526年)9月、相州家の島津忠良(ただよし)が自身の嫡男を島津忠兼の後継者に擁立。それが島津貴久(たかひさ)である。島津忠良はその後見として実権を握った。さらには島津忠兼は隠居させられ、鹿児島を出た(追放された)。

なお、島津忠良は伊作久逸の孫にあたる。相州家の養子に入って家督をついでいた。

 

相州家のクーデターは大永7年(1527年)に薩州家にひっくり返される。島津忠良が出征ているところを急襲し、鹿児島を制圧した。島津貴久は鹿児島から逃げた。

薩州家は島津忠兼を呼び戻し、守護に復帰させた。しばらくして島津勝久(かつひさ)と名を変える。しばらくは薩州家が政治の中枢を担うことになる。

 

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祁答院氏が帖佐に進出

享禄2年(1529年)、祁答院重武(しげたけ)は大隅国帖佐に侵攻。帖佐本城(ちょうさほんじょう、鹿児島県姶良市鍋倉)と山田城(やまだじょう、姶良市上名)を攻め落とした。

祁答院氏はそのまま帖佐を支配下に。本拠地の祁答院に加えて大きな勢力を有することになった。

 

入来院重聡の娘が島津貴久の継室に

相州家の島津忠良・島津貴久は、天文2年(1533年)3月に薩摩国日置郡の南郷城(なんごうじょう、鹿児島県)を攻め落とす。この勝利をきっかけに相州家の反撃が始まる。

この年の2月には島津貴久の嫡男が生まれている。のちの島津義久(よしひさ)である。母は入来院重聡の娘。「雪窓夫人」「雪窓院」という名が伝わっている。その後も、天文4年(1535年)に次男を、天文6年(1537年)に三男を産む。のちの島津義弘(よしひろ)と島津歳久(としひさ)である。

ちなみに、「入来院重聡の娘」の母は「白浜重香の娘」。白浜氏は東郷氏の庶流である。

 

島津貴久は入来院重聡の娘を継室として迎えた。その時期はわからないが、嫡男の誕生から逆算すると享禄3年~5年(1530年~1532年)頃のことだろう。つまり、その時期に相州家と入来院氏が手を組んだということになる。

入来院重聡の領地は、北と南から薩州家の領地に挟まれるような感じとなっている。そして、対抗意識も強かったと考えられる。

薩州家という共通の敵がある。利害が一致した。島津忠良・島津貴久は心強い協力者を得た。入来院重聡も同様であった。

 

 

 

祁答院氏は島津勝久を支援

天文4年(1535年)4月、鹿児島では守護の島津勝久に対して、薩州家の島津実久が挙兵した。このときに祁答院重武は島津勝久のもとに馳せ参じる。9月、祁答院重武は島津実久(薩州家)方を敗走させる。しかし、鹿児島に敵へ内応者があり、谷山から撃って出た薩州家方が押し返した。

島津実久(薩州家)は再び鹿児島に入る。10月10日、島津勝久は鹿児島を出奔。祁答院重武を頼って大隅国帖佐へ逃亡した。しばらく祁答院氏のもとに匿われる。

 

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薩州家との戦い

島津勝久は薩州家と敵対関係にある相州家に協力を求めた。そして、天文5年(1536年)に島津忠良・島津貴久は薩州家方の伊集院へ侵攻。翌年に伊集院を制圧し、さらには鹿児島も落とす。

この戦いには入来院重朝(しげとも)も相州家方で参戦。島津勝久からは恩賞として薩摩国郡山(こおりやま、鹿児島市郡山)が与えられている。

なお、祁答院氏に匿われていた島津勝久は、天文5年夏までに大隅国筒羽野の般若寺(はんにゃじ、鹿児島県姶良郡湧水町吉松般若寺)に移っている。

天文8年(1539年)になると、島津貴久・島津忠良は薩州方の城を次々と落としていく。鹿児島から谷山を攻め落とし、加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)・河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)を制圧。

さらに相州家は串木野・市来(鹿児島県いちき串木野市・日置市東市来)も攻める。入来院重朝もこの戦いに参陣。百次や隈之城などを落とすなど活躍している。

 

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島津貴久に反抗

薩摩国の中南部は島津貴久(相州家)が制圧した。島津実久(薩州家)は本拠地の出水に退く。島津勝久は鹿児島には戻れず、島津貴久が実権を握った。

島津貴久のこの動きに対して、島津勝久の家老でもある本田薫親(ほんだただちか)・肝付兼演(きもつきかねひろ、加治木肝付氏)らが反発。島津勝久を担いで戦いを仕掛けた。反・島津貴久派には、祁答院良重(よししげ)や東郷重治(しげはる)も加わった。入来院重朝も島津貴久から離反した。

 

天文11年(1542年)、大隅国で島津貴久と反抗勢力が戦う。島津勝久は日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市)の北郷忠相のもとに身を寄せる。本田薫親・肝付兼演らは島津貴久に戦いを仕掛けてきた。本田薫親らは大隅国の生別府城(おいのびゅうじょう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)を囲む。生別府城は樺山善久が守る。樺山善久は島津貴久の姉を妻としている。島津貴久は生別府城に援軍を出し、自身も加治木(鹿児島県姶良市加治木)に出陣。加治木城の肝付兼演の軍勢と戦った。祁答院良重・蒲生茂清も加治木に進軍し、島津貴久に攻めかかる。島津貴久は大敗した。生別府城の救援も不可能となり、開城を条件に本田薫親と和睦する。

天文14年(1545年)3月、北郷忠相と島津忠広(豊州家)が島津貴久に降る。島津貴久を太守と認めて、従うことを約した。北郷氏と豊州家は日向国南部を領する。この頃、日向では伊東義祐(いとうよしすけ)が強盛で、北郷忠相と島津忠広(豊州家)はこちらへの対応を迫られていた。そんな事情もあって、島津貴久と手を組んたのである。なお、北郷氏が匿っていた島津勝久は国外へ出奔。母方の大友氏を頼って豊後国(現在の大分県)へ逃れた。

 

 

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清水の動乱・加治木の戦い

天文17年(1548年)、大隅国囎唹郡で本田氏の内訌が起こる。混乱に乗じて、周囲の各勢力も本田氏領内に侵攻してきた。

祁答院良重は肝付兼演とともに生別府城を攻め取った。また、大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、霧島市隼人町内)が祁答院氏・肝付氏・北原氏・蒲生氏らに囲まれる。大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、霧島市隼人町内)の社家は島津貴久に救援を求めた。島津貴久に伊集院忠朗(いじゅういんただあき)・樺山善久(かばやまよしひさ)を援軍として派遣した。伊集院忠朗は祁答院氏・肝付氏・北原氏・蒲生氏を撤退させ、本田氏の内訌にも介入。本田氏の拠点の清水城(きよみずじょう、鹿児島県霧島市国分清水)を陥落させる。本田氏は和睦に応じるが、すぐに再挙兵。島津貴久は再び清水城を落とす。本田氏は逃亡する。囎唹郡にあった旧本田領は現在の鹿児島県霧島市の国分・隼人の一帯にあたる。この地は島津氏の支配下となった。なお、清水城には島津忠将(ただまさ、貴久の弟)、姫木城(霧島市国分姫城)には伊集院忠朗を入れた。また、生別府には樺山善久が復帰し、このときに「長浜」と地名を改めている。

加治木の肝付兼演はなおも島津貴久に反抗する。蒲生茂清(かもうしげきよ)・祁答院良重・入来院重嗣(いりきいんしげつぐ、重朝の子)・東郷重治(とうごうしげはる)も島津氏と敵対関係にあり、肝付兼演とともに戦う。

天文18年(1549年)、島津貴久は加治木を攻める。伊集院忠朗を大将として軍勢を派遣する。島津軍と肝付軍は黒川崎で対峙し、戦いは半年にも及ぶ。膠着状態が続くなかで、島津氏は和睦交渉も行っていた。11月に肝付氏は和睦に応じた。12月に肝付兼演・肝付兼盛(かねもり、兼演の子)・蒲生茂清は島津貴久に謁見する。また、祁答院氏・入来院氏・東郷氏も使いを送って謝罪し、こちらも降伏を許される。

 

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大隅合戦

天文23年(1554年)、蒲生範清(のりきよ、茂清の子)・祁答院良重・入来院重嗣・東郷重治らが再び叛く。一方、加治木の肝付兼盛は島津氏で重用されている。肝付氏と蒲生氏に不和があり、それに端を発して戦乱へと突入した。「大隅合戦」と呼ばれている。

同年8月、蒲生範清・祁答院良重らの軍勢は加治木城を囲んだ。入来院氏・東郷氏・北原氏・菱刈氏なども攻撃に加わる。加治木の西側からは、島津方の島津忠将・伊集院忠朗・樺山善久が加治木城救援の兵を出す。

鹿児島にあった島津貴久は、加治木の救援のために出陣する。しかし、向かったのは加治木ではなかった。9月12日、薩摩国との国境近くにある岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市平松)を囲んだ。加治木の蒲生・祁答院連合軍は、加治木城を囲みを解いてすぐに岩剣城の救援に動いた。

この頃、祁答院良重は帖佐を本拠地としている。その帖佐が戦場となる。9月13日、祁答院氏の軍勢は岩野原(姶良市加治木町木田)で島津忠将の軍勢とぶつかる。激戦となった。その後、岩剣城麓の海側に位置する脇元(姶良市脇元)で島津と祁答院の戦いが続いた。

10月2日、島津貴久は岩剣城に総攻撃をかける。城の救援のために祁答院氏・蒲生氏の軍勢も押し寄せるが、星原(岩剣城のふもと)で合戦となった。祁答院・蒲生方は大敗する。この戦いでは、祁答院良重嫡男の田中重経(渋谷重経)が戦死している。

岩剣城は孤立し、その日の夜に城兵は逃亡。城は落ち、島津氏のものになった。その後、島津貴久は次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)を岩剣城に城番として置いた。

 

川の向こうに山城

岩剣城跡、城の麓でも激戦が

 

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「大隅合戦」は続く。天文24年(1555年)3月2日、島津忠平(島津義弘)・島津忠将が帖佐に侵攻し、祁答院氏の本拠地の帖佐本城(ちょうさほんじょう、姶良市鍋倉)に迫る。城の麓の別府川で両軍はぶつかった。また、3月8日には肝付兼盛・樺山善久らが山田城(姶良市上名)を攻めた。山田城は帖佐本城の北側に位置する。3月27日には島津貴久・島津義辰(島津義久、よしひさ、貴久の嫡男)の軍が到着し、別府川の南岸に布陣した。

島津忠将が小部隊で帖佐本城をつっつき、挑発に乗って城兵を引っぱり出し、退却をよそおって伏兵のいる場所まで誘導して、そして挟み討ちにする。いわるゆ「釣り野伏」と呼ばれる戦法である。この作戦が決まり、島津方は優位に戦いを進めていく。4月2日に帖佐本城は落城。祁答院良重は逃亡する。山田城も落ちる。祁答院氏は帖佐を失った。

 

標柱に「平山城跡」

帖佐本城跡(平山城跡)

 

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島津貴久が帖佐を取ったことで、入来院氏は和睦に応じたようだ。入来院氏を仲介として蒲生氏の本拠地である蒲生城(姶良市蒲生町下久徳)の開城を求めたが、交渉はまとまらず。蒲生氏と祁答院氏はなおも戦う。

弘治2年(1556年)10月19日、島津方は蒲生城の北側に位置する松坂城(まつざかじょう、姶良市蒲生町米丸)を落とす。翌日には島津忠平(島津義弘)が漆(うるし、姶良市蒲生町漆)を攻め、漆に布陣していた祁答院氏の軍勢は敗走した。

同年12月、菱刈重州は蒲生氏救援のために菱刈重豊(重州の長男)を派遣する。菱刈勢は蒲生城の西北に位置する北村(姶良市蒲生町北)に陣取る。こちらでも島津方と交戦が続いた。弘治3年(1557年)4月に島津忠平(島津義弘)・島津忠将・島津尚久が菱刈陣に総攻撃をかけて破る。この戦いで菱刈重豊は自刃している。島津方は北村を押さえた。

漆と北村は、祁答院から蒲生への補給路にあたる。これらが分断されて蒲生城は孤立し、城の食料も尽きる。弘治3年(1557年)4月20日に蒲生城は落城。蒲生範清は城を出て、祁答院へ落ちのびた。

 

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薩州家が島津貴久と同盟

薩州家は鹿児島を追われたあとも、薩摩国和泉郡(鹿児島県出水市・阿久根市)に勢力を保っていた。島津実久は天文22年(1553年)に没し、薩州家の家督は嫡男の島津義虎がついでいる。

島津義虎(薩州家)は島津義久の娘(於平という)を正室とした。永禄8年(1565年)に長男が生まれているので、その少し前から同盟関係になったと見られる。

薩州家は渋谷一族と敵対関係にある、とくに東郷氏とはたびたび戦いがある。共通の敵である渋谷一族を叩くために、大隅合戦のあとくらいから島津貴久とは協力関係になったと考えられる。

 

 

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島津貴久包囲網

永禄8年(1565年)頃の時点で、島津貴久は薩摩国南部と大隅国北部、そして日向国真幸院(宮崎県えびの市)を勢力下に置いている。また、同盟関係にあるのは島津義虎(薩州家)・島津忠親(豊州家)・北郷時久など。

一方で敵対勢力は肝付兼続・伊地知重興(いぢちしげおき)・禰寝重長(ねじめしげたけ)・伊東義祐(いとうよしすけ)・相良義陽(さがらよしひ)、そして渋谷一族(祁答院氏・入来院氏・東郷氏)である。各勢力は連携をとり、島津貴久の包囲網が形成されている。

島津貴久は包囲網の切り崩しにかかる。まずは薩摩の平定を目指すことになる。

 

 

虎姫乱心、祁答院良重が刺殺される

島津義虎の姉(島津実久の次女)は、祁答院良重の正室となっていた。「虎姫」という名が伝わっている。薩州家は祁答院氏と同盟を結んでいたのだろう。

永禄9年(1566年)1月、事件が起こる。虎居城(とらいじょう、さつま町虎居)で祁答院良重が刺殺された。虎姫に酒をすすめられ、酔いつぶれたところを刺されたと伝わる。

 

川の向こうに山城跡

虎居城跡

 

この背景には政治的な要因があったことが想像される。島津貴久と手を組んだ薩州家がからんでいたでのであろう。

祁答院良重の死により、祁答院氏は没落する。祁答院氏の所領は、同じ渋谷一族の入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)が預かることになった。

 

 

 

菱刈合戦・大口合戦

大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)を領する菱刈重猛が永禄9年(1566年)11月に亡くなる。嫡男の鶴千代丸(のちの菱刈重広)はまだ幼く、菱刈隆秋(たかあき、菱刈重州の四男)が家督代として家を取り仕切ることになった。

菱刈重猛は島津貴久の傘下にあったが、その死後に菱刈氏は離反する。肥後国の相良義陽と連携をとって、島津貴久と敵対するようになった。

じつは、菱刈重猛の正室は島津義虎の姉(島津実久の長女)である。薩州家は菱刈氏と同盟関係であった。菱刈重猛の死後に、その関係は切れたと思われる。

菱刈氏は東郷氏とも関係がある。東郷氏当主の東郷重尚は菱刈氏の出身である。東郷重治には子がなく、菱刈重州の四男が養子として入ったのだ。つまり、東郷重尚から見ると菱刈重猛は兄、菱刈隆秋は弟にあたる。


永禄10年(1567年)11月、島津貴久は菱刈に侵攻。島津忠平(島津義弘)らが馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈前目)を落とした。馬越城は、菱刈氏の本拠地の本城(ほんじょう、太良城、たらじょう、伊佐市菱刈南浦)に近い。本城(太良城)にあった菱刈隆秋は馬越城の陥落を知ると菱刈のすべての城を棄てて、大口城(おおくちじょう、伊佐市大口里)に入った。大口は当時は相良氏が領していた。菱刈氏・相良氏連合軍は大口城にたてこもって抗戦する。

東郷重尚と入来院重嗣は菱刈氏に呼応して、島津貴久と対峙する。こちらは島津義虎(薩州家)が対応にあたった。

大口の戦いは長期化する。島津貴久はようやく永禄12年(1569年)9月に大口城を陥落させる。相良氏とは和睦し、菱刈氏は島津氏の傘下に入った。

 

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渋谷一族の降伏

大口城が落ちたことで菱刈氏が屈服し、相良氏も薩摩国から退去した。入来院氏と東郷氏は孤立した。永禄13年(1570年)1月、入来院重嗣は東郷重尚を説得してともに島津氏に降伏を申し入れた。

入来院氏は薩摩郡にあった所領を島津貴久に差し出した。東郷氏も高城郡・薩摩郡に保有していた所領を割譲する。入来院氏は本領のある入来院を、東郷氏は東郷をそれぞれ安堵された。大きく勢力を削られたものの、島津氏の傘下で家を存続させた。


渋谷一族が降ったことで、島津貴久は薩摩国を平定する。そして、包囲網の一角を潰すことにも成功した。その後、島津氏は大隅国・日向国を平定していくことになる。

 

 

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東郷氏に島津氏から養子が入る

天正5年(1577年)、東郷重尚の養子として島津家久(いえひさ、貴久の四男)の次男が入った。東郷重虎(しげとら)と名乗る。

ちなみに島津家久は隈之城(鹿児島県薩摩川内市隈之城)や串木野(鹿児島県いちき串木野市)を領し、東郷とも近い場所に所領を持っていた。どのような経緯で養子縁組となったのか詳細はわからない。島津家久は謀略をめぐらした記録もちょこちょこ見える人物であり、何かしら策を弄して東郷家を乗っ取った可能性もあるかもしれない。

天正15年(1587年)に東郷重虎は東郷の地を離れ、日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)に移される。このときに「島津」への復姓を命じられ、島津忠直(ただなお、のちに島津忠仍)と名乗るようになった。

これをもって、東郷領主としての東郷氏は断絶する。ただ、島津忠仍(東郷重虎)の子は再び東郷を名乗り、家名を残した。

 

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祁答院氏の再興

祁答院良重の死後、三男の祁答院重加は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)に逃れていた。時期は不明だが、祁答院重加は島津義弘に仕える。祁答院氏を再興させた。『本藩人物誌』によると、天正11年(1583年)に島津家の家臣に名が見えるとのこと。

 

 

 

入来院氏にも島津氏から養子が入る

入来院重豊は天正11年(1583年)に亡くなるが、子がなかった。そこで、島津以久(もちひさ、島津忠将の子、島津義久の従兄弟)の次男を養子にむかえて家督を継がせた。入来院重時(しげとき)と名乗る。

入来院重時は豊臣氏との戦いに参加したほか、朝鮮出征でも活躍した。しかし、関ケ原の撤退の際に本体とはぐれ、敵の追討軍に見つかって討ち死にした。

 

入来院重時に子がなかったので、今度は島津義虎の五男の島津忠富が養子として入り、家督を継ぐ。入来院重高(しげたか)と名乗る。

ちなみに、入来院重高の母は島津義久の娘であり、雪窓夫人(入来院重聡の娘、義久の母)から入来院の血を受け継いでいる。また、入来院重時は島津歳久の娘を妻としていて、娘がいた。この娘を入来院重高の妻としている。

入来院氏は長年にわたって敵対していた島津氏の一門の組み入れられたような感じとなる。その後も島津氏から養子が入ることもしばしば。また、激しく戦った薩州家の血が入っているのも、なんとも不思議な縁である。

薩摩藩において、入来院氏は「一所持」という高い家格に列せられている。入来院氏は大隅国湯尾(鹿児島県伊佐市菱刈町)に移封となった時期があるが、のちに入来院に復帰している。先祖から代々受け継いできた入来院を私領とし、幕末までこの地の領主であった。

 

また、入来院氏を祖とする東郷氏もある。入来院氏の庶流に、代々入来院家の家老を務めた一族がある。この家系から出た入来院重詮は日置島津家に仕えた。東郷は日置島津家の私領に組み込まれ、入来院重詮も東郷に移住した。日置島津家当主が日置(鹿児島県日置市日吉町日置)に移ったあとも、入来院重詮は東郷に残った。入来院重詮の一族は東郷氏を名乗る。こちらは「入来院氏庶子惣領家分家の東郷氏」と呼ばれたりする。

 

 

薩摩日置流と示現流

薩摩藩の御家流の弓術である「薩摩日置流」と、御家流の剣術である「示現流」には渋谷一族が絡んでいる。

 

「薩摩日置流」の創始者は東郷重尚という。『本藩人物誌』によると、この東郷氏は祁答院氏の一族とのこと。ただ、東郷重尚の父は有川氏から養子として入っている。そのため有川氏(伊勢氏)とも関わりがある。もともとは加治木にあったが、伊勢貞昌の地頭代として谷山に移ったとも。

関ヶ原の戦いのあと、宇喜多秀家が薩摩に落ちのびてきた。島津氏はこれを匿う。宇喜多秀家に随行してきた家臣に本郷義則がいた。本郷義則は宇喜多秀家が去ったあと、島津氏に仕えた。日置流(へきりゅう)弓術を修めていた。島津家久(いえひさ、島津義弘の子、初代藩主)は本郷義則に東郷重尚をつけて日置流(へきりゅう)弓術を伝授させた。これが、薩摩日置流の創始とされる。

 

「示現流」は東郷重位が創始。

東郷氏の庶流に瀬戸口氏がある。東郷の烏丸(鹿児島県薩摩川内市東郷町鳥丸)の内の瀬戸口を領した一族であるという。この一族の瀬戸口重為は、島津氏に仕えた。岩剣城の戦いに際には島津義久の御旗指役を務めたという(『本藩人物誌』より)。

瀬戸口重為の三男が東郷重位である。兄の瀬戸口重治とともに「瀬戸口」から「東郷」に復姓している。ちなみに名前の読みは「ちゅうい」とも「しげたか」とも。

東郷重位は天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)で初陣を飾る。このときに薬丸兼成を親分(親代わりの世話役)とした。ちなみに、この薬丸兼成は剣豪でもあった。

東郷重位は「タイ捨流」剣術の免許皆伝を受け、剣術の研鑽にはげんでいた。そんななかで天正15年(1587年)に島津義久に従って上京する。京の万松山天寧寺の善吉和尚は「天真正自顕流」剣術の使い手であった。この善吉和尚に東郷重位は弟子入りし、「天真正自顕流」を学んだ。

島津家久(初代薩摩藩主、島津氏18代)は東郷重位の兵法を高く評価し、自身の剣術師範役とした。また、大竜寺住職の南浦文之(なんぽぶんし)に流儀の名を新たに考案させ、「天真正自顕流」から「示現流」とした。薩摩藩独自の流儀として、歴代藩主に大事にされる。

なお、「示現流」は門外不出の剣術とされ、一般人には門戸を開放していなかった。その一方で、分派の「野太刀自顕流(薬丸自顕流)」は広く門戸を開いた。

東郷重位の高弟に薬丸兼陳がいる。東郷重位の初陣の世話をした薬丸兼成の孫にあたる。薬丸兼陳の子孫は示現流を体得し、師範代を務めていた。この薬丸氏から「野太刀自顕流」がおこる。こちらの流儀は下級武士にまで広く浸透した。

 

 

 

 

 

 


<参考資料>

『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
編/小島摩文 発行/南方新社 2011年

『入来文書』
著/朝河貫一 訳/矢吹晋 発行/柏書房 2005年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年

鹿児島県史料『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『宮之城町史』
著/宮之城町史編纂委員会 発行/宮之城町 2000年

『祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年

『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年

『東郷町郷土史』
編/東郷町郷土史編集委員会 発行/東郷町 1969年

ほか