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島津氏の薩州家のこと【後編】 島津義虎とその息子たち

薩州家(さっしゅうけ)は島津氏の分家の一つ。薩摩国に広大な所領を有し、本宗家にあたる奥州家(おうしゅうけ)から頼りにされた。あるいは、本家をおびやかす存在でもあった。

16世紀前半の島津氏では一族どうしで覇権を争った。守護家の地位を離すまいとする奥州家の島津勝久(かつひさ)と、分家の薩州家と相州家(そうしゅうけ)による三つ巴の争いである。

一時は薩州家の島津実久(さねひさ)が国政を担った(島津氏の当主になったとも)ものの、この抗争は最終的に相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)が制した。

 

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敗れた薩州家はどうなったのか? 本領の薩摩国出水(鹿児島県出水市)に戻り、勢力を保ち続けていた。島津実久の嫡男は、島津義虎(よしとら)といった。徹底して敵対してきた父とは一転して、島津貴久とは友好関係を築く。

そして、薩州家は戦国大名化する。「もう一つの島津家」という感じであった。

 

だが、豊臣政権下で改易されてしまう。そして、島津義虎の息子たちは数奇な運命をたどることに。

なお、日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

薩摩国出水に割拠

島津義虎は天文5年(1536年)生まれ。島津実久が覇権を握った頃である。しかし、天文8年(1539年)に薩州家は相州家との戦いに敗れ、本拠地の出水に退いた。薩州家の島津実久が島津貴久に降伏した記録はない。出水城(いずみじょう、亀ヶ城、かめがじじょう)を拠点に勢力を保っていた。

城跡の公園

出水城(亀ヶ城)跡

 

一方、島津貴久は反抗勢力との戦いで忙しい。薩州家と戦う余裕はない。天文11年(1542年)から大隅国の生別府・清水・加治木(おいのびゅう・きよみず・かじき、現在の鹿児島県霧島市や姶良市)のあたりで戦いを繰り返していた。

 

その頃、島津実久(薩州家)は出水の南側の薩摩郡を領する入来院重朝(いりきいんしげとも)や東郷重治(とうごうしげはる)と対立。いずれも渋谷(しぶや)氏の一族である。天文16年(1547年)から東郷氏と合戦を繰り返したという記録もある。


島津実久は天文22年(1553年)に没する。薩州家の家督は嫡男の島津義虎に継承される。

なお、島津義虎の初名は「晴久(はるひさ)」であった。のちに「陽久(はるひさ)」とも。永禄6年(1563年)に上洛して将軍の足利義輝に拝謁し、偏諱を賜わって「義俊(よしとし、義利とも)」を称する。その後「義虎」と名乗るようになった。記事では「島津義虎」で統一する。


薩州家は島津貴久と同盟関係となる。時期はわからないが、島津義虎の代になってからのことだろう。


天文23年(1554年)から弘治3年(1557年)にかけて、島津貴久は大隅国始羅郡帖佐・蒲生(ちょうさ・かもう、現在の鹿児島県姶良市)を攻める。「大隅合戦」と呼ばれるもので、蒲生範清(かもうのりきよ)た祁答院良重(けどういんよししげ、渋谷一族)と戦った。このとき、入来院氏や東郷氏も反島津方として参戦している。

薩州家は渋谷一族と敵対関係にある。島津貴久も渋谷一族と敵対関係にある。共通の敵があることから両者は手を結ぶ、……という流れになったのかも。


島津貴久は反抗勢力と戦っていくなかで、島津一族を味方に引き込んでいる。樺山善久(かばやまよしひさ)、佐多忠成・佐多忠将(さたただなり、ただまさ)、摂州家(せっしゅうけ、のちに喜入氏)の島津忠俊(ただとし)・島津忠賢(ただかた、のちに喜入季久と名乗る)、北郷忠相・北郷時久(ほんごうただすけ、ときひさ)、豊州家の島津忠朝(しまづただとも)、など。

薩州家はかつて争った間柄だったが、島津貴久にとっては味方にしておきたい存在だったはず。

島津貴久の母は薩州家の出身である。島津成久(しげひさ、薩州家3代)の娘で、名は御東(おひがし)と伝わっている。こういった血縁を大事にしたことも想像される。

 

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島津義久の長女を正室に迎える

島津義虎は島津義久(よしひさ、島津貴久の嫡男)の長女を正室とした。「於平(おひら)」「花舜夫人」といった名が伝わっている。於平の祖母は御東(島津成久の娘)であり、薩州家の血もひいている。

 

於平は天文20年(1551年)の生まれ。長男の島津忠辰(ただとき)は永禄8年(1565年)の生まれとされる。嫁いだのは永禄5年~永禄7年(1562年~1564年)頃だろうか。

ちなみに、『新編島津氏世録支流系図』では、島津忠辰の誕生年は天文22年(1551年)としている。母と2歳差なので、これは違っているかと。母が違うという可能性もあるが、のちに島津忠辰は薩州家の家督をついでいる。島津義久の娘である於平が母でなければ、家督は継げていないはず。そう考えると、『本藩人物誌』に記された「永禄8年(1565年)」のほうがつじつまがあう。

 

島津義久は永禄9年(1566年)に島津貴久より家督をつぐ。隠居した島津貴久がまだ実権を握ってはいるものの、島津家の当主となった。その頃と近い時期に、島津義虎は島津義久の長女を迎えたことになる。

島津義虎と於平は六男をもうける。いずれも島津義久の外孫にあたる。この血統的なつながりを、島津義久も大事にした。

島津義虎の息子たちについては後述する。

 

 

長島を制圧

永禄8年(1565年)3月、島津義虎は長島(ながしま、鹿児島県出水郡長島町)を攻める。

長島は天草諸島のうちもっとも南に位置する島である。天草諸島は天草氏(あまくさ、大蔵氏の一族)が治めていたが、16世紀半ば頃に相良氏の支配下に入っていた。

この頃、相良義陽(さがらよしひ)は肥後国の球磨・葦北・八代(くま・あしきた・やつしろ、熊本県人吉市・水俣市・葦北郡・八代市のあたり)などを領する。その勢力圏は薩摩国の北辺にあたる出水とも近く、島津義虎は相良義陽と敵対している。長島への侵攻も、そんな中での動きだろう。

島津貴久は相良義陽と協力して、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と戦っていた。だが、永禄7年(1564年)頃に相良氏は一転して島津氏と手を切り、伊東氏と連携をとるようになる。

相良氏についても、島津義虎と島津貴久は共通の敵となっていた。


長島領主の長島鎮真(天草氏の一族)は相良氏の圧迫を受けて堂崎城(どうさきじょう、長島町城川内)から逃げ、薩州家に身を寄せた。島津義虎は相良氏のものとなっていた堂崎城の奪還に動いた。

薩州家は島津忠兼(ただかね、義虎の叔父)を大将として堂崎城を攻め落とした。薩州家のものとなった堂崎城には、そのまま島津忠兼が入った。

 

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虎姫乱心

島津義虎の姉のひとり(島津実久の次女)は、祁答院良重(けどういんよししげ)の正室となっている。「虎姫(とらひめ)」という名が伝わっている。祁答院氏は薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町のあたり)の領主で、渋谷氏の一族である。

姉の嫁ぎ先ということから、島津義虎は祁答院氏と同盟を結んでいたのだろう。

 

永禄9年(1566年)1月、事件が起こる。祁答院良重が妻に刺殺されてしまうのだ。狩りから虎居城(とらいじょう、さつま町虎居)帰ってきた祁答院良重は、虎姫に酒をすすめられる。酔いつぶれたところを、虎姫が刺した。虎姫も小姓に取り押さえられ、討ち取られた。祁答院良重の死により、祁答院氏は没落する。なお、祁答院氏の所領は、同じ渋谷一族の入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)が預かることになった。

なんとも不可解な事件だ。その背景には、政治的な要因もあったのだろうか? 薩州家が島津貴久と結んだことも関係しているのかもしれない。

 

 

 

薩州家と菱刈氏

島津義虎には姉がもう一人いる(島津実久の長女)。こちらは菱刈重猛(ひしかりしげたけ)の正室だ。ちょっと時代をさかのぼると、島津成久(薩州家3代)の長女も菱刈重副の正室となっている。

長女を嫁がせているところを見ると、薩州家は菱刈氏との関係を重視していたことがうかがえる。

ちなみに、菱刈重副の正室(島津成久の娘)は嫡男の菱刈重州(しげくに)を産んでいる。そして、菱刈重猛はその次男であった。


菱刈氏は大隅国菱刈郡(鹿児島県伊佐市の菱刈地区)に古くから根付いている一族だ。その勢力圏は、薩州家の出水からみると東側になる。

永禄5年(1562年)頃には、菱刈氏は島津貴久の傘下に入っている。日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市のあたり)・大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)で島津氏と伊東氏が争った際には、菱刈重猛は島津氏方で戦っている。また、戦後には恩賞として栗野院の120町や横川城(よこがわじょう、鹿児島県霧島市横川)が与えられている。

菱刈重猛と島津義虎(薩州家)が島津貴久と結んだ時期は、同じ頃であったかもしれない。

 

 

菱刈氏と敵対関係に

突如として、菱刈氏は島津貴久から離反する。

真幸院の争乱において、島津氏と相良氏は連携して伊東氏と戦った。だが、一転して相良義陽は島津氏と手を切り、伊東氏と結んだ。

菱刈氏は相良氏とも関係が深かった。両氏は古くから婚姻関係を重ねている。また、当時は薩摩国伊佐郡の大口城(おおくちじょう、鹿児島県伊佐市大口里)は相良氏の領有であった。

永禄9年(1566年)11月には菱刈重猛が没している。嫡男の鶴千代丸(のちの菱刈重広)はまだ幼い。菱刈隆秋(たかあき、菱刈重州の四男)が家督代として、菱刈家を取り仕切る。菱刈重猛の死にともなう、家中の変化も影響したと思われる。この菱刈隆秋が相良氏との連携を決めたのだろう。


離反した菱刈氏を、入来院重嗣と東郷重尚(しげなお)も支援する。ちなみに、東郷重尚は菱刈氏から養子入りした人物でもある。菱刈重州の三男で、菱刈重猛の弟、菱刈隆秋の兄にあたる。

島津貴久・島津義久と島津義虎(薩州家)に対して、伊東氏・相良氏・菱刈氏・入来院氏・東郷氏が共同戦線をはるという構図に。菱刈氏の寝返りで、島津義虎(薩州家)が領する出水は敵に囲まれるような状況になった。

 

 

菱刈の戦い・大口の戦い

永禄10年(1567年)11月、島津貴久は菱刈に出兵する。島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ、貴久の次男)らが馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈前目)に夜襲をかけて陥落させた。

馬越城の南側には、菱刈氏の本拠地である本城(ほんじょう、太良城、たらじょう、伊佐市菱刈南浦)がある。本城(太良城)の菱刈隆秋は馬越城の陥落を知ると城を捨てて、相良氏領の大口城に入った。湯之尾・市山・青木・曽木・山野・羽月・平和泉(ゆのお・いちやま・あおき・そぎ・やまの・はつき・ひらいずみ、現在の伊佐市一帯)を守っていた菱刈一族も城を放棄。大口城に集まり、相良氏とともに島津氏に対抗する。

島津貴久は菱刈を一気に制圧した。薩摩国の山野城(伊佐市大口山野)・羽月城(伊佐市大口羽月)・平和泉城(伊佐市大口平出水)の守りは、島津義虎(薩州家)に任された。

菱刈の戦いが、島津義虎が島津貴久の戦陣に加わったことが確認できる最初の記録でもある。

薩州家に任された城は敵の攻撃が激しく、在番する武将が変わる。山野城には喜入季久が、平和泉城には島津家久(いえひさ、貴久の四男)・樺山善久(かばやまよしひさ)が入る。

羽月城のみが、引き続き島津義虎(薩州家)に任された。また、加勢として島津貴久の家臣の寺山直久も入った。ちなみに、寺山(てらやま)氏は薩州家庶流でもある。

島津義虎はのちに羽月城の守将の任も解かれ、代わりに肝付兼盛(きもつきかねもり)・新納忠元(にいろただもと)に任されている。

この時期に薩州家は、東郷氏と激しく戦っている。永禄11年6月18日と永禄12年8月18日に阿久根で合戦があった。羽月城などの守りから外されたのは、こちらの対応に注力するためでもあったのかもしれない。


大口の攻防は長引く。島津氏側は和睦を画策する。永禄12年(1569年)1月20日、島津氏・相良氏・菱刈氏は薩州家領内の感応寺(かんのうじ、鹿児島県出水市野田)に会し、和睦がまとまった。

島津義虎(薩州家)はその仲介となる。ちなみに、菱刈氏当主の鶴千代丸の母は島津義虎の姉だ。そのあたりの縁も関わっているのかも。

だが、この和議は3月に破綻する。相良氏家臣が攻撃をしかけてきたのだ。

5月に羽月戸神尾の戦いで菱刈・相良方が大敗。そして8月18日、島津方は大口城に総攻撃を仕掛ける。相良氏・菱刈氏は降伏を申し出て、9月2日に大口城は開城した。菱刈鶴千代(のちの菱刈重広)は本城(太良)と曽木のみが安堵された。


永禄13年(1570年)1月には、入来院重嗣と東郷重尚も島津氏に降る。

入来院氏は薩摩郡の隈城(くまのじょう)・百次(ももつぎ)・平佐(ひらさ)・碇山(いかりやま)・高江(たかえ)を差し出した。東郷氏は高城郡の高城(たき)・水引(みずひき)・湯田(ゆだ)、薩摩郡の中郷(ちゅうごう)・西方(にしかた)・宮里(みやざと)・京泊(きょうどまり)を島津氏に割譲する。

入来院氏・東郷氏の旧領のうち、水引・西方・中郷・湯田・京泊は島津義虎(薩州家)に与えられた。

 

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島津義虎に謀反の噂

島津義久は天正2年(1574年)に肝付氏を降伏させて大隅半島も制圧。薩摩国と大隅国を支配下に収めた。そして、薩州家も島津家中の一翼を担う存在となっていた。ただ、その関係性は、「従属」というよりは「同盟」に近い。

天正2年8月、入来院重豊(いりきいんしげとよ、入来院重嗣の子)に謀反の疑いがかかる。入来院重豊はすぐに釈明。所領のうち山田・天辰・田崎・寄田を差し出して忠誠を誓った。本領の入来院のみが安堵され、なんとか許される。

この頃、島津家久は隈之城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城町)や串木野(くしきの、鹿児島県いちき串木野市)を領していた。旧入来院領を島津家久は求めるが、島津義久は聞き入れなかった。

天正2年9月には島津義虎の謀反の噂が流れる。島津義虎は何度も使者を送って潔白を訴えた。その中で、島津家久の謀略(噂を流した)とも主張する。島津家久は否定するが、入来院氏のこともあって、だいぶ怪しい感じである。

翌年の天正3年(1575年)2月には、島津家久が上京の道中で薩州家領内の阿久根に立ち寄る。

『中務大輔家久公御上京日記』によると、2月21日の昼過ぎに船で阿久根につくと、島津義虎が酒宴で歓待。22日は風待ちで船出できず、夜は酒宴。さらに島津義虎の屋敷で朝まで酒宴。23日は島津義虎が船を出して途中で同行。その際の船内では酒宴。

ずっと酒宴である。前年のことがあり、おそらく島津家久とはギクシャクしていたのではないだろうか? そして、島津義虎としてはその解消をはかろうとしたのかも。

 

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島津義虎、肥後攻略に加わる

天正4年(1576年)からの島津義久の日向侵攻には島津義虎(薩州家)も協力した。また、天正6年(1578年)の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の際には、肥後方面からの敵襲に備えて自領の出水の守りを固めた。

島津義久は、大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟)との決戦に勝利したあとは肥後国へ侵攻する。出水は肥後国との国境に近い。島津義虎は肥後攻略の主力として活躍する。

天草諸島には天草(あまくさ)・志岐(しき)・栖本(すもと)・上津浦(こうつうら)・大矢野(おおやの)の5氏が割拠していた。「天草五人衆」とも呼ばれる。島津義虎(薩州家)は、相良氏と連携する天草氏らと対立していた。

天正7年(1579年)、天草鎮尚は島津義久に帰順を申し入れる。薩州家との和平もなる。そして、島津義久は島津義虎(薩州家)に調略を命じ、天草五人衆は島津氏に服属させた。

ちなみに、島津義虎の長女は志岐親重に嫁いでいる。

同じ頃に肥後国隈本(くまもと、現在の熊本市)の城親賢(じょうちかまさ)が島津家に服属を申し出て、援軍を要請していた。天草五人衆を味方につけることで、隈元までの海路を確保。援軍を送ることができた。

 

島津氏は相良氏領内への侵攻も開始する。

天正8年(1580年)3月、島津義虎(薩州家)は水俣城(みなまたじょう、熊本県水俣市古城)を攻めるが、失敗した。

天正9年(1581年)8月、島津義久は水俣城に大軍を送り込む。8月17日より総攻撃をかけ、島津義虎(薩州家)は本陣の大将を務めた。8月20には島津義久も本陣に入る。水俣城を落とし、佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)にいた相良義陽も降伏した。

戦いのあと、水俣は島津義虎に与えられた。

城跡の公園

水俣城跡

 

その後も、肥後での戦いに島津義虎(薩州家)は奔走する。肥後国の隈本城の在番もたびたび任された。また、「沖田畷の戦い(島原合戦)」のあとの肥前国島原にて三会城(みえじょう、長崎県島原市津吹町)の在番も務めたりもした。

 

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島津義虎の息子たち

活躍を続けていた島津義虎だったが、天正13年(1585年)に没する。享年42。嫡男の島津忠辰(しまづただとき)が家督をつぐ。

薩州家は島津義久との関係も良好で、島津家の協力者として地位を築いていた。しかも、島津義虎の6人の息子たちは島津義久の孫でもある。

 

島津義虎の子

 

だが、その後の展開は……大波乱となるのだ。

 

島津忠辰、改易される

『本藩人物誌』では、島津忠辰は「国賊伝」の中で紹介されている。活躍については記載がなく、島津家への裏切り行為ばかりが記されている。

とにかく扱いが良くない。


天正14年(1586年)、島津義久は筑前国に出兵する。自身は八代まで出陣し、島津忠長(しまづただたけ)らを派遣する。肥前国の鷹取城(たかとりじょう、佐賀県鳥栖市牛原町)、筑前国の岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市観世音寺)を攻めた。

この戦いの際に、島津義虎(薩州家)が島津義久とともに八代の本陣に入り、出水の兵も前線に派遣したという。

ただし、島津義虎は天正13年に没している。出陣したのは家督をついだばかりの島津忠辰であったようだ。そんな指摘が、『本藩人物誌』の中にある。

ここでの働きが父にすり替わっているのも意図的なものだろうか?


天正15年(1587年)、島津氏は豊臣秀吉と戦う。兵力の差が大きく、島津方は敗走が続いた。4月、豊臣秀吉が率いる本隊が出水に侵攻する。薩州家の島津忠辰は敵わないと判断して、戦わずして降伏した。さらに道案内を買って出て豊臣軍を川内まで誘導したとも(事実関係はちょっと怪しい)。そして、島津義久は鹿児島から川内の泰平寺まで出向く。剃髪して豊臣秀吉と対面し、降伏を許された。

 

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島津忠辰(薩州家)は豊臣秀吉から朱印状を与えられ、本領の出水・阿久根が安堵された。このときに「島津」の名乗りを避け、「和泉又太郎忠辰」と名乗るようになったとも。

とはいえ、その後も薩州家は島津義久の与力として扱われた。島津義久から独立した大名になることを、島津忠辰(薩州家)は望んでいたという。

天正20年(1592年)、朝鮮出兵の陣立てを島津義弘とは別にすることを、島津忠辰(薩州家)は願い出た。そして、島津忠辰(薩州家)は島津義弘とともに渡海することを命令されていたが従わず。病気を理由に進軍しなかった。

この行為に豊臣秀吉は激怒。薩州家の一族(忠辰の母や兄弟、妻子など)に、本陣のある肥前国の名護屋城(なごやじょう、佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に出頭を命じた。そして、文禄2年(1593年)5月1日に薩州家は改易となった。

 

島津忠辰は小西行長(こにしゆきなが)の預かりとなり、幽閉された。小西行長は肥後国宇土(うと、熊本県宇土市)などの領主で、薩州家の旧領を接収した。

その後、文禄2年8月27日に島津忠辰は朝鮮の加徳島(カトクド)で亡くなる。病死とされる。

 

出水城(亀ヶ城)跡の近くに「薩州島津家の墓」がある。ここに歴代当主の墓塔がある。島津忠辰の墓もここに。

古い墓塔群

出水の薩州島津家の墓地

 

 

島津忠隣、根白坂で戦死

改易にともなって、島津忠辰の弟たちは宇土に預けられた。だた、この中に次男の島津忠隣はいない。というのも、島津忠隣はこのときすでに亡くなっている。

島津忠隣は永禄12年(1569年)の生まれ。天正12年(1584年)に島津歳久(としひさ、島津貴久の三男)の婿養子になった。島津歳久は男子がなかったため、長女(湯之尾、蓮秀夫人)を娶せて後継者とした。

天正14年(1586年)の肥前国鷹取城攻めで初陣を飾り、その後の岩屋城攻めにも参加した。軍功を挙げる。

天正15年4月17日の日向国の根白坂(ねじろさか、宮崎県児湯郡木城町)の決戦にて島津軍は大敗する。ここで島津忠隣は戦死した。享年19。

島津忠隣は子をひとり残す。まだ生後3ヶ月だった。長じて、島津常久(しまづつねひさ)と名乗り、日置島津家の当主となった。日置家は初代を島津歳久、2代目を島津忠隣とする。

 

 

母は実家に戻る

島津忠辰の母(於平)は、島津氏のもとに返された。いつ頃のことで、どのような経緯があったのかはよくわかっていない。島津義久の長女でもあり、そのあたりの事情も影響しているのかも。

この頃、島津義久は大隅国の富隈城(とみくまじょう、霧島市隼人町住吉)を居城としている。於平は大隅国上井(うわい、鹿児島県霧島市国分上井)に住み、余生を過ごしたという。

於平は慶長8年(1603年)に没する。上井城跡の麓に「お平様の墓」もある。ここは渕龍院という寺院の跡地だ。墓塔には「蓮昌妙守庵主」とある。

玉垣の中に墓塔がある

於平の墓

 

島津忠富(入来院重高)

五男の島津忠富は天正7年(1579年)の生まれ。宇土に連行されたあと、文禄3年(1594年)に小西行長に従って朝鮮に出征している。

慶長2年(1597年)に宇土を抜け出し、渡海し朝鮮加徳島の島津義弘の陣に加わる。泗川の戦いなどで活躍した。帰国後は島津久秀と名を改めた。島津家の家臣となる。

慶長4年(1599年)の庄内の乱においては、山田城(宮崎県都城市山田町)攻めで軍功があった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、島津義弘のそば近くで奮戦。戦場を離脱して帰国した。その後は頴娃氏の名跡をつぎ、「頴娃久秀」と名乗る。

慶長10年(1605年)、島津家久(島津忠恒)に入来院氏の名跡を継ぐことを命じられる。「入来院重国」と名乗る。

入来院氏当主の入来院重時(いりきいんしげとき)は関ヶ原の戦いにおいて討ち死にしていた。じつは入来院重時は島津以久(もちひさ、島津義久の従兄弟にあたる)の次男である。後継者不在となった入来院氏の名跡を継いでいた。頴娃久秀(入来院重国)は入来院重時の娘を妻とする。

慶長18年(1613年)に名を改め、「入来院重高(いりきいんしげたか)」と称する。大隅国の湯之尾(ゆのお、鹿児島県伊佐市菱刈川北)を領していたが、入来院氏の本領の薩摩国入来院に移封となった。

入来院氏は島津氏と長年にわたって対立してきた。薩州家とも因縁が深い。薩州家出身の人物が入来院家に入ったのは、なんとも不思議な縁である。

入来院氏は島津一族に組み込まれるような形となった。

 

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島津忠豊

六男は島津忠豊という。宇土に連行されたあと薩摩に戻ることはできなかった。隈本(熊本市)で病死したとされる。

 

 

島津忠栄、薩州家をつなぐ

島津義虎の四男は、島津忠栄という。天正3年(1575年)の生まれ。

天正15年(1587年)に島津忠辰が豊臣秀吉に降伏した際に、この弟は人質として送り出された。細川藤孝(ほそかわふじたか、細川幽斎、ゆうさい)の預かりとなった。

『本藩人物誌』によると、兄が改易されたときは豊前国小倉(こくら、福岡県北九州市)にあったという。ただし、細川氏が小倉に入るのはもっとあとになってから。この頃は毛利勝信(もうりかつのぶ)が小倉を領している。このあたりの情報については、間違いがあるかも。

とにかく、人質の身であった島津忠栄は抜け出す。日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)に入り、この地の領主である島津豊久(とよひさ)の姉に取り合ってもらって居候の身となった。関ヶ原で島津豊久が戦死したのち、その家臣たちが島津忠栄を討とうとした。島津忠栄は佐土原を離れ、大隅国富隈の島津義久のもとに逃げた。

島津忠栄は、母の於平の所領のうち大隅国中津川(なかつがわ、霧島市牧園町上中津川・下中津川)を相続する。その後、日向国飯野末永(宮崎県えびの市末永)に転封となった。

また、日向国の飯野や高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)、大隅国牛根(うしね、鹿児島県垂水市牛根麓)の地頭も任された。

島津忠栄には子がなく、入来院重高(実弟でもある)の次男を養子として跡目とした。

島津忠栄の家系は「薩州家準二男家」と呼ばれる。一所持格と家格も高く、薩摩藩の家老も出している。

 

 

島津忠清、その血は本流へ

三男の島津忠清(ただきよ)は元亀2年(1571年)生まれ。弟の忠富・忠豊ともに肥後国宇土に連行された。

関ヶ原の戦いのあと、宇土の小西家がなくなる。宇土は加藤清正が攻め取り、島津忠清は隈元に連れていかれた。

島津義久と島津常久が返還を求めて、加藤清正に交渉した。ちなみに島津義久は島津忠清の祖父にあたる。また、島津常久は甥にあたる。

返還は為る。慶長14年(1609年)12月3日、島津忠清は薩摩国阿久根(あくね、鹿児島県阿久根市)に到着し、薩摩の地を踏む。そして、鹿児島に入った。

 

島津忠清は宇土で妻を迎えていた。小西家配下の皆吉続能の娘。キリシタンであり、「カタリナ」の洗礼名が伝わっている。子は一女一男あり。

島津忠清の娘は、藩主の島津家久(島津忠恒)の側室となる。三男二女を産む。このうち元和2年(1616年)に産んだ男子が島津家の後継者に。2代藩主の島津光久である。

島津家久(島津忠恒)の正室は亀寿といい、島津義久の三女であった。島津家では亀寿が子を産み、島津義久の血をつないでいくことが期待されていた。しかし、亀寿は子ができず。さらには夫婦仲も悪い。

そんなところで、島津忠清の娘が男子を産んだのだ。島津義久の血を引く。亀寿にとっては姉(於平)の孫にもあたる。亀寿を養母とし、後継者に立てられた。


薩州家は相州家との争いに敗れて、島津氏の本流になることはできなかった。だが、ひょんなことから本流へ血が入ってきたのである。

 

 

島津忠清の妻は種子島へ

元和6年(1620年)に島津忠清は没する。後継者はなかった。島津忠清には男子がひとりいるが、こちらは新納氏嫡流の家督をつぐ。新納忠影(にいろただかげ)という。

島津忠清は鹿児島の興国寺(こうこくじ、鹿児島市冷水町)に葬られた。妻は興国寺の近くの竪野(立野、たての)に住み、夫の菩提を弔ったという。出家して「永俊尼」と号する。また、竪野(立野)に住んだことから「立野殿」「竪野永俊尼」「竪野カタリナ」とも呼ばれる。

ちなみに「堅野カタリナ」と書かれることもあるみたい。ネット検索でも、けっこう「堅(かた)」の字のほうでひっかかる。たぶん「竪(たて)」の字のほうが正しいように思う。『旧記雑録 後編五』では「竪野」とある。また、興国寺のあったあたりは「竪野」「立野」の地名が伝わっている

その後、竪野永俊尼(竪野カタリナ)は隠れキリシタンであったことから、寛永12年(1636年)に種子島に流される。そして、慶安2年(1649年)に種子島で亡くなった。

 

興国寺跡には、島津忠清の墓標と思われるものもある。詳しくはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

島津忠清の家を再興

宝永9年(1709年)、島津忠清の家が再興される。断絶から約90年ぶりのことだった。

島津吉貴(よしたか、4代藩主)は、新納久基に家督の継承を命じる。新納久基は新納忠影(島津忠清の子)の曾孫にあたる。この家系は「薩州家忠清一流」と呼ばれる。

ただし、島津久基(新納久基)も後継者がなく、二階堂氏から養子が入る(島津久隣)。その子の島津久健は、藩の家老も務めた。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年

『旧記雑録 後編五』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1985年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

ほか