ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津氏の薩州家のこと【前編】 分家から本流になりかけるが……

島津氏15代当主の島津貴久(しまづたかひさ)は、もともとは分家の相州家(そうしゅうけ)の生まれだ。16世紀半ばに一族の抗争を制し、分家から島津家の本流となった。

島津貴久と覇権を争ったのが、薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(しまづさねひさ)だった。薩州家は敗れた。

15世紀から薩州家は島津氏の分家の筆頭格という感じだった。大きな勢力を有し、島津家の覇権にも近かった。本家筋にあたる奥州家(おうしゅうけ)を支え、またあるときは脅かす存在にもなった。

じつは、薩州家の当主が守護職を得たとされる時期もある。島津家の本流になりかけることも何度かあった。だが、本流になることはできなかった……。

 

そんな薩州家の足取りを追ってみたい。

なお、日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

 

島津氏には分家が多い

南九州の歴史を見ていくと、「島津」を名乗る人物がたくさん出てきて、わけがわからなくなってしまうのである。

例えば、島津勝久(かつひさ)と島津実久が争って、敗走した島津勝久は島津貴久に協力を求めた。……とそんな感じである。ちなみに島津勝久が奥州家、島津実久が薩州家、島津貴久が相州家だ。家柄まで見ないと、理解がなかなかに難しい。

島津氏には分家が多いのだ。その理由のひとつとしては、まず歴史が長いこと。時間とともに枝分かれした。

 

また、島津氏の支配体制の変遷にも理由があるようにも思う。

島津氏は12世紀末に南九州に所領を得る。そして、南北朝争乱期を戦って支配権を確立していくことになる。その過程で、島津氏は一族の者に領内各地の統治を任せた。それは当主の兄弟などだ。当初は気心の知れた身内でも、そんな意識は代を重ねるうちに薄くなるものである。次第に本家から独立的な立場となっていく。そうした島津氏の一族には新納(にいろ)・北郷(ほんごう)・樺山(かばやま)・佐多(さた)・伊作(いざく)・伊集院(いじゅういん)・町田(まちだ)・川上(かわかみ)などがある。

中世の島津氏の歴史は、一族の抗争の歴史でもある。そうした中で、島津の棟梁は一門衆や国人衆の協力を得る必要があった。

そんな背景もありつつ、9代島津忠国(ただくに)・10代島津立久(たつひさ)の時代には、自身の弟たちを領主に立てるようになる。この動きが、結果的に分家の増加につながっていく。

 

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下は島津氏の略系図。

島津氏の略系図

 

島津忠国の時代には反乱が多く、そして鎮圧されていく。国人衆の中には領地を失って没落する者も多かった。その結果、島津氏が支配する土地が増える。奪った土地を、島津忠国は自身の弟や子に任せた。

島津久豊(ひさとよ)と島津忠国はけっこうな子だくさんで、おもな分家はここから出ている。家の呼び方については、それぞれが称した「薩摩守」「豊後守」「相模守」「出羽守」「伯耆守」「常陸介」「伊予守」「摂津介」などに由来する。


15世紀半ば頃に、成立した分家はつぎのとおり。

 

【薩州家】

島津用久/島津久豊の次男

薩摩国和泉(いずみ、鹿児島県出水市)

 

【豊州家】

島津季久(すえひさ)/島津久豊の三男

大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)

 

【相州家】

島津友久(ともひさ)/島津忠国の長男

薩摩国田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰町)

 

【羽州家】

島津有久(ありひさ)/島津久豊の四男

日向国庄内梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北)

 

【伯州家】

島津豊久(とよひさ)/島津久豊の五男

薩摩国平和泉(ひらいずみ、鹿児島県伊佐市大口平出水)

 

【摂州家】
島津忠弘(ただひろ)/島津忠国の七男

島津頼久(よりひさ)/島津忠国の八男

薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)・揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)

 

なお、摂州家については、当初は島津忠弘(若狭守)が喜入を、島津頼久(摂津介)が揖宿を領した。島津頼久に後嗣がなく、両家が統合する。島津忠弘→島津頼久→島津忠誉(忠弘の子、頼久の養子)と、家督を継承する。この一族はのちに喜入氏を称する。


また、島津忠国の三男は伊作氏を相続し、伊作久逸(いざくひさやす)と名乗った。伊作氏は薩摩国伊作(鹿児島県日置市吹上町)を拠点とする。


分家の中では薩州家と豊州家(ほうしゅうけ)、そして相州家が、その後の歴史にとくに絡んでいくことになる。

 

 

島津氏の分家についてはこちらの記事にて。

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島津用久は当主に擁立された?

薩州家の初代にあたるのが島津用久(もちひさ)である。当初は「好久(よしひさ)」を名乗り、「持久(もちひさ)」「用久」と名を変えている。記事では「島津用久」で統一する。

 

島津用久は、島津家8代当主の島津久豊の次男。母は伊東祐安(すけやす)の娘で、兄の島津忠国とは同腹である。

島津久豊は領内の内乱を平定した。そして、日向国の伊東氏領内への侵攻に取りかかったところで没した。応永29年(1422年)のことだった。

9代当主となった島津忠国は、父の遺志を受け継いで日向への勢力拡大を目指す。しかし、薩摩国では再び反乱が起こる。島津久豊に力で押さえつけられていた者たちが蜂起したのだ。

島津忠国は反乱を押さえることができなかった。永享4年(1432年)には日向の伊東氏を攻めて、こちらも失敗する。そんな中で島津忠国は隠居して大隅国末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)に移る。かわって弟の島津用久が守護代となり、反乱の対応にあたった。

島津忠国は独断専行しがちな人物だったようで、家老たちの支持を失った。家老たちは島津用久を擁立し、島津忠国は鹿児島から追放された。島津用久は「守護代に就いた」とされるが、実際には守護職に就いた可能性もあるかもしれない。

 

その後、島津用久は反乱を鎮圧したと思われる。一方で、島津忠国は政権復帰を目指す。領内には島津用久を盟主とする派閥と、島津忠国を盟主とする派閥ができ、両者の抗争が展開された。

兄弟の争いは島津忠国が優勢となっていく。嘉吉元年(1441年)9 月に鹿児島を奪い、島津用久を追い出す。島津用久は谷山城(たにやまじょう、鹿児島市下福元町)に拠点を移して抵抗する。

抗争が続く中で、薩摩国北部で反乱がまたも起こる。兄弟の争いは島津忠国が優勢であったが、文安5年(1448年)5月に島津忠国と島津用久は和睦する。

 

その後は協力して薩摩国北部の反乱を抑え込んだ。北薩摩の和泉・山門院・莫禰院(いずみ・やまといん・あくねいん、現在の鹿児島県出水市・阿久根市の一帯)は島津氏のものとなり、この地は島津用久に与えられた。

島津用久は出水(和泉)の亀ヶ城(かめがじょう、出水城ともいう、鹿児島県出水市麓)を拠点とした。これが薩州家の始まりである。

山城跡

出水の亀ヶ城跡

 

島津忠国と島津用久の争いについては、こちらの記事にて。

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島津国久、次期当主に指名されるが……

島津忠国は島津用久を厚遇した。島津用久も兄をよく支えた。薩州家は島津家のナンバー2の地位を確立していく。

島津忠国の後継者は、次男の島津立久(たつひさ)とされた。その正室には島津用久の娘が入った。薩州家との結びつきを強化した。

 

その後、島津忠国は再び追放されることになる。強引な所領替えを行うなど、そのやり方は反発を招いた。長禄3年(1459年)、島津立久と国老衆はクーデターを起こす。島津忠国は鹿児島を追放され、薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)に隠居する。

この政変では、島津用久を再び擁立する計画があったとも。しかし、長禄3年に島津用久は亡くなる。

 

これ以降は、島津立久が当主を代行するようになる(島津忠国が家督を譲らず、その死の直前に継承)。そして、薩州家2代目の島津国久(くにひさ)が補佐する。この時代は、領内経営がうまくいき、対外的にもを融和路線がとられる。比較的安定した状況が続いた。

島津国久(薩州家)は嘉吉2年(1442年)の生まれ。姉が島津立久の正室でもあり、頼りにされた。また、島津立久からすると味方にしておきたい存在でもあった。

島津忠国の隠居所としていた薩摩国加世田は、その死後に島津国久(薩州家)に与えられた。また、河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)や鹿籠(鹿児島県枕崎市)も与えられる。薩州家は南薩摩にも広大な所領を有することになった。勢力範囲の大きさは、分家の中でも突出している。

 

山城跡

河邊(川辺)の平山城跡

 

 

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島津立久には男子がなかなか生まれなかった。そこで、島津国久(薩州家)が後継者に指名された。しかし、寛正4年(1463年)に島津立久に男子が生まれる。側室の子であった。正室(島津国久の姉)が生んだ子ではなかったこともあり、後継者とはしなかった。幼少より寺に入れて、「源鑒」と名乗らせた。


文明5年(1473年)、島津立久は病に倒れる。このときに島津国久(薩州家)は家督継承の辞退を申し出た。立久の実子である源鑒を還俗させて後継者とするべきだと主張したのだ。島津立久はこの申し出をつっぱねるが、説得に折れる。

文明6年(1474年)1月、源鑒は元服して島津武久と名乗った。のちに島津忠昌(ただまさ)と改名する。記事では「島津忠昌」で統一する。

4月、島津立久が死去。家督は島津忠昌が継承し、11代当主となった。まだ12歳(数え年)だった。

 

 

薩州家・豊州家の反乱

島津忠昌が幼くして当主に立てられたこともあり、国老の平田兼宗・村田経安らが政治を主導した。この国老衆と島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)は意見が食い違う。そして対立するようになっていく。

文明7年(1475年)、島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)は挙兵。平田兼宗・村田経安の排除を目指して、反乱を起こした。島津豊久(伯州家)や島津忠徳(羽州家)も同調し、国人衆の中にも反乱に加わる者もあった。

 

だが、島津国久(薩州家)は反乱を後悔する。島津立久の墓前で剃髪し、降伏を申し出た。しかし、許されず。肥後国に逃亡しようとしたが、出水で家臣たちに引き留められる。島津国久は思い直して加世田に戻り、抗戦の構えを見せた。

守護方は島津友久(相州家)に加世田を攻めさせ、島津国久(薩州家)は降伏した。だが、今度は島津友久(相州家)が田布施で反旗をひるがえす。降伏させた島津国久も反乱に誘った。

 

一進一退の攻防が続く中で、文明9年(1477年)4月に島津国久(薩州家)は降伏を申し出る。島津季久(豊州家)も説得し、こちらも帰順した。

 

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伊作久逸の乱、島津国久が奔走

文明16年(1484年)、日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)の伊作久逸が挙兵する。伊東祐国と結んで、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)に侵攻した。

伊作久逸は本領の薩摩国伊作から櫛間に移っていた。伊東氏への押さえとして、この地を任されていた。

伊作久逸の反乱は薩摩・大隅・日向に波及する。各地で反乱に同調する者も続出し、またも大乱となった。

 

島津国久(薩州家)と島津忠廉(ただかど、豊州家)は島津忠昌に従う。反乱の鎮静化に奔走する。いったん島津忠廉(豊州家)も離反してしまうが、島津国久(薩州家)が説得して引き戻した。

文明17年(1485年)、島津忠昌は飫肥・櫛間に兵を出す。島津国久(薩州家)はその主力として活躍した。

島津国久(薩州家)はひそかに櫛間城へ使いを送り、伊作久逸に降伏を勧めた。伊作久逸は説得を受け入れる。帰順することを島津忠昌は許した。

 

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薩州家の内紛

明応7年(1498年)に島津国久が没する。薩州家3代目は島津成久(しげひさ、初名は重久)がつぐ。

明応9年(1500年)、薩州家では内紛がおこる。成久嫡男の島津忠興(ただおき、のいちに薩州家4代当主)と一族の島津忠福(島津成久の従兄弟にあたる)が対立。島津忠福は、加世田城を任されていた。島津忠興はここを攻める。

櫛間から本領の伊作に移っていた伊作久逸は、島津忠福を支援する。伊作久逸は娘を薩州家の島津昌久に嫁がせていた。島津昌久は島津忠福の兄である。

伊作久逸は加世田で島津忠興の軍と戦って敗れる。そして、討ち取られてしまう。

 

城跡の石段

別府城(加世田城跡)

 

ちなみに伊作久逸の孫が島津忠良(しまづただよし)である。伊作久逸の死から、伊作氏と相州家の融合へとつながっていく。相州家の家督をついだ島津忠良が、のちに薩州家の抗争相手となる。

 

 

 

三州大乱の激化、薩州家の台頭

島津忠昌はその後も領内の反乱に悩まされる。みずから兵を率いて鎮圧にあたることも多かった。

永正5年(1508年)2月、島津忠昌は自害する。国内の争乱を収拾することができずに思い悩んでのことだったという。

その後は、島津忠昌の長男が当主になるも早世。続いて当主になった次男も早世する。そして、当主には三男が立てられることになる。この三男は頴娃(えい)氏に養子に入っていた。養子縁組を解消して島津家に戻され、14代当主に立てられた。このとき17歳(数え年)だった。名は島津忠兼(ただかね)。のちに「島津勝久」と名を改める。

若い島津忠兼には、領内の混乱を収拾する力はない。各地の領主は守護家の統制を受けずに、それぞれが勢力争いを展開する。南九州は群雄割拠の様相となる。

 

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島津氏の本宗家(奥州家)の力が弱くなっていく一方で、政権運営においてはナンバー2の薩州家の影響力が大きくなったと考えられる。

薩州家は子だくさんな家系でもあった。女子をあちこちの有力者に嫁がせて、味方を増やそうとしている。下は薩州家の略系図。

 

薩州家の系図

 

島津成久の娘を見ると、確認できる嫁ぎ先はつぎのとおり。

菱刈忠副/大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)

佐多氏/薩摩国知覧(ちらん、鹿児島県南九州市)

島津忠良(相州家)/薩摩国田布施

相州家に嫁いだ娘は「御東」という名が伝わっている。島津忠良の正室となり、島津貴久や島津忠将などの母である。

 

島津忠興の娘のおもな嫁ぎ先はつぎのとおり。

島津忠兼(奥州家)

禰寝氏/大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)

種子島氏/大隅国種子島

新納忠茂/日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)

 

また、島津成久の妻は島津忠廉(豊州家)の娘である。南九州の実力者と姻戚関係を結んでおり、薩州家の足場固めが進んでいることがうかがえる。

 

薩州家には男子も多い。薩州家の分家には「大田(おおた)」「大野(おおの)」「吉利(よしとし)」「寺山(てらやま)」などがある。

 

 

 

薩州家の島津実久と、相州家の島津貴久と

大永6年(1526年)秋、島津実久(さねひさ、薩州家5代)が島津忠兼に対して、自分を後継者とすること、政権を譲り渡すことを迫った。島津忠兼はこれに反発。島津実久(薩州家)の野望を阻止するために、島津忠良(相州家)を頼る。そして、忠良嫡男の虎寿丸を島津忠兼の後継者に擁立。虎寿丸は元服し、島津貴久(たかひさ)と名乗る。

島津貴久が当主の座につく。そして島津忠良が国政を握る。大永7年に島津忠兼は隠居し、鹿児島を出て伊作城に移った。

 

島津氏が伝える歴史では、このような感じで政権移譲を伝えている。島津実久については「猖獗(しょうけつ)」という表現も。「すげぇ悪いヤツ」というような感じだ。

極悪人である島津実久(薩州家)の守護家簒奪を島津忠良(相州家)が阻止した……と、そんな感じで説明している。

 

これは勝者側が書いた歴史である。事実とは違っているところもあるだろう。

結果的には、島津忠兼は追放され、島津忠良(相州家)による本家の乗っ取りという形に。政権の簒奪者は、むしろ島津忠良(相州家)のほうに見える。


ちなみに、島津実久(薩州家)は永正9年(1512年)の生まれ。このとき14歳くらいである。この若さで、島津の棟梁に脅しをかけたりするだろうか? ふつうに考えると、ありえないようにも思う。


じつは、大永5年(1525年)に薩州家4代目の島津忠興が亡くなっている。島津忠興(薩州家)の死が、この政変には大きく関わっているのかも?

島津忠兼は、島津忠興の娘(島津実久の姉)を正室に迎えていた。政権運営において薩州家の後ろ盾を得ていたことがうかがえる。だが、島津忠興(薩州家)が亡くなって、政権が揺らぐ。そして、国老衆と島津忠良(相州家)が共謀してクーデターを起こした、と。そんな状況が想像される。

このあたりの考察については、こちらの記事でも触れている。

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薩州家の反撃

島津忠良(相州家)が実権を握ったあと、大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)で反乱が起こる。大永6年(1526年)12月のことである。相州家のクーデターに対する反発であろうか。反乱には薩州家も関わっている。

帖佐地頭の邊川忠直(へがわただなお)が挙兵し、薩州家は一族の島津安久(しまづやすひさ)を援軍として送っている。島津忠良は鹿児島より出陣して反乱を鎮定。邊川忠直と島津安久は討ち取られる。

その後、島津忠良(相州家)は島津昌久を帖佐地頭にする。島津昌久は薩州家の一族だが、妻は島津忠良の姉である。そんな縁もあって、味方に引き入れていたのだろう。

 

大永7年(1527年)5月、今度は島津昌久が挙兵。薩州家方に寝返った。反乱には加治木(かじき、姶良市加治木)地頭の伊地知重貞(いじちしげさだ)も加わった。島津忠良(相州家)は帖佐に出兵。6月5日に反乱軍を破り、島津昌久・伊地知重貞も討ちとった。

 

島津忠良(相州家)が帖佐出征で鹿児島を留守にしている間に、薩州家は反撃に出る。

6月11日、薩州家の軍勢が伊集院の一宇治城(いちうじじょう、鹿児島県日置市伊集院)を落とす。また、南からも軍をすすめて谷山城(たにやまじょう、鹿児島市下福元町)も陥落させた。

 

島津忠良は帖佐・加治木から鹿児島に戻る。だが、すでに薩州家が入り込んでいて鹿児島に入れなかった。谷山の近くに上陸し、そこから山を越えて本拠地の田布施に逃げた。

薩州家の軍勢は鹿児島をうかがい、清水城の島津貴久に守護職の返還をせまった。島津貴久はこれを拒絶し、城の守りを固めた。しかし、内応者があるという噂もあったことから、6月15日夜に城を抜け出した。薩州家の追撃をかいくぐり、島津貴久も田布施まで落ちのびた。

 

鹿児島急襲と同時に、薩州家は伊作城に隠居していた島津忠兼のもとに使いを送っている。守護職の復帰を説いた。

6月21日、島津忠兼は誘いに応じて鹿児島の清水城に戻り、守護職に復帰した。翌年、島津忠兼は名を勝久(かつひさ)に改める。


この戦いで島津実久(薩州家)は指揮をとっていないと思われる。というのも、采配がじつに鮮やかなのだ。反乱で敵軍を誘い出し、留守中の隙を衝く。また、島津忠兼の守護職復帰の根回しもする。敵方に何もさせないまま、短期間のうちに決着をつけた。経験の浅い15歳の当主にできることではないだろう。

薩州家においては、島津成久はまだ健在だった。孫の実久を後見し、薩州家を動かしていたんじゃないか、と。

 

戦後は島津忠兼が復権する。薩州家が実権を奪ったわけではない。実際のところは、相州家のクーデターを薩州家が潰した、といったところだろう。

 

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島津実久が実権を握る

島津勝久(島津忠兼から改名)が守護職に復帰し、薩州家が補佐する。もとに戻った、という感じだろう。

 

相州家のほうは伊作城を奪い返し、こちらに本拠地を移す。その後はあまり記録がない。天文2年(1533年)に日置の南郷城(なんごうじょう、鹿児島県日置市吹上町永吉)の戦いに勝利したことが伝わっているくらいだ。実際には、ほかにも戦いがあったのかも。

 

政権運営のほうはというと、うまくは行っていない。相変わらず領内のあちこちで反乱が続出し、統制はなかなかとれないのである。そんな中で事件が起こる。

天文3年12月(1535年1月)、国老の川上昌久(かわかみまさひさ)が谷山の皇徳寺(こうとくじ、鹿児島市山田町)で末弘伯耆守を誅殺した。末弘伯耆守は島津勝久のお気に入りの家臣だった。島津勝久は大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)に逃亡した。後室の実家である禰寝氏を頼った。

この背景は、島津勝久が古くからの国老たちの言うことをきかず、新参の家臣ばかりを重用したことによるのだという。このことを16人の国老と島津実久(薩州家)が諫めるが、島津勝久は聞かず。そして、事件に至った、と。

天文4年(1535年)4月、島津勝久は鹿児島に戻る。そして、川上昌久を自害させた。島津実久(薩州家)は国老たちとともに挙兵する。一方の島津勝久も支持者に援軍を要請する。島津勝久側には祁答院重武(けどういんしげたけ)・北原加賀介・肝付兼利(きもつきかねとし)らが馳せ参じた。

 

島津実久(薩州家)と島津勝久の支援者の軍勢が鹿児島で戦う。そして、薩州家方が勝利した。島津勝久は出奔。祁答院氏を頼って大隅国帖佐(このときは祁答院氏の領有)へ逃亡する。

島津実久(薩州家)は清水城に入る。これ以降、国政を委ねられた。

島津氏の正史では島津実久を歴代当主として数えていないが、このときに守護職についたという説もある。この事件は、国老たちが島津実久を新たな当主に擁立しようと企てたものであろう。

 

 

相州家の反撃、薩州家は覇権を奪われる

覇権奪取に成功した島津実久(薩州家)だったが、その後は支持を集めきれなったようだ。反発する者は多い。

島津勝久は大隅国帖佐から北原氏領内の般若寺(はんにゃじ、場所は鹿児島県姶良郡湧水町般若寺)に移っていた。ここから島津実久(薩州家)の打倒を目指す。今度は相州家と結んだ。

 

天文5年(1536年)、島津忠良(相州家)は薩摩国伊集院を攻めて、一宇治城を奪った。翌年には伊集院を制圧した。さらに鹿児島へと進軍。天文6年(1537年)2月に薩州家の軍勢を破り、鹿児島を奪った。

薩州家方は谷山城に移って抗戦を続ける。また、加世田や河邊など、南薩摩における薩州家の拠点にも軍勢を集めて、相州家と対峙した。


天文7年12月(1539年1月)に島津忠良(薩州家)は加世田に侵攻。天文8年正月に陥落させた。

天文8年(1539年)3月、島津貴久(相州家)は谷山を攻める。上之山(うえのやま、現在の鹿児島市城山町)に陣取って薩州家方と対峙する。3月13日、両軍は紫原(むらさきばる、鹿児島市紫原)でぶつかる。薩州家方は大敗する。そして谷山の諸城も攻略された。

城跡の城址碑

谷山本城跡

 

同じ頃、島津忠良は河邊を攻める。3月28日にこちらも陥落する。

さらに同年6月、島津貴久は薩州家方の市来・串木野(いちき・くしきの、鹿児島県いちき串木野市・日置市東市来町)を攻める。8月に市来本城と串木野城は陥落する。

 

また、高城郡・薩摩郡(現在の薩摩川内市の川内地区のあたり)では、入来院重聡(いりきいんしげさと)・東郷重朗(とうごうしげあき)と交戦。こちらでも薩州家は敗れる。

 

薩州家は薩摩半島の南部・中部の所領をすべて失った。本拠地である出水に撤退した。


島津家の覇権は相州家の島津忠良・島津貴久が握ることになる。島津勝久は初めのうちは喜んでいたものの、鹿児島に戻ることができず。島津貴久がそのまま島津家の当主の座についてしまう。

その後、島津貴久(相州家)は正式に薩摩国・大隅国・日向国の守護職に任じられる。こちらが島津家の本流となった。

 

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島津貴久と和睦

薩州家はすぐに降伏したわけではない。しばらく出水で勢力を保っていた。

覇権を握った島津貴久だったが、反抗勢力との争いが続いていた。島津貴久はこちらの対応に追われ、出水の薩州家を攻める余裕はなかった。

 

島津実久は天文22年(1553年)1月に上洛し、将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に謁見した。幕府と関係を結んで、島津貴久に対抗しようとしたのだろう。そして、帰国の途中で島津実久は病に倒れる。7月に出水に到着してすぐに亡くなる。42歳だった。島津実久の死は、ちょっと不審な印象も受ける。


薩州家の家督は実久嫡男の島津晴久(はるひさ)が継承する。島津晴久はのちに名を陽久(はるひさ)、さらに義俊(義利、よしとし)、義虎(よしとら)と改める。「島津義虎」の名がよく知られている。

時期は不明だが、薩州家は島津貴久と同盟関係となる。島津義虎は島津義久の長女(於平、おひら)を正室に迎える。独立を保ちながら、島津貴久・島津義久に協力していく。

 

島津義虎とその子供たちの動きについては、【後編】にて。

つづく……。

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<参考資料>
『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

ほか