14世紀の南北朝争乱期より、南九州はずっと戦乱が続く。守護の島津(しまづ)氏は領内統治に苦労する。反抗勢力に手を焼きつつ、一族内でも反乱が絶えず、収拾をつけられないままズルズルと時代は流れて、……激動の16世紀へ。
なお、記事内の日付は旧暦で記す。
15世紀と14世紀の状況についてはこちらの記事にて。
島津忠兼の憂鬱
島津本宗家(奥州家)は短期間のうちに当主の死が続く。永正5年(1508年)に11代当主の島津忠昌(ただまさ)が自殺。そのあとをついだ島津忠治(ただはる、忠昌の長男)は永正12年(1515年)に27歳(数え年)の若さで没する。そして、13代当主となった島津忠隆(ただたか、忠昌の次男)も永正16年(1519年)に23歳(数え年)で死去した。
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兄の相次ぐ死で、当主の座は島津忠昌の三男にまわってきた。島津忠兼(ただかね、のちに勝久と改名)である。こちらもまだ17歳(数え年)と若い。忠兼は薩摩国頴娃(えい、現在の鹿児島県南九州市頴娃)領主の頴娃氏に養子に出され、こちらの家督をついでいた。急遽、島津本宗家に戻されて重責を背負わされたのである。その拠点の鹿児島清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)に入った。
ちなみに「忠兼」というのは、頴娃氏にあったことからの名乗りなのかも、とも思える。頴娃氏は、大隅国に勢力を持つ肝付(きもつき)氏の庶流。肝付一族の通字は「兼」である。これは忠兼の名にも入っている。
島津忠兼は後継者としてまったく考えられていなかった人物であり、若くて経験もない。養子に出されていたために、国老たちとも関係性が希薄だったことだろう。その政権基盤が強固であるはずはないのである。
この頃の南九州は、島津氏分家の薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)、島津支族の北郷(ほんごう)・新納(にいろ)・樺山(かばやま)・佐多(さた)、ほかに大隅の肝付一族や北薩摩の渋谷一族といった国人衆が入り乱れる。守護家の言うことを聞かずに、それぞれが勢力争いをする状況だった。
島津忠兼(島津勝久)が当主になって、さっそく反乱の記録が出てくる。大隅国囎唹(そお)の曽於郡城(そのこおりじょう、橘木城ともいう、鹿児島県霧島市国分重久)で伊集院尾張守が叛く。永正17年(1520年)、島津忠兼は曽於郡城を攻めて降伏させた。
大永3年(1523年)には、島津忠兼は日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志)の新納忠武(にいろただたけ)を攻める。新納氏は島津氏の一族ながら長年にわたって島津本宗家に反抗。前述の曽於郡城の叛乱にも加担して兵を出していた。島津忠兼方は伊地知重周(いじちしげちか)・吉田氏(大隅国吉田の領主か)に志布志を攻めさせた。新納氏は城を撃って出て、両軍は新納氏領内の槻野(月野、つきの、鹿児島県曽於市大隅町月野)でぶつかった。この戦いで守護方は大敗。伊地知重周も戦死する。
豊州家と肝付氏の抗争
豊州家の島津忠朝(ただとも)と肝付兼興(きもつきかねおき)が争いをはじめる。ちなみに、肝付兼興は島津忠朝の養女を妻としていた。
豊州家は日向国飫肥・櫛間(おび・くしま、宮崎県日南市・串間市)のほか、大隅国串良(くしら、鹿児島県鹿屋市串良)などを領する。本宗家8代当主の島津久豊(ひさとよ)三男の島津季久(すえひさ)にはじまり、豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。当初は大隅国帖佐・蒲生・加治木(ちょうさ・かもう・かじき、鹿児島県姶良市)を拠点にしていたが、日向国で大きな勢力を持つ伊東(いとう)氏への備えとして所領を移されたのである。ただ、本宗家の力が弱くなってくると、半独立的な存在となっていく。日向や大隅の領主たちと対立したり、あるいは手を組んだりしながら、勢力争いを繰り広げた。
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肝付氏は大隅国肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に大きな勢力を持っていた。その歴史は古く、10世紀頃まで遡る。島津氏に対してたびたび反抗。永正3年(1506年)には島津忠昌(11代当主、忠兼の父)の遠征軍を、肝付兼久(かねひさ、兼興の父)が迎え撃って大敗させている。
永正17年(1520年)8月1日、肝付兼興が串良城を攻めた。城主は平山近久。平山氏は島津季久の次男にはじまる豊州家の一族である。豊州家方はよく守り、敵を撤退させた。
8月17日、今度は島津忠朝が肝付氏の鹿屋城(かのやじょう、鹿児島県鹿屋市北田)を攻撃。城攻めでは島津忠朝が勝利するも、その帰路を肝付兼興が襲撃。鹿屋原(かのやばる、場所は自衛隊基地があるあたり)で決戦となり、肝付氏が大勝した。
大永4年(1524年)9月、肝付兼興が再び串良城を攻めた。城将を討ち取り城は陥落。肝付氏は串良を奪った。
北郷氏と伊東氏と北原氏と
日向国の庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)で動乱が勃発する。野々美谷(ののみだに、宮崎県都城市野々美谷)には樺山氏が入っていたが、大永元年(1521年)の所領替えにより庄内都之城(みやこのじょう、都城市都島)城主の北郷忠相(ほんごうだだすけ)に与えられた。そこへ、伊東尹祐(いとうただすけ)・北原久兼(きたはらひさかね)連合軍が攻め込んできたのだ。
伊東氏は日向中部より南へ勢力範囲を広げようとたびたびこの地に侵攻している。北原氏は肝付氏の一族で、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市)や大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)など広範囲を支配する。
大軍(『日向記』によると伊東勢だけで1万)を相手に、北郷忠相は寡兵(こちらは800)でよく守った。だが、野々美谷城を守る北郷尚久(北郷氏の一族)が流れ矢にあたって討たれ、大永3年(1523年)11月8日に城は落ちる。
しかし、落城と同日に伊東尹祐も陣中で急死する。ちなみに『本藩人物誌』の北郷忠相の項には「城兵伊東尹祐ヲ射殺」と記されている。さらに12月10日には伊東祐梁(尹祐の弟)も亡くなる。当主とその弟を失い、伊東軍は撤退した。
大永4年(1524年)5月、北郷忠相は和睦を結ぶ。野々美谷を伊東氏に、山田(やまだ、都城市山田)を北原氏に割譲した。
北郷氏は所領を大きく削られたが、のちに盛り返す。北郷忠相は名将であった。周囲の敵からの攻撃を追い返し、外交策もたくみに展開。そして、攻めに転じ、敵の城をつぎつぎと落としていった。
本田氏の内紛
曽於郡城の反乱が鎮圧されたあと、この地は本田兼親(ほんだかねちか)に与えられた。また、支族の本田親尚(ちかひさ)は、島津忠兼(島津勝久)の執政の地位にあった。大永5年(1525年)、このふたりが争うことになる。
本田親尚は「本田兼親が謀反を企てている」と讒言する。兼親を追い落として、曽於郡を我がものとするのが狙いだった。はたして、島津忠兼はこの言葉を信じて曽於郡を召し上げた。そして、本田親尚が曽於郡城に入った。
本田兼親は怒り、清水隼人城(きよみずはやとじょう、霧島市国分上小川の隼人城か)を築いて守りを固めた。
さらに、本田親尚は執政の立場を利用して勢力を広げようと動く。自領であった横瀬(よこせ、霧島市牧園町上中津川)・波留毛(はるけ、姶良市船津)・餅田(もちだ、姶良市西餅田・東餅田)を、樺山氏領の小窪(こくぼ、霧島市霧島大窪)・河北(かわきた、霧島市霧島川北)・臼崎(うすざき、霧島市牧園町持松)・持松(もちまつ、こちらも牧園町持松)などの地と交換してしまった。樺山信久(かばやまのぶひさ)は小浜(おばま)を奪って生別府城(おいのびゅうじょう、霧島市隼人町小浜)に入る。本田兼親と手を組んで、本田親尚に対抗しようとした。
大永6年(1526年)、曽於郡城で本田親尚に背く者があり、庄内の北郷忠相が一族の武将に命じてこれを攻めさせた。城中には内応するものがあり、兵が城中になだれこむ。曽於郡城は落ち、北郷氏が領することとなった。
薩州家と相州家
島津氏は15世紀中頃から多くの分家を立てた。16世紀初頭に至って薩州家・相州家・豊州家がとくに大きな力を持っていた。ただ、豊州家は日向国を拠点としていたこともあり、薩摩国鹿児島にある島津本宗家とはやや距離を置いていた。
島津本宗家が領内を掌握しきれずにいるところに、薩摩国に地盤を持つ薩州家と相州家が台頭してくることになるのだ。
薩州家は島津久豊(ひさとよ、8代当主)の次男の島津用久(もちひさ、当初の名は好久、持久とも名乗る)を祖とする。薩摩国北部の出水・山門・阿久根(いずみ・やまと・あくね、鹿児島県出水市・阿久根市)、薩摩国南部の加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)・河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)・鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)など、所領は広範囲にわたる。島津本宗家にも匹敵するほどの力を持つようになっていた。この頃の当主は島津忠興(ただおき、薩州家4代)。その娘は島津忠兼(奥州家)の正室で、かなり影響力を持っていたと思われる。
相州家は島津忠国(ただくに、9代当主)の長男の島津友久(ともひさ)より始まる。薩摩国田布施・高橋・阿多(たぶせ・たかはし・あた、南さつま市金峰)を拠点とする。そして相州家2代の島津運久(ゆきひさ)は、薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)の伊作氏嫡男を養子に迎えた。それが島津忠良(ただよし)である。3代当主は相州家と伊作氏の所領を併せて継承した。
伊作氏は島津氏の庶流だが、忠良の祖父の伊作久逸(いざくひさやす)は本宗家から養子入りしている。島津忠国の三男で、島津友久(相州家初代)の弟にあたる。
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島津忠良が国政を代行、新当主に島津貴久を擁立
大永6年(1526年)秋、薩州家当主の島津実久(さねひさ、忠興の嫡男)が島津忠兼(島津勝久)に対して自分を後継者とするよう要求。そのうえで、国政を譲り渡すよう迫った。島津実久(薩州家)の姉は島津忠兼の正室であり、実久は忠兼の義弟ということになる。島津忠兼は島津実久(薩州家)の行動に腹を立てた。妻とも離縁して薩州家に帰してしまった。このことを、島津実久(薩州家)はうらんだ。
島津実久(薩州家)との関係が悪化するなかで、島津忠兼は相州家の島津忠良を頼ることとした。本田親尚を遣わし、島津忠良(相州家)に国事を託すことを請うた。また、新たな所領として南郷(なんごう、鹿児島県日置市吹上町永吉)を与えた。さらに島津忠兼は伊集院(いじゅういん、日置市伊集院)におもむき、島津昌久(薩州家の一族だが相州家とは縁戚、島津忠良の姉を妻としている)を遣わして日置郷(日置市日置)も賜った。
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11月6日、島津忠良(相州家)は伊集院におもむき、島津忠兼に謁見。翌日、島津忠兼は鹿児島の清水城に帰り、島津忠良も随行した。
島津忠兼はまだ子がないことから、島津忠良嫡男の虎寿丸を継嗣にしたいと言う。11月12日、村田武秀・土持政綱・梶原景豊を遣わし、このことを島津忠良(相州家)に伝えた。島津忠良は固辞するが、島津忠兼もあきらめず。11月18日に伊作から虎寿丸を呼び寄せることになった。
11月27日、島津忠兼の加冠で虎寿丸が元服。島津貴久(しまづたかひさ)の名を賜る。そして奥州家(本宗家)家督と守護職を譲られる。島津貴久は若年のため、島津忠良が後見となった。政権交代が成り、島津忠良が国政を執ることになった。
参考までに、下は宗家・相州家・薩州家の略系図。赤字が本宗家の当主。
ツッコミどころだらけの政権移譲
前述の政権移譲については『島津国史』に沿って記した。だが、なんだかツッコミどころが多いのである。妙なところを、ちょっと並べてみる。
◆島津実久が若すぎる
島津実久は永正9年(1512年)生まれで、この頃はまだ14歳くらいである。そして、父の死により大永5年(1525年)に薩州家の当主になったばかり。14歳の子供が「政権を譲り渡せ!」と言い寄るだろうか? そもそも「政権を奪おう」という発想が出てくるだろうか?
◆島津忠良がいきなり現れる
島津実久(薩州家)の野望を阻止するために「島津忠良(相州家)を頼ろう」となる。唐突に島津忠良が出てくる感じだ。ちなみに『西藩野史』によると「学ヲ好ミ道ヲ守リ政治ニ仁厚ニシテ民其徳ニ懐ク」という評判があったのだという。これも、とってつけたような感じがする。
◆直前の薩州家と相州家の動きがわからない
島津忠兼のもとで薩州家と相州家がどう動いたのか、記録が出てこないのである。その点には違和感を感じる。記録が残っていないのか? あるいは消されたのか?
◆島津貴久への相続が不自然
島津忠兼は、国政を任せたいと島津忠良(相州家)を呼んだ。「島津実久(薩州家)に家督を渡したくない」といのうがはじまりなので、島津忠良に求めるのはあくまでも協力者としての役割まで、というのが自然な感じがする。ところが「自分には子がないから、島津忠良嫡男を継嗣にしたい」と言ってくる。島津忠兼は23歳と若い。まだまだ子ができる可能性はある。実際に、のちに息子が何人か生まれている。そして、すぐに当主の座を譲るのだ、引退するような年齢ではないのに。
◆結果的には、相州家が本家を乗っ取った
薩州家が本家乗っ取りを狙ったが、相州家のほうは「本家乗っ取り」ではないのだろうか? 「譲られた」という体裁をとり、島津貴久の継嗣についても「固辞したけど、強く言われて仕方なく受けた」という感じにしている。「あくまでも禅譲」ということが強調されている。
以上のツッコミどころを踏まえつつ、実際どうだったのか考えてみる。改めて言うが、あくまでも推測である。
島津忠兼が当主ではうまくいかないので、国老たちが新当主を擁立しようとなった。それで、薩州家と相州家がその座を争うことになった、と。たぶん、状況としてはそんなところだろう。
じつは、似たようなことが以前にもあった。永享4年(1432年)、9代当主の島津忠国(ただくに)が追放されて、その弟の島津好久(よしひさ、島津用久、もちひさ)が守護を代行した(守護についた、という説もある)。島津忠国は家臣らの進言を聴かずに自分勝手に行動した。そのために、領内の反乱がひどくなった。有力者や家臣の支持を失い、当主の座を追われてしまったのである。
このあたりの詳細については関連記事にて。
【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立
島津忠兼に代わって誰が当主になるのか? 薩州家でほぼ決まっていた、という気もする。
ちなみに、島津好久(島津用久)は薩州家の初代だ。また、10代当主の島津立久(たつひさ、忠国の子)が薩州家の島津国久(くにひさ、用久の子、薩州家2代)を後継者としていた(のちに辞退)なんてこともあった。奥州家(本宗家)に何かあったときは薩州家が代わりとなる、というのが暗黙の了解になっていたのではなかろうか。
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薩州家を主導していたのは島津忠興である。娘を島津忠兼に嫁がせ、家中でも大きな力を持っていたことが想像できる。すでに国政を代行していたかもしれない。さらには、嫡男の実久を本宗家の継嗣とする話も進んでいたのかも、あるいは決まっていたのかも。
また、島津忠良(相州家)も薩州家と姻戚にあたる。妻は島津成久(しげひさ、忠興の父、薩州家3代)の娘だ。島津忠興(薩州家)とは協力関係であったとも考えられそう。もうひとつの仮説として、島津忠興(薩州家)の派閥と島津忠良(相州家)の派閥に分かれてバチバチやりあっていた可能性もある。その場合でも、薩州家が優勢だったと思われる。
ところが、島津忠興(薩州家)は大永5年(1525年)に没する。まだ40歳にもなっていないので、急なことであったと思われる。死因はわからず。病没だろうか、戦死だろうか。
この時点で、島津成久(薩州家)はまだ健在であった。島津実久はまだ若いので、祖父が後見人となったと思われる。ちなみに、『薩州家御墓所由緒』(『出水郷土誌』に収録、原本は残っていない)によると、島津成久の没年は天文5年(1536年)としている。
とにかく、島津忠興の死は薩州家にとっては痛手である。ここで流れが一気に変わってしまう。薩州家の台頭をよく思わない者たちが相州家を擁立しようとした、あるいは、島津忠良(相州家)自身が政権簒奪に動いた可能性もありそうだ。
「島津実久が政権移譲を迫った」というのが事実であれば、実久のまわりの大人(後見人とか支持者とか薩州家の家老とか)が言わせたのだろう。また、相州家側が動く前に政権移譲をやってしまおうと急いだのではないか、ともうかがえる。あるいは「島津実久が政権移譲を迫った」ことがデッチアゲである可能性もなくはない。
勝者が記した歴史では、島津実久は本宗家簒奪を企てた悪人として名を残す。一方で、島津忠良は「聖君」とされる。人物像については印象操作もあるだろう。相州家が政権を取った理由付けのために。島津家当主としての正統性を示すために。
島津忠兼も家督を譲るのは本意ではなかったはず。島津忠良(相州家)や国老たちに無理やりに引退させられたのだろう。
推測ここまで。
島津貴久が鹿児島に入り、その父の島津忠良が後見人となって国政をとる。分家から島津本宗家を掌握し、下剋上がなった。一方で、薩州家のほうも黙ってはいない。反撃に動くのである。……つづく。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年
鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『伊集院町誌』
編/伊集院町誌編さん委員会 発行/伊集院町 2002年
『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年
『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌編纂委員会 発行/姶良町長 池田盛孝 1968年
宮崎県史叢書『日向記』
編・発行/宮崎県 1999年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか