ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

伊作城跡にのぼってみた(1)、戦国大名島津氏の源流はここにあり

伊作城(いざくじょう)は、鹿児島県日置市吹上町中原にある。ここは島津支族の伊作(いざく)氏の本拠地なのだが、戦国大名としての島津氏の発祥の地と言える場所だったりもする。

木漏れ日の差す曲輪跡、石碑が並ぶ

本丸の亀丸城跡

 

16世紀、一族どうしの争いを制して覇権を握ったのは島津忠良(しまづただよし)だった。島津忠良は、じつは伊作氏の生まれ。有力分家の相州家(そうしゅうけ)に養子に入って家督をつぎ、さらに島津宗家の実権を握る。嫡男の島津貴久(たかひさ)は守護職をついで15代当主となり、その後どんどん勢力を広げていくことになるのだ。

本丸の亀丸城(かめまるじょう)には、誕生石もずらりと並ぶ。……誰のものかというと島津忠良・島津忠将(ただまさ、忠良の次男)・島津尚久(なおひさ、忠良の三男)・島津義久(よしひさ、貴久の嫡男、16代当主)・島津義弘(よしひろ、貴久の次男)・島津歳久(としひさ、貴久の三男)・島津家久(いえひさ、貴久の四男)など。南九州を制した一族が、ほぼこの城で生まれているのだ。

 

 

 

 

 

深い深い空堀だらけ

場所は吹上浜からやや内陸に入ったところ。県道22号を東に向かうとモコッとした山が見える。そこが伊作城だ。「亀丸城跡(伊作城跡)」という看板が見えるので、そこから山に入っていく。登っていくと広い駐車場もある。

看板に「亀丸城跡(伊作城跡)」の文字

道路沿いの城跡への看板

 

伊作城はシラス台地の丘陵を利用した南九州にはよくあるタイプの山城だ。自然浸食による谷をうまく活用しながら曲輪を成形。そして、谷をさらに掘り込んで大空堀をめぐらしている。空堀を上から覗き込むと、深くてゾッとする。

築城年代は不明。13世紀から伊作氏がこの地を治めるようになり、伊作城を居城としたと伝わる。

伊作城には28の曲輪がある。亀丸城・御仮屋城(おかりやじょう)・蔵之城(くらのじょう)・山之城(やまのじょう)・西之城(にしのじょう)・花見城(はなみじょう)・東之城(ひがしのじょう)など。規模はかなりでかい。『三国名勝図会』によると「周廻二十五町余(2.8㎞くらいか)」あるのだという。遊歩道が整備されていて、行けるところはけっこう多い。

駐車場の入口の道を挟んで亀丸城がある。まずはこちらから行ってみる。登り口の通路は深く掘り込まれている。ちょっと登ると蔵之城へのルートもあるが、こちらは橋が老朽化しているそうで立入禁止。通路を左に折れて、亀丸城へ向かう。

「亀丸城」の案内看板

亀丸城跡は、駐車場入口から道を挟んですぐ

写真中央部の堀切が通路になっている

亀丸城への登り口

 

曲輪の上はきれいに整備されている。頭上は木の枝が多く、木漏れ日が差し込んでいる。そして、記念碑群が並ぶ。大きなものは「亀丸城址之碑」と「日新公御誕生地」の碑。日新(じっしん)公というのは島津忠良のことで、法号の日新斎(じっしんさい)からそう呼ばれることも多い。記念碑とともに誕生石も並んでいる。誕生石については江戸時代に編纂された『三国名勝図会』にも記述がある。

広い曲輪跡、頭上には木の枝葉が覆う、遠くに石碑も見える

登るとこんな光景が広がる

人工的に土を盛り上げたところ

土塁も残る

曲輪にある立派な石碑

手前は「島津日新公御誕生地」碑

石造りの囲いに4つの石が安置されている

誕生石、右から順に義久・義弘・歳久・家久のもの

 

なお、島津貴久の誕生石はない。誕生地は田布施城(たぶせじょう、鹿児島県南さつま市金峰)なのだ。でも、元服した場所はこの伊作城である。

伊作城から下りる。道路をぐるりと回り込むと蔵之城への登り口がある。こちらも曲輪の上はきれいに整備されていた。登り口の反対側は、先ほどの老朽化した橋のところにつながっている。

「蔵之城跡入口」看板

林道沿いに「蔵之城」登り口

森の中の曲輪跡

蔵之城跡

 

蔵之城の入口の向かい側にも階段がある。登ると視界の開けた小さな曲輪があり、駐車場を見下ろす。現地看板の縄張り図で確認すると、こちらは東之城の一部のようだ。

城跡に通る林道

蔵之城下の林道、もうひとつ階段が見える

 

再び亀丸城のほうへ。亀丸城入口を通り過ぎて林道を進むと御仮屋城跡だ。伊作城のなかでもっとも広い曲輪なのだという。ただ、登ると薮になっていて、曲輪の全体像はよくわからなかった。奥のほうまで歩いて行けそうではあったが、ここで引き返す。

曲輪に登っていける

登ると御仮屋城跡

 

御仮屋城と亀丸城の間は大空堀で仕切ってある。そして、ロープをつたって大空堀の底に下りていけるようになっているのだ。大空堀の底から見上げると、かなり迫力があった。

ロープを伝って谷底へ

下りていけるぞ!

谷底からの眺め、壁が高い

大空堀の底から見上げる

 

駐車場方面へ戻る。亀丸城の南のあたりは低くなっていて、ちょっと広めの空間になっている。曲輪群が取り囲むような配置で、この空間に入ってきた敵は頭上から袋叩きにあったのだろう。

森の中

亀丸城の南側

 

広場を下のほうにいくと、西之城・花見城方面への遊歩道が伸びている。ちょっと距離がありそうだったので、時間の関係もあってこちらの散策は断念。

森の中の遊歩道、「西之城跡・花見城跡」への看板もある

こっちにも遊歩道が伸びる

 

駐車場から東の方向にも遊歩道の階段が見える。こっちに行くと山之城だ。階段を登っていく途中で大空堀が見える。ここもとんでもない深さだ。いったん曲輪の上に出たあと、大空堀(前述のものとはまた別のもの)を降りていく。そしてまた別の曲輪に上がって奥へと進んでいった。そして山之城の先端に到着。ここからは城下を見下ろせる。

遊歩道を登っていく

駐車場の東側にも階段が見える

森の中の曲輪跡

曲輪の上に出る、ここからまた下る

大空堀の跡

空堀に下りて、また登る

曲輪跡を見上げる

山之城跡の先端のあたり

 

駐車場に戻って山城散策は終了。所要時間は1時間ちょっとだった。ただ、全部はまわりきれていない。すべて踏破するには、だいぶ時間に余裕を持っておいたほうがよさそうである。

後日、まわれてないところもいってみた。

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島津荘と河邊一族

伊作は薩摩国の中南部にある。時代によって郡郷がいろいろ移り変わっていて、「阿多郡伊作郷」だったり、たんに「伊作郷」と呼ばれたり、あるいは「伊作郡」だったりする。古代においては隼人が住んでいた。詳細はわからないが、場所から考えると阿多君(あたのきみ)一族が支配者であったと思われる。

11世紀頃から南九州では巨大荘園が形成されていく。その代表的なものが島津荘(しまづのしょう)だ。万寿年間(1024年~1028年)に平季基(たいらのすえもと)が日向国島津院(しまづいん、現在の宮崎県都城市)を開墾したことにはじまるという。島津荘は関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)に寄進され、その後も藤原北家(のちに嫡流の近衛家)を本家とした。平季基は荘官として荘園経営を行った。

平季基は大宰大監(だざいだいじょう、大宰府の四等官のひとつ)の任にあった人物。出自は諸説あってはっきりしないが、西国に下ってきた平氏の一派だと思われる。

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そして、12世紀の初め頃になると、薩摩国中南部に平良道(たいらのよしみち)が入る。伊作郡司に補任されて、伊作良道(いざくよしみち)と名乗るようになった。こちらも出自ははっきりしないが、平季基と同族とも伝わっている。伊作は島津荘の影響下にあり、伊作荘(いざくのしょう)と呼ばれたりもした。

伊作良道に始まる一族は薩摩国に大勢力を築き上げる。嫡流が河邊氏を名乗ったことから「河邊一族(かわなべいちぞく)」と呼ばれる。あるいは「薩摩平氏(さつまへいし)」とも言ったりする。

【関連記事】薩摩・大隅に古くから住まう者たち (2) 肝付氏・河邊一族(薩摩平氏)

 

だが、12世紀末に平氏政権が滅び、源氏政権が樹立されると河邊一族の勢いにも陰りが見えてくる。一族の中には平家方についたために領地を奪われて没落した者もあった。また、朝廷が任命する国司・郡司とは別に、鎌倉幕府が守護・地頭を任命した。郡司として君臨していた河邊一族諸氏は、薩摩に下向してきた鎌倉系武士と対峙するのである。

 

 

伊作の地頭は島津氏に

元暦2年(1185年)、惟宗忠久(これむねのただひさ)が源頼朝より島津荘の下司職(げすしき)に任命された。その後、地頭職も引き続き任される。広大な島津荘の支配権を得た惟宗忠久は「島津忠久」と名乗るようになる。これが島津氏のはじまりだ。島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の守護にも補任された(のちに縁者の反乱に連座して所領を失うが、薩摩のみは回復する)。

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島津荘のうちにあった伊作荘も、島津忠久が地頭となった。だが、当初は所領支配があまりできていなかったと思われる。というのも、島津忠久は鎌倉在住で代官を送り込んで管理を任せていた。郡司をはじめとする在来領主の抵抗も大きかったはずだ。河邊一族の河邊(かわなべ)氏・知覧(ちらん)氏・指宿(いぶすき)氏・別府(べっぷ)氏・頴娃(えい)氏・谷山(たにやま)氏なども郡司としてまだまだ健在であった。

ちなみに建久8年(1197年)の薩摩からの内裏大番(内裏警固の役務)の名簿には「伊作平四郎」という名がある。これは河邊一族の伊作実澄だと思われる。

また、島津氏以外にも薩摩で地頭職に補任された鎌倉御家人があった。伊作のすぐ南の阿多には鮫島(さめじま)氏や二階堂(にかいどう)氏が入った。

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島津氏が南九州の支配に本腰を入れるのは、3代当主の島津久経(ひさつね)や4代当主の島津忠宗(ただむね、久経の嫡男)の時代からである。きっかけは蒙古襲来だった。文永8年(1271年)、幕府は西国に所領を持つ御家人に対して九州防備を命じた。島津久経は筑前国筥崎(現在の福岡市東区)に兵を出した。また、幕府は自領への下向も促していて、この頃に島津氏が薩摩に拠点を置くようになったと見られる。ただし、島津久経はほとんど筑前に在番していた。

弘安4年(1281年)、島津久経は次男の薬寿丸に薩摩国伊作荘と日置荘(ひおきのしょう、現在の日置市日吉町のあたり)を譲る。この薬寿丸が伊作氏の祖である。長じて島津久長(ひさなが)と名乗った。

島津久長は父や兄とともに元軍との戦いに従軍した。島津久経が亡くなったあとは、当主となった兄に代わって筑前国の沿岸警固についたりもしている。

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南北朝争乱期の伊作氏

元弘元年(1331年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が挙兵したことにはじまり、世の中は大きく動く。鎌倉幕府の滅亡、建武政権の樹立と崩壊、足利尊氏による新政権の樹立、さらに足利政権の内訌(観応の擾乱)……と目まぐるしく状況が変わる中で、薩摩国守護の島津貞久(さだひさ、5代当主、忠宗の嫡男)は巧みに立ち回った。

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この頃の伊作領主は島津宗久(むねひさ)であった。島津久長の嫡男で、貞久とは従兄弟の間柄だ。島津宗久(伊作氏)は島津家一門で重きをなし、島津貞久とともに京で活動していた。のちに、南九州の南朝方が勢いを増すと薩摩に帰って戦った。

薩摩における南北朝争乱の緒戦の舞台は伊作であった。建武4年・延元2年(1337年)6月、伊作荘の中原城(なかはらじょう)で益山四郎・古木彦五郎(ともに河邊一族)が蜂起。この時、島津宗久(伊作氏)は京で転戦中で不在。留守を守っていた島津久長(高齢だがまだ健在、伊作氏初代)は、島津大隅式部亀三郎丸(山田友久、やまだともひさ)とともに敵を攻めて討ち取った。

7月になって、南朝方の伊集院忠国(いじゅういんただくに、島津一族だが本家とは敵対する)・鮫島家藤(さめじまいえふじ)・谷山隆信(たにやまたかのぶ、河邊一族)・市来時家(いちきときいえ)・知覧忠世(ちらんただよ、河邊一族)・矢上高純(やがみたかすみ)らが伊作荘に侵攻。島津久長(伊作氏)・島津大隅式部亀三郎丸(山田氏)が阿多郡高橋口(現在の南さつま市金峰町高橋)で南朝方を撃退した。

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その後も、伊作はたびたび戦場となった。また、薩摩に戻った島津宗久(伊作氏)は島津貞久の配下として活躍する。島津氏は状況によって南朝方に転じたりもするが、伊作氏もほぼほぼ従っている。

余談だが、島津宗久(伊作氏)の次男は島津久氏(ひさうじ)という。幕府に近習として仕え、貞和3年・正平2年(1347年)に摂津国天王寺(現在の大阪市天王寺区)で戦死している。

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伊作氏、浮いたり沈んだり

14世紀末に南北朝は合一。島津氏は混乱した時代を生き抜いた。そんな中で島津氏の本家筋は分裂していた。島津貞久は2人の息子に家督を分割して相続した。三男の島津師久(もろひさ)には薩摩国守護を譲り、こちらの系統を「総州家(そうしゅうけ)」という。四男の島津氏久(うじひさ)には大隅国守護を譲り、こちらを「奥州家(おうしゅうけ)」という。「総州家」と「奥州家」は協力しながら荒波を乗り越えた。

島津氏は九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)とも激しく対立。幕府方を敵に回しながらも、総州家・奥州家が連携を取りながら屈することはなかった。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(7) 南北朝合一へ、されど戦いは続く

 

しかし、南北朝の争乱もおさまり、共通の敵(今川貞世)がいなくなると、今度は総州家と奥州家が抗争をはじめる。そんな中で、伊作氏もまた独自に動く。14世紀末から15世紀初めの頃の伊作氏当主は、4代目の伊作久義(いざくひさよし)である。この頃ぐらいから、「島津」ではなく「伊作」と名乗るようになったようだ。

伊作久義は加世田別府(鹿児島県南さつま市加世田)の別府氏や田布施(たぶせ、南さつま氏金峰)の二階堂氏と対立。応永13年(1406年)には島津元久(奥州家)の援軍を得て二階堂氏の城を落とし、田布施を支配下に置いた。

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島津氏の抗争は奥州家が覇権を握った。島津元久(奥州家)が大隅国守護に加え、薩摩国と日向国の守護にも補任された。しかし、応永18年(1411年)に島津元久が急死すると、再び乱れるのである。

島津元久(奥州家)の後継者とされたのは初犬千代丸(のちの伊集院煕久、ひろひさ)。伊集院頼久(いじゅういんよりひさ、島津氏庶流)の嫡男であった。伊集院頼久が覇権を握ろうとするが、この動きは島津久豊(ひさとよ、元久の弟)によって阻止される。島津久豊が強引に奥州家の家督を継承し、島津氏9代当主となった。

島津久豊(奥州家)に対して、伊集院頼久は反乱を起こす。総州家も伊集院氏と組んで再び兵を挙げた。伊作久義も反乱軍に加わる。薩摩国内は内乱状態に突入した(伊集院頼久の乱)。

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奥州家に抵抗を続けていた伊作久義だったが、応永22年(1415年)に島津久豊(奥州家)に降る。島津久世(ひさよ、総州家)も誘い、こちらも降伏した。しかし、そのあと事件が起こる。鹿児島を訪れた島津久世(総州家)が謀殺されてしまうのである。これを機に、伊作久義は再び離反する。

応永24年(1417年)、島津久豊(奥州家)は総州家が南薩摩の拠点としていた河邊(かわなべ、南九州市川辺)を攻める。伊集院頼久・伊作久義も援軍を出し、大合戦となった。ここでは島津久豊(奥州家)が大敗北を喫し、伊集院頼久に降った。だが、すぐに島津久豊が反撃。今度は谷山(鹿児島市谷山)に伊集院氏を攻めて打ち負かす。伊集院頼久は降伏し、これにて決着。伊作久義も降った。

島津久豊(奥州家)は、伊作久義に所領を与えて懐柔をはかった。また、伊作久義は娘を島津忠国(ただくに、久豊の嫡男)に嫁がせている。そして、島津久豊(奥州家)は薩摩南部の反対勢力の一掃をはかった。伊作氏とも因縁の深かった鮫島氏や別府氏は降伏し、所領を失う。

河邊にあった総州家は孤立する。総州家の当主は犬太郎といい、まだ幼少である。島津久世の嫡男で、のちに島津久林(ひさもり)と名乗る。総州家は守り切れないと見て犬太郎主従は城を棄てて逃亡。薩摩国山門院(やまといん)の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)に身を寄せた。ここは島津守久(もりひさ、犬太郎の祖父)が守っていた。

応永29年(1422年)、奥州家方は山門院を攻める。島津忠国と伊作勝久(かつひさ、久義の嫡男、伊作氏5代)が木牟礼城を囲んだ。島津守久・犬太郎は城を棄てて肥前国(佐賀県・長崎県)へ逃げる。総州家はすべての所領を失った。島津久豊(奥州家)は薩摩を平定した。

一方、伊作城では事件が起こる。伊作勝久が出征している間に、伊作十忠(じっちゅう、勝久の叔父)が謀反をおこす。伊作十忠は兄の久義を殺害し、伊作家の家督を奪おうとした。勝久の嫡男の安鶴丸(のちの伊作教久、のりひさ)も命を狙われ、母方の市来(いちき)氏を頼って逃れた。山門院で変事を聞いた伊作勝久は、島津忠国からの助言もあって国外に亡命した。

伊作十忠は「久豊公の命でやったこと」と言ったのだという。実際に島津久豊の工作があった可能性は高い。島津久豊は伊作十忠の行動を支持しようとするが、新納忠臣(にいろただおみ)・北郷知久(ほんごうともひさ)・樺山教宗(かばやまのりむね)らが伊作勝久の助命を乞う。伊作勝久はこの重臣らを通して、「伊作の地を差し出す。これを条件に安鶴丸に家督をつがせてほしい」と願い出た。島津久豊はこれを聞き入れる。

伊作氏はなんとか命脈を保つも、所領を失う。

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島津久豊(奥州家)が亡くなったあと、南九州はまたも乱れる。抑え込まれていた反抗勢力が再び蜂起する。9代当主の島津忠国は反乱を抑えられず、重臣たちの支持を失って追放。かわりに島津用久(もちひさ、名は「好久」「持久」とも、久豊の次男)が擁立される。そして、この兄弟はしばらく対立する。

島津忠国派と島津用久派が対立する中で、味方を得るためにそれぞれが恩賞合戦を展開。永享5年(1433年)に島津用久が伊作安鶴丸(伊作教久)を旧領の伊作に戻した。伊作氏は領主として復活した。島津用久は伊作氏に恩を売り、自陣営に引き入れたのである。

なお、島津用久はのちに薩摩国出水(いずみ)などの広大な所領を得る。島津用久を祖とする系統は「薩州家(さっしゅうけ)」と呼ばれ、分家の中でもひときわ大きな力を持つようになる。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立

 

伊作勝久の娘は、島津忠国の長男を産んでいた。しかし、奥州家の家督はついでいない。伊作氏は島津用久派として動いていたため、後継者から外された可能性もある。10代当主となったのは次男の島津立久(たつひさ)だった。こちらの母は忠国派として活躍した新納氏の出身である。

伊作勝久の娘が生んだ子は島津友久(ともひさ)と名乗り、田布施に所領を得て分家を立てた。受領名が「相模守」であったことから「相州家(そうしゅうけ)」という。

伊作教久は嘉吉2年(1442年)に若くして没し、嫡男の犬安丸が1歳で家督をついだ。そして、この犬安丸も長禄2年12月(1459年1月)に急死する。嫡流は断絶する。

伊作氏は島津忠国の三男の亀房丸を養子に迎え、犬安丸の妹を娶らせて当主に擁立した。伊作久逸(ひさやす)である。

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伊作久逸は当主の島津立久の弟でもあり、頼りにされた。島津立久は日向の伊東(いとう)氏への備えとして、日向国櫛間院(くしまいん、宮崎県串間市)へ伊作久逸を移して守らせた。

島津立久の治世は比較的安定していたが、その死後はまたまた乱れる。文明6年(1474年)に島津忠昌(ただまさ、立久の子)が12歳で当主になると、領内では反乱が頻発する。ときには分家や一門衆も反発した。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(6)分家の台頭、三州大乱へ

 

文明16年(1484年)、伊作久逸は反乱を起こす。日向の伊東氏や北原氏と結んで、新納忠続の守る飫肥(宮崎県日南市)に侵攻した。伊作久逸に呼応して薩摩国でも反乱が勃発し、大乱となっていった。反乱は翌年に収束し、飫肥の合戦に敗れた伊作久逸は降伏する。島津忠昌により旧領の伊作に戻された。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(7)伊作久逸の乱、祁答院の戦い

 

 

島津忠良が相州家へ、そして南九州の覇者に

伊作久逸の嫡男は伊作善久(よしひさ)という。妻は新納是久(これひさ、新納忠続の弟)の娘で、名は常盤(ときわ)とも伝わっている。明応元年(1492年)に伊作善久の嫡男が生まれる。菊三郎と名づけられた。のちの島津忠良(ただよし)である。

明応3年(1494年)、伊作善久は馬丁に殺害される。さらに、明応9年(1500年)に伊作久逸が薩州家の加世田を攻めた際に戦死する。菊三郎はまだ幼く、母の常盤が伊作城を守った。

相州家2代の島津運久(ゆきひさ、友久の子)は伊作氏を支援する。相州家初代の島津友久の母の実家が伊作氏であったし、島津友久と伊作久逸は兄弟でもある。島津運久と伊作善久は従兄弟の間柄だ。

島津運久は未亡人常盤を妻に迎え入れ、菊三郎を養子とした。島津運久が惚れ込んでしつこく求婚したとも伝わる。

永正3年(1506年)、菊三郎は伊作城で元服して、伊作氏の家督をついだ。さらに永正9年(1509年)には島津運久より相州家の家督を譲られる。名乗りを島津忠良とした。島津忠良は田布施の亀ヶ城(かめがじょう、田布施城とも、場所は南さつま市金峰町尾下)に入城する。

伊作氏は相州家に吸収された。その一方で、島津忠良は有力分家のひとつである相州家の当主として島津家中でも高い地位を得た。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(8)守護支配の崩壊、乱世に島津忠良が誕生

 

14代当主の島津忠兼(ただかね、島津勝久、かつひさ)は領内を治める力はなく、国老衆は新たな当主の擁立をはかる。大永6年(1526年)、島津忠良(相州家)が政務を代行することとなる。そして、忠良の嫡男の虎寿丸が島津忠兼の後継者とされる。虎寿丸は元服して島津貴久(たかひさ)と名乗った。島津忠兼は隠居地として伊作城を求め、こちらへ移っていった(追放された?)。

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しかし、薩州家がこの政変に反発した。島津忠良が遠征に出た隙を衝いて、相州家の城と島津貴久のいる鹿児島を攻めた。また、伊作城に隠居していた島津忠兼のもとに使いを送って、守護復帰を促した。島津貴久は鹿児島を脱出して田布施へと逃げた。薩州家は鹿児島を制圧し、島津勝久(忠兼、この頃に改名)を守護として迎え入れた。

大永7年(1527年)、島津忠良は伊作城に夜襲をかけて奪還する。これより伊作城を居城とし、島津実久(さねひさ、薩州家当主)に対抗することになった。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

 

実際に伊作城を散策してみて、かなり守りが固い印象だった。これを落とすのは難しいと思われる。たぶん、島津忠良はもともと居城としていたことから城を知り尽くしていた。そうであったからこそ、落とせたのだと思う。また、田布施城ではなくこっちを居城としたのも、その防御力を見込んでのことだったのだろう。

天文2年(1533年)、島津忠良は日置の南郷城(なんごうじょう、日置市吹上町永吉)を攻めて、陥落させる。この勝利を皮切りに盛り返していくのだ。薩州家方の支配下にあった城をどんどん落とし、鹿児島を奪う。天文8年(1539年)に紫原の合戦で薩州家を破り、加世田でも勝利する。この抗争の大勢は決した。

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【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)島津忠良・島津貴久の南薩摩平定

 

その後は島津貴久が15代当主となり、島津氏は南九州を制圧していくことになる。

 

 

 

<参考資料>

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか