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志布志城跡にのぼってみた、いくたびも争奪戦が繰り返された要衝

志布志市志布志町帖(しぶしししぶしちょうちょう)にある志布志城(しぶしじょう)跡にのぼってみた。2021年3月某日訪問。

南北朝時代から戦国時代にかけて(14世紀~16世紀)、南九州は戦乱続きだった。そんな中で志布志城では争奪戦が展開。城主は楡井(にれい)氏、畠山(はたけやま)氏、新納(にいろ)氏、島津氏(豊州家)、肝付(きもつき)氏、島津氏(宗家)と変遷していった。

 

志布志城は内城(うちじょう)・松尾城(まつおじょう)・高城(たかじょう)・新城(しんじょう)の4つの山城からなる。このうち内城跡は山城の痕跡をよく残している。国史跡に指定されていて、遊歩道の整備もいきとどいている。松尾城跡にも登山道があり、城郭の一部を歩くことができる。

 

 

 

 

 

松尾城へ、もともとはこっちが本城

山城群の谷間には集落が形成されていて、江戸時代には「志布志麓(ふもと)」という武家町が広がっていた。鹿児島藩(薩摩藩)には「外城制」という仕組みがあり、武士団を地方に分散させて住ませた。地方統治の拠点であるとともに、藩外からの攻撃を想定した防衛拠点でもあった。

川越しに山城跡が見える

志布志城(内城)跡、宝満寺跡から見る

 

志布志麓は「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」として、文化庁の日本遺産に指定。また、3つの庭園が国の重要文化財に指定されている。小学校近くに観光向けの駐車場もある。車をこちらに置いて、散策へ向かう。

 

まずは松尾城を目指す。駐車場から志布志麓のほうに向かうと、道が二又に分かれる。向かって左(北西方向)に行くと松尾城の登山口がある。

松尾城は、志布志城の城郭群で最初に本城とされていた。南北朝の争乱期に南朝方として活躍した楡井頼仲(にれいよりなか)がここを居城とした。のちに島津氏のものとなり、新納時久(にいろときひさ)が入った。

松尾城の登山口。標柱があるのでわかりやすい。石柱には「楡井頼仲御居城址松尾城」の文字がある。

道路沿いに白い標柱と石の標柱がある

松尾城への入口

 

坂道を登っていくと、城跡へ入っていける。こちらは搦手口になる。「西谷口」や「他来口(たれんぐち)」とも呼ぶそうだ。足を踏み入れると、人の手が入っていることがよくわかる。かなり掘り込まれている。

「松尾城入口」の標柱のある場所か山に入る

松尾城搦手口

山を人口敵に削ってある

松尾城登山口近くの堀切

深く掘り込んである

空堀を奥へ進む


松尾城の東丸へと登っていく。古い石垣もあったが、いつ頃のものかはわからない。

木の根が石垣を抱える

石垣があるのは、東丸の虎口付近か

 

東丸には「楡井頼仲卿之碑」がある。昭和3年(1928年)に楡井頼仲に正五位の贈位があり、そのことを記念して昭和10年(1935年)に建立された。碑の背面には「大楠公六百年祭ニ當リ建碑」「楡井頼仲卿歿後 實ニ 五百七十九年」と刻まれている。揮毫は陸軍中将・貴族院議員の菊池武夫(きくちたけお)。南朝方の功臣である肥後(現在の熊本県)の菊池氏の末裔である。

曲輪跡に記念碑と小さな祠がある

松尾城の東丸

立派な石造りの顕彰碑

「楡井頼仲卿之碑」

 

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松尾城跡はさらに奥へと続いているが、この先への道はみあたらなかった。15分ほどの散策で下山した。写真は松尾城の入口近くの風景。武家町の風情が残っている。

麓の街並みと山城跡

生垣が素敵な街並み、写真奥の山は高城

 

志布志麓にはあちこちに湧水があり、道に沿って水路もある。写真は松尾城下の「御前の水」。島津の殿様(具体的に誰かはわからず)に献上され湧き水であることから、そう呼ばれているという。

こんこんと水が湧く

志布志麓の「御前の水」

 

 

 

つづいて内城へ、激戦の面影を残す

松尾城をあとにして、いったん駐車場のほうへ戻る。前述した分かれ道で、もう一方(北東方向)へ足を進める。こちらも武家町の風情が感じられる。写真手前の武家門を入ったところにある庭園は、国の重要文化財にも指定されている。

江戸時代の武家町の風情を残す

志布志麓

 

松尾城が手狭になったようで、のちに内城を本城とするようになった。当初は尾根の先端あたりのみを城としていたが、歴代城主が尾根の付け根のほうへ城域を広げていった。結果、内城だけでもかなりの規模となっている。

 

しばらく進むと、「国指定史跡 志布志城(内城)跡」の看板がある。ここが入口だ。

道路沿いに「国指定史跡 志布志城(内城)跡」の看板

看板があるのでわかりやすい

 

入口を登っていくと、志布志城の説明看板がある。ここで、『志布志城ポケットガイド』を入手可能だ。折りたたまれて長辺が10㎝ちょっと。広げるとA4サイズの散策マップになる。これが城歩きでとっても頼りになるのだ。

ガイドマップ『志布志城郭ポケットガイド』

志布志城(内城)跡のポケットガイド

 

細い通路を進んでいくと登城口。ここは大手口になる。散策路の要所には地図もあり、安心して歩きまわれる。

標柱「志布志城(内城)跡入口」と案内地図

内城の大手口

 

ちょっと歩くと、開けた場所に出る。この曲輪は「矢倉場(やぐらば)」と呼ばれている。ここには、防御のための建物があったと推測されている。一段下には小学校が見える。小学校の敷地は、江戸時代の御仮屋(おかりや、地方行政の拠点)跡である。

曲輪跡の広い空間

内城の矢倉場跡

 

矢倉場には新納時久(にいろときひさ)の墓もある。家臣の墓碑も寄り添うように並んでいる。新納時久は、志布志城の城主であった新納氏の初代。明治9年(1876年)に新納氏の末裔の方が建立したものだそうだ。

立派な墓碑がある、背後には家臣の墓も

新納時久の墓碑

 

ちなみに、明和元年(1764年)に矢倉場に鐘楼が設けら、時を報じていた。鐘楼は明治10年(1877年)の西南戦争の際に、大砲鋳造のために持ち出されたという。

矢倉場から本丸へ向かう。迫力のある堀切を抜けて奥へ。

山中の掘り込まれた地形

内城の堀切

 

本丸跡に到着。樹木が建ち並ぶものの、広めの平地がある。曲輪の北側には高い土塁もある。そこには石段があって、登ると城の守護神である三宝荒神の祠がある。祠には「寛政五年(1793年)」と刻字があった。土塁の上はそれなりの面積があり、物見櫓のような建物があったとも推測されている。

木立が続く曲輪跡、手前に「本丸」の小さな看板

内城の本丸跡

石段を登ると小さな祠がある

土塁の上に三宝荒神

 

ガイドマップを見ると「展望スポット」とあったので、そちらを目指してみる。そこは本丸から一段下がった曲輪だった。このあたりも発掘調査で柱の跡が見つかっていて、何かしらの建物があったようだ。視界が開けた場所があり、志布志の街並みや港がよく見える。

志布志の街並みを一望

志布志城からの眺め、港には「さんふらわあ」

 

本丸から山の西側へ下りる。ここには大空堀がずっと続いていた。大空堀に沿って奥へ行くと、「中野久尾(なかのくび)」と呼ばれる曲輪。さらに奥には開けた場所があって、そこは「大野久尾(おおのくび)」と呼ばれている。大野久尾はかなり広いが、もともとは空堀で分けられた2つの曲輪であったようだ。

迫力のある大空堀

内城の大空堀

開けた空間が広がる

内城の大野久尾

 

大野久尾と中野久尾との間くらいに集落に下りる道があり、そちらから下山した。「田屋敷」バス停近くに出る。散策時間は50分ほどだった。

 

 

志布志の歴史

古くは志布志のあたりを救仁院(くにのいん)と呼んでいて、日向国諸県郡に属していた。現在は、鹿児島県の東の端っこ。宮崎県串間市と隣接する県境の町である。

ちなみに、「志布志」の由来については、志布志町安楽の山宮神社(やまみやじんじゃ)の伝承がある。山宮神社の主祭神は天智天皇。志布志には天智天皇行幸の伝説が残る。天智天皇がこの地にあるときに、この土地の有力者の妻と侍女からそれぞれ布が献じられた。それで、天皇は「上下の志が厚い」と喜ばれて、「志布志である」と言われたそうだ。

 

「志布志」という言葉が記録に出てくる最初のものは、正和5年(1316年)の『沙弥蓮正打渡状案』という古文書。これに「日向方島津御庄志布志津」と記されている。「志布志津」とあり、つまりは港である。

志布志城は山城ながら、すぐ近くは海だ。志布志は港町である。古代から海上交通の要衝であり、軍事拠点として重要な場所であった。現在も国の「中核国際港湾」および「重要港湾」に指定されている。

重要な場所であるからこそ、ここでは戦いも多かった。

 

このあたりの領主として最初に名前が確認できるのが、平安時代末期の救仁院(くにいん)氏である。平姓を称し、 薩摩平氏の流れとされる。島津荘(しまづのしょう)を開墾した平季基(たいらのすえもと)も同族とする説もある。救仁院のかなりの範囲が島津荘に属していた。建久元年(1190年)頃の「救仁院平八成直に弁済使職を安堵する」という内容の源頼朝の下文も残っている。その後、救仁院氏は弁済使職を取り上げられ、没落したと見られる。

 

鎌倉幕府から地頭職には惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)が補任された。その後、島津忠久は日向国・大隅国の所領を失い、代わりに北条氏の支配下となった。

南北朝の争乱期へ入ると、大隅国や日向国南部のかなり広い範囲が肝付氏の勢力下にあったと見られる。救仁院もまたそうであった可能性は高い。肝付氏は伴姓で、大隅国肝属郡高山を本拠地とする。肝付兼重(きもつきかねしげ)は建武2年(1335年)頃から暦応3年・興国元年(1340年)頃まで、大隅国の南朝方の中心人物として活躍した。建武3年(1336年)に志布志城の肝付氏が重久(しげひさ)氏に攻められたという記録があり、これが史料における「志布志城」の初見である。

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その後、肝付氏は北朝方に敗れて勢いを失い、かわって台頭したのが楡井氏であった。楡井氏は当初は北朝方だったが、のちに南朝方に転じる。正平2年(1347年)頃に楡井頼仲が挙兵し、畠山直顕(はたけやまただあき、日向国守護)が率いる北朝方と激戦を繰り広げた。

楡井頼仲は志布志城を本拠地とした。当時は松尾城が本城だった。楡井氏は、信濃国高井郡楡井邑(現在の長野県須坂市仁礼)を発祥とする信濃源氏であると伝わる。志布志にやってきた時期や経緯についてはよくわかっていない。

戦いは大隅半島のあちこちで展開するが、最終的には北朝方が楡井氏の城を陥落させる。観応2年・正平6年(1351年)旧暦8月に志布志城が落城し、楡井頼仲は逃亡した。志布志城は畠山氏の支配下となった。

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(4) 観応の擾乱の波紋

 

文和元年・正平7年(1352)年、楡井頼仲が大姶良城(おおあいらじょう、現在の鹿児島県鹿屋市大姶良町)で再び挙兵。北朝方に抵抗するも、文和3年・正平9年(1354)年に大姶良城は落城する。そして、延文2年・正平12年(1357年)に楡井頼仲は三度の挙兵。最後は志布志城(松尾城)にたてこもった。城は落ち、楡井頼仲は志布志の大慈寺(だいじじ)で自刃した。楡井氏は滅亡する。

大慈寺は興国元年・暦応3年(1340年)に楡井頼仲によって創建された。楡井頼仲の墓もここにある。

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楡井氏滅亡のあと、松尾城の城主には島津氏庶流の新納実久(にいろさねひさ)が入った。新納氏は島津忠宗(しまづただむね、4代当主)の四男・時久にはじまり、名乗りは日向国新納院(現在の宮崎県児湯郡・日向市)の地頭であったことに由来する。この頃、島津氏と畠山氏は激しく対立。大隅守護・島津氏久(うじひさ、6代当主、奥州家)も鹿児島から出兵し、志布志内城の畠山氏を攻め、志布志から追い出すことに成功した。これ以来、約180年にわたって新納氏が志布志を治めた。一時は、島津氏久や島津元久(もとひさ、7代当主、氏久の嫡男)が内城を本拠地とし、島津氏の大隅制圧の拠点にもなった。

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島津貞久(さだひさ)は守護職を2人の息子の相続した。これにより島津本宗家は分裂。薩摩国守護を継承した島津師久(もろひさ、貞久の三男)の総州家、大隅国守護職を継承した島津氏久(貞久の四男)の奥州家が並び立つ。両家は協力して南北朝争乱期を乗り切るが、やがて争うようになった。14世紀末に南北朝争乱が終結したあとも、南九州では内乱がずっと続いていく。15世紀末頃には島津本宗家の支配力は弱まり、島津氏分家が台頭してくることになる。

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15世紀半ば頃、日向国の伊東氏も勢力を広げつつあった。これに対抗するために島津氏側は志布志周辺に有力分家を配置する。救仁院志布志領主の新納忠続(にいろただつぐ、新納氏4代)を日向国飫肥(おび、現在の宮崎県日南市飫肥)に入れ、本領の志布志城は新納是久(これひさ、忠続の弟)に任された。また、飫肥と志布志の間の櫛間(くしま、現在の宮崎県串間市)は伊作久逸(いざくひさやす)に任された。伊作久逸は本宗家の生まれである。9代当主・島津忠国(ただくに)の三男で、伊作氏に養子入り。本領は薩摩国伊作(いざく、現在の鹿児島県日置市吹上)である。

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文明16年(1484年)、櫛間の伊作久逸が新納忠続と対立。伊作久逸は伊東氏と結んで反乱を起こし、新納忠続のいる飫肥を攻めた。志布志城の新納是久は娘を伊作善久(よしひさ、島津善久、久逸の子)に嫁がしていたこともあり、伊作氏に味方した。新納勢は両軍にわかれて戦うこととなった。反乱は鎮圧され、伊作久逸(島津久逸)は降伏。櫛間から伊作に帰らされた。新納忠続は志布志城に戻り、櫛間と飫肥には島津忠廉(ただかど、豊州家)が新たに入った。

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新納是久は戦死した。是久の娘のは名は常盤(ときわ)とも伝わる。常盤は夫とともに伊作へ移り、一男二女を産んだ。その嫡男が島津忠良(しまづただよし、島津日新斎)である。のちに島津氏の主導権を握り、守護職を相続した子の島津貴久(たかひさ)、孫の島津義久(よしひさ)が南九州の主となっていく。

 

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内乱は続く。島津本宗家の力は弱く、分家や国人たちは従わなくなっていく。永正3年(1506年)、11代当主・島津忠昌が高山城(こうやまじょう、現在の肝属郡肝付町高山)の肝付兼久(かねひさ)を攻めると、志布志の新納忠武(ただたけ、新納氏5代、忠続の子)は肝付氏に味方して援軍を送った。さらに永正16年(1519年)、忠武は14代・島津忠兼(ただかね、のちに「島津勝久」と改名)と戦った。新納忠勝(ただかつ、新納氏7代、忠武の子)も島津忠兼(島津勝久)に反抗した。

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新納氏は近隣の領主とも対立。飫肥・櫛間の島津氏豊州家や日向国庄内(しょうない、現在の宮崎県都城市)の北郷氏(ほんごう、島津支族)、大隅の肝付氏などと争う。天文7年(1538年)、島津忠朝(ただとも、豊州家)・北郷忠相(ほんごうただすけ)・肝付兼続(かねつぐ、肝付氏16代)らが志布志を攻撃。新納氏の諸城は落ち、新納忠茂(ただしげ、忠勝の子)は降伏。新納氏は所領を失った。志布志城は豊州家のものとなった。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

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豊州家は、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)や大隅国の肝付兼続と交戦する。永禄3年(1560年)、豊州家5代・島津忠親(ただちか)は鹿児島から島津貴久の次男を養子に迎え入れた。島津義弘(よしひろ、この時点では「忠平」と名乗る)である。島津忠平(島津義弘)は飫肥城に入り、伊東氏への備えとした。しかし、豊州家は持ちこたえることができず、永禄5年(1562年)に飫肥城を明け渡して伊東氏と和睦する。島津忠平(島津義弘)は養子縁組を解消し、鹿児島に戻った。

また、肝付氏が志布志を攻め、こちらも奪われる。豊州家は櫛間を残して大幅に所領を削られる。その後も南日向での戦いは続き、豊州家は櫛間も失ってこの地を去ることになる。

 

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志布志城には肝付良兼(よしかね、肝付氏17代、兼続の嫡男)が入城。永禄7年(1564年)には、肝付兼続は志布志城を隠居所と定めてここを居城とした。永禄9年(1566年)に兼続は志布志で没している。

大慈寺近くの下小西公園内に肝付兼続の墓碑もある。現在の墓碑は天明2年(1782年)に再興したもの。

公園の一角にある仏塔

肝付兼続の墓

肝付氏は大隅国から日向国にかけて広大な領地を獲得し、島津氏とも一進一退の攻防を展開した。しかし、やがて島津氏側が優勢となる。肝付兼亮(かねあき、かねすけ、肝付氏18代、兼続の次男)は抵抗するが、天正2年(1574年)に肝付氏は降伏。大隅も島津の勢力下となった。また、島津氏は伊東氏も下し、日向国にも勢力を拡大した。志布志は島津宗家の直轄地となり、天正5年(1577年)には地頭として鎌田政近(かまだまさちか)が志布志城に入った。

その後は島津領内の外城(とじょう)のひとつとなる。慶長20年(1615年)に幕府が一国一城令を出し、志布志城は廃城となった。

 


<参考資料>

『志布志町誌 上巻』
発行/志布志町役場 1972年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

ほか