ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

新納氏は14世紀から続く、じつは南九州の歴史のカギを握る一族!?

戦国時代の島津氏の家臣には、新納氏の名が見える。それなりに知られている人物としては新納忠元(にいろただもと)とか、新納旅庵(にいろりょあん)とか……。新納氏は島津氏の支族で、その歴史は14世紀の南北朝争乱期よりはじまる。

新納氏についてあらためて調べてみると、島津氏の歴史にものすごく絡んでくるのである。また、島津本宗家にはけっこう新納氏の血が入っていたりもする。

 

なお。日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

 

足利尊氏から新納院を与えられる

島津氏4代当主の島津忠宗(しまづただむね)には7人の息子の名が伝わっている。その四男の島津時久(ときひさ)が新納氏の祖だ。

ちなみに、嫡男の島津貞久(さだひさ)が5代当主。次男は和泉(いずみ)、三男は佐多(さた)、五男は樺山(かばやま)、六男は北郷(ほんごう)、七男は石坂(いしざか)をそれぞれに名乗った。


元弘3年・正慶2年(1333年)に鎌倉の幕府が滅亡し、後醍醐天皇の新政府が樹立してすぐに崩壊し、建武3年(1336年)に足利尊氏が武家政権を樹立する。3年ちょっとの間に、情勢が目まぐるしく動いた。その中で、島津貞久は足利尊氏に従った。島津時久も兄とともに転戦した。

島津時久は足利尊氏から守護装束を賜っている。京や鎌倉での軍功を賞してのことだった。また、貞久と時久は「両島津」と並び称されとも。

建武2年12月11日(1336年1月)に、島津時久は足利尊氏より知行を与えられる。日向国新納院(にいろいん、現在の宮崎県児湯郡の東部、日向市の一部)の地頭職に任じられた。「新納」という名乗りは、これに由来する。

そして、新納院高城(にいろいんたかじょう、児湯郡木城町)を整備し、居城にしたという。

街並みと山城跡

新納院高城、木城町役場前から

 

後年、新納院高城は島津氏にとって大きな戦いが二度あった場所でもある。

天正6年(1578年)の「高城川の戦い(耳川の戦い)」では、島津義久(よしひさ)と大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)の軍が激突。この戦いに勝利した島津氏の勢いは九州全土へと広がった。

もうひとつは天正15年(1587年)の戦い。豊臣秀長の大軍が高城を囲んだ。島津方は根白坂(ねじろざか、高城からやや南)で決戦に挑むが大敗。その後、島津氏は豊臣秀吉に降伏した。

 

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志布志の領主

南北朝の争乱は長期化し、南九州は14世紀末まで混沌とした情勢が続いた。観応元年・正平5年(1350年)には足利直冬が反乱を起こして九州で勢力を広げ、事態はさらに複雑化した。島津氏は当初は北朝方(幕府方)にあったが、南朝に転じたり、また北朝に戻ったり、またまた南朝に転じたりと立ちまわる。その中で新納氏も島津氏に従った。

幕府は足利一門の畠山直顕(はたけやまただあき)を南九州の攻略のために派遣していた。島津貞久・島津氏久(うじひさ、貞久の子、大隅守護を譲られる)は初めのうちは協力していたが、畠山氏と対立するようになる。大隅国・日向国の覇権をめぐって争った。

畠山直顕は足利直冬と同調する。観応元年・正平5年(1350年)に新納院高城を攻撃して陥落させた。このとき、新納時久は在京中であった。新納院を失った新納時久には、島津貞久により新たに薩摩国薩摩郡高江(現在の鹿児島県薩摩川内市高江町のあたり)が与えられたという。

 

島津氏久と畠山直顕の抗争は続き、次第に島津方が優勢となっていく。延文2年・正平12年(1357年)頃に島津氏と畠山氏は日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)で戦った。志布志城の内城(志布志城の城郭群の本城にあたる、志布志市志布志町帖)にある畠山勢に対し、島津氏久は松尾城(志布志城の城郭群のひとつ)に新納実久(さねひさ)を入れて守らせた。新納実久は新納時久の子。新納氏の2代目にあたる。

畠山勢との戦いに勝利したのち、島津氏久は貞治4年(1365年)頃から志布志城(内城)を本拠地とした。ここで大隅・日向方面の経営をすすめた。新納実久は引き続き松尾城が任された。島津氏久の信任も厚かったことが想像される。

その後、島津氏久は九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と対立する。永和5年・天授5年(1379年)2月28日には日向国の都之城(みやこのじょう、宮崎県都城市都島町)近くで合戦となった(蓑原合戦)。島津方は軍を3つに分けて攻撃し、その一軍を新納実久が率いた。

至徳4年・元中4年(1387年)頃、島津元久が薩摩国鹿児島(現在の鹿児島市)に居城を移す。志布志は新納実久に任された。

 

山城跡の石塔

志布志城跡、新納時久の墓塔もある

 

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新納忠臣

島津貞久はふたりの息子に守護職を分けて相続する。三男の島津師久(もろひさ)に薩摩国守護を、四男の島津氏久に大隅国守護を譲った。師久の系統を総州家(そうしゅうけ)、氏久の系統を奥州家(おうしゅうけ)という。当初、両家は協力していたが、のちに争うようになる。奥州家の島津元久が勝利し、大隅国・日向国に加えて薩摩国の守護職も手にした。

島津元久の死後、奥州家では家督相続問題が起こる。元久の弟の島津久豊(ひさとよ)が強引に家督を継承し(8代当主になる)、反抗勢力と激闘を繰り広げた。島津久豊はやり手であった。薩摩国・大隅国を平定した。日向国の攻略に取りかかったところで、応永32年(1425年)に没する。

島津久豊亡きあと、南九州はふたたび乱れる。9代当主の島津忠国(ただくに)は父の遺志をついで日向攻略を目指すが、薩摩で国一揆が起こるなど領内は混乱。収拾がつかなくなったところで島津忠国は追放され、かわりに島津用久(もちひさ、忠国の弟)が守護代に擁立された(守護についたとも)。島津忠国は覇権を奪い返そうと動く。島津用久との抗争がはじまる。

 

島津忠国は日向国南部や大隅国北部の領主を味方につけた。新納忠臣(にいろただおみ、実久の子、新納氏3代)も島津忠国を支援した。

嘉吉元年(1441年)、幕府に追われていた大覚寺義昭(だいかくじぎしょう、足利尊有)が日向国に潜伏していることが発覚する。義昭(足利尊有)は、将軍の足利義教の弟。謀反を疑われて逃走していた。幕府から島津忠国に追討命令が下され、追討軍に新納忠続(ただつぐ、忠臣の孫)も加わった。

義昭を討った島津忠国は幕府から信用を得る。島津用久派に対して優位に立った。ついには、島津用久を鹿児島から追い出して復権する。島津忠国はさらに弟を攻めようとするが、新納忠臣が諫めて和睦をすすめた。その後、新納忠臣が仲介役となり、兄弟は和解した。

なお、島津用久は有力分家のひとつの薩州家(さっしゅうけ)の祖となる。

 

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島津本宗家の外戚になる

新納忠臣は、娘を島津忠国に嫁がせている。正室だったと思われる。新納氏は大きな力を持ち、島津忠国の支援者の中でもとくに影響力が強かったことだろう。また、新納忠続(忠臣の孫)は島津忠国の娘を妻とし、こちらでも縁戚となっている。

島津忠国は、伊作勝久(いざくかつひさ)の娘も妻に迎えていた。伊作氏も島津支族である。薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)を拠点にしていた。伊作氏は島津久豊の時代に没落していたが、島津用久の取り計らいで再興。伊作教久(のりひさ、勝久の子)は失っていた所領も取り戻していた。そんな事情もあり、伊作氏は島津用久の支援者であった。

 

島津忠国の長男は島津友久(ともひさ)といい、母は伊作氏だ。次男は島津立久(たつひさ)といい、母は新納氏だ。後継者に立てられたのは島津立久である。次男のほうだった。支援者であった新納氏の血筋を、島津忠国は重視したのだろう。

のちに島津友久は薩摩国田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰)に領地を与えられて分家を起こす。相州家(そうしゅうけ)と呼ばれる。


伊作家では伊作教久が若くして亡くなる。後継者の犬安丸も早世する。そこで、島津忠国の三男の亀房丸が、伊作教久の娘を娶って養子入りすることになった。元服して伊作久逸(いざくひさやす)と名乗る。伊作家の系図によると、伊作久逸の母は新納忠臣の娘とのこと。

 

 

 

新納氏と伊作氏

島津忠国はまたも追放される。強引な所領替えなどもあって、家臣団の支持を失ったことが理由とも。島津立久は重臣と謀り、父から実権を奪った。

島津立久は日向の伊東氏の備えとして、実弟の伊作久逸を日向国櫛間(くしま、宮崎県串間市)に移した。その時期は、文明2年~文明6年(1470年~1474年)頃とされる。

新納忠続(新納氏5代)は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)を守る。本領の志布志は弟の新納是久(にいろこれひさ)に任された。新納氏領の間に伊作氏領が割り込むような位置関係であった。

 

島津立久の治世においては、南九州の情勢は安定していた。しかし、文明6年(1474年)に島津立久が没すると、またも乱れる。家督をついだのは島津忠昌(ただまさ、立久の子)だった。まだ12歳(数え年)である。国政を家老たちが代行するが、これに不満をもった一門衆が反乱を起こす。乱が鎮圧されたあとも、各地の領主が勝手に勢力争いをするようになっていく。

そんな情勢の中で、新納氏と伊作氏に不和が生じる。文明16年(1484年)、新納忠続は本宗家に島津久逸を旧領に戻すよう願い出た。本宗家はこの申し出を受け入れ、伊作久逸に伊作へ移るよう命じる。伊作久逸は従わず。そして、伊東祐国(いとうすけくに)らと手を組んで、反乱を起こすのである。

志布志の新納是久は伊作久逸についた。新納氏の兄弟でも対立があったのだろうか? ちなみに、新納是久の娘は伊作善久(よしひさ、久逸の子)に嫁いでいる。縁戚関係にある。

伊作久逸・新納是久・伊東祐国は飫肥に攻めかかった。また薩摩国北部でも祁答院重度(けどういんしげのり)・北原立兼(きたはらたつかね)・入来院重豊(いりきいんしげとよ)・菱刈氏重(ひしかりうじしげ)らも呼応した。南九州は大乱となった。

 

反乱は文明17年に鎮圧される。伊作久逸は降伏した。伊東祐国・新納是久は戦死。伊作久逸は旧領の伊作に戻ることになった。伊作家に嫁いでいた新納是久の娘も伊作に移った。

飫肥と櫛間は豊州家(ほうしゅうけ、島津氏の分家のひとつ)の島津忠廉(ただかど)が入ることになった。新納忠続は本領の志布志に戻る。

 

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肝付氏の外戚にもなる

肝付兼元(きもつきかねもと)も、新納忠臣の娘を正室に迎えていた。肝付氏は大隅国肝属郡(現在の鹿児島県肝付町のあたり)に大きな勢力を持つ。新納氏の血が入った子が当主となり、こちらでも外戚となる。のちに肝付家で家督をめぐる争いが起こると、新納氏がこれに介入したりもした。

ちなみに17世紀初めに肝付氏の嫡流が途絶え際には、遠縁である新納氏から養子が入っている。

 

 

 

新納是久の娘(常盤)

伊作家に嫁いだ新納是久の娘は、島津家の歴史において重要人物のひとりだったりする。名は常盤(ときわ)とも伝わる。

常盤は伊作で女子をふたり産んだあと、明応元年(1492年)に男子を生む。菊三郎と名付けられた。のちの島津忠良(しまづただよし)である。

木立の中に石碑が立つ

伊作城跡、島津忠良の誕生碑や誕生石もある

 

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伊作家では不幸が続く。明応3年(1494年)に伊作善久が馬丁に殺害された。さらに明応9年(1500年)には、伊作久逸が薩州家の領内に攻め入った際に戦死する。

まだ菊三郎は幼く、常盤が当主を代行した。伊作家は相州家の支援を受けて、なんとか家を保っていた。相州家の島津運久(ゆきひさ)は伊作家の吸収を画策。菊三郎を相州家の後継者とすることを条件に、常盤に再婚を申し入れた。伊作家はこれを受けた。

菊三郎は永正9年(1512年)に相州家の家督を譲られ、「島津相模守忠良」と名乗る。

 

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新納忠澄と新納康久

新納忠澄(にいろただすみ)は、常盤に請われて伊作に来た。この人物は新納是久の孫で、常盤の甥にあたる。学問にすぐれた若者で、菊三郎の学問を見た。その後の活躍についてはよくわらない。『本藩人物誌』によると、永禄2年(1559年)に田布施で病没したとのこと。けっこう長生きしたようである。

 

忠澄嫡男の新納康久は、島津忠良・島津貴久(たかひさ、忠良の子)の家老となる。天文8年(1539年)の加世田城攻めなどで活躍した。のちに薩摩国市来(いちき)の地頭に任じられ、市来城(いちきじょう、鹿児島県日置市東市来町長里)を守った。

天文19年(1550年)には、フランシスコ・ザビエルが市来城を訪れている。新納康久は歓待し、妻をはじめ家族が洗礼を受けた。家臣にも受洗したものがあった。現在、鶴丸城跡(市来城の本城)にはザビエルの像もある。

 

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新納家嫡流の隆盛と没落

15世紀末になると島津本宗家の支配力はさらに弱まり、南九州は群雄割拠の様相に。志布志の新納忠武(ただたけ、忠続の甥、新納氏7代)も独自に動く。

新納氏のまわりには日向国飫肥・櫛間の豊州家、三俣院(みまたいん、宮崎県西諸県郡三股町のあたり)にまで勢力を広げていた伊東氏、庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)の北郷氏、真幸院(宮崎県えびの市・小林市)の北原氏などがあった。大隅国には本田氏や肝付氏も。それぞれで手を組んだり、あるいは対立したりしながら、勢力争いを繰り広げた。

 

永正3年(1506年)、高山城(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)の肝付兼久(かねひさ)が反乱を起こすと、新納忠武はこれに協力する。前述のとおり肝付氏とは縁戚。肝付兼久の母も新納氏の出身である。島津忠昌は出兵して高山城を攻めるが、肝付軍と新納軍の挟み撃ちにあって敗れる。

永正5年(1508年)2月には島津忠昌が自殺。領内の統制がとれないことを悩んでのことだったとも。その後、島津忠昌のあとを継いだ長男と次男は相次いで亡くなり、永正16年(1519年)には三男の島津忠兼(ただかね)が当主となる。

新納忠武・新納忠勝(ただかつ、忠武の子、新納氏8代)は周囲の敵と争いながら、大隅国囎唹郡や日向国庄内にも勢力を広げていった。大永3年(1523年)には島津忠兼は志布志に出兵する。新納忠勝は槻野(つきの、鹿児島県曽於市大隅町月野)で迎え撃ち、守護方を大敗させた。


大永6年(1526年)秋、鹿児島で政権交代があった。島津忠兼は隠居し、相州家の島津貴久が後継者とされた。島津貴久はまだ若く、父の島津忠良がこれを後見し、国政の実権を握った。

だが、状況はすぐにひっくり返される。島津忠良の出征中に隙をつかれる。薩州家が鹿児島を奪い、島津忠兼を守護に復帰させた。なお、この頃に忠兼は島津勝久(かつひさ)と改名する。

その後、島津勝久は薩州家と不和になり、戦いに敗れて出奔。鹿児島は薩州家の島津実久(さねひさ)がおさえた。また、相州家も巻き返しをはかる。島津勝久(奥州家)・島津実久(薩州家)・島津貴久(相州家)による覇権争いが展開されていく。


薩州家は南日向の諸勢力に協力を求めた。北郷忠相(ほんごうただすけ)・島津忠朝(ただとも、豊州家)・本田薫親(ほんだただちか)らはこれに応じる。一方、新納忠茂(ただしげ、忠勝の子、新納氏9代)は応じない。抗争を続けていた北郷氏・豊州家との同調を拒んだとも。

まわりすべて敵。新納氏は孤立する。天文5年(1536年)頃から北郷氏・豊州家が新納氏領内へ進攻する。新納方は苦戦が続き、城を落とされていった。そして、天文7年(1538年)に志布志城が囲まれる。同年7月27日、志布志城は陥落。新納忠勝・新納忠茂は逃亡し、新納家嫡流は没落した。

 

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新納忠元

志布志が陥落し、新納一族は離散する。そんな中で新納祐久(すけひさ)が、田布施の島津忠良のもとへ落ちてきた。新納祐久は新納忠澄の甥にあたる。叔父を頼って仕官してきた。新納祐久は嫡男とともに島津忠良に見参する。その嫡男というのが新納忠元(ただもと)であった。大永6年(1526年)の生まれで、このとき13歳(数え年)。

その後、島津貴久は一族の抗争を制して覇権を握る。島津家の当主の座についた。

新納忠元は長じて島津貴久に仕え、天文14年(1545年)の郡山城(こおりやまじょう、鹿児島市郡山町)攻めで初陣を飾る。そこから転戦していくことに。

天文23年(1554年)からの大隅合戦では大隅国吉田の松尾城(まつおじょう、鹿児島市東佐多町)を守った。永禄5年(1562年)には横川城(よこがわじょう、鹿児島県霧島市横川町)攻めに参加。島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ、貴久の次男)らとともに陥落させた。

永禄10年~12年(1567年~1569年)の菱刈・大口(ひしかり・おおくち、鹿児島県伊佐市)攻めでは活躍の記録が多い。島津忠平(島津義弘)とともに馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈前目)を攻め落とす。大口城下では島津家久(いさひさ、貴久の四男)らとともに「釣り野伏」(囮部隊で誘い出して伏兵でたたく)を決めて、敵に大打撃を与えている。

大口城が島津氏のものとなったあと、新納忠元は大口地頭に任じられた。

 

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元亀3年(1572年)の木崎原の戦いの際には、援軍を率いて日向国真幸院まで駆け付けた。元亀4年(1573年)からは大隅国の牛根(うしね、鹿児島県垂水市牛根)攻めにも参戦した。

牛根の戦いのあと肝付兼亮(かねすけ)は降伏。その交渉は新納忠元に任されたとされる。新納忠元は肝付氏と縁がある。新納忠元の母と肝付兼純(肝付氏の一門)の母が姉妹であったという。

天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)の際は、肥後国球磨・水俣(くま・みなまた、熊本県人吉市・水俣市のあたり)にあった相良義陽の攻撃に備えて大口の守りを固めた。

天正7年(1579年)から島津義久(よしひさ、貴久の子、当主)は肥後国の攻略を進める。宝河内(ほうがわち、熊本県水俣市宝川内)・合志(こうし、熊本県合志市)・水俣・御船(みふね、熊本県宇城市)などの戦いにて、新納忠元は島津軍の主力を担った。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにも従軍する。

 

島津氏は九州制圧に向けて動くが、豊臣秀吉の大軍が押し寄せてくる。島津方は敵わず、天正15年(1587年)5月8日に島津義久は降伏する。島津義弘も5月19日に降伏した。

だが、新納忠元は降らない。大口城の守りをかためた。5月24日、豊臣秀吉は大口の南の天堂ヶ尾に陣を敷き、大口城に対峙した。

なかなか降伏に応じない新納忠元に豊臣秀吉は使者を出す。「御両殿(島津義久と島津義弘)が人質を出して降ったのだから、ここで戦えば主君に敵対したことになるぞ」(『本藩人物誌』より意訳)と告げた。この言葉を受けて、新納忠元は剃髪して天堂ヶ尾へ。豊臣秀吉のもとに出頭して降伏した。

 

新納忠元の記念碑がある

天堂ヶ尾

 

新納忠元は引き続き大口地頭を務めた。慶長15年(1611年)没。享年85。長命であった。

善政を行ったとされ、現在も大口でかなり慕われている。新納忠元を御祭神とする忠元神社(ただもとじんじゃ、伊佐市大口原田)もある。こちらは、19世紀半ばに農地改良工事・治水工事が行われ、地域おこしの守り神として天保15年(1844年)に創建されたものだ。

鳥居と叢林

忠元神社

 

 

 

新納忠堯

新納忠堯(ただたか)は、新納忠元の嫡男である。天文23年(1554年)の生まれ。父とともに転戦し、肥後攻略などで活躍した。天正11年(1583年)に肥前国深江(ふかえ、長崎県南島原市)の戦いで討ち死にした。

 


新納忠増

新納忠増(ただます)は、新納忠元の次男である。父とともに沖田畷の戦いに出陣。ここでは島津方の太刀初めを飾った。天正14年(1586年)の豊後攻めでは、体調を崩していた父の名代として出陣している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは島津義弘のもとで従軍。退却戦では長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)とともに陣に残って奮戦した。このとき、長寿院盛淳は島津義弘の羽織や具足を身に着け、身代わりとなって討ち死にした。そんな厳しい戦場から、新納忠増は生還している。

 

 

 

新納忠在(島津久元)

志布志を失った新納氏嫡流はのちに島津貴久・島津義久に仕えた。慶長4年(1599年)に当主の新納忠真(ただざね、忠茂の孫にあたる)が後継者のないまま亡くなる。そこで、島津忠長(しまづただたけ、義久や義弘の従兄弟)の次男が養子に入った。新納忠在と名乗った。天正9年(1581年)の生まれ。

新納家に入ったその年に、新納忠在は庄内の乱に従軍する。また、翌年の関ヶ原の戦いにも参加している。「島津の退き口」においては長寿院盛淳らとともに陣に残ったが、新納忠増とともに生還をはたした。

 

慶長14年(1609年)に、実兄が亡くなったことで島津忠長(宮之城島津家)の後継者が不在となり、新納忠在は実家に戻ることになった。島津久元(ひさもと)と名を変えて家督をつぐ。

新納忠在(島津久元)にかわって、新納家には島津義虎(薩州家)の三男が養子入り。新納忠影と名乗った。

 

 

新納旅庵(新納長住)

島津義弘の家老に新納旅庵(にいろりょあん)がいる。こちらは新納康久の三男。名は長住(ながすみ)という。天文22年(1553年)の生まれ。

若くして出家し、肥後国で住職をしていた。天正14年(1586年)の岩屋城攻めの際に功があったという。その翌年、新納旅庵は島津義久から島津家に仕えるよう求められた。僧として諸国をめぐっていたことから、その知見を見込んでのことだった。新納久饒(ひさとも、旅庵の兄)を遣わして説得させ、新納旅庵は還俗する。日向国高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)・大隅国栗野(鹿児島県姶良郡湧水町栗野)・薩摩国市来の地頭に任じられるとともに、島津義弘の家老につけられた。

 

新納旅庵は、島津義弘の側近となって働く。豊臣政権や他家との連絡役なども務めた。また、文禄3年(1594年)に島津忠恒(ただつね、義弘の子)の御供として、朝鮮へも渡海している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、島津義弘はわずかな兵しか持っていなかった。国許の島津義久に出兵を要請するも来ず。そこで、島津義弘は志願兵を募った。その頃、新納旅庵は大隅国に滞在していた。兵を集めて上京し、島津義弘に合流した。

そして9月15日、決戦の日をむかえた。勝敗は数時間であっけなく決した。島津義弘の属した西軍は総崩れとなって敗走する。戦場に取り残された島津隊は、敵勢がひしめく前方に向かって退却した。島津義弘は戦場から脱出し、伊勢路を抜けて大坂へ。そこから、海路で国許まで逃げ延びた。

新納旅庵も戦場から離脱する。しかし、本隊からはぐれてしまい、小人数に分かれて京に入る。鞍馬山(京都市左京区)に潜伏していたが、すぐに見つかってしまう。徳川家康が差し向けた兵に囲まれた。追手を指揮していたのは山口直友(やまぐちなおとも)。この人物は徳川家と島津家の取次役でもあった。新納旅庵ともよく見知った間柄である。新納旅庵らは自刃をしようとしていたが、相手が山口直友だと知って降伏した。

新納旅庵は捕縛され、大坂に護送された。そして、尋問を受ける。「大坂に人質をとられて、仕方なく西軍についた」と弁明し、島津家にとって不利になるようなことは言わなかった。その後、島津家と徳川家は講和の交渉に動くことになるが、新納旅庵の弁解は島津家の風向きをよくしたと思われる。

島津家と徳川家の交渉でも、新納旅庵は奔走することに。薩摩と京のあいだを、行ったり来たりした。

慶長7年(1602年)10月、島津家は許される。所領を削られることもなく、島津義弘もお咎めなしとされた。新納旅庵は、この交渉での功績を賞されて当主の島津忠恒より加増を受ける。

その直後の10月25日、大坂城で病死した。

 

 

 

 

新納久脩(新納中三)

江戸時代の鹿児島藩(薩摩藩)には、新納一族が多く仕えた。嫡流のほかに新納忠元の後裔、新納久饒の後裔、新納旅庵の後裔など。家老を出す家もあった。

 

幕末に活躍した新納一族に新納久脩(ひさのぶ)がいる。中三(なかぞう、ちゅうぞう)とも名乗る。家柄は「一所持」で、新納忠元の系統である。天保3年(1832年)の生まれ。父の新納久仰(ひさのり)は島津斉彬(なりあきら)の家老であった。

新納久脩は軍役方総頭取に任じられ、島津斉彬のもとで兵制改革を実行した。鹿児島藩の軍事の西洋化を進めたのである。文久3年(1863年)の薩英戦争のときには、軍役奉行であった。

 

薩英戦争のあと、鹿児島藩(薩摩藩)はイギリスと和解する。さらに「イギリスに使節団と留学生を派遣すべし」という五代友厚(ごだいともあつ)の上申書を藩が採用する。慶応元年(1865年)、鹿児島藩(薩摩藩)の使節団がイギリスに向けて出航した。その総責任者(団長)となったのが新納久脩であった。

使節団は新納久脩・五代友厚・松木弘安(まつきこうあん、寺島宗則、てらしまむねのり)と通訳の堀孝之(ほりたかゆき、長崎の人)。ほか15人の留学生から構成された。

留学生をロンドンに送り届けたあと、新納久脩ら4人はヨーロッパ各地をまわる。イギリスで紡績機械や武器を買い付けたほか、各国の視察や商談を精力的に行った。1867年にパリで開かれる万国博覧会への出展も決める。

新納久脩は慶応元2年(1866年)に鹿児島に帰る。帰国後は藩の家老となり、おもに外交を担当した。戊辰戦争の際には京で活動した。

明治維新ののちも藩政の中枢にあったが、廃藩置県で藩が消滅。のちに新政府に出仕する。後年は奄美大島島司を務めた。

 

 

 

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料『旧記雑録 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年

鹿児島県史料『旧記雑録 諸氏系譜 三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1992年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『「さつま」の姓氏』
著/川崎大十 発行/高城書房 2001年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年

『若き薩摩の群像 サツマ・スチューデントの生涯』
著/門田明 発行/高城書房 2010年

ほか