鹿児島県日置市東市来にある鶴丸城(つるまるじょう)跡にのぼってきた。
市来氏と島津氏の激戦の地
「鶴丸城」というと、鹿児島県内では鹿児島市にある鹿児島城を思い浮かべる人が圧倒的に多い。こちらは江戸時代の藩主の居城であり、それはもう知名度が高いのだ。そして、この「鹿児島城」は別名の「鶴丸城」のうほうが呼称として浸透している。というわけで、「鶴丸城」でネット検索をかけると、「鹿児島城」のほうばかりが引っかかる。
市来の鶴丸城は鹿児島城と区別するために「市来鶴丸城」と呼ばれたりもする。ただ、鹿児島城(鶴丸城)が慶長6年(1601年)の築城であるのに対して、鶴丸城(市来鶴丸城)のほうが歴史はずっと古い。13世紀初頭に薩摩国日置郡市来院(いちきいん、現在のいちき串木野市市来・日置市東市来)郡司の市来家房(いちきいえふさ)が最初の城主となったとされる。
市来氏は惟宗(これむね)姓を称するが、もともとは大蔵(おおくら)姓だったという。この地に土着したのは宝亀年間(770年~781年)とも伝わる。市来氏についてはこちらの記事でも触れている。
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鶴丸城は別名を「市来本城」といい、巨大な山城である市来城(いちきじょう)の一部である。鶴丸城を本城とし、平之城(ひらのじょう)・番屋城(ばんやじょう)・大根城(おおねじょう)・古城(ふるじょう)とともに市来城が構成されている。
14世紀の南北朝の争乱では、ここで戦闘があった。当時の当主であった市来時家(いちきときいえ)は南朝方につき、北朝方についていた薩摩国守護の島津貞久(しまづさだひさ、島津氏5代当主)と対立していた。
建武4年・延元2年(1337年)に島津頼久(川上頼久、かわかみよりひさ、島津貞久の庶長子)が市来城を攻めた。市来時家は籠城し、戦いは数十戦に及んだという。伊集院忠国(いじゅういんただくに、島津氏の一族だが南朝方につく)の援軍も駆け付け、大激戦となったようだ。
暦応3年・興国元年(1340年)に島津貞久が伊集院忠国の一宇治城(現在の日置市伊集院)を攻め、市来城も攻撃された。この戦いで市来時家は降伏した。
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市来氏は市来院の領主であり続けたが、寛正3年(1462年)に島津立久(しまづたつひさ、島津氏10代当主)に攻め落とされる。領主の座を失った。その後、市来城(鶴丸城)は島津宗家、続いて島津薩州家(島津氏の分家)のものとなった。さらには天文8年(1539年)に島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主)が市来城を攻める。城主の新納忠苗はよく守るが、60余日の籠城のあとに降伏した。
市来城を奪った島津貴久は、家老の伊集院忠朗(いじゅういんただあき)に市来を任せる。その後、新納康久(にいろやすひさ)が地頭として入った。
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城跡と寺院跡と、神社とザビエルと
「鶴丸城」の看板は鶴丸小学校の前にある。小学校には高い石垣があって、いかにも城らしい雰囲気である。
ただ、こちらの石垣は、鶴丸城のものではないようだ。明治27年に作られたものらしい。小学校の背後の山が鶴丸城である。
小学校は「大日寺(だいにちじ)」という寺院の伽藍跡に作られている。大日寺は明治初期の廃仏毀釈で廃寺となっている。
学校横の登城口を入っていくと、春日神社と護国神社がある。春日神社は承久年間(1219年~1222年)に京の春日大社より勧請したもの。もともとはちょっと離れた場所にあったが、16世紀にこの地に移されたという。
神社の脇から城に登っていく。すごく立派な記念碑もある。
すぐに出迎えてくれるのは異人さん。フランシスコ・ザビエルの像がある。ここは神社なのに。
天文19年(1550年)に、ザビエルは鶴丸城に滞在して布教活動を行ったという。このときの城主は新納康久(にいろやすひさ)。新納家の家老のミゲル(日本名はわからない)は鹿児島で洗礼を受けていて、ザビエルを鶴丸城に案内した。ザビエルは鶴丸城で歓待され、新納康久の妻をはじめ17人が洗礼を受けている。
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山を登っていくと、大日寺の歴代住職の墓がある。もともとは鶴丸小学校(大日寺跡)の敷地内にあったもので、学校の拡張工事の際に移設されたのだという。
城跡はよく整備されていて、歩きやすい。曲輪跡と思われる段差、堀切や土塁なども確認できる。
10分ちょっと登っていくと、けっこう広い空間にたどりつく。ここが本丸跡だ。よく見ると、礎石っぽいものも確認できる。
本丸に向かう道とは違うほうに行ってみる。ちょっと広めの曲輪があった。尾根の先にあたり、城下がよく見下ろせる。このあたりに砦があったのだろうか。ここには「南朝忠臣市来氏顕彰碑」も建てられている。
鶴丸城(市来鶴丸城)は 、市来氏が大きな力を持っていたことを感じさせてくれた。整備が行き届いていて気軽に散策でき、見どころも多い。
来迎寺跡、市来氏歴代の墓
鶴丸城から北東へ5kmほど行ったところ(いちき串木野市市来)に「来迎寺跡墓塔群(らいごうじあとぼとうぐん)」というものがある。山の中に古めかしい墓塔が並ぶ。市来氏歴代の墓なんだそうな。
来迎寺は市来氏の菩提寺で、承元年間(1207~1211年)に建立されたものだという。市来氏滅亡後の文明5年(1473年)に廃寺となり、その寺領は島津立久の菩提寺である龍雲寺に寄付された。一時、消滅した。そして、天文17年(1548年)に龍雲寺の住職が再興させ、寺号が復活した。その後、明治初期に廃寺となった。
ここには、丹後局(たんごのつぼね)の墓と伝わるものもある。また、墓塔の中には惟宗広言(これむねのひろとき、ひろこと)の墓も含まれているとも(『三国名勝図会』より)。また、前述の鶴丸城下にある大日寺も丹後局が開山させたものと伝えられている。
丹後局は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の母であり、惟宗広言は養父(実父という説も)である。晩年に市来院に移り住んだという伝承もある。
なお、市来氏は惟宗姓を称する。13世紀に島津氏との間で系図論争をした記録があり、そのことと関連があるかもしれない。ちなみに、、丹後局のものと伝わる墓塔には「文永十二年(1275年)」の刻印がある。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
ほか