ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

鹿児島県内にある南朝忠臣顕彰碑/南九州の南北朝争乱【番外編】

14世紀の南北朝争乱期。南九州では激戦が繰り広げられていた。

鹿児島県内で城跡などをまわっていると、けっこう南朝忠臣の顕彰碑に出くわすのだ。そんな顕彰碑について、まとめてみた。

なお、明治5年(1872年)太陽暦採用以前の日付は旧暦にて記す。

 

 

 

 

 

南九州の南北朝争乱

九州では南朝方が優勢だった。

守護家の島津貞久(しまづさだひさ)は足利尊氏に協力する。当初は北朝方にあって、南九州の攻略を任された。一方で、南朝方につく者も多く、こちらも連携をとりながら勢力を広げていく。

南九州の南北朝争乱については、こちらの記事にて。

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争乱は複雑怪奇な展開に。島津氏も南朝方に転じたり北朝方に戻ったり……と立ちまわる。

幕府は日向方面の大将として畠山直顕(はたけやまただあき)を派遣する。当初は島津氏も協力していたものの、対立するようになる。島津氏は南朝方に転じ、それまで敵対していた者たちとともに畠山勢に攻撃を仕掛けた。

南北朝争乱期終盤では、島津氏久(うじひさ、貞久の子)や島津元久(もとひさ、氏久の子)は九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と対立。幕府(北朝方)に激しく抵抗している。

島津氏は南朝方の主力であった時期も長い。しかし、「南朝忠臣」とは呼ばれていない。寝返りを繰り返していたからなのだろうか。

 

「南朝忠臣」とされるには、一貫して南朝方で奮闘していた者たち、というイメージが優先されている感じかな、と。また、顕彰されている顔ぶれを見ると「島津氏に反抗した者たち」という印象もある。

 

 

南朝忠臣の顕彰について

顕彰碑の建碑は、そのほとんどが昭和の初め頃のこと。昭和8年(1933年)が建武中興から600年にあたる。これを記念して顕彰運動が盛り上がったようだ。「地元の南朝忠臣の再評価を!」というような感じで。

また、当時は天皇陛下が国家元首の時代である。明治維新というのは、武士が支配する時代を終わらせて、天皇を頂点とする政治への変革であった。これは歴史観にも強く影響を与える。

このときに南北朝争乱期のイメージもつくられていく。

後醍醐天皇は政権を天皇家に取り戻そうとした。その行動は正義である、と。一方で、天皇と敵対した足利尊氏は大悪人である、と。例えば、そんなところである。

そして「後醍醐天皇(南朝)のための奮戦した忠臣は偉いのだ!」と。そんな風潮の中で、地元のヒーローの事績が掘り起こされた。

 

 

 

 

 

 

「征西将軍宮懐良親王御所記念碑」

場所/鹿児島市上福元町
建碑/大正11年(1922年)12月

征西将軍宮懐良親王御所記念碑

高さは6mもある

 

記念碑のある場所は「御所ヶ原」と呼ばれている。ここに征西大将軍の懐良親王(かねよししんのう)の御所があったとされる。現在は鹿児島市南部斎場がある。このあたりはかつて薩摩国の谿山(谷山、たにやま)のうち。

記念碑の揮毫は松方正義(まつかたまさよし)によるもの。松方正義は内閣総理大臣などを歴任した人物である。松方正義は両親が谷山の出身であった。

 

後醍醐天皇は皇子を将軍に任命して各地に派遣した。九州の攻略は第八皇子の懐良親王に任された。

懐良親王の九州入りには時間を要する。しばらくは伊予国(現在の愛媛県)に滞在して時期をはかる。先遣として、随臣の三条泰季(さんじょうやすすえ)が建武4年・延元2年(1337年)3月に薩摩国揖宿(いぶすき、鹿児島県指宿市)に入り、味方を募った。

南朝方に応じた者は多く、挙兵して北朝方(おもに島津氏)と戦う。三条泰季のもとで薩摩国の南朝勢が足場を固めていく。そして、康永元年・興国3年(1342年)に懐良親王も薩摩入りした。

谿山郡司の谷山隆信(たにやまたかのぶ)が、懐良親王を受け入れた。そして御所を設ける。これが、九州における最初の征西府である。

ちなみに、谷山氏は河邊一族(薩摩平氏)の一流である。河邊一族(薩摩平氏)は12世紀頃には薩摩半島中南部を支配していた。14世紀になっても、大きな力を有していた。


懐良親王の薩摩入りは、南朝方を勢いづかせた。康永元年・興国3年に谿山(谷山)で谷山隆信ら南朝勢は島津貞久と戦って打ち負かす。その後は一進一退の攻防に。南朝方がやや押し気味であったかもしれない。

貞和3年・正平2年(1347年)の決戦では南朝方が大勝した。こののち、懐良親王は谿山(谷山)から肥後国菊池(熊本県菊池市)に移る。菊池武光(きくちたけみつ)に迎えられ、南朝方が九州を制圧していく。

 

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「肝付兼重公誠忠碑」

場所/宮崎県都城市高城町(月山日和城跡)
建碑/昭和10年(1935年)8月

肝付兼重公誠忠碑

模擬天守の前にある

 

顕彰碑は三俣院高城(みまたいんたかじょう、月山日和城、がっさんひわじょう)跡にある。

建武3年(1336年)2月に足利尊氏は九州入りする。この頃に、南九州の後醍醐天皇方として活躍したのが肝付兼重(きもつきかねしげ)だった。日向国三俣院を拠点に戦った。

肝付兼重は明治45年(1912年)に従四位を追贈された。これを機に顕彰が盛り上がった。そして、高城での建碑は、昭和10年の天皇陛下(昭和天皇)の行幸にあわせてのこと。揮毫は陸軍大将の荒木貞夫(あらきさだお)。


肝付氏は大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)に根を下ろした一族。伴姓で、大納言の伴善男の後裔を称する。肝付氏の祖は肝付兼俊(かねとし)という。その母は、島津荘(しまづのしょう)を開拓した平季基(たいらのすえもと)の娘と伝わる。肝付氏は島津荘の弁済使として大きな勢力を持っていた。


肝付兼重は、幕府が派遣した畠山直顕や守護の島津貞久を相手に、日向国や大隅国で激戦を繰り広げた。

抗争は長引くが、暦応2年・延元4年(1339年)に三俣院高城は陥落する。肝付兼重は大隅国高山に落ちのびた。

 

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「贈従四位肝付兼重卿奮戦之碑」

場所/鹿児島市清水町(多賀山公園)
建碑/昭和12年(1937年)5月

贈従四位肝付兼重卿奮戦之碑

多賀山公園の駐車場にあり

 

顕彰碑がある多賀山公園には、かつて東福寺城(とうふくじじょう)があった。

暦応3年・興国元年(1340年)8月、島津貞久は南朝方の東福寺城を攻めた。東福寺城は矢上高純が領し、一族の中村忠秀が守る。肝付兼重も救援として入城した。奮戦するも、翌年に東福寺城は陥落した。

揮毫は菊池武夫(きくちたけお)。陸軍中将や貴族院議員を務めた人物だ。また、九州の南朝勢力を牽引した肥後国の菊池氏の一族でもある。

 

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【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ

 

 

 

「南朝之忠臣矢上高純公居城跡」碑

場所/鹿児島市坂元町
建碑/昭和6年(1931年)3月

「南朝之忠臣矢上高純公居城跡」碑

催馬楽城(矢上城)跡に

 

催馬楽城(せばるじょう)の跡地に建てられている。別名に矢上城(やがみじょう)とも。坂元墓地・坂元小学校・坂元中学校のあたりがかつての城域だ。城主は矢上高純(やがみたかすみ)。南朝方についていた。

 

矢上氏は鹿児島郡司であった。同族に長谷場(はせば)氏もいる。催馬楽城のあるあたりは「矢上」と呼ばれ、ここに土着した。また、東福寺城のあるあたりは「長谷場(はせば)」といい、ここを領した者が長谷場氏を称した。

矢上氏は藤原純友の後裔を称する。伝わっている系図では、肥前国の有馬氏とも共通するところがあり、関連性も何かしらあるかもしれない。ただ、系譜はだいぶあやしい印象もある。

なお、河邊一族(薩摩平氏)に鹿児島郡司がいる。矢上氏はこちらの流れを汲んでいる可能性もありそう。


矢上高純は当初から南朝方に参加。伊作城(いざくじょう、鹿児島県日置市吹上町)攻め、比志島城(ひしじまじょう、鹿児島市皆与志)攻め、橘木城(たちばなきじょう、鹿児島県霧島市国分姫城)攻め、碇山城(いかりやまじょう、鹿児島県薩摩川内市天辰町)攻めなどに参加した。


暦応3年・興国元年(1340年)8月、矢上高純の領有する催馬楽城(矢上城)と東福寺城が、島津貞久に攻められる。島津方は島津資久(樺山資久、かばやますけひさ)・島津資忠(北郷資忠、ほんごうすけただ)らを催馬楽城に派遣。戦いは半年におよび、翌年閏4月に催馬楽城と東福寺城は陥落した。


その後、矢上氏は催馬楽城を奪還した。しかし、康永2年・興国4年(1343年)9月にも再び島津氏に攻められて城を奪われる。

貞和3年・正平2年(1347年)6月には東福寺城をめぐって再び戦いがあった。東福寺城の攻防戦も北朝方(島津氏)が制した。


島津氏は鹿児島をとる。島津貞久は東福寺城に四男の島津氏久を入れた。島津氏が鹿児島を拠点としたのは、これが始まりである。

 

【関連記事】東福寺城跡に行ってきた、島津氏が拠点とした海辺の要塞

【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ

 

 

 

「南朝義臣知覧氏彰忠碑」

場所/鹿児島県南九州市知覧町郡(亀甲城跡)
建碑/昭和8年(1933年)5月

「南朝義臣知覧氏彰忠碑」

知覧武家屋敷群そばの山城跡の上に

 

亀甲城(きっこうじょう)跡の頂上にある。南北朝争乱期に知覧忠世(ちらんただよ)が南朝方で奮戦したことを顕彰したものだ。

揮毫は陸軍中将の佐多武彦(さたたけひこ)。この人物は、知覧を領した知覧島津家の一族だ。

 

知覧氏は河邊一族(薩摩平氏)の一流で、知覧郡司を世襲する。鎌倉時代には、島津氏が知覧院(ちらんいん)の地頭に補任され、郡司と地頭代(こちらも知覧氏を名乗る)の間でたびたび衝突もあった。

知覧忠世は三条泰季の薩摩入りに呼応して挙兵。南朝方として伊作城・橘木城・碇山城の戦いに参加した。また、谷山隆信らとともに、鹿児島・谷山の戦いでも活躍した。

建徳元年(1370年)を最後に知覧氏の名は記録に出てこなくなる。

 

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「南朝忠臣市来氏顕彰碑」

場所/鹿児島県日置市東市来町長里(市来鶴丸城跡)
建碑/昭和14年(1939年)頃

南朝忠臣市来氏顕彰碑

市来の鶴丸城の曲輪跡にある

 

顕彰碑は鶴丸城(つるまるじょう、市来本城とも)跡に建てられている。紀年銘はないが、昭和14年(1939年)の後醍醐天皇六百年の大祭にともなって建碑されたようである。当時は市来時家(いちきときいえ)・市来氏家(うじいえ)・市来忠家(ただいえ)の三代の贈位についても運動が行われたが、こちらは実現していない。

南朝方で市来時家が活躍。市来城(鶴丸城も含む)も戦場となった。建武4年・延元2年(1337年)に島津頼久(川上頼久、かわかみよりひさ、島津貞久の庶長子)が市来城を攻めた。市来時家は籠城してよく持ちこたえた。しかし、暦応3年・興国元年(1340年)に島津貞久は市来城を再び攻める。城は落ち、市来時家は降伏した。


市来氏は薩摩国市来院(いちきいん、現在の日置市東市来町、いちき串木野市の市来地区)の郡司を世襲する一族だ。その歴史は古く、宝亀年間(770年~781年)よりこの地に入ったとも伝わる。もともとは大蔵氏の一族だが、のちに惟宗姓国分氏より養子を迎えて惟宗姓を称するようになった。


市来氏は南北朝争乱期を生き残り、その後も市来院の領主であり続けた。しかし、寛正3年(1462年)に島津立久(しまづたつひさ、島津氏10代当主)に攻め落とされ、領主の座を失っている。

 

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「南朝忠臣贈正五位楡井頼仲卿之碑」

場所/鹿児島県志布志市志布志町帖(志布志松尾城跡)
建碑/昭和10年(1935年)5月

南朝忠臣贈正五位楡井頼仲卿之碑

松尾城跡の奥に

 

志布志城(しぶしじょう)の城郭群のひとつに松尾城(まつおじょう)がる。その城跡に「贈正五位楡井頼仲公表忠碑」が建てられている。揮毫は菊池武夫。


楡井頼仲(にれいよりなか)は日向国志布志の領主だった。大隅国・日向国で南朝方として奮戦した。

楡井氏は信濃源氏とされ、信濃国高井郡楡井(長野県須坂市)にあったという。いかなる経緯で、いつ頃に南九州に来たのかはよくわかっていない。


貞和4年・正平3年(1348年)に楡井頼仲は南朝方として名が出てくる。志布志の松尾城のほか、大姶良城(おおあいらじょう、鹿児島県鹿屋市大姶良町)・加瀬田ヶ城(かせだがじょう、鹿屋市輝北町平房)・高熊城(たかくまじょう、鹿屋市上高隈)なども支配下におく。

当初、楡井氏は北朝方にあったようだ。畠山直顕に従って肝付兼重と戦った。しかし、楡井頼仲は南朝方に転じ、肝付兼重と連携して大隅国で勢力を広げた。


観応2年・正平6年(1351年)、楡井頼仲の勢力下にある城を畠山直顕が攻める。加瀬田ヶ城・高熊城・大姶良城を落とされ、さらに本拠地の志布志も陥落した。

志布志から逃れたあとは肝付兼重を頼り、高山の弓張城(ゆんばりじょう)に拠る。そして、再起をうかがう。

文和元年・正平7年12月(1353年1月)、楡井頼仲が再挙兵。大姶良城を奪い返した。大隅国鹿屋院にて畠山直顕の軍と戦う。しかし、文和3年・正平9年(1354年)2月大姶良城は陥落した。


延文2年・正平12年(1357年)1月、楡井頼仲・楡井頼重(頼仲の弟)は再々挙兵する。日向国救仁郷(現在の鹿児島県曽於郡大崎町)の胡麻崎城(ごまがさきじょう)にたてこもった。しかし、畠山勢の攻撃を受けて胡麻崎城は陥落。楡井頼重は戦死し、楡井頼仲は志布志に移る。志布志も畠山勢に制圧され、楡井頼仲は自刃した。

 

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「贈正五位楡井頼仲公表忠碑」

場所/鹿児島県肝属郡肝付町新富(四十九所神社)
建碑/昭和5年(1930年)4月

贈正五位楡井頼仲公表忠碑

この地には弓張城があった


顕彰碑は四十九所神社(しじゅうくしょじんじゃ)の境内にある。この場所は弓張城の北麓にあたる。志布志を逃れたあと、楡井頼仲は弓張城に住んだとされる。

揮毫は海軍中将の東郷吉太郎(とうごうきちたろう)。東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の甥にあたる人物だ。

 

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「純忠碑」(入来院氏の顕彰碑)

場所/鹿児島県薩摩川内市入来町副田(重来神社)
建碑/昭和17年(1942年)3月

純忠碑

鳥居の横に


渋谷(しぶや)一族の入来院(いりきいん)氏を顕彰するものである。重来神社(しげきじんじゃ)の参道口に建てられている。現在地には昭和20年に移されたという。

揮毫は大久保利武(おおくぼとしたけ)によるもの。大久保利通の三男で、埼玉県知事や大阪府知事などを歴任した人物だ。

碑の台座には吉野忠臣として「渋谷重基」「渋谷重勝」「渋谷重門」「岡本重興」「同妻寅三」の名がある。いずれも正五位が贈位されている。なお、寅三というのは岡本重興の妻である。

石碑の台座

台座に忠臣の名が刻まれる

 

 

渋谷氏は13世紀に薩摩国中北部の薩摩郡・高城郡・東郷別府・祁答院などの地頭職に任じられた。その範囲は現在の鹿児島県薩摩川内と薩摩郡さつま町にあたる。領地は広大である。ここに渋谷氏は次男家から六男家を下向させ、分割して統治させた。それぞれの家は、領地から「高城(たき)」「東郷(とうごう)」「祁答院(けどういん)」「入来院」「鶴田(つるだ)」を名乗りとした。

南北朝争乱期の入来院氏は、渋谷重基(入来院重基)・渋谷重勝(入来院重勝)・渋谷重門(入来院重門)の3代が活躍した。また、岡本重興は渋谷重勝の弟にあたる。


じつのところ、入来院氏は北朝方(幕府方)で戦った時期がけっこう長かったりもする。

渋谷重基(入来院重基)は島津貞久に従って転戦する。貞和3年・正平2年(1347年)に東福寺城を南朝方に攻められた際には、岡本重興らが城の守りを任されている。南朝方にもたびたび転じるが、それは島津氏と行動をともにしたことによる。

 

入来院しについてはこちらの記事にて。

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当初、入来院氏は島津氏に協力的だったが、次第に島津氏とは敵対するようになる。

応安5年・文中元年(1372年)6月、渋谷重門(入来院重門)は薩摩国薩摩郡高江(鹿児島県薩摩川内市高江町)に出兵する。島津方の峯ヶ城(みねがじょう)を攻めた。城を陥落させるが、渋谷重門(入来院重門)は戦死する

あとをついだ渋谷重頼(入来院重頼)は、九州探題の今川貞世(今川了俊)の誘いを受ける。島津氏は今川氏と対立して南朝方に転じる。一方、入来院氏は北朝方に転じ、島津氏との敵対関係は続く。

南北朝争乱期の終盤において、入来院氏は今川氏に従う。薩摩における北朝方(幕府方)の主力として、島津氏と激しく戦った。

 

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<参考資料>

『南朝「忠臣」の顕彰について 記念碑を素材として』
著/栗林文夫
※『黎明館調査研究報告13』(発行/鹿児島県歴史資料センター黎明館/2003年)に収録

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年

ほか