鹿児島県南九州市知覧の中心地は、多くの観光客が訪れる場所である。知覧麓(ちらんふもと)の武家屋敷群は江戸時代の雰囲気をよく残す。この一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、武家町にある庭園群は国の名勝にも指定されている。その武家屋敷群の一角にある亀甲城(きっこうじょう)跡を訪問した。
知覧麓の東端には山があり(比高は60mほどとのころ)、そこが亀甲城跡である。この名称は、亀っぽい山の形状からきているのだろう。また、別名に蜷尻城(みなじりじょう)とも。主郭へ向かって螺旋状に登っていけるようなっており、その地形が蜷(巻貝)に似ていることに由来しているのだという。
城山の一帯は公園として整備されている。規模は東西約250m・南北約120mとそれほど大きくなく、気軽に散策できる感じだ。
知覧城の出城らしい
「麓」というのは、江戸時代に島津(しまづ)氏領内で形成された地方の拠点である。「外城(とじょう)」とも言ったりする。山城跡(江戸時代は一国一城令で廃城になっている)の麓に形成されることが多く、戦いとなれば軍事拠点としても機能するようになっている。知覧麓の場合は、知覧城(ちらんじょう)の北側に麓集落が広がっている。亀甲城は知覧城の出城なのだという。
いざ戦いとなれば、ここでは知覧城にたてこもる。それと同時に出城の亀甲城にも兵を配置し、谷山・喜入(たにやま・きいれ、いずれも現在は鹿児島市)方面から侵入してくる敵を叩く、という感じだろう。
亀甲城については記録がほとんどなく、築城年代などの詳細はわからず。
知覧の歴史について、ちょっとだけ
薩摩半島南部には12世紀頃から河邊一族(かわなべいちぞく、「薩摩平氏」ともいう)が繁栄していた。この一族の者が薩摩国知覧院の郡司(院司)となり、知覧氏を称するようになった。知覧城は知覧氏が築いたとされる。
鎌倉に武家政権が成立すると、知覧の地頭職は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)に与えられた。島津氏は代官を派遣するが、郡司の知覧氏も健在。地頭と郡司が併存する状況が続いた。
14世紀、鎌倉幕府が倒れて南北朝争乱期に突入すると、知覧郡司の知覧忠世(ちらんただよ)は一貫して南朝方として戦った。守護の島津貞久(さだひさ、島津氏5代)とは敵対し、薩摩国内を転戦する。
文和2年・正平8年(1353年)、幕府は知覧を佐多忠光(さたただみつ、島津貞久の弟)に与えた。これ以降、佐多氏が知覧の領主となる。一時的に知覧を離れた時期もあったが、その支配は長く続く。江戸時代に佐多氏は島津姓に復している(知覧島津氏)。
一方、郡司の知覧氏は南北朝争乱の終焉の頃(14世紀末)より名前が見えなくなる。没落したようである。
応永24年(1417年)に知覧での戦いの記録がある。島津久豊(ひさとよ、島津氏8代)が知覧城の今給黎久俊(いまきいれひさとし)を攻めた。このときに亀甲城でも戦闘があったのかも。同年に島津久豊は反乱を起こした伊集院頼久(いじゅういんよりひさ、島津支族)を降伏させている。今給黎久俊は伊集院氏の一族で、知覧を略取していた。そして、この時点でまだ降伏していない。
知覧城はなかなか落ちなかった。応永27年(1420年)に、ようやく今給黎久俊が降伏する。島津久豊は知覧を取ると、再び佐多氏に与えた。
なお、知覧の歴史について、知覧城についてはこちらの記事に詳しい。
伊集院頼久の乱については、こちらの記事で。
亀甲城にのぼってみる
県道23号から麓川(ふもとがわ)を挟んで亀甲城跡が見える。大きな蕎麦屋の向かい側から武家屋敷通りに入っていける。橋を渡ってすぐのところに観光用の駐車場があるので、ここに車を停める。
駐車場から橋の方へ。麓川に沿って入っていけるので、そこを歩いていく。
川沿いには虎口もあった。現地では何も説明はなく、詳細はよくわからない。往時のものではなく、公園化にともなって作られたらしい。
川沿いには石積みが見られる。水路などがあり、これらは江戸時代につくられたものらしい。「矢櫃橋(やびつばし)」という石橋も。こちらは嘉永5年(1852年)に築かれたものだという。
矢櫃橋を渡ったあたりが大手口とのこと。登り口がある。ここから上へ。道中はよく整備されていて歩きやすい。
しばらく登ると主郭方面へ。ルートは螺旋状に登っていく道と、最短距離で頂上へ向かう道がある。まずは、まっすぐ頂上へ向かう。
亀甲城の最上段(主郭)へ。曲輪はそこそこの広さがあり、奥には記念碑が建てられている。「南朝義臣知覧氏彰忠碑」である。南朝方で奮戦した知覧忠世を顕彰するのものだ。昭和8年(1933年)に建立されたものとのこと。
帰りは螺旋状の通路で下りていってみる。ぐるりと回り込んで、先ほどの分岐のところへ出た。
大手口のほうとは反対側にも遊歩道が伸びる。こちらへ行ってみる。途中には井戸跡や空堀も確認できた。ずっと進むと城跡の裏手の道路に出た。道路沿いににも山城の堀切が確認できた。こっちの登り口は、知覧城との連絡路にもなっていたと思われる。
裏手の登城口から麓をぐるりと回り込んで、駐車場のほうへ戻った。
豊玉姫陵
亀甲城の東側には田んぼが広がっている。その中に石の鳥居と玉垣がある。ここは豊玉姫(トヨタマヒメ)の陵墓と伝えられている。
『古事記』や『日本書紀』では、豊玉姫は海神(ワタツミ)の娘で、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト、山幸彦)の妻となって彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)を産んだとされる。そして、「出産を覗かないで」という約束を彦火火出見尊が破ったために海に帰ってしまい、かわりに妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を遣わして子を養育させた。その後、玉依姫は鸕鶿草葺不合尊の妻となって、生まれたのが神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)である。と。
一方で、知覧には「豊玉姫がこの地を治めた」という伝説が残る。亀甲城から西へ2kmほどの場所には豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)もある。由緒について、豊玉姫神社の説明看板には次のようにある。
海神綿津見神の二女あり、姉の豊玉姫は川辺に、妹の玉依姫は知覧に封ぜられることとなり、衣の郡(今の頴娃・開聞の辺)を御出発になった。
その経路は、鬢水峠(髪の毛の乱れを整えられた処)・御化粧水(この水にて化粧された)・飯野(昼飯をとられた処)・宮入松(正式に行列を正し休憩された処)を経て、取違(姉妹の神様が行く手を違えられた処)にお泊まりになった。ここで玉依姫は川辺が水田に富むことをお知りになり、急いで玄米のままの朝食をお炊きになって川辺へ先発された。平常のように白米をお炊きになった豊玉姫はおくれてしまったので、やむなく妹姫の宰領されることになっていた知覧へ向かい、上郡に宮居をお定めになって知覧を宰領されたという。
(『豊玉姫神社略記・案内』の「由緒」より)
なお、ここに登場する地名は「びんすいとおげ(鬢水峠)」「おこそみず(御化粧水)」「いいの(飯野)」「みやいりまつ(宮入松)」「とりちがい(取違)」と読む。「宮入松」を「ぐれまつ」とする説もあるみたいだ。知覧にはそれぞれの比定地とされる場所があり、取違や飯野などは地名としても残っている。
また、玉依姫は飯倉神社(いいくらじんじゃ)に祭られている。こちらは、豊玉姫神社から西へ4㎞ほどの場所(南九州市川辺町宮)にある。
そして、豊玉姫の宮居があったとされる上郡(かみごおり)は、亀甲城のあたりである。豊玉姫は知覧の地をよく治め、民に慕われたのだという。宮居跡に神社を建立して祭った。これが豊玉姫神社のはじまりで、かつては「中宮三所大明神社」と呼ばれていた。慶長15年(1610年)に佐多忠充(さたただみつ)が現在の地を寄進して、遷宮したとされる。
知覧に残る豊玉姫伝説は、なんだか気になる。『古事記』『日本書紀』『続日本紀』では、けっこう隼人の女酋長の名前が出てくる。そういった人物がモデルになっているのかも? ……なんて思ったりもするのである。
知覧は国内屈指のお茶の産地でもある。最近では紅茶も人気。ペットボトルで気軽に飲める商品も出ているぞ。
<参考資料>
『知覧町郷土誌』
編/知覧町郷土誌編さん委員会 発行/知覧町 1982年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
ほか