谷山神社(たにやまじんじゃ)は鹿児島市下福元町に鎮座する。御祭神は懐良親王。14世紀の南北朝争乱期に征西大将軍として九州に入った人物だ。
名前の読みは「かねながしんのう」とも「かねよししんのう」とも。谷山神社では「かねながしんのう」のほうをとっている。
康永元年・興国3年(1342年)、懐良親王は薩摩国の谷山に入る。谿山(たにやま)郡司の谷山隆信(たにやまたかのぶ)に迎え入れられた。谷山には征西府が置かれ、南朝方の九州攻略の基点となった。
この事績を顕彰して、谷山神社は昭和3年(1928年)に創建された。
なお、日付については旧暦にて記す。
南朝忠臣の顕彰が盛り上がるなかで
明治から昭和の初めにかけて、全国的に南朝忠臣の顕彰運動が盛んだった。
日本では武家政権が長く続いていたが、幕府が倒れ、慶応4年・明治元年(1868年)に新政府が樹立。天皇を元首とする近代国家となった。そんな中で、武士から政治を取り戻そうと奮闘した後醍醐天皇の評価が高まった。後醍醐天皇の南朝方を正義とし、北朝方の足利尊氏を逆賊とする風潮に。そして、南朝方で戦った者たちが「南朝忠臣」として顕彰されるようになった。
南朝方の天皇・親王・武将を祭る神社が、明治時代につぎつぎと創建された。懐良親王を祭ったところでは、熊本県八代市の八代宮(やつしろぐう)がある。こちらは明治17年(1884年)の創建。
南朝忠臣の顕彰運動は続く。全国各地で南朝方で戦った人物の功績が掘り起こされ、地元の英雄とされた。鹿児島県内においても顕彰運動が盛り上がり、あちこちで南朝忠臣の顕彰碑が建立されている。
谷山は懐良親王のゆかりの地である。そして、懐良親王を支えた谷山隆信の功績も讃えられる。顕彰運動はかなり盛り上がったようだ。
懐良親王を祭る神社を建てようという機運が高まり、昭和3年(1928年)に谷山神社が創建された。また、昭和6年(1931年)には県社に列せられている。
神社創建には松方正義(まつかたまさよし)も深く関わっている。内閣総理大臣などを歴任した人物である。松方正義は鹿児島の下荒田の出身だが、両親が谷山の人であった。
松方正義は私財を投じ、谷山神社の創建に尽力した。
山の上に鎮座
谷山の慈眼寺公園(じげんじこうえん)。ここには「補陀山慈眼寺」という古刹があった。明治時代に廃寺となったあとに公園として整備された。この公園の山の上に、谷山神社は鎮座している。JR慈眼寺駅からも歩ける距離にある。
慈眼寺公園駐車場近くの道路沿いからは、石段にて参拝も可能だ。
「谷山神社登口」という看板のあるところから、車でも上まで登れる。広い駐車場もある。
石造りの鳥居をくぐって参拝する。
ちなみに「縣社谷山神社」の標柱は陸軍中将の菊池武夫(きくちたけお)の揮毫によるもので、昭和14年(1939年)の紀年銘がある。
鳥居をくぐってちょっと歩くと拝殿。
拝殿のそばに寄り添うように、末社の千々輪神社(ちぢわじんじゃ)がある。御祭神は谷山五郎隆信。本殿の懐良親王を守護しているような配置だ。
境内には「大勲位公爵松方正義頌徳碑」もある。大正15年(1926年)の建碑。
谷山神社は山の上。境内の展望台からの眺めも良い。
こちらは谷山神社の公式ホームページ。
谷山氏について
懐良親王を受け入れることができたということは、谷山隆信はかなり力を持っていた人物であったと推測される。
谷山氏は、古くから薩摩国の中南部に大きな勢力を有していた河邊一族(薩摩平氏)の一流である。
河邊一族(薩摩平氏)は、12世紀初めに伊作良道(平良道)が薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)に下向したのがはじまりだという。大宰府に関係した人物だったようで、一説には島津荘(しまづのしょう)の開拓者の平季基(たいらのすえもと)と同族とも。
伊作良道(平良道)の長男が河邊(かわなべ)の郡司になったのをはじめ、子らは給黎(きいれ)・頴娃(えい)・阿多(あた)・加世田別府(かせだべっぷ)・鹿児島・串木野(くしきの)・揖宿(いぶすき)・知覧(ちらん)・薩摩(さつま)などの郡司に。その支配地域を名乗りとした。
この中で、伊作良道(平良道)の五男は加世田別府を領し、別府五郎忠明と名乗る。その孫が谿山郡司となり、谷山忠光と名乗った。これが谷山氏の始まりだ。
谷山氏の系譜をつぎのとおり。
伊作良道(平良道)→別府忠明→別府信忠→谷山忠光→谷山忠能→谷山資忠→谷山隆信→谷山忠高
谷山氏は谷山城を拠点とした。谷山城の城郭群の本城は、谷山本城また千々輪城(ちぢわじょう)といった。城跡はJR慈眼寺駅の北側にあり、谷山神社からもそう遠くはない。
鎌倉の幕府の統制下で、地頭の島津氏が薩摩に入ってくる。谿山郡の地頭職は島津一族の山田氏で、郡司の谷山氏とたびたび土地の領有権について訴訟の記録も残っている。
幕府が倒れたあと、薩摩国の在地豪族の多くが南朝方についている。北朝方についた島津氏に対抗するような形勢となった。
谷山御所
康永元年・興国3年(1342年)5月に懐良親王は薩摩に入る。谷山隆信は谷山城に迎え入れ、領内に御所を設けた。
御所のあった場所は、谷山城から北西の場所にある丘陵のあたりとされる。このあたりは「御所原」「御所ヶ原」という地名だったりもする。
鹿児島市営の南部斎場の敷地内には「征西将軍宮懐良親王御所記念碑」もある。揮毫は松方正義で、大正11年(1922年)の建碑。こちらも谷山の南朝忠臣顕彰の高まりを感じさせる存在である。
薩摩国では北朝方と南朝方が一進一退の攻防を繰り広げていた。この頃、北朝方の島津貞久(しまづさだひさ)は南朝方の矢上(やがみ)氏から東福寺城(とうふくじじょう、鹿児島市清水城)を奪い、鹿児島に進出してきていた。
一方で、懐良親王を迎えた南朝方は勢いづく。康永元年・興国3年(1342年)8月に谷山の佐佐野木原(ささのきばる)で合戦があり、谷山隆信をはじめとする南朝方が島津貞久の軍勢を破った。
貞和3年・正平2年(1347年)6月には、南朝方が東福寺城を攻め、一時は支城を奪う。また、この年にも谷山で合戦があり、南朝方が勝利した。
九州の情勢は南朝方が優勢になっていった。
懐良親王は貞和3年・正平2年11月に谷山を発し、肥後国(熊本県)に移る。谷山での滞在は、約6年間のことだった。
菊池武光(きくちたけみつ)に迎え入れられ、懐良親王は隈府城(わいふじょう、熊本県菊池市)に入る。ここに南朝方の征西府を置き、一時は九州をほぼ制圧する。
谷山神社は慈眼寺公園の一角に鎮座する。慈眼寺跡もいっしょにまわりたい。
<参考資料>
『谷山市誌』
編/谷山市史編纂委員会 発行/谷山市役所 1967年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『南朝「忠臣」の顕彰について 記念碑を素材として』
著/栗林文夫
※『黎明館調査研究報告13』(発行/鹿児島県歴史資料センター黎明館/2003年)に収録
『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年
『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2001年
ほか