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狭野神社は杉林の参道の奥に、狭野尊(神武天皇)の伝説の地

高原(たかはる)の狭野神社(さのじんじゃ)を参詣した。鎮座地は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。小字は「狭野(さの)」という。

鎮座地は高千穂峰(たかちほのみね)の東麓。山頂から5㎞ほど東に位置する。そして、狭野の地には神武天皇の伝説が残っていて、狭野神社の御祭神にもなっている。

 

 

 

 

 

狭野尊

御祭神は狭野尊(サノノミコト、サヌノミコト)。「狭野尊」は神武天皇の幼名とされ、日本書紀の一書(あるふみ)の中で確認できる。

 

「神武天皇」というのはいわゆる漢風諡号で、8世紀の天平宝字の頃につけられたものである。伝わっている名はカムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)またはカムヤマトイマワレビコノスメラミコト(神日本磐余彦天皇)。『古事記』『日本書紀』などでは、こちらで記されている。

カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)の事績と言えば、「東征」と「建国」である。日向(ヒムカ)から大和へ移り、建国へとつながっていく。

「カムヤマトイワレビコ」という名は、大和(ヤマト)の磐余(イワレ)との関わりがうかがえる。磐余は奈良県桜井市・橿原市のあたりだ。こちらは東征後のものだろうか?

で、日向にあったころに関わりの深かった場所とされるのが、この狭野(サノ)ということになる。

狭野神社から西へ1㎞ほどの場所に「皇子原(おうじばる)」と呼ばれる場所がある。ここは、サノノミコト(神武天皇)の御降誕の地とも伝わっている。


また、狭野神社ではつぎの七座も配祀されている。

吾平津姫命(アヒラツヒメノミコト)
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)
木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)
玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)

アヒラツヒメミコトはサノノミコトの妻である。ほかは天孫降臨神話から続く日向三代。サノノミコトの曽祖父母・祖父母・父母にあたる。

 

 

 

狭野神社(狭野大権現社)の略紀

社伝によると、第五代孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に創建されたと伝えられている。つまり、当初は皇子原にあったとされる。現在、この地には境外末社の皇子原神社がある。

そして、敏達天皇の御代(6世紀)に皇子原から現在地に遷されたとされる。

 

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「狭野大権現社」とも称していた。霧島権現六社の一つに数えられる。霧島権現六社は、天暦年間(947年~957年)に性空(しょうくう)が整備したものである。性空は天台宗の僧で、霧島に入山して修行した。霧島にあった神社に別当寺を設け、山岳仏教の聖地として整備する。

 

霧島権現六社についてはこちらの記事でも。

霧島西御在所六所権現社(霧島神宮)。

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霧島東御在所両所権現社(霧島東神社)。

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狭野大権現社の別当寺は霧島山佛華林寺神徳院といった。なお、性空上人は再興開山とされる。開山は欽明天皇の御代(6世紀中頃)に慶胤上人によるものと伝わる。

霧島権現六社はいずれも火山噴火の被害を受けまくっている。狭野神社(狭野大権現社)も噴火で焼失し、仮宮を転々としながら鎮座地を遷している。

延暦7年(788年)の噴火で社殿が焼失し、その後も数回の噴火被害に遭った。そして文暦元年(1234年)の噴火で社殿・別当寺がことごとく焼失したので、東霧島神社(つまきりしまじんじゃ、東霧島権現社、宮崎県都城市高崎町)に御神体を避難させ、ここに仮宮と別当寺をしばらく置くことに。

 

天文12年(1543年)に島津貴久(しまづたかひさ)の命で高原に狭野大権現社(狭野神社)を還す。西麓(高原城の近く)の鎮守神社のある場所に仮宮を遷す。さらに、慶長17年(1612年)に島津家久(いえひさ、島津忠恒)の命で狭野の旧地へと遷される。これが現在の境内にあたる。

享保3年(1718年)の噴火のあとにも、焼失のために小林(宮崎県小林市)に一時的に遷座。享保6年(1721年)に狭野に還る。

 

下は19世紀に編纂された『三国名勝図会』に掲載された絵図。

 

狭野大権現社の絵図

『三国名勝図会』巻之五十六より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

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近年では平成23年(2011年)の新燃岳の大噴火の際に、2月2日に御神体を霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ、小林市細野)に避難。同年10月19日に御神体は狭野神社に還されている。


明治6年(1873年)に県社に列する。大正4年(1915年)に狭野神社は官幣大社宮崎宮(宮崎神宮、場所は宮崎市神宮)の別宮に指定。昭和27年(1952年)に宮崎神宮より分立した。

 

 

 

長い長い参道の奥に

国道223号沿いに、おもむろに大きな鳥居が目に入る。そこが参道口だ。鳥居の先には参道が真っすぐに伸びている。

 

鳥居から参道が真っすぐに

一の鳥居

 

一の鳥居から200mちょっと行くと二の鳥居。

 

鳥居から森の中へ

二の鳥居

 

二の鳥居の脇には猿田彦神社もある。宝永2年(1705年)の創建。猿田彦命(サルタヒコノミコト)に加え、馬頭観音と霧島之大神もあわせて祭る。

 

社殿

猿田彦神社

 

二の鳥居をくぐると杉の木立の中に参道が伸びる。

 

杉木立の参道

二の鳥居より

 

二の鳥居から参道を歩いていってもいいが、広めの駐車場は三の鳥居の前にある。参拝者はここから本殿を目指すのが一般的のようだ。

 

森の中へと続く

三の鳥居

 

三の鳥居から参道に入ると、巨木が多い印象。とくに杉並木が圧巻。

 

巨木が並ぶ

参道

 

境内の杉は、新納忠元(にいろただもと)が植栽させたものと伝わる。

天正20年(1592年)、島津義弘(しまづよしひろ)が朝鮮に出陣することになり、その戦勝祈願を狭野権現社で行ったという。そして、祈願奉賽として新納忠元を遣わし、慶長4年(1599年)頃に神徳院住職の宥淳(ゆうじゅん)法印とともに境内全域に杉を植えたとされる。


参道の奥に御神門。一の鳥居からここまで直線の参道が1㎞くらい。

 

参道から入る

御神門

 

御神門をくぐると右のほうに社殿がある。

広い空間に立派な社殿がある。こちらは明治40年(1907年)に宮崎宮(宮崎神宮)の旧社殿を移築したもの。宮崎宮では前年に社殿を改築し、旧社殿は「ご降誕二六〇〇年大祭」の一環として狭野神社に寄進された。三間社流造りの建築様式で、弊殿・拝殿・外拝殿の構成。

 

狭野神社

社殿

 

立派な社殿

拝殿

 

外拝殿の前には大きな杉。こちらも新納忠元が植栽したものと伝わる。

 

御神木と社殿

杉の巨木

杉の木

見上げる


杉の木の前には新納忠元の歌碑も。平成11年(1999年)の「狭野杉植樹四百年」を記念して建碑。

 

散りていにし花の行方は風や知る吹き伝えても我に教えよ

新納忠元の歌碑

 

散りていにし花の行方は風や知る
吹き伝えても我に教えよ

慶長15年(1610年)春に詠んだもの。なお、同年12月に新納忠元は没している。享年85。

 

社殿の脇のほうには、雰囲気のあるお社も。こちらは摂社の水神社(すいじんじゃ)。

 

水の神と山の神

水神社

 

御祭神は罔象女神(ミズハノメノカミ)・豊受姫神(トヨウケヒメノカミ)・大年神(オオトシノカミ)・大山祇神(オオヤマツミノカミ)・大山咋神(オオヤマクイノカミ)・白山媛神(シラヤマヒメノカミ)。水の神と山の神を祭る。湯ノ元神社と田神神社も合祀されている。

 

社殿のあるところからさらに西へも参道がある。道路に面したところに西参道口。じつは西参道口の外側に向かっても参道が続いていて、皇子原へと伸びている。一の鳥居から元宮の皇子原神社まで参道は2.5㎞にもなる。

 

鳥居と参道

西参道口

 

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神徳院跡と豊受神社

狭野大権現社のうちには、かつて別当寺の神徳院もあった。そのことは、『三国名勝図会』の絵図でも確認できる。

三の鳥居の向かって右側に、神徳神社(しんとくじんじゃ)が鎮座する。2019年の「令和」改元にあわせて、神徳院を再興して創建された。御祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)と神徳院之大神。

 

新しめの社殿

神徳神社

 

神徳神社の右奥には、神徳院の仁王像が残っている。享保19年(1734年)の紀年銘がある。

 

力強い雰囲気

仁王像

 

また、神徳神社の左側には摂社の豊受神社。御祭神は豊受姫大神(トヨウケヒメノオオカミ)。そして、「新燃岳大噴火乃碑」もある。こちらは2011年の噴火の記念碑で、2016年に建立された。

 

朱の社殿

豊受神社

 

記念碑

「新燃岳大噴火乃碑」



 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 発行/山本盛秀 1905年

『高原町史』
編/高原町史編さん委員会 発行/高原町

『狭野神社略紀』
編/狭野神社社務所 2014年

『古事記』(岩波文庫)
校注/倉野憲司 発行/岩波書店 1963年

ほか