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霧島東神社【後編】、天之逆鉾/錫杖院跡/神竜泉/天狗堂/祓所/旧参道口

霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田に鎮座する。高千穂峰(たかちほのみね)の山頂に近く、古代の山岳信仰の雰囲気が感じられる。また、山岳仏教の霊場としても大事にされてきた場所である。

 

すてきな神社である。【前編】記事では、神社のあらましや、参道から本殿にかけての様子をまとめた。

 

rekishikomugae.net

 

まだまだ気になるところがたくさんある、霧島東神社には。

 

 

 

 

 

天之逆鉾

高千穂峰の山頂の天之逆鉾(あまのさかほこ)は、霧島東神社の社宝である。また、天之逆鉾の突き刺さる場所は霧島東神社の飛地境内でもある。

天之逆鉾がどういったものなのか? いつ頃からあるのか? 由緒は不明。度重なる火山噴火で記録が焼失していてるためにわからない。

イザナギノミコト(伊邪那岐命)・イザナミノミコト(伊邪那美命)の国生み神話で登場する天沼矛(あめのぬぼこ)に由来するものであるとも。ちなみにこの二柱は霧島東神社の主祭神でもある。


霧島東神社の拝殿の向かって左側に注連縄が張られている。

注連縄がかかる

拝殿横の登山口

 

ここは登山道の入口である。ただし、現在は一般には開放されていない。かつてはここから山頂を目指したのだが、一般用の登山道は別のルートが整備されている。

こちらは「行者口」とも呼ばれている。山伏たちはここから山頂を目指したそうだ。月に一度、霧島東神社の神職が山頂の天之逆鉾を礼拝する。その際には、ここから山頂へ向かう。

 

 

坂本龍馬が引っこ抜く

天之逆鉾といえば、坂本龍馬がひっこ抜いてしまったことがよく知られている。その様子は慶応2年12月4日(1867年1月)付けの姉の乙女への手紙で記されている。手紙には絵入りで詳細に説明している。よほど楽しい体験だったようだ。

慶応2年(1866年)3月10日(旧暦)に、坂本龍馬は妻のお龍をともなって鹿児島に入る。吉井幸輔(吉井友実、よしいともざね)の誘われて霧島を旅行した。湯治などで滞在しつつ、高千穂峰に夫婦連れだって登ったのは3月29日(旧暦)のことだったようだ。


手紙から一部を抜粋する。

ついにいたゝきにのぼり、かの天のさかほこを見たり(中略)おもいもよらぬけにおかしきかをつきにて天狗の面があり、大ニ二人が笑たり(坂本龍馬の慶応二年十二月四日の手紙より)

 

そして、こんなことも書かれている。

両人が両方のはなおさへてエイヤと引きぬき候得ハ、わづか四五尺計のものニて候(坂本龍馬の慶応二年十二月四日の手紙より)

 

天狗の鼻の部分を持って二人で引っこ抜いた、と。抜いてみると4尺~5尺くらい(1.2m~1.5mくらい)のものであったという。「わづか」と表現しているところから、意外に短くて拍子抜けした感じだろうか。その後、すぐにもとの場所へ戻したそうだ。

 

 

 

引き抜いた男がもう一人

行者口の注連縄がかかる柱の脇にこんなものがあった。天之逆鉾をかたどった石造りの記念碑である。「天之鉾御下降紀念」とある。

逆鉾を模した記念碑

「御下降」ってどういうこと?

 

裏側には「大正三年十一月二十九日御降」「大正五年五月十五日建立」とある。

逆鉾の記念碑

大正3年と大正5年の紀年銘

 

宮司さんに聞いてみた。つぎのような出来事があったそうだ。

 

記念碑にある大正3年(1914年)11月29日のことである。大柄な男が天之逆鉾をかついで下山してきた。霧島東神社よりもずっと下のほうの参道口まで。このあたりは祓川という集落である。祓川の村人たちは男を問い詰める。「なんてことをしでかしてくれたんだ」という感じだったのだろう。で、理由についてはよくわからなかったようだ。そして、謎の大男を説得し、翌日に山に戻してくるよう言いつけた。しかし、翌朝に大男の姿はなかった。

村人たちは「天之逆鉾が山を下りてみたかったんじゃないか、それで大男は逆鉾の化身であったのだろう」と解釈したという。天之逆鉾は村人たちの手で山に戻された。

そして、大正5年(1916年)に記念碑を建立。祓川に奉斎した。のちに霧島東神社の境内に遷し、現在にいたる。

 

……とのこと。

 

 

レプリカっぽい

現在、山頂に突き刺さっている天之逆鉾は矛先が三又になっている。

で、坂本龍馬の手紙にある絵とは形が違う。こっちは鉾先がない。柄の部分だけなのである。また、大正5年の記念碑(天之逆鉾をかたどったもの)も柄だけである。


橘南谿の旅行記『西遊記』の中で天之逆鉾について書かれている。旅行記は天明2年(1783年)から翌年にかけて西国を巡ったときのものである。

逆鉾のありまさま、全體は唐金の如くに見えたれども、風霜にさらせるものなれば青く錆てしかとしれがたし。長さ一丈餘ばかり、ふとさ大なる竹程にて、さかさまに地中にたち、其石突の端の所に南面に鬼面のごときもの見ゆ。是も風霜にされたれば、鼻目しかとは見えがたし。土中に入りたる先の方は、何程深く入りたるやしるばからず。只絶頂に此鉾一本のみにて、外に堂宇等のごときもの一ツもなし。神代の舊物なりや、其程はしらずといへども、實に三百年五百年位の近きものとは見えず、天下の奇品なり。(『西遊記』より)

 

こちらでは長さを「一丈餘ばかり」(3mちょっと)としている。坂本龍馬の手紙にある「四五尺計」(1.2m~1.5m)よりもだいぶ長い。


刃の部分は噴火により折れてしまったという。その時期はわからず。ちなみに、折れた刃先は荒嶽権現社(あらたけごんげんしゃ、現在の荒武神社、宮崎県都城市吉之元町)で御神体として祭られていたそうだ。噴火の際に折れた刃先が飛んできて、この地に落ちたのだという。この情報は『三国名勝図会』にある。同書は天保14年12月(1844年1月)に完成しているので、破損はそれよりも前のことだろうか。

 

現在、山頂で見られる三又の鉾先はレプリカっぽい。レプリカについても記録がなく、いつ頃にどんな経緯でつくられたものなのかわからない。

 

 

 

錫杖院跡

霧島東神社は、もともとは神仏習合の権現社である。かつては「霧島東御在所両所権現」と称した。別当寺は「錫杖院(しゃくじょういん)」といった。

「錫杖院」は資料によって「東光坊花林寺錫杖院」「霧島山華林寺東光坊錫杖院」といった院号が確認できる。

ちなみに、霧島西御在所六社権現(現在の霧島神宮、鹿児島県霧島市霧島田口)の別当寺は「霧島山錫杖院華林寺」といった。

別当寺の名前がすごく似ている。関連性はよくわからない。

東御在所の権現社のほうには「東光坊」とついていることから推測すると、こちらが東側の別院という感じだったのだろうか? ……記録がない(焼失した?)ので、正確なところはわからず。


錫杖院は明治時代に廃された。その様子については『三国名勝図会』に絵図がある。

霧島東御在所両所権現

『三国名勝図会』巻之五十六より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

錫杖院の跡地のほうへ行ってみる。本殿の右奥のほうに下りていける道がある。

本殿の裏手

ここからお寺へ、「不動尊堂へ」と

 

ちょっと歩くと、広めの空間へ。何かある。

像がある

 

性空上人の像である。

性空像

 

性空(しょうくう)は10世紀頃の人で、霧島山に入って修行した。そして、霧島周辺の神社を権現社として整備し、この一帯は山岳仏教(修験道)が盛んになった。

錫杖院の跡地には「法永殿」というお堂が建てられている。「不動尊堂」とも呼ばれている。不動明王像が置かれ、ここでは護摩行も行われる。

 

お堂のある場所から降りると鳥居前の駐車場に出る。駐車場の入口付近には錫杖院の墓地跡も。

墓所の史跡

錫杖院墓地跡


こちらには自然石を使った墓石が多かった。

 

 

 

神竜の泉社

大鳥居の脇を見るとお社が二座ある。手前の黒い建物のほうは、御影石に「神竜の泉社」とある。お社の中には泉がある。

黒いお堂

神竜の泉社

 

霧島東神社から見える御池(みいけ)には龍神伝説がある。霧島東神社では5月に龍神祭を行っている。その際に、霧嶋九頭竜が神社のほうへやってきて、この泉を休息地とするという。

 

 

 

天狗堂

鳥居脇のお社のもう一つは「天狗堂」という。

ここには「大津坊」という霧島山の天狗が祭られている。性空上人が修行をしているところに天狗が現れ、斧を授けたという伝説がある。霧島山大津坊は錫杖院の守護神とされた。「天狗之斧」も錫杖院の宝物として管理された。

 

お社

天狗堂

 

 

 

祓所

参道の途中に「祓所」という場所があった。縄で囲ってある。結界の中に入ることは禁じられている。

結果が張られている

祓所

 

「祓所」は年に一度だけ使われる。11月の大例祭のときに神職が入ってお祓いをする。ここには祓戸四神(はらえどよんしん)がいらっしゃるとのこと。

祓戸四神とは、セオリツヒメノカミ(瀬織津比売神)・ハヤアキツヒメノカミ(速開都比売神)・イブキドヌシノカミ(気吹戸主神)・ハヤサスラヒメノカミ(速佐須良比売神)の四柱。「はらえ」「きよめ」の神々である。

霧島東神社からは御池も見えるが、祓戸四神とも何か関連性があるのだろうか? また、山の麓の旧参道口のほうには「祓川」もあったりする。

 

 

 

旧参道口

霧島東神社の東側の麓に「祓川(はらいかわ)」という場所がある。国道223号沿いに「祓川」バス停のすぐ近くには古びた石段がある。ここがもともとの参道口だった。

神社へ続く道があった

古い石段

 

石段をちょっと登ると横木のない鳥居。その奥に簡素な祭壇もある。これは遥拝所にもなっている。

小さな祠がある

ここから山に向かって拝む

 

かつては、ここから1㎞ちょっと徒歩で登って参詣した。標高差もかなりある。車道が整備されて神社のすぐ近くまで行けるようになり、旧参道のほうは使われなくなった。


旧参道口のすぐ近くには「祓原」と呼ばれる場所があり、水が湧いている。周辺が「祓川湧水園」として整備されていて、水汲み場には地元の方がひっきりなしに訪れていた。この水を水源として祓川が流れる。かつては、この湧水で手を清めてから参道に向かったそうだ。

祓川集落では12月に「祓川神楽」という神事も行われる。その際には、参道口で霧島東神社の神を迎える。「祓川湧水園」に「祓川神楽殿」という建物がある。こちらのほうの広場で神事が催される。

「祓川神楽」は400年ほどの歴史があるとされ、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

 

 

 

<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 発行/山本盛秀 1905年

『高原町史』
編/高原町史編さん委員会 発行/高原町

『薩隅日地理纂考』
編/樺山資雄、ほか 発行/鹿児島県私立教育会 1898年

『坂本竜馬関係文書 第一』 ※坂本龍馬の手紙を収録
編/岩崎英重 発行:日本史籍協会 1926年

『西遊記』
著/橘南谿 発行/改造社 1940年

霧島東神社の御由緒書
※現地で配布しているもの

ほか